三十八 魔王と英雄
嘉応二年十二月下旬。
八条院御所の房室に居た政子は、来客の報を受けた。
客の名を聞いて、政子は即座に席を立った。待ちかねた相手だ。話したい、という意味でも、殴りたい、という意味でも。
「――頼朝! 来たか!」
口の端をつり上げながら、広間に赴く。
そこに、頼朝は居た。几帳を隔てて八条院となにやら語り合っているのを無視して、政子はどっかと座った。
「政子殿」
頼朝が会釈をしてくる。
あいかわらずジトっとした表情だ。
頼朝の湿り気を帯びた視線が政子の体をひと撫でする。
「なんというか……お変わりなく」
「余計なお世話ぞ!」
発育不全を指摘されて、政子は頼朝を睨みつけた。
八条院の目がなかったら、蹴っ飛ばしているところだ。
「冗談です。いま八条院より伺いましたが、裳着も済まされたようで」
政子の装いを見ながら、頼朝がじとっと微笑んだ。
裳着とは、男性の元服に対応する、女性の成人式だと思って間違いない。
殿下乗合事件の、平家と摂関家の手打ちを買って出た後白河院がいろいろと動きまわったらしく、腰結(男で言う加冠役)は先だって太政大臣に就任した松殿基房。
「松殿様も災難なことで……」
「はははっ! 重盛がよほど怖かったらしいぞ! 儀式の折も青い顔をしておったわ!」
「いや、たぶんそれ政子殿の覇気のせいですからね? あれ普通のひとなら卒倒ものなんですから――と、失礼いたしました、八条院」
八条院を脇に置いた会話を続けてしまい、まずいと思ったのだろう。頼朝が几帳の奥の八条院に頭を下げた。
「ええよー」
と、当の八条院はまったく気にした様子がない。
「でも、政子ちゃんと頼朝ちゃん、ほんまに仲ええんやね」
「おいやめにゅか」
にこやかに言う八条院に、政子は抗議の声をあげるが、効果はない。
「八条院、政子殿とは積もる話もあります……つきましては――」
「うんうん、わかっとるよ」
八条院が、楽しげに頼朝の言葉をさえぎる。
「わかっとるわかっとる。頼朝ちゃんの気持ちはよーくわかっとる。でも、あかんよ? 二人とも成人なんやから、二人きりになりたいんやったら、ちゃんと段取り踏まんと」
一般常識にのっとって忠告しているのか、それとも盛大に勘違いしているのか、微妙に判断がつきかねる八条院の言葉だった。
◆
その日の夜、頼朝は作法に則り、薄闇の中を、対屋の政子の元へ通ってきた。
「よく来たな」
迎える準備を済ませていた政子は、仏頂面で頼朝を迎えた。
冬の盛りだ。手あぶりを寄越し、湯を供すと、頼朝は「ほう」と息をついた。
「政子殿、ずいぶんと不機嫌なようで」
「ぬしが来ると言うので、女房どもの玩具にされたわ」
「なるほど、道理で見違えた」
頼朝の褒め言葉を聞いて、政子は忌々しいとばかり舌打ちする。
「それに、いきなり勝手な都合でぬしに嫁がされるのだ。不機嫌にもなろう」
「それです、政子殿」
薄明かりのなか、頼朝は、とん、と床に片手をつく。
「いったいどうして、こんな事態になったのですか?」
「……後白河院よ」
政子が口の端を歪めた。
「院に伊豆一国をわしにくれと言ったら、なにやら理屈をこねてこうなってしまったのだ」
「聞いている限り、政子殿に原因があるようですが……」
「うるさいっ!」
「ありがとうございます」
「にゃにゆえ礼を言う!?」
「さて、それはさておき」
「いや、さておくな」
「さておき、政子殿。それで繋がりました。後白河院が平家に対して打った手にしては、破天荒に過ぎると思っていましたが、まさか自分から売り込んだとは……」
頼朝が、じとっとした視線を政子に向ける。
政子は「ふんっ!」と口をへの字に曲げて、頼朝に背を向ける。
「……ともあれ、感謝します、政子殿。おかげで不自由な身から解放されました」
衣擦れの音。
政子は頼朝が平伏していると気づいた。
だから、振り返らない。
「ふんっ! かわりにわしが不自由になったわ!」
「わかっております。政子殿にはご迷惑をおかけいたします……けれど、政子殿、私は、うれしくも思うのですよ」
「なにがぞ」
心底嫌そうに、政子は振り返る。
頼朝はすでに、居ずまいを正している。
「これで、どちらが上だ下だと争うことなく、共に天下取りに挑むことが出来ます」
じめっとした微笑を浮かべる頼朝。
応じて、政子も不敵な笑みを浮かべる。
「たしかにな。癪ではあるが、夫婦ならば、頼朝、貴様も気兼ねなくわしに従えよう」
「あくまで上下にこだわりますか」
「ふふん。まあ、どちらが上かは、わしらの中で分かっておればよいわ……シテ」
政子が下から覗き込むように、頼朝を見る。
暗がりの中、頼朝の瞳に揺れはない。
「頼朝よ。ぬしはこの後の情勢、どう見る?」
「……平家はますます盛んになりましょう。院と平家の繋がりは、ますますいびつなものになりましょう。だが、それよりもはっきりと、見えるものがあります」
「ほう、それは?」
政子に促されて、頼朝はためらいながらも、はっきりと言った。
「――王朝の、終わり」
◆
「王朝の、終わり?」
予想外の言葉に、政子はオウム返しに問う。
頼朝はうなずき、言葉を続ける。
「先の世を知る政子殿ならわかるはずです。帝こそはこの天下の所有者だ。その地をお借りして、田畑を耕す民は、聖恩に感謝し、対価として税を納めねばならない。昔はそれが当たり前だった」
頼朝は語る。
その言葉が、己を抉っているのかと疑うほどに、苦しげに。
「――だが、朝廷は民を守らなくなった。開墾を民に任せ、田畑を侍に守らせ……生み出した富を吸い上げて、自分たちは権力争いをしている。あげくに民から侍から土地を玩具のように取り上げ、また気ままに与えている」
それは、政子が坂東で見た風景だ。
権力者に振りまわされる民と武士たちの姿。
政子にはそれがつけ入る隙に見えていた。だが、頼朝が見ていたのは――もっと先。
「ある日、民は気づくでしょう。朝廷はなにひとつ自分たちを守っていないと。武士は気づくでしょう。自分たちこそが、貴族の生命線なのだと。そうなった瞬間……都は地獄に落ちる。米穀は京に上って来ず、民は飢え、公家は餓え、皇族すらその日暮らしに身を落とすかもしれない。そして蹂躙されるのです。地方で王のごとき力を蓄えた、力持つ者に」
「……なるほどな」
政子は思いだす。おのれが織田信長だったころを。
荘園を横領されて貧しい生活を送る中で、なけなしの自尊心すら失ったあさましい公家たちの姿を。
「……下剋上、という」
つぶやくように、政子は言った。
「下剋上?」
「下の身分の者が、上の身分の者を上回る。わしの居った時代にはな、油売りの息子が一国を手に入れておったぞ」
前世の岳父、斎藤道三のことを思い出しながら、政子は言う。
薄闇に隠れているが、頼朝は顔を青ざめさせているに違いない。身を震わせながら、頼朝は吐き出す。
「……恐ろしい。まるで修羅の世だ」
「そうさ修羅の世よ。そしてわしは、修羅の世にあってなお、第六天魔王と恐れられた」
政子は、第六天の魔王は胸を張り、誇る。
「……上総広常があなたを平将門公になぞらえたのも、あながち間違ってはいなかったのですね」
「くっくっく、とはいえ頼朝よ。安心せよ。四百年先の世にも、帝は無事に生きておる……ひょっとするとそれは、ぬしらが時代に精一杯抗った結果やもしれぬな」
「で、あれば、よいのですが」
政子の言葉を聞いて、頼朝の緊張がゆるんだ。
「天下を、取らねばならぬ理由が増えたか?」
「あなたを助けて、あるいは、あなたに助けられて。ぜひとも天下を取りたくなりました」
「わしもな、ぬしの言葉を聞いて、ぜひともぬしが欲しくなったわ」
くつくつと、二人は忍び笑う。
笑いながら、政子は背後に置いていた瓶子を取りだした。
盃を頼朝に渡し、まずは頼朝に、そして自分に、酒を注ぐ。
「酒は苦手なのじゃがな……まずは固めの盃といこうではないか」
「いいですね。まるで説三分のようだ――では、二人の、結婚という名の、義兄弟の契りに」
「うむ」
盃が、酌み交わされる。
染み入るような寒さも、二人の身を侵さない。
嘉応二年の末、頼朝と政子は結婚する。
年明けて嘉応三年一月。春の叙目で頼朝は伊豆守に任命され、後白河院の望みどおり、妻政子を伴って、自ら伊豆に赴く。
「……わかっておると思うが、夜は期待するなよ?」
「期待だけは失いませんが、まあ当面はお預けにいたしましょう。幼い娘は愛でるものですし」
「おい、安心できぬ言葉を吐くな! あと妹に手を出さばぶち殺すからな!」
側に控える藤九郎は、盛大に頭を抱えていた。
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