第8章 船の死
★陸地の被害
21時。函館市郊外・上磯町東浜
ついに高波が沿岸近くの民家を脅かし始めた。
その中に、對馬きくゑさんの家もあった。
對馬家は、秋田の豪農から枝分かれし北海道に渡ってきた移民の末裔だった。
對馬一家は、国道228号線を挟んだ陸側の久根別の親戚の家に向かおうと家を出て国道を渡り切ったとたん、轟音と共に家が大波に叩き潰されて、斜めに崩れていく。
きくゑさんは「ああ…。」とおもわず口に両手を当てた。
貧しく苦しかった子供の頃から住み慣れた家を失うその瞬間、ショックを隠せず、泣き崩れる。
主人と4人の子供達に支えられ、大風に耐えながら、親戚の家へ向かった。
この頃、北海道南部を中心に強風や高波による家屋倒壊が発生し続けていた。
もっとも被害が大きかったのは岩内町で、20時15分頃、台風で避難したアパートの1部屋で消し忘れた火鉢からの飛び火が引火。
風速40mの中、消火活動もおぼつかずに、漁港の燃料貯蔵庫に引火し大爆発を起こし、町内の80パーセントを焼き尽くし、死者35名、行方不明3名を出す惨事となった。
★エンジンを守れ
21時。
函館港内で停泊していた第十二青函丸が流され始めた。
どんどん有川桟橋に迫っていく。
海岸と違い、勢いよく桟橋に激突すれば、たちまち大破し轟沈してしまう。
第十二青函丸もついに函館港外へ脱出を決意し防波堤を目指そうとする。
しかし錨が、停泊の際に流されたせいで両舷の錨のチェーンが絡み合って収納できない。
やむなく錨を海底に引きずりながら函館港脱出を決意する。
防波堤の灯台も停電で消え、レーダーも高波が反応し、ブリップ(焦点)が沢山ブラウン管に浮かんで殆ど役に立たない。
かろうじて防波堤外に出た第十二青函丸も、大雪丸と同様にエンジン出力で風に正面から逆らいながら函館港外に出て行った。
21時15分
洞爺丸の車両甲板は既にすっかり水に浸かり、波で揺れるたびに車両甲板下へ流れていく。
車両甲板下の三等客室は、畳が浮き上がるので立てかけて、全員立ってるしかなくなった。
船員が一生懸命バケツリレーで水を掻き出すが、入ってくる水の量の方が多い。
すると、田辺氏の服を下から引っ張る人がいた。
客室の仕切りの角に老婆が座っていた。
「あの、すみません、そこの柱にこの紐縛ってくれないかね?」
「…ああ、いいですよ。」
田辺氏は、言われたように柱に紐を結びつけた。
「こんなのどうするんです?」
「船がかっぱがった(転覆した)時につかまるだ。」
田辺氏は絶句した。
すると、さっきボーイに怒鳴っていた男が今度は老婆に叱咤した。
「はんかくせえこと言ってんじゃねえ!こんなデカイ船が、かっぱがる訳ねェだろ!落ち着けこのババァ!」
田辺氏は、しかめっ面をして男を睨んだ。
「あのォ…お年寄りには、もっと優しく接してやってくれませんかね?」
「だぁ?このボンボンのクソガキが偉そうに。」
田辺氏は男に食ってかかろうとしたが、友人2人が止めに入った。
すると、老婆が泣き出した。
「もういい…こんな婆ァなんか、どうせこの嵐の中じゃ、助からねェべさ、もうお迎え来たと思っで諦めるべェ、ごめんね、ごめんね…。」
それを見た男は、舌打ちした後、田辺氏を睨んで三等室の隅に行って煙草を吸いだした。
この騒ぎで周囲が静まり返った。
「船内の皆様に申し上げます!」
突然、沈黙に船内放送が割り込み田辺氏は「ビクッ」とした。
全員が無言でスピーカーに顔を向けた。
「風もだいぶ衰えてまいりました。只今の風速は30mで、徐々に衰えております。もう少しの辛抱です、頑張ってください。」
田辺氏は驚いた。
「今が30mったら、さっきまで何mあったのよ。がっつ(凄い)やべぇぞ。」
「まぁ、衰えてるっつーで。もう楽になるべ。」
「別の意味で楽にならなきゃいいがな。」
「あのよぉ、おめェ、ほんずけねェ(くだらない)事言ってんじゃねェよ……。」
一方、その下のボイラー室では、火夫総出で死闘が続いていた。
絶えず波に対抗する為、石炭が絶えずスコップでボイラーの窯に放り投げられる。
もう誰もが無言で全身びしょ濡れになりながら、雨のように天井からしたたる海水の中、焚き続ける。
あちこちで「ジュージュー」と海水がボイラーに当たり、蒸発する音が聞こえる。
すると、スコップを石炭取り出し口に刺したその瞬間、「ドバァー」と音を立てて海水混じりの石炭が流れ出した。
「バンカーが流れたぞぉ!」(石炭庫流出)
その直後、次から次へ6台あるボイラーの焚き込み口の前を泥と化した石炭が走り抜け、火夫達を足からすくい倒す。
焼けた窯に当たった海水が蒸発し、ボイラー室が湯気に包まれた。
暫くの沈黙の後、若い火夫が、突然、悪魔のような笑い声を高らかにあげた。
恐怖と過労で、ついに気が触れてしまったのだ。
「誰かコイツを休憩室に連れて行け!」
二人で泥から、高らかに笑う火夫を救いだし、出口に向かおうとするが、そこに流れてきた海水が襲いかかり、三人とも倒れる。
火夫長が叫んだ。
「貴様ら!船を沈める気かァ!死にたくなければ戦え!どんどん焚くんだ!」
「しかし、もうこんな海水混じりの石炭なんか…。」
「いいから何でもかんでも焚いてしまえ!焚くんだ!」
火夫長ががむしゃらにスコップを振い、窯に放り投げる。
「俺一人でもやるぞぉ!死ぬまで焚いてやる!」
それを見た火夫達は奮い立ち、火夫長に続き、勢いよくスコップを振い始めた。
しかし、無情にも窯の中は海水臭い蒸気が充満し、赤い炎はどんどん小さくなり、蒸気圧も下がっていった。
隣の機関室でも浸水したビルジ(溜水)が足元をさらいながら必死のエンジン操作が続いていた。
各メーター出力がどんどん落ちていくのを見て機関士が焦る。
テレグラフがブリッジからの指示を「ジリリン、ジリリン」とベルを鳴らして伝え続けるが、もうそれらの指示に答えられなくなる時も間もなくだろう。
すると、扉の隙間から、黒い石炭の粉混じりの水が流れてきた。
それを見た機関士達は、ボイラー室が「終わった」事を察し、愕然とした。
あとは、船体上部にある補助ディーゼルエンジンで電力を維持し、通信と明かりを維持し、救援が来るまでの時間稼ぎをするだけ。
もうそれしか洞爺丸は無かった。
21時25分
洞爺丸より国鉄海岸通信局(JRG)へ打電
・洞爺丸
「エンジン、ダイナモ(発電機)止まりつつあり。突風55m。」
・JRG
「こちらも非常配置でwatch(監視)中。貴船も頑張れ。」
ブリッジにまで高波が襲い、窓の隙間から海水が吹き出し、ブリッジの中もすっかり水浸しだった。
すると、伝声管から悲痛な機関室の声が響いた。
「左ダイナモ故障!左エンジン故障~!」
ボイラー室の排水ポンプは石炭が詰まり、もう排水出来ない。
排水ポンプ入り口付け根が圧力で裂けて黒い水を噴出する。
左舷動力が効かなくなると、ふんばりが効かなくなった船は右舷に大きく揺れ、次は右舷に溜まったビルジが集中し、ついに右舷も停止した。
22時7分打電。
・洞爺丸
「両エンジン使用不能となる。」
一方、その頃、沖に出た大雪丸も舵機室が浸水、舵が効かなくなり、エンジン出力だけで船位を保ちながら函館湾を出ようとしていたが、他の連絡船同様に浸水との戦いが続いていた。