あとがき
★今回の小説について
この作品は、中学の時の1990年に書いてから、この20年の間に4回書き直しています。
うち3回は劇画として書いたのですが、どうも思ったような物が描けなかった上に、絵にすると内容が絵に集中しがちで内容が薄くなり、今回小説化してみましたが、小説化する事により文章のみなので内容を濃くした結果、今まで気が付いてなかった事も多々あり、勉強になりました。
2006年に函館に新婚旅行で戻った際に、作品の主人公である田辺康夫氏に再会しようと向かった所、既に亡くなっておられたのは残念でなりませんでした。
函館に戻った際に再取材を行いましたが、洞爺丸の当事者である国鉄の資料は沢山ありましたが、この事故に関わった警察、消防、海上保安庁、自衛隊の記録が殆ど残っていなかったのには参りました。
当時は自衛隊が創立してまだ2か月で、海上自衛隊も第二次大戦中に大日本帝国海軍が造った掃海艇等の戦時型小型船舶しか保有していなかった時代だったせいか、活動記録が無いのです。
この辺は当時の地元の住民の方々の証言で何とか纏めました。
★資料を調べる
ストーリーのベースになったのは、図書館で読ませて頂いた「洞爺丸台風海難史」(青函船舶鉄道管理局)で、既に貴重な本だったので貸出禁止書物に指定され、ジックリ見ることが出来なかったのですが、1992年に函館市内の古書店(歴史書専門)で見つけ(結構高かった。)ジックリ隅から隅まで読んで、二度目の作品を書きました。
それを見た当時の恩師、秋坂勇治氏が教え子から頂いたという「洞爺丸台風遭難通信関係記録」(日本鉄道技術協会)を貸して頂き、内容は、まさに当時の生の声の記録であり、衝撃を覚え、三作目にかかりました。
しかし、今回改めて小説化する際に気が付いたのですが、無電記録は当時、事件の真っただ中で打たれた物を忠実に記録しているせいか、幾つか史実と違う部分もあり、今回改めて史実と比較し公正に苦労しました。
最初のこの小説の取材で最も衝撃的だったのは、ご遺族に見せて頂いた本で、当時ご遺族に渡された「遺体写真集」で、最初は事故報告書だと思いページを開くと、犠牲者のご冥福を祈る言葉と花のイラストが描いてあったと記憶している。
次のページから、まるで卒業文集のように顔写真が並び、「事故に関わった人達か?」と思いきや、写真の顔は全て生気が無く、寝てるような顔ばかりで、それが50ページはあっただろうか。全てが顔写真で、整理番号と遺体の特徴が書いてあることでようやく遺体写真集と気が付き、ショックだった。
だが、数字で「1155人が亡くなったんだよ」と言われても実感が湧かないが、この写真集が後世に無言で「これだけの人が亡くなった」と語り、重みを実感したのは貴重な体験だったと思う。
★七重浜
七重浜の函館飛行場の存在は地元の私も聞いたことが無く、JR北海道さんが発行した非売品「青函連絡船 栄光の航跡」に日高丸の生存者が上陸した話が記載されており、驚いて調べてみたが判らなかったので困った。
当時から地元にお住いの秋坂勇治氏も知らず、また地元の記録にも残っておらず、調べるのに苦労した。
後日、秋坂氏がご近所の方に尋ねると、確かに小さい砂利の飛行場があったことが確認されてホっとした。
他にはエピソードとして、よく聞く怖い話で「深夜タクシーにずぶ濡れの女性を乗せて走っていたら、その女性客が消えてシートが濡れていた。」という有名な話があるが、その話は洞爺丸台風直後、七重浜沿岸の上磯町久根別(現在の北斗市)が発祥だと聞いて驚いた。
今のタクシーのような時代ではなく、戦前に購入した車や、アメリカ兵が自家用車をわざわざ日本に持ってきて置いていったのをアメリカ軍の厳しい審査の元、ようやく買って大事に細々と使ってた時代の話だ。
当時は洞爺丸台風に纏わる怖い噂話が沢山広まっていたという。
しかし、1975年生まれの地元の私でも七重浜の怖い話は既に風化し、タクシーの話も東京の話だと思っていた。
ただ、子供の頃にお盆の墓参りの後、暑いから七重浜に海水浴へ行こうと親戚を誘ったら、大人達に「お盆に海水浴に行くんじゃない!」と怒られたことがあったが、理由は聞いてなかった。
秋坂氏の話では、洞爺丸事故後は、七重浜海水浴場にお盆になると洞爺丸台風の犠牲者の御霊が戻って来るという噂が流れ、秋坂氏の世代では怖くて行かなかったという。
そんな事も知らずに私達は夜に七重浜で花火をよくやったものだ。
ただ、海水浴場から少し離れた場所にある慰霊碑にはさすがに雰囲気が怖く、誰も近づかなかった。
★レイズ・ザ・タイタニック
洞爺丸事故を知ったのは父が見ていたNHK特集の洞爺丸台風の話だった。
当時はまだ私は小学校低学年で、洞爺丸は七重浜に今も沈んでると思っていた。
たまたま直後にテレビで映画「レイズ・ザ・タイタニック」(1980年アメリカ)をやっており、その映画は60年前に沈んだタイタニックを引き揚げようという架空のプロジェクトの話で、様々な苦労の末、最後のシーンで錆びだらけのタイタニック号がニューヨークに60数年ぶりに入港するのを見てショックを覚え、父に「洞爺丸もこうやって引き揚げたら面白いね」と言って、「何が面白いだ、このはんかくせェモノよぉ!」と、湯呑茶碗をぶつけられ、蹴飛ばされた記憶がある。
父も、洞爺丸事故はリアルな世代で、何も知らない世代の子が、そう簡単に言ったのが不快だったのだろう。(でも、子供に怒鳴るか普通…。)
レイズ・ザ・タイタニック(©東宝東和1981年)
後に中学生の時にタイタニック号ははとても引き揚げられるような状態では無く、映画のように船の形はしておらず、真っ二つに千切れ、沈んだ衝撃で海底深くにメリ込み、とても引き揚げられる状態じゃない事を知り、映画ていいかげんだなと思った。
そして、洞爺丸も田辺先生がきっかけで調べてみると、事故直後に引き揚げられていたのを知り、今は函館湾に沈んでるのは細かいもの以外何も無い。
それは、深い海に沈んだタイタニック号と違い、狭く浅い湾内で沈んだ船は他の船の航行の邪魔なので二次災害防止で直ちに撤去する必要があったからだと聞いた。
1941年の真珠湾攻撃で多数の軍艦が沈んだハワイのパールハーバーも、爆発で真っ二つに千切れ沈んだ戦艦アリゾナ以外は引き揚げ可能ということで2年がかりで引き揚げている。
しかし、こうして過去の大事故を研究するのは、非常に価値があるものだと思う。
結構生活に役に立つ教訓を得ることも多々ある。
恩師の田辺康夫氏にお見せできなかったのが残念で、もっと早く小説化すれば良かったと思う。
しかし、この前に日航ジャンボ機墜落事故の話を時間をかけてたっぷり書いた経験のおかげで、洞爺丸台風の話もより一層深く書けるようになったと思う。
今回は再度、20年ぶりに恩師の秋坂勇治氏にご協力をお願いし、さらに船の事に関して専門的で判らない部分は東京の船の科学館や名古屋港海洋博物館を訪ねたり、電話で聞いたりして勉強してみた。
この場をお借りしてご協力して頂いた皆様にお礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。




