第20章 廃止後の木枯らし
1988年3月13日夜。
田辺氏は函館山麓の元町から函館港を眺めた。
函館港には、最後の運航を終えた連絡船全てが創業して80年の歴史で初めて集結した日でもあった。
2ヶ月前に定期検査期限が切れて引退し、荒れ果てた有川桟橋に係留された大雪丸と、使い道が無く函館どっくに寂しく係留された空知丸以外は元気に函館港で煌々と明かりを灯し、最初で最後の同窓会を行っていた。
友人五名を函館港に葬り、自分自身も水責めで苦しませた青函連絡船。
しかし、教師となってから児童の引率で、何度も世話になった。
毎回出航する際に恐怖の舞台の七重浜を見て、あの時の事を思い出し、甲板通路から慰霊碑に手を合わせるが、児童達のはしゃぎ声で悲しみは吹き飛び、笑顔で海岸を見て「俺は元気にやってるからな。」と亡くなった仲間五名に囁く。
そんな日がもう二度と無い事を寂しく思った。
あの最悪の日から、二度と大事故を起こさず役目を終えた連絡船達を見つめ続けた。
「ありがとう、ご苦労様でした。」
田辺氏は愛車の日産セドリックに乗り込み、自宅へ帰路についた。
その後、函館と青森で青函トンネル運航開始記念に「青函博覧会」が開かれ盛り上がったが、博覧会後は、青函トンネルや連絡船に関わった人達が殆ど函館を去り、街を吹き抜ける木枯らしが寂しく静かに思えた。
青函博覧会(函館側)の記念品等。(作者保有)
青森には、八甲田丸が青森市に引き取られ、永久保管される事が決まり、函館港には最後に売れ残った摩周丸と、空知丸が寂しく静かに係留されていた。
摩周丸は函館の企業が引き取り、バブル全盛期を迎えて観光の目玉「シーポートプラザ」となり、旧函館桟橋に係留されたが、すぐバブルが崩壊し、一時は廃墟になりかけたが、現在は函館市が保管整備し2011年10月に青森市の八甲田丸と共に「機械遺産」に登録され、現在に至る。
(東京の羊蹄丸は、残念ながら機械遺産認定前に廃棄が決定し、2012年に解体されてしまった。)
現在のメモリアルシップ摩周丸(撮影・秋坂勇治)
★洞爺丸型の最後の生き残り
青函連絡船廃止で日本中が話題になる中、中東で、イスラエルの特殊工作員モサドが、敵が乗るカーフェリー、「ソル・ファイネ号」を爆破したニュースが流れたが、そんな遠くの話が盛り上がった理由は、なんと、この船は1964年8月に津軽丸Ⅱ型と交代し、津軽海峡を去っていった洞爺丸型のひとつ、大雪丸だと言うのだ。
大雪丸は、洞爺丸台風当時、洞爺丸型4隻のひとつとして、函館におり、青森で待機していた羊蹄丸や定期検索で浦賀に居た摩周丸と違い、洞爺丸同様に函館湾で台風に被災し、傷だらけで命からがら木古内港まで逃げて助かった船だった。
田辺氏は、テレビを目を丸くして見た。
姉妹船で、同じ函館湾で台風と戦った洞爺丸は、わずか6年で七重浜に消えた一方で、大雪丸は、あれから34年生き続けていたのだ。
しかも、その後修理して、また現役復帰するという。
まるで私と亡くなった友人のようだと思って苦笑いしたという。
その後1991年、アドリア海で火災事故になり、海に没し43年の生涯を閉じたのを、古希を迎えてから知り、寂しく思った。
「もうすぐ、私も連中の所へ逝く、長生きさせて貰ったもんだよ、楽しい人生だった。」
田辺氏は、洞爺丸慰霊碑の前で10年ぶりに私と対面し、慰霊碑を見つめながら、そう話した。
田辺康夫氏は、21世紀を迎えた頃、静かに眠るように人生の幕を閉じたとお聞きした。
田辺氏は友人達に逢えたのだろうか。
SOS洞爺丸 終




