第19章 青函連絡船の終わり
1976年、貨物部門が低迷し初めて間もなく、洞爺丸台風によって失われた船舶に替わって就航していた初代十和田丸時代の貨物船、桧山丸、空知丸、石狩丸Ⅱが耐用年数を過ぎた為、渡島丸Ⅱ型3隻、空知丸Ⅱ、桧山丸Ⅱ、翌年1977年に石狩丸Ⅲが新たに新造追加された。
だが、これら新造船が就航してすぐ1978年に渡島丸Ⅱ、1980年日高丸Ⅱの運航を休止せざるを得なくなる程に需要低迷が続き、積みきれない長距離トラックを満載し大忙しで函館港を出航していく民間フェリーを指を加えて見てるしか無くなった。
鉄道ならではの重量物である北海道産の鉱物も、安い海外の物に需要が流れてしまった。
そして、貨物部門に見切りを付けた国鉄は、1982年に老朽化した津軽丸Ⅱ型の初期型の津軽丸Ⅱ、松前丸Ⅱを北朝鮮に売却し、替わりに貨物専用の中でも新しい桧山丸Ⅱ、石狩丸Ⅲを客船に改造し、1984年1月、ついに貨物専用の有川桟橋を閉鎖し、渡島丸Ⅱ型の初期型3隻渡島丸Ⅱ、日高丸Ⅱ、十勝丸Ⅱを引退させ、6隻で組織された新世代貨物専用路線は15年で空知丸1隻を残して消滅したのであった。
貨客船に改造された桧山丸Ⅱ、石狩丸Ⅲは津軽丸に比べ定員を650名に減らした代わりにカーフェリーに対抗して、津軽丸Ⅱ型の露天で12台の乗用車積載から20台の船内格納にされた。
客船改造後の桧山丸(国鉄発行の船長サインカードより)
しかし、対抗とは言っても青函トンネルが開通すれば青函連絡船は廃止の運命。
もはや残りの津軽丸Ⅱ型も耐用年数が近いにも関わらず後継は造られず、廃止を待つだけだった。
一方で旅客部門は「名物の観光船」として継続しようと努力していた。
1977年、国鉄青函航路70周年を機に「イルカ」をあしらったキャラクターが制定された。
摩周丸のマーク(®JR北海道)
イルカは津軽海峡に生息し、春になると甲板から連絡船に付いて来るイルカの群れが人気があり、飛行機ではイルカは見れない旨を強調した。
そしてブリッジで行う船長立ち会いの洋上結婚式は有名で、結婚式の需要は「ロマンチック」だと人気が高かった。
子供達には、連絡船の写真付のサインカードが配られ、運良く船長が暇な時にサインを貰えるという特典があり、連絡船好きの子供にとって自慢の種となった。
当時の青函連絡船サインカード(作者保有)
1979年8月、北海道教育委員会と提携し、ダイヤから十和田丸を外して「北海道こどもの船」として、夏休みに児童を乗せて北海道の各港に航行する事もあった。
その後も児童達を乗せて貸切で青函航路外を航海するイベントは毎年数回おこなわれた。
洋上カラオケ大会や北海道一周ツアー、初日の出を見る「連絡船でおめでとうツアー」等、輸送力が高いからこそ他では真似できない企画を続ける事が出来、イベントは毎回大盛況だった。
最も大盛況だったのは、地元演歌歌手の大物、北島三郎氏が十和田丸を使って行った「けっぱれ(頑張れ)北海道・さぶちゃん丸」という企画で、石炭炭坑閉鎖や、韓国に需要が流れた造船業界など、低迷する北海道経済を元気付けようと企画したものだった。
さらに低迷した貨物も、国鉄コンテナなら安く「戸口から戸口へ」と、1971年から導入されたISO(国際規格)のC20型5tコンテナで貨物駅からトラックでご希望の場所まで行ける事をアピールした。
1985年8月12日。日本中が驚愕する事故が発生した。
青函連絡船を追い詰めた張本人の日航ジャンボ機の国内線、羽田~伊丹123便が墜落した。
提供・今井靖恵(元・群馬県上野村消防団)
死者行方不明520名、単独機として史上最悪の事故になったこの事故は、大量輸送時代の歪みとして大々的に報じられ、ライバルの航空会社も需要が低迷、青函連絡船が再び見直されるか?と思われた。
この事故後、「のんびり旅を楽しむ」傾向になった観光客は、津軽海峡で名物のイルカを見て、船上からはしゃぐ姿が多くなった。
しかし、その津軽海峡の船は民間フェリーであり、自家用車やバイクで北海道に旅行に来る人々が増えただけで、青函連絡船も渡航待ちの自家用車が駐車場に溢れたものの、12台~20台しか積めなければ、とてもマイカー、バイクの顧客を民間フェリーから奪うには至る訳が無かった。
もう青函連絡船は大量輸送時代の競争とは全く関係無かった。
青函トンネルは1976年に掘削中に大量の海水が吹き出し、一時は中止の声が上がったが、新技術の土を凍らせて掘り進める技術が開発され、1979年の開通予定に遅れる事6年の1985年3月10日に開通。
東京の首相官邸で中曽根総理が発破ボタンを押し、トンネルの中心が爆破され、歓声が響いた。
史上最長の難工事は見事達成され、世界中に注目された。
これに対し、青函連絡船を生き残らせる活動が連絡船ファンや青函連絡船乗組員OBによって行われたが、ただでさえ国鉄全体に大赤字が続き、国会で批判され、分割民営化を推進された中で、赤字の青函連絡船をトンネルと共に運航するのは不可能だった。
連絡船を守る会の広報ステッカー(作者保有)




