第18章 洞爺丸型からの刷新
津軽丸Ⅱ型(羊蹄丸 船の科学館・2006年撮影)
★海の新幹線
1964年5月10日。
日本が東京オリンピックで湧く中、最新鋭連絡船・津軽丸Ⅱ型の第1船、津軽丸Ⅱ型がデビューした。
大きさは洞爺丸型に比べ2倍となり、エンジンは十和田丸で不評だったディーゼルエンジン仕様ながら船体そのものが改良され、不快と言われた振動と音は無くなり、さらに階級制を無くそうと、3等客室が廃止され、1等、2等の差も殆ど無いように作られた。
そして、経済発展に伴い、客数、貨物数が共に増加したのに対応する為、4隻だった客船型連絡船は6隻に増やされた。
1960年より始まった「戦後型連絡船更新計画」は様々な最新技術を惜しげもなく導入する事から日本を代表する各造船会社に注目され、各社に振り分けられたが、地元の函館どっぐ(株)も3番船・松前丸を受注し業界に注目され、函館の経済成長に繋がった。
一方で、洞爺丸の代替だった十和田丸は、わずか7年で、これら新世代船の試作としての役目を終え、1965年に函館どっくで貨車専用船「石狩丸Ⅱ」に改造され、表舞台から去った。
1番 津軽丸Ⅱ(8278総トン) 浦賀重工場(株)製
2番 八甲田丸(8313総トン) 三菱重工神戸(株)製
3番 松前丸Ⅱ(8313総トン) 函館ドック(株)製
4番 大雪丸Ⅱ(8298総トン) 三菱重工横浜(株)製
5番 摩周丸Ⅱ(8327総トン) 三菱重工神戸(株)製
6番 羊蹄丸Ⅱ(8311総トン) 日立造船(株)桜島 製
(Ⅱとは2代目の事。)
船舶制御の自動化が施され、ガチャガチャとブリッジから機関室へ制御指示を伝達するテレグラフは姿を消し、機関室も空調完備の制御室で管理するものになり、後部スクリューは可変ピッチ仕様となりブリッジで操作するだけとなった。
このハイテク化で職場環境は大幅に改善され、安全性も高まった。
津軽丸Ⅱ型のブリッジ(羊蹄丸・船の科学館)
津軽丸Ⅱ型のコントロール装置(メモリアルシップ摩周丸)
さらに船首にバウ・スラスターという小型スクリューが設けられ、タグボートを使わずに自力での離岸が可能となった。
船首の青い矢印が示す穴がバウ・スラスター。
左右に貫通しており、内部のスクリューで船の向きを操作する。
そして形状も高速化を狙った設計で、大きくなったにも関わらず、航行時間4時間半を3時間50分で運航可能となり、実に40分も短縮した。
羊蹄丸のカットモデル(メモリアルシップ摩周丸)
救難ボートは、従来の吊り下げ式をやめ、海に落下させると自動で窒素ガスにより展開するカプセル式ゴムボートを装備し、さらに旅客機にあるような世界初の窒素ガス展開式スライダーを非常口に装備し、脱出を迅速にした。
なお、洞爺丸台風で錨が暴風で海底から抜けて引きずる「走錨」が問題視されていたので数年かけて従来の食い込み角度60度から左右両方に爪を伸ばして90度食い込む錨を開発、津軽丸Ⅱ型から装備した。
業界では「JNR(国鉄)アンカー」と呼ばれた。
現在、この錨は函館市の函館桟橋跡でメモリアルシップ摩周丸と共に津軽丸、大雪丸のものがモニュメントとして見ることが出来る。
この津軽丸Ⅱ型は大変好評で、1966年に1隻が追加で導入された。
7番 十和田丸Ⅱ(8325総トン) 浦賀重工業(株)製
こうして、たった1年で青函連絡船は更新され、洞爺丸型は3隻、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸は引退し、売却され津軽海峡を去って行った。
さらに貨物部門も連絡船の刷新・強化が行われ、1969年10月1日、地元・函館どっく製の渡島丸Ⅱ型1号船、渡島丸Ⅱ(4075総トン)が就航。
津軽丸Ⅱ型と同等の高速自動化船で、貨車を従来の43両から55両搭載に増え、さらに上甲板に将来鉄道コンテナ50台を搭載する計画で強化されていた。
渡島丸Ⅱ型・空知丸(廃止当時の函館桟橋で購入したプロマイド)
だが、この大幅な設備投資が、後に自分達の首を絞める結果になるとは誰も想像せず、明るい未来を想像をしていたのであった。
国鉄及び運輸省(現在の国土交通省)に「海の新幹線」と大いに期待された新世代連絡船は、20年後の1985年にはこのままの高度経済成長が続けば需要は2倍に増えると見積もっていた。
しかし、この青函連絡船の存続を脅かす存在の、青函トンネルもまた、津軽丸Ⅱ就航と同時に始められたのである。
1960年代中盤、好景気に設備投資をしていたのは国鉄だけでは無かった。
自動車保有は当たり前になり、道路が大幅に整備され、大型トラックが大量に普及し、民間カーフェリーの需要が増え、さらに1973年のオイルショックによる不景気を迎える。
そして、津軽丸Ⅱ型が就航して間もなくの1966年、アメリカで旅客機の革命となった巨大旅客機、ボーイング747が登場。
乗客を従来の4倍の400名余りをいっぺんに輸送可能になり、最初はあまりの大きさに「エアープレイン」(空気を運ぶ無駄に大きな飛行機)と馬鹿にされていたが、乗客一人当たりのコストが下がり、一般客の需要が急激に増え、世界中の航空会社が採用し、あっと言う間に旅客機の代表になった。
その747をベースに1973年に日本国内専用仕様のSR型が日本航空によって導入され、北海道便が就航すると、わざわざ遠い函館に来て青森からまたのんびり行く人は激減し、コスト度外視で刷新された青函連絡船は、1973年より刷新からわずか9年で必需だった国鉄青函航路は重要性が無くなり、利用実績が急降下に追い詰められてしまったのである。
一方で航空会社は、全日空が日本航空に対抗して翌年1974年に300席クラスのワイドボディの最新鋭、ロッキード・トライスターを導入し、さらに1979
年には、ライバルと同じ747ながら、500席に増やした「スーパージャンボ」を導入。
函館から300キロ離れた千歳空港で熾烈なシェア争いがくり広げられ、もはや青函連絡船はこの争いの外となってしまった。
日本航空ボーイング747SR46。(筆者所有・日航商事製)




