第17章 事故後の青函連絡船
★事故検証
この事故の直後、何故この事故が起こったのか検証実験が行われた。
まず、注目されたのは函館港で沈没した大型船舶はいずれも青函連絡船のみだった事。
そして、沈没しなかった連絡船もいずれも後部車両甲板入り口から浸水があった事。
洞爺丸の車両甲板入り口(メモリアルシップ摩周丸)
つまり、他の船には無い車両入口があったせいで沈没に至ったのでは?との事。
しかし、この日以外に浸水したことは一度もなく、何故この日だけ?となった。
模型で実験したところ、なかなか後部車両入口の浸水は起こらなかった。
当時の波6に合わせても浸水しない。
ところが、9秒おきに波を送ると、たちまち浸水が始まり、車両甲板の中で水が踊るようになった。
計算すると、9秒おきに波を送ると、洞爺丸より長い波となり、水が浸入してくることが判明した。
そして、洞爺丸型よりも車両甲板入り口が二倍もある貨物専用船は、なおさら水の浸入が激しい。
そこで車両を搭載していた船舶のみがやられているのが目に付いた。
車両搭載中は車両が邪魔をして防水処理が完全に出来ない上に、重く、余計浸水が増す。
しかし無事だった第十二青函丸、大雪丸は空荷だったので、邪魔が無いので防水処理が容易で、しかも軽いので浸水量も少なかったのである。
だが、まだ事故のメカニズムが解明された訳ではない。
洞爺丸が何故座礁後に転覆したかだ。
模型実験で洞爺丸の浸水は確認できても、ズッシリと座礁し、転覆はしなかった。
そこで、当時と同じ海底の流砂を再現しようとバスタオルを水槽に敷き詰めて、同じように洞爺丸の模型を波にさらすと、右舷のビルジキール(揺れを抑える翼)がバスタオルに絡み、次の波で転覆したのだった。
この実験と生存者の証言を踏まえ、残存船舶全てに対策が施されることになった。
洞爺丸型客船は三等座席室の割れやすい各窓を全て頑丈な丸窓に変更、後部に扉を設け、車両甲板入り口を完全防水にする事等が検討され、1961年までに全ての青函連絡船に対策改造が施された。
そして、これまで乗客輸送力を増そうと貨車連絡船に造られた不細工な客室が、船の復元バランスを悪くした一因だったので、貨車連絡船には乗客は禁止され、客室は全て撤去された。
その際、第11青函丸にから下ろされ、洞爺丸に載せ替えられ被災した米軍専用寝台車も廃止され、大勢の米兵が連絡船に乗ることは無くなった。
さらに燃料の石炭庫に浸水したのが原因でエンジン稼動不可になった事を受け、石炭は廃止、重油焚きとなり、重労働だった火夫の負担が大幅に改善された。
ほぼ戦力が半分以下となった青函航路は、第二次大戦で外地に取り残された日本人の引揚船として使われていた徳寿丸(3617総トン)、宗谷丸(3594総トン)が広島から応援に来たが、戦前生まれのボロ船で、しかも鉄道貨車を搭載出来ない所謂普通の船なので、桟橋に渡航出来ない貨物車が堆積し、新造貨車連絡船2隻が至急発注され、事故1年後の1955年9月に檜山丸(3393総トン)、空知丸(3429総トン)が新たに就航した。
急遽造られたとは言っても当時の最新鋭装備が惜しげなく注ぎ込まれ、船体も洞爺丸台風を教訓とし、後部扉を設けたが、檜山丸にはさらに、万が一車両甲板に水が侵入しても溜まらないように、20箇所に排水ポンプが装備された。
さらにエンジンは大型の新型船舶用ディーゼルエンジンとされ、上半身裸で汗まみれに釜を焚く火夫の姿は無くなった。
そして、洞爺丸の後継として「洞爺丸と同じ状況に陥っても絶対沈まない船」を大至急新造を行った。
1957年10月1日。
十和田丸(6148総トン)が就航した。
この船は、洞爺丸の代替の為に造られたので、1隻のみだったが、完璧安全な鉄壁の青函連絡船の考えを立証する目的もあり、いわば、次世代の連絡船の試作とも言える船だった。
大きさは洞爺丸型の1・5倍、塗装はアイボリーとライトグリーンに塗られ、爽やかな新世代をアピールし、随時残った洞爺丸型も同じ塗装に塗り替え、悲劇の洞爺丸事故のイメージを変えようとした。
後部扉に車両甲板排水ポンプ、そして、車両甲板下の三等客室は廃止された。
しかし、檜山丸、空知丸に引き続き採用されたディーゼルエンジンは、乗客には不評だった。
これまで蒸気タービン船で静かで快適だったのが、振動とガラガラ音が煩いと嫌がられ、さらに安全性重視で急造されたので、客室は殺風景で、趣がある洞爺丸型が相変わらず好まれたのであった。
初代十和田丸(メモリアルシップ摩周丸)
★引き揚げ
1954年11月。
沈没した連絡船の引き揚げ作業が始まった。
サルベージ作業は2年がかりで徹底して行われ、1年で5隻とも浮揚し、あと1年は海底に残った残骸や積載物の回収に費やされた。
函館湾出口付近53mに水没していた北見丸が最も難航し、正確な沈没場所が判明するまで事故から17日もかかっている。
洞爺丸は左舷135度も回転していた。
三等座席の窓は殆どが破壊されていたので、遺体回収用に開けた穴と共に鉄板で塞がれ、まず、正位置にウインチでゆっくり引き出された。
船体に取り付け金具を溶接し、一定の角度まで引き上げたら、再び取り付け金具を溶接し、その繰り返しで1955年7月に転覆から戻った。
しかし、その姿は、かつての美しい姿はなく、三等座席室の甲板から上は全て千切れ、海底に残されていた。
さらに後部舵機室がもぎ取られ、面影を残しているのは船首だけだった。
十勝丸、日高丸、北見丸は、いずれも海底で転覆した状態で車両甲板から上は潰れ、引き揚げの際は3隻共、車両甲板のみという状態だった。
第十一青函丸は3分割状態で、船首だけはずっと浮いていた。
5隻は順番に函館ドックへ曳航されたが、十勝丸、日高丸、北見丸は船底の損傷が少なく、再利用可能と判断され、十勝丸は函館ドック、日高丸は京都府舞鶴の日立造船所まで曳航され、破壊された部分を新たに新造し、翌年1956年に航路に復帰したが、北見丸はやはり修理不能と判断され廃棄された。
洞爺丸、第十一青函丸は損傷が非常に激しく、廃棄処分された。
なお廃棄された洞爺丸、第十一青函丸の船首の名板及び、北見丸の鉄板の一部は、石碑に埋め込まれ、函館山麓の青函連絡船空襲戦没者慰霊碑の横に「洞爺丸台風乗組員慰霊碑」として建立され、現在に至る。
洞爺丸乗組員慰霊碑。裏に第十一青函丸の名板が埋め込んである。下の四角は北見丸の船底の一部(撮影・秋坂勇治)




