第16章 遺体
函館大火慰霊堂(撮影・秋坂勇治)
9月30日、函館市 函館大火慰霊堂。
1934年に発生し、2千人以上が犠牲になった大火の慰霊の為に造られた建物で内部は広く、復興を期待し、普段は青少年ホールとして使われ、室内で卓球や広場で野球などで未来の函館の若者が楽しめるようにした施設である。
田辺氏は行方不明の同期生5人を探しに同期生の家族と共に遺体を探しに来た。
外のテントには、持ち主不明の漂流していた持ち物や服が並べてあったが、殆ど見てる人はいなかった。
物よりまず知り合いの遺体を見つけ出して、弔ってやるのが先だ。
堂内に棺桶がズラリと並び、入りきらない棺桶は、身元が判明して出て行く棺桶と入れ替えられていた。
堂内は、お線香と海水と死臭が交じり、ハンカチで鼻と口を押さえながら見回った。
最初は目を背けたくなり、吐きそうになるが、あまりの数に、徐々に慣れてきた。
遺体は殆どが目を閉じていたが、服は当時そのままの物で海水が乾いてガビガビになっている。
毛布で包まれた遺体もあった。
当時は着物姿の女性も珍しくなく、着物は波に洗われると脱げ易いそうだ。
私の服も波に洗われ、あちこちが破けていた。
まだ幼い少女の遺体を見てしまった。
手はギュッと握り締めたまま固まっている。
もしかして、私の背中に掴まって、落ちてはぐれた子かも知れない。
心の中で「助けられなくて、ごめんなさい。」と呟き、思わず涙が零れた。
すると、入口から怒鳴り声が聞こえた。
「だぁ?オメエの亭主はぁ!あんな家が飛ぶ位ぇの台風の中さぁ、出てってからに、かっぱがるに決まってるじゃねぇかよぉ!この、はんかくせぇ者があ!」
怒鳴られていたのは洞爺丸の船長の妻だった。
毎日ここに来て遺体が見つかった家族に謝って歩いてるという。
怒鳴った遺族は老人の男性で、肩を落としてバタバタに棺桶を載せて去って行った。
船長の妻は、ハンカチで顔を押さえ、報道記者に囲まれていた。
この日友人が1人見つかった。
しかし、函館はおろか、函館周辺の火葬場も一杯で、七重浜の現在、慰霊碑が立つ場所に臨時の火葬場が設けられ、そこで友人の遺体が火葬されることになった。
ドラム缶を半分に切って並べ、ブロックで囲い、そこに重油を入れて、棺桶を乗せ、周囲を薪で覆って、焼いた。
私の友人以外にも大勢が此処で荼毘に付された。
洞爺丸慰霊碑(撮影・秋坂勇治)
慰霊碑から海岸に向けて沈没した5隻の位置が示されている(撮影・秋坂勇治)
遺体が腐ってどうにもならなくなる前に、何とか見つけて貰おうと、遺体の顔写真を撮影し、写真を貼り、整理番号と特徴を記載した紙が青函局に貼り出さた。
その写真を使って1ページ25体位のA4サイズの遺体写真集が作られ、遺体が見つからないご遺族に配られた。
しかし、37名が無縁仏となってしまった。
田辺氏が乗船していた洞爺丸は淵上先生、田辺氏や友人2名を含む159名が生存し、1155名が死亡、行方不明となった。
行方不明の中には友人2名も居た。
だが、この死者・行方不明1155名というのは実は不正確だという。
偽名で乗船したものや、出港待機時に出て行った者もおり、大体であって完全に正確ではないそうだ。
だが、途中で降りたものや、偽名の乗船者なんか、調べようが無い。
救命胴衣を付けていなかったり、外れたりした人の遺体は海底に沈み、腐食してガスが体内に溜まるまで揚がって来ない。
漁船や海上自衛隊の掃海艇が連日海の底をさらった。
10月3日、洞爺丸船長が見つかったと話題になった。
近藤船長は救命胴衣を着けず、双眼鏡を左手に握ったままだったという。
船長は、救命胴衣着用を命じた際、部下に手渡されたが、「ありがとう。」と言ったまま、受け取らずに嵐の海を睨んでいたという。
田辺氏はこのニュースを知った時、我々をこんな目に遭わせたのは、この船長のせいか否か判らなかった。
では、誰のせいなのか。
この事がハッキリ言えるようになったのは2年も経ってからだった。
この日の天候は非常に異例な天候で、気象庁が分析に2年もかかり、船長も、この「マリー」に振り回された一人だったと後で知った。
この事故に対し、事故1か月前にお召船としてご乗船なされた昭和天皇より御歌と、お見舞金が賜れた。
日本の友好国各国から弔文が届き、在日米軍は十分な支援を行う事を宣言した。
★洞爺丸裁判
翌年1955年2月15日9時、函館市元町・海難審判庁。
ここで、1912年4月15日に1513名の犠牲者を出したタイタニック号沈没に次ぐ、世界第2位の海難事故となった、洞爺丸をはじめとする5隻の連絡船事故について審判が行われた。
第一審は、事故発生から約1年が経った9月22日に洞爺丸船長に対する審判が言い渡された。
「本件遭難は洞爺丸船長の運航に関する職務上の過失が原因。」
12月21日に他4隻に対し判決が出た。
「十勝丸、北見丸、日高丸は船長の運航に関する職務上の過失が原因、なお第十一青函丸は発生原因が明らかでない。」
この審判に対し国鉄側は、「前代未聞の天候で予測不能で避けようが無い事故だった。」と不当請求を起こし、裁判は81回、1959年2月29日まで行われたが、判決は覆らなかった。
その後、高等海難審判庁、東京最高裁判所と1961年4月20日迄審判が行われたが、結局、判決は同じだった。




