第10章 転覆
22時30分。
ボーイが二段上の三等座席に乗客を誘導し始めた。
左舷階段に人々が溢れかえり、大人二名が並んで一杯の幅の階段で、しかも右舷に45度も傾き登り難く、なかなか進まなかった。
田辺氏は、隣の秋林氏がカメラを持ってるのを思いだす。
「なぁ、おめぇのキャメラでさ、この遭難記録、撮影しとこうぜ。」
「おう、そうだな。」
秋林氏は、フィルムがある限り撮影した。
あと一枚残ったところで、田辺氏にカメラを手渡す。
「ちょんび(田辺氏の仇名)も撮るか?」
田辺氏も一枚撮影した。
田辺氏は、万が一亡くなった時を考え、身分証を出そうとボストンバックを漁ったが、出てこない。
とりあえず研修旅行手帳を上着のポケットにねじ込んだ。
田辺氏達9人は、乗客が皆居なくなってから渕上先生を先頭に避難を始めた。
避難する乗客の中で最後尾で、田辺氏が一番後ろにいた。
手摺がミシミシ言ってる。
斜めに大勢が捕まってるから負荷が普段より大きいせいだ。
田辺氏が最後の段差を登ろうとしたその時。
階段の手摺がバリッと音を立ててもげた。
田辺氏の眼下に、水没した三等室が見える。
無人の三等室に畳や荷物がプカプカ浮き、半分以上水没した右舷階段から、水がジャバジャバ漏れていた。
「やばい…落ちる…。」
右手で取れてブラブラになった手摺を掴み、左手にボストンバックを握り、右手が滑り始めた。
「ちょんび!」
秋林氏が後ろに居ない田辺氏に気が付き戻ってきて、田辺氏のYシャツの襟首を掴んで引き上げてくれた。
「悪ィ。秋林。」
「危ねかったなぁ。」
すると、秋林氏の目に田辺氏のボストンバックが目に留まった。
「何だよ、おめぇ!ボストンバック持って来やがってよぉ!だから落ちるんだって!ちゃっかりしてっけよ!俺も持ってくる。」
「止めれ!もう部屋は水没してんだぞ!」
「キャメラが入ってんだよ!高かったんだぜ!」
「駄目だって!止めれ!諦めちまえ!」
後日、結局撮影したカメラは発見されず、写真記録は残らなかった。
22時40分。
台風「マリー」の暴風圏は既に過ぎ、風は弱まった。
しかし、マリーは、しっかり置き土産を置いていった。
日本海で大暴れしたマリーが起こした波が津軽海峡を流れ、函館湾に流れ込み、狭い湾内で反響し、高波を誘発していた。
なかなか静まらない波に、ついに座礁待機を断念した洞爺丸はSOSを発信した。
通信士は机にしがみつきながら打電した。
22時40分。海上保安部に国際救難信号。
・洞爺丸
「sos洞爺丸函館港外青灯より267度8ケーブル地点に座礁せり。」
(1ケーブルは1マイルの1/10。約185m。)
しかし、海上保安部から応答が無かった。
海上保安部のアンテナは強風で破損し、修理中だったのだ。
22時42分。国鉄函館海岸局に打電。
・洞爺丸
「本船500キロサイクルにてsosよろしく。」
(海上保安部が応答しないから、そちらから連絡してほしい)
・国鉄函館海岸局
「sos,ok」
その直後、ブリッジの窓が一斉に割れ、大量の海水が流れ込んだ。
そして、車両甲板の車両固定が限界に達し、全ての搭載貨車が右舷に倒れ、一気に90度に転覆した。
ブリッジをはじめ、上部構造物が破壊され、煙突が倒れ、一等、2等客室が潰され、ここに居た殆どの人々が亡くなったと推定される。
なお、三等に居た人々や機関室やボイラー室の職員は左舷の三等座席室に閉じ込められた。
上部構造物が破壊されと同時に、非常電源用ディーゼルエンジンも破壊され、人の集まる三等座席室は暗闇に包まれ、乗客の悲鳴や泣き声が響く。
田辺氏達は、「天井」と化した窓を見た。
波防止の板が開き、窓の外を海水が泡を立てて踊っている。
容赦なく襲う高波は、横転した洞爺丸をさらに押し、徐々に天地が逆となる。
上下逆になった窓の外に様々な物が流れ、「洞爺丸 東京」と書かれた救命筏が窓にガツンとぶつかってきた。
そして、湯気を出しながら赤い小さい光が沢山浮かんでいる。
破壊された煙突から流れ出たガラ(石炭の燃えカス)だった。
すると石炭ストーブを消したような油の焼けるような臭いが充満し、息が苦しくなってきた。
誰かが叫んだ。
「皆吸うなぁ!死ぬぞ!窓を開けろぉ!」
上になったボイラー室から流れ出た不完全燃焼で発生した可燃性ガスだ。
騒然となって、一斉にあちこちで窓を開け始めた。
「どけぇ!破るぞ!」
怒鳴り声と同時に斧を持った男性のシルエットが窓を叩き壊したその時。
破れた窓から大波が彼を襲った。
「ぐわぁ!痛ぇ!ぐわあああ!」
そして男の声を掻き消しながら室内が海水で満たされ始め、あっというまに腰まで浸かった。
腰に誰かしがみついた。
子供らしき人間が、ガボガボ言いながら掴まってる。
溺れてる!と察した田辺氏は、ボストンバックを棄て、子供らしき人間を抱き上げる。
がむしゃらに手探りで窓を開けた。
外の様子を見る為に窓枠に乗り掴まると、人々がぶつかってきた。
「ああ!」と背中の子供が悲鳴をあげ、肩にあった手が離れ軽くなる。
「はっ!」と後ろを見たら、真っ暗な中、人々が溢れ、さっきの子供らしき人間が何処に行ったかサッパリ分からない。
悲鳴と泣き声と水を掻く音が暗闇に響きわたる。
田辺氏が「あの!」と、声をあげた瞬間、大波か彼に襲いかかり、外に放り出された。




