第1章・青函連絡船
この物語は、1990年に洞爺丸事故の生存者、田辺康夫氏に直接取材を行い、その際に頂いた当時の手記を元に、当時の事故の詳細資料や通信記録を交えて描いております。
田辺康夫氏の手書きの手記(ガリ版印刷)
60年前の物なので風化し、印字も潰れて解読に時間がかかった。
・協力(敬称略)
田辺康夫(洞爺丸乗客生存者・故人)
秋坂勇治(北斗市)
白田弘行(元・弘和重機社長)
小川由江(函館朝市・故人)
村山勝男(函館市・故人)
對馬きくゑ(北斗市・故人)
函館市教育委員会(1990年)
※故人の方はご健在だった1990年前後に取材を行ってます。
・取材先
函館市立図書館
メモリアルシップ摩周丸(函館市)
船の科学館(東京 お台場)
・参考文献
洞爺丸遭難記録(手書きガリ版・田辺康夫)
洞爺丸台風海難史(青函船舶鉄道管理局)
青函連絡船 栄光の軌跡(JR北海道)
洞爺丸台風 遭難通信関係記録(日本鉄道技術協会)
さようなら青函連絡船(北海道新聞)
わが青春の青函連絡船 (坂本幸四郎 著 光人社)
鉄道連絡船100年の軌跡(古川達郎 著 成山堂書店)
★青函連絡船
1988年3月13日。北海道函館市。
この日、函館駅には大勢の人々が押し掛け、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
当時世界一の海底トンネルとなった青函トンネル・JR海峡線が開通し、本州と北海道がレールで結ばれ、その初の列車が函館駅を出発するのを見送る為だった。
その一方で、もう一つの黒山の人だかりが列車と別の方を向いていた。
青函連絡船の最後の運航を見守りに来た人々だった。
本州と北海道を繋ぐ動脈として永らく運航が続けられたJR青函航路は、創立当時、日本国有鉄道の手により運営され、絶えず最新鋭の技術が連絡船に用いられていた。
最後に運航された連絡船は現在、函館港及び青森港に展示されている「摩周丸」(函館)と八甲田丸(青森)その他同型船により運航されていた。
1964年の頃から随時建造・就航し、歴代の連絡船の例に漏れず、最新鋭の技術が投入され、航路が短く限定された航路しか就航しないにも関わらず、外洋船並みの造りが施され、当時は「海の新幹線」と言われた程だった。
青函トンネルが作られた当時は「青函連絡船も必要」との事で並行運航も論議されたが、1970年代の航空機の発達と、民間カーフェリーの充実で青函連絡船の利用者が減り続け、結局1970年代終盤に「青函トンネルが開通次第、連絡船は廃止」という方針が決まってしまう。
そして、青函連絡船に替わって「世紀の難工事」と言われた青函トンネルが登場したきっかけは、1954年9月26日に発生した「洞爺丸台風」であった。
青函トンネル構想そのものは戦前からあり、終戦直後の1946年にも調査が行われていたが、「将来に向けて調査」という考えだけだった。
廃止により別れを惜しむ人々に見送られる青函連絡船。
その光景を哀悼の目で見つめる一人の男性がいた。
田辺康夫氏。洞爺丸台風で仲間と共に遭難、数少ない生存者の一人である。
田辺康夫氏
★洞爺丸型連絡船
1945年7月14日、15日。終戦間際の函館・青森。
当時、日本全土に米軍のB-29による爆撃が行われていたが、B-29は硫黄島を攻略・整備するまで函館、青森に爆撃に向かうことが出来ず、本格的な空襲は行われていなかったが、日本近海に空母が接近しても危険が無くなってきた為、艦載機による青函航路壊滅作戦が行われた。
この空襲によって、12隻のうち10隻が撃沈・大破。破損したが、要修理で生き残った2隻を残して全滅した。
戦後、日本統治から独立した朝鮮(後の韓国)やソ連に占領されたサハリンを航行していた連絡船やGHQ(進駐軍。主に米軍)より貸与された上陸用舟艇等、青函航路に回され使用されたが、鉄道を運ぶ青函航路の為に設計された船でないと岸壁設備が使えず、「やはり専用の青函連絡船があった方が良い」という話になり、あらゆる工業が禁止されていた敗戦の占領下で、1946年7月、GHQにより異例の青函連絡船の新規建造が許可され、早速作られたのが「洞爺丸」であった。
「洞爺丸」は戦後初の貨客青函連絡船であり、GHQにより工業禁止を通達され、沈んでいた景気の中で大ニュースとなり、請け負った三菱重工神戸造船所は暇潰しに細々と残った資材で、やかん、鍋を作っていた技術者達を呼集し、彼らは腕を振るって食事にも困るような状態にも関わらず日夜奮起し建造を行った。
造船所は空襲により多大な損害を受けており、廃墟だったが、設備を使えるように応急に修繕し、足りない資材は闇市を駆け回り入手した。
そして翌年の1947年11月。
資材不足と設備破壊、食糧難という最悪な状況にも関わらず、たった1年程で青函連絡船「洞爺丸」が誕生した。
洞爺丸(1/100模型。函館市・メモリアルシップ摩周丸にて)
3898総トンの堂々たる風格の大型客船。白と黒のツートンカラーのその姿は美しく堂々とした風格を漂わせ、内装はモダンで凝った造りをしており、とても敗戦直後に誕生した船には見えなかった。
そして、その姿は敗戦で脱力感を抱いて帰国してきた日本人達の気持ちを励ました。
進水式直前の洞爺丸
洞爺丸台風 遭難通信関係記録(日本鉄道技術協会)より
その直後、同型船「羊蹄丸」「大雪丸」が次々と同じ生まれ故郷の三菱重工・神戸造船所で建造され、戦前、青函連絡船建造を請け負っていた浦賀船渠で「摩周丸」が建造され1948年11月に全4隻が完成、津軽海峡にその美しい姿を飾ったのである。
・洞爺丸型貨客船
洞爺丸(3898総トン)就航1947年11月21日 三菱重工神戸製
羊蹄丸(3896総トン)就航1948年5月1日 三菱重工神戸製
摩周丸(3782総トン)就航1948年8月27日 浦賀船渠製
大雪丸(3885総トン)就航1948年11月27日 三菱重工神戸製
その構造は、モダンな4人部屋の1等客室、2人部屋の豪華な特別室、畳式の大部屋の2等客室、そして、その下に貨物鉄道車を18両を搭載し、それを挟むように、両舷に3等椅子席、さらにその下に畳式の大部屋の3等客室があった。
3等客室は喫水線に近く、天井は低く配管類が天井を武骨に這い回り、鉄道を乗せる際は頭上で軌道の音が「ゴロゴロ」響き渡り、快適とは言えなかった。
しかし、4時間半の航海で苦痛を訴える乗客は少なく、修学旅行の小学生達は配管にぶら下がり遊びまわり、喫水線がギリギリの窓の外を眺めて間近に迫るイルカを見てワイワイ騒ぐ光景が見られたものであったという。
後継の連絡船では差別的だと3等客室は廃止されたが、これも一種の風情として見られていた。
そして就航から7年経った1954年8月7日。
北海道で国民体育大会が行われ、来道する昭和天皇のお召船に選ばれ、函館桟橋で待ち構えていた報道陣のカメラのフラッシュを浴びた。
しかし、このわずか1か月半後、この美しい「彼女」が醜い残骸の塊と化してしまうことを誰が想像いたであろう。