#33
「具合は、どうだい?」
そう言って顔を出した足音の主は唐澤刑事だった。俺と目が合い……複雑な表情を見せる。
「おう、起きたのか」
そのまま部屋へ入ってきた唐澤刑事と入れ替わりに、明里ねーちゃん達は無言のまま立ち上がり出て行ってしまう。どこかよそよそしい、というか妙な違和感を覚える。唐澤刑事自身も扉のすぐ横にあるパイプ椅子に腰掛けた。やっぱり、なんだか距離を感じる。
「……あの……」
だが言葉に詰まる。この微妙な距離感のことをどうやって聞くってんだよ。原因は自分の中にあるかもしれないんだし……さっきまで俺が「居た」世界の光景がいくつも頭の中を流れてゆく。まるで森に吹きすさぶ吹雪のように現実をホワイトアウトさせてゆく。
「まあ、無理もないか。あんなことがあったすぐ後だしな」
唐澤刑事の「無理もないか」は、明里ねーちゃん達の態度のことなのだろうか。それに「あんなこと」って……記憶が、夢とリアルとの間で錯綜して……どれのことなのかよくわからない。
「……まあ、なんというか……お腹の子は、残念だったね」
え? お腹の子? 誰の? ……? リアルと夢とを選別しかけていた脳がフリーズする。吹雪の中。その後しばらくの間は唐澤刑事の言葉が聞こえているのに、脳にまで届かずに凍り付いた。自分がそんな状態だったのだと気付けたのは、耳ではなく視界ににゅっと入ってきた唐澤刑事の顔のおかげだった。
「タクマ君?」
あ、はい。なんですか?
「タクマ君?」
もう一度呼びかけた唐澤刑事の表情を見て、自分が返事を声には出していなかったことに気付く。
「は、はい!」
「会うかい?」
会うって誰に? お腹の子? お腹の……って……それは、え? もしかして優美? 優美の中に、子……あれ? こんなに頭の中がこんがらがっているのに、それを冷静に見つめている自分もまた俺の中にいる。
その「冷静な俺」は、優美とずいぶんとご無沙汰だったことに気付いたんだ。最後はいつだっけ……そう、探すほど「久しぶり」なことに、心の中で苦笑いする。優美のお父さんの手前「つきあっていない」ことになっていたから、デートの時もなんだかいつも早めに帰していたし。いや、デートというよりはいつも望と三人の幼馴染み会だった。三人でダーツして、軽く呑んで。そういや去年のクリスマスだって……優美は仕事が忙しいって言ってたからバイト入れたんだよな。そう! なのに、突然仕事が早く片付いたから今から逢おうとかって……俺はもうバイト入れちゃっていたし、そんな急に休めないよって言ったらケンカになったんだっけ。優美は社会人なんだから、そういう責任の重さわかってるだろって言ったらキレられたんだよな。
ため息が自然とこぼれる。とりあえず、去年のクリスマスまでは遡れた。その前は……えーと……あれ? 文化祭があって、うちの大学に連れては来たけれど、望も一緒だったし……その前……あれあれ? ひょっとして、去年の夏休みか? 俺は「彼女」が居るのに赤城と一緒にエロDVD観てばっかりだったのか?
自分の頭の中にリアルな方の「思い出」が増えてゆく。現実に戻ってきたという安心感。そして同時に、赤城がもう居ないんだという事実との改めての対面。心に哀しみが沁みてゆく。
「すまん。軽率だった」
実感の湧かない「お腹の子」、そして赤城。さっきのバケモノと、妙にリアルな夢。そんな混沌とした思考の中に一つだけはっきりと響いたものがあった。
フウインノ……ヤイバヲ……ツキタテロ
あの声……え……ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだ? 封印は……できているんだろ? あの短剣は……俺はまだ夢を観ている途中なのか?
「唐澤刑事、あの短剣は……」
「ああ、神託の剣か。今は私が預かっているよ」
先に気付いたのは俺の皮膚だった。いつの間にか鳥肌が立っている。なんだ、この寒さは? そんなことは考えたくなかった……けれど……体が動いていた。マースのように深い呼吸の後、姿勢を低くしたまま駆け出した。無理な体勢が体中をきしませる。でも体は覚えていた。夢とも現とも覚束ないものではあったマースの記憶に、今は思考よりも確かに身を委ねられる。俺はベッドから飛び起きて唐澤刑事に近づこうと走りだした。
その唐澤刑事の影に、緑とも紫ともいえるどす黒いゆらめきが重なりはじめる。室内だというのに強く冷たい向かい風が吹きつける。だがここで退く訳にはいかないってのは本能でわかっている。唐澤刑事は懐からあの短剣を取り出し……赤い宝石部分に爪を立てた。カリカリと……ほじくり出そうとしているのか?
冷たい風を切り裂くように突進する俺を、唐澤刑事はひらりと避ける。まるで地面に足がついていないかのように。
「邪魔を……スルナ!」
その言葉は、俺に言ったものではなかった。さっきまで宝石を外そうとしていた唐澤刑事の左手はいま、短剣を持っている右手の手首をがっしりと握り締めている……あ!
唐澤刑事の右手が、人の皮膚の色ではなくあのバケモノの色……緑と紫の影のような煙のようなモノへと変わりつつある!
「た、タクマ君……早く!」
俺は全力で走り、唐澤刑事の手から短剣を奪おうとした。
カラン。
短剣が、俺と唐澤刑事との間の床に落ちて転がる。くそう、今度こそしっかり……と、しゃがみながら短剣をつかもうとした自分の右手に驚いた。手の甲にいくつもの赤いものがくっついている。いや、俺の手の内側から皮膚を突き破って出てきたのだ。赤くキラキラした……あの時見た赤城の腕と重なる。だが痛みはない。
「……く」
痛みはないが指先に力が入らない。まるで右手が凍っているようだ。膝が震えているのは寒さにじゃあない。勝手に力が抜けてゆく……俺も、赤城みたいに死んじまうのか? くそっったれ! ビビってる場合じゃないってのに!
「……はや……くゥゥウウウ……」
唐澤刑事の声が途中から風の音のように変わってゆく。そうだよ。今は立ち止まっている時じゃねぇぇぇ。
(続く)




