虚勢と無知
対談のために設けられたのは、ティオにあてがわれた塔の下層だ。
そこでティオはソファに座り、うしろに二人の侍女を待機させ、彼女たちの用意した茶や菓子を前にしている。
彼女が着るのは細いウエスト周りから胸元まで、ボディラインがはっきりと窺える淡い青色のシルクのドレス。襞の多いひらひらスカートもやや短めで、真っ白な両足が膝の辺りまで見えていた。
対面に座っているのは、ワーカーホリックのような女性だ。
背は定規でも入っているんじゃないかと思うほど真っ直ぐで、豊満な胸が押し上げるのは隙無く着こなされた女性用スーツ。整えられたブラウンの長髪に、カミソリのような眼光を隠す赤い縁取りの眼鏡が、彼女を表すには真面目の一言で済ませようとする。
すこし無言の時間を置き、女性は目礼した。
「......たしかに、お受け取りしました」
彼女、ネリア・クォンツは手に持っていた白い木箱に蓋を被せた。丁重に入れられていた付け爪の法具が隠れる。
「誠に勝手な配慮をして、申し訳ありません。イリーナを向かわせたのは議長の配慮ですが、彼女の要望を聞き入れたのは私ですので」
「わかってても、私はなにも出来なかったんですけど」
「傭兵とはそんなものですよ。死期の不確かさが現在の専売特許ですから」
ネリアは護衛として連れてきた一人の傭兵に箱を渡し、スーツの襟を正す。
個人的な付き合いをイリーナと持っていたようだがそれをおくびにも出さず、ティオも意外なほどに割り切って、こうして向き合っている用件を切り出した。
「改めまして、南国評議会議長秘書兼護衛者、そして制裁役を務めさせております、ネリア・クォンツです。今回の会合では貴女のサポートとしてこちらに参りました」
「よろしくお願いしますね」
役職の最後になにやら不穏な言葉もあった気がする。ティオは持ち前の笑顔の仮面で内心を隠し、無難な受け応えを返した。固いのはかなり疲れる作業なのだ。それをここ数週もずっとやってきている。
とりあえず、といったようにティオが付け足す。
「これは個人的な話となっていますし、もう少し肩の力を抜かしてください」
「いえ、私のような傭兵上がりの身分の者が、一国の姫君と軽々しくそのようなことは」
「そうですか。ーーじゃあ、私は軽く話すから、それでいいよね?」
突然の軽くなった口調に、ティオ以外の者は思わず目を見開き、今までのお淑やかさのなくなった王女を見つめた。
「お、王女様?」
「ん? なにかな?」
「その言葉遣いは......」
「だから、建前でもこれから個人的な話になるのなら、堅苦しい言葉は似合わないと思っただけ。ネリアさんも、目の前にいるのが王女じゃなくて、ただの年下な女の子だと思っていいよ」
「......私の言葉遣いは、もともとなので」
かろうじて答えられても、それは苦し紛れな言葉だ。ネリアはずり落ちそうになった眼鏡を掛け直し、おそらく本当に第三王女なのだろう少女を見た。
自分がどれほどのことをしているのか、ティオは分かっていないようににこやかだ。
しかし流石は頭がからっぽな議長のお守りをする秘書なのだろう。憎き議長に休日の代わりに与えられた仕事をこなそうとする。
「あくまで個人的なものと仰られましても、いつどこで、さらに誰が聞いているか分からない世の中です。王女としての本分をお忘れしないほうがいいのでは?」
これは暗に、中央国や東国が聞き耳を立てているぞ! という警告だ。
だがそれでも、ティオの笑顔を崩すことは出来なかった。
「そういう悪趣味な人にはここの会話は聞こえないからさ。今なら窓から嫌いな人を罵倒したって、私たち以外には知ることもできないよ」
嫌いな人に思いっきりの罵倒。心そそられる単語を無視しようと、ネリアは出された茶を飲み干した。
ネリアは侍女たちを盗み見るも、彼女たちでさえ状況を飲み込めずに混乱しているようだ。
そして、気づく。何かがこの部屋にあると、勘でしかないが思ったのだ。実に巧妙で、しかし綻びがあるのはネリアに辛うじて気づかせるためか。
息を整えてネリアは落ち着きを取り戻す。権力者に馬鹿がいるのは、かの議長に限らずどの国にもいる。要は慣れだ。悲しいほどにネリアはすぐに割り切った。
「わかりました。そういう事にしておきましょう。ですが、私はこの話し方を変えないとだけ、先に言っておきます」
「ネリアさんがいいなら、それでいいよ」
「感謝します。では......王女様は」
「ティオ」
「は?」
「ここだと私のことティオって呼んで。アルティナって名前もあんまり好きじゃないしね。どうかな?」
「分かり、ました」
挫かれた出鼻を急ピッチで直すようにネリアが訊く。
「ティオ様は、この国については、どの程度ご存じですか?」
「うーん、そうだね。最近は資料を読み漁ってたけど、ここに来るのが決まってからだから、虫食いがあるかもしれないかな」
「これからの方針にも必要なことなので、まずはそこから話していきましょう」
説明好きなのだろう。先ほどまでの陸に打ち上げられた魚のような雰囲気は鳴りを潜め、今度は水に入れられたようだ。
護衛の傭兵にもとから持たせていた紙をテーブルに広げ、文字のびっしりなそれがティオたちの目に映る。内容を読み取れば主に教団についてらしい。更に短い杖を受け取ったネリアが一部を丸で囲むように示す。
「教団の成り立ちというのは、国の自衛手段から来たものです。小さな宗教国家でしかなかったこの国が、過去にいくつもの近隣国に侵略されなかったのは、ひとえに十三使徒の存在が大きいですね」
「すべて返り討ちにしたって記録には残ってるけど」
「ええ、その通りです。--ここからが彼らの本質についてですが、二通りあります。相手の軍勢を押し返すだけに留めたのと、御礼参りとして勢いで相手の国を滅ぼしたものです」
「それをやられたほうはたまったもんじゃないね」
「相手の自業自得というのもあります。しかし、一切自分たちから侵略行為をしていないはずが、現在の北国を含めた四か国にも引けを取らないほどの大国になりました」
それだけ教団が、否、十三使徒たちの地力が凄まじいということだ。
とはいえ、初代十三使徒と比べて、今代に限らずそれからは人数が集まらなかった。規定人数が十三人までという取り決めはあるものの、現在は十人と割とこれでもかなり多いことで、少ないときは四人しかいなかったこともあるらしい。
中央国には軍隊もなく、かつての小国の時では教団も戦闘力がなかったので、出し惜しみする必要がなかったのだ。
数の暴力が効かないほど、力づくで打倒していったのだろう。
国を作る上でこれはかなり異常なことだ。
「この都市からそうやって歴史が創られたと思うと、結構複雑だね」
カルシアスがまだ中央国でない時から、スケイアこそが首都であり心臓でもあった。
「たしかに、そうでしょう。遥か昔からこの都市が落とされなかった理由もありますが」
ここで一旦言葉を切り、ネリアは杖を紙の上で走らせ、別の部分を囲う。三つに分けられた枠があった。
「ここからは教団の話になります。国が大きくなるにつれ、やはりと言うべきか宗教の存在自体が一枚岩ではなくなってきました。現在ではおおまかに過激派、中立派、穏健派の三つになります」
それはティオも知っている。思い出すのは鎧獣ことレヴィン・マッケンシーのことだ。
数か月経った今でさえ、この世にはいなくなった彼のことを複雑に思う。あの出来事さえなければ、と考えてしまい、それはもう無駄なことだと諦めた。
時は過ぎた。その中での変化は、もう元に戻すことなどできなほどに急速だ。
ティオが思考に意識を裂いた間も説明は続く。
「重要なのが、大陸各地から召集された十三使徒です。かなりの無謀な暴挙でしたが、そのやり方に自国防衛という正当性が与えられました」
テナンド山脈の大規模な消失現象のことだ。
あの日の夜もティオは山の巨人が見えていた。シグが言うには“葉隠れ”という東国の法則者の仕業らしいが、説明を受けている間に巨人は一瞬にして消え去った。
そのことについて、東国は無関係を決め込んでいる。ごく最近に賞金首手配を取り消したことなどキナ臭いが、超巨大な質量を一瞬にして消滅させる法則が発動されたことで、国の警戒レベルが一気に引き上げられた。
中央国はそれにあやかったということだ。
「他にも国内に三名ほど集められましたが、この際は除外します。都市内にいる十三使徒は“天災”“機殻”、そして元から在中している“水絡”です。三名とも戦闘に関してならば、大陸においても最高水準でしょう」
“聖女”メリアーヌの妹である“天災”のニルフィは比較的新しい顔ぶれだ。信仰心が低いことと彼女の人となりから起因するのか、穏健派に収まっている。
それに比べて中立派の“機殻”は大陸戦争でも活躍した、正真正銘の英雄だった。“楼閣の剣聖”が行方をくらました後に、その穴を埋めるように頭角を現し、彼自身の公平な人格からも他国の信頼が厚い。
ここまでが、過去に侵略してきた他国を押し返しただけに済ます、穏便な勢力に入っている者。
そして、
「貴女が都市にいる間に最も注意すべき相手は“水絡”の一派です」
過激派。もうそれだけで伝わるような集団の総称。
例にならえば、ラキの村にいる人々を彼らにも罪があったとはいえ、連行もせずに老人や子供も隔てなく問答無用で虐殺したようにやりすぎな部分が目立つのだ。シグが調べてみると、当時の教皇の指示はあくまで『鎮静』のみで、教皇は言葉通りの意味でしか言わなかったらしい。
害悪の芽は摘むだけに留まらず、燃やした灰を念入りに粉にするような執拗さだ。
しかしその過激派に、レヴィン・マッケンシーが属していたことが問題なのだ。
「襲撃事件のことはティオ様も知る通り、一応は機密にされています。ですが情報の漏洩は必然であり、市民が知らないだけです」
「全部知られるよりはいいとは思うけどな。私としてもとばっちりなんて食らいたくないし」
「心中、お察しします。ですが、それに対する反論材料がないため、抑えることは出来ません」
「こんなか弱い女の子なのに?」
「そうです。彼らが関心を持つのは、レヴィン・マッケンシーの宣告した『第三王女を殺すこと』のみでしょう」
「......戦争になるかもなのにね。いまの時期にそんなこと、してる場合じゃないのに」
「気づかれなければいいと思っているかと。あるいは事故にでも装うつもりでしょう。それに、貴女は覚悟をもってここに来ているはずです」
ティオは深くうなずく。完全にアウェーな状況は想定していたことだ。今さら、ともいえなくもない。
冷めてきた紅茶を口に含み、菓子をつまんで齧りつく。甘いはずだが、この時に限ってはあまり味を感じなかった。
「そうだね」
驚くほどに軽い言葉だ。覚悟がないとか、そういうことでもない。諦観したゆえの受け入れだ。
「仮にも私は王女だからさ。もっと頑張らないとニーナにも笑われちゃうよ」
違う、と侍女たちは否定したかった。今は亡き第五王女の性格も知っている彼女らは、姉の状況を知れば逆に悲しもうとすると予想できる。
「こっちには実力だけなら優秀な護衛者だって付いてるし、ネリアさんだって把握してるでしょ?」
「さあ、どうでしょうか。詳細に関しましても、こちらはあまり調べていないので」
「ローガンがよろしくだってさ」
「............」
ネリアの冷たい表情が、苦虫とゴーヤを煮込んだものを一気飲みしたようなものへと変わる。
彼女があの軽薄男の妹だとは、こうして向き合っているうちでもティオは信じられなかった。
「出過ぎた発言になりますが、あの男は護衛者にふさわしくないかと。私としても、貴女の身を危険にさらす存在が近くにいるのは、好ましくありません」
「ここに来るまでの道のりでも、頑張ってもらったけど」
「土壇場になったら逃げるような腰抜けです。祖国を見捨てたという経歴を、貴女は知っているはずですが。あれでは盾にすらなりませんよ。なんならこちらの傭兵の一部を付けさせても......」
語尾が強くなっていく熱に対し、にこにことティオは小首をかしげる。
「だからどうしたのかな?」
「どうした、というと」
「たしかに、ローガンはネリアさんの言う通りの人かもしれないし、だから西国に来たのかもしれない。だから、それで?」
「私としても貴女の身を心配しているのです。逆に寝首を掻かれる可能性もあると、血縁の恥を承知で述べます」
「それならそれでいいよ。なにしろ、ネリアさんだって、そうなっても腹は痛まないでしょ」
ネリアは目を細めて、笑顔のまま受け答えしてきた少女を見つめた。都市から一度も出たことがない箱娘だという侮りの色がだんだんと失せていく。
気味悪さが含まれ始めた頃、ティオが手を合わせた。
「それじゃ、これで最後ってワケでもないけど、会合の時によろしくって言っておくね」
「はい、尽力します」
ネリアは立ち上がると、護衛を引き連れて部屋を出ていった。
侍女たちが片づけをしている間にティオは一言も発さず、開いた窓を見つめている。じっ......と名のある絵画の一部分のように動かず、片づけが終わってもしばらくそのままだ。
「うん、そっか......」
だれにも聞こえない声量で呟き、ティオは立ち上がった。
「行こっか、ネイシェン、ファルナ。シグも待ってるだろうしね」
「いいけど、ホントに大丈夫? ここで体調崩されたら目も当てられないわよ」
「心配性だね、キミは」
「さっきみたいに、いきなり王女らしくない振る舞いなんかしたら頭疑うわよ」
「あははは、そうかも」
軽く流されたことにネイシェンは不服なようだ。
「なんであんな軽く接したの?」
「そりゃあさ、南国の人は一先ず味方だよ? でも、あの人たちのはあの人たちの利益があるからこそ動いてるんだ。土壇場になって私が死にそうになっても、絶対に、とりあえず形だけって感じで助けるフリをするだけだと思う」
「警戒してたってわけ? それにしても危ない橋よ」
「その危ない橋を今も渡ってるけどね。いつどうなったって、文句なんて言えないぐらい......。とりあえずさっきのも、精神的に有利になれば、ボードゲームでだって形勢逆転からだよ」
理には適っているのかもしれない。しかし生憎ネイシェンではその判断がつかなかった。
少しの苦笑を混ぜながらティオはドレスの裾を直し、廊下へと出る。扉の横にはシグが腕を組みながら壁に背を預けている。
「ーー終わったか」
「うん、まあね。堅苦しいの嫌いだから、ちょっとはっちゃけちゃった」
「お前のことだから、大事な一線は越えてないと思うがな」
「呆れた?」
「さあな。お前と一緒にいると、呆れる時の線引きがわからん。皮肉なことにもう慣れたさ」
「それはよかったよ」
楽しげに笑い声を漏らしながらティオがシグに連れ添う。ほんの少しとはいえ、ストレスも溜まってたところだ。悪戯っぽく新しいドレスの裾を持ち上げ、ひらひらと揺らして見せた。
無邪気さを感じさせる仕草にシグは、
「どうした、暑いのか? 夏は水分を補給しておいたこまめにしておいた方がいい」
「......まぁ、そう言うと思ったけど」
「あんたはちょっとくらい気が利かないわけ?」
「--? 利かせての最善の提案だったと思うが」
すっとぼけた答えに少女たちはやれやれと首を振る。訳が分からないと疑問に思うものの、シグは侍女たちに顔を向けた。
「下のほうに小道具やらが届いたらしい。お前たちが運んで来い」
「うへ、マジ? ていうか、この塔を何度上り下りしたらいいのよ。けっこうキツイんだけど」
「それがどうした?」
「あー、ハイハイ。期待したあたしが馬鹿だったわね。行くわよ、ファルナ」
「否定。二人じゃ人数が過剰。どっちか一人か行くべき」
無言のまま見つめ合っていたネイシェンとファルナが拳を腰だめにしーー手をだした。
ネイシェンがグー。ファルナがパー。このじゃんけんはファルナの勝利だ。女の子らしからぬ悪態をついてネイシェンが反対の方向に歩いて行く。
「よかったの? なんならネイシェンが来るまでここで待っててもいいのに」
「否定。下のことを考えるのは立派なこと。だけど時には厳しくね」
「その甘さにお前が入り込んでいると思うのは、俺の気のせいだったな。悪い、一瞬とは言え、なにを言っているんだコイツと思ってしまった」
「愉悦。それに尽きるだけ」
相変わらずな侍女の返答にティオとシグはため息を吐いた。
そうしながらも侍女と護衛は、王女の一歩後ろを付いていく。
それが、従者の仕事であり、当たり前のことでもあるから。
だからこそ、
「クフフフ、いやぁ、ティオちゃんのドレス姿はすごく綺麗だね。着せた人が羨ましいくらいだ」
こうして、突然現れた、それこそ瞬間移動でもしたようにティオの肩に腕をまわす不審者を、そのままにしておくことはできない。
浮ついた空気が消し飛ぶ。
反射的に動いたのは二人。
シグがティオに当たらないよう、彼女の頭上を越え、不審者の顔面に叩き込むように裏拳を放つ。
ファルナが鉄扇を広げる暇もないと判断し、右袖から滑り落とした暗器を不審者の背中に突き立てる。
「おっと、怖い怖い」
タイムラグなしで反応して見せた二人が、馬車に跳ねられたように吹き飛んだ。両側の壁に叩き付けられる。その威力で彼らは跳ね返るように床に放りだされた。
不審者は一切、その場から動いていない。
「どうだい? キミみたいな可愛い子に、夕食の誘いをかけたってバチは当たらないだろう?」
「レアさん、やりすぎ」
「そうは言ってもねえ。彼ら、中途半端な攻撃だとすぐに起き上がってくるよ」
「今度からそういうのは禁止ね」
平然として答えるティオはそのままファルナに駆け寄っていく。レアと呼ばれた性別不詳に見える美人は、見覚えのある肩をすくめるジェスチャーをして見送った。
「ファルナ、大丈夫?」
「不覚。逃げて、ティオ。......けほっ」
「......ああ、それはいいよ。レアさんの悪ふざけみたいなもんだしね」
いま起こった出来事に対してあまりにも淡泊な王女の反応に、ファルナが疑念のまなざしで王女を見る。
「何故。ティオ......?」
「それよりも大丈夫かな。骨とかは折れてないよね? 呼吸は......うん、大丈夫。背中からぶつかったし、頭も打ってないね」
「おや、ごめんね、ファルナちゃん。いきなり襲い掛かられてビックリしてしまったのさ」
差し出された白い手を見ても、ファルナは警戒を解かない。
なにが起こったか分からなかった。反対側の壁に飛ばされたシグでさえ、まともに戦うことも出来ずにやられたからだ。気絶していないのは手加減しただけで、その気になれば戦闘不能にだってできるだろう。
「嫌われちゃったか。......おや、起きたみたいだね、愚てーー」
糸裂狂声
シグの腕には黒い手甲が既に顕現している。
糸が跳ねあがり、籠を形成した。内部のレアを肉片に変えようと、耳障りな音を立てながら絶壊の結果を刃として牙を剥く。
タイミングは完璧。一瞬あとには無くなってしまう隙間を縫って、さらに幾本ものナイフが飛ばされた。
それがレアの腹部に切っ先をめり込ませようとしーー消える。
気づけば、レアの手の中にそれらがあり、事もなげに彼女はナイフを弄ぶ。糸もいつの間にか床に落ちており、レアに傷一つ付けられていない。
「久々の再会なのにひどいなぁ。賢姉であるボクのことを忘れちゃったのかい? まさか法則まで?」
「出来れば忘れたまま、お前が消えてくれれば良かったんだが」
「まったく、弟の言葉と思うと悲しいよ。ボクは君がピンチなら火の中、水の中......」
「そのまま焼死か溺死していろ」
マグマの中に入れようが深海に沈めようが、このレアという人物が死なないのをシグは理解していた。
特異法則『空間征媚』
能力は空間の完全支配。シグが知る中で最も応用性に富んだ法則である。
「なぜだ? どうしてお前が、こうして表に出てきた?」
ゆっくりと起き上がったシグは気だるさの中に、疑念と不快を混ぜ合わせて口を開く。
いつでも攻撃に移れるよう、背をわずかに曲げて臨戦態勢を取った。
愉快そうにレアはそんなことか、とへらへら口の端を吊り上げた。
「そりゃあ、この“虚空”なんて呼ばれてるボクが、最近からティオちゃんに雇われたからだよ。アンダスタン?」
それを聞いて、シグが今までにないほど目に殺気を込めてティオを睨む。彼がこうした対応をティオにするのは初めてだった。
シグは知らなかったし、ファルナは知らなかった。単純なことだ。ティオは言っていなかった。これはティオとレアの個人的な契約だったからだ。
ビクリ、とティオは身をすくませかけるも、気丈にシグを見返す。
「馬鹿か、お前は? よりにもよって、コイツに依頼だと? そもそもコイツは」
「私を狙ってたみたいな誰かさんのトコに付いてた、でしょ? あ、それとも“葉隠れ”って人の巨人を消したのもこの人だって言いたいのかな?」
「......わかって言っているのか。いや、訂正する。正気か?」
「そうだね」
「俺はお前のことを、物事の区別ができる奴だと評価していた。だがそれも改めないといけないようだな」
事情を知らないファルナも、そして彼女を支えるネイシェンも頭が付いて行かない。
それでもシグの次の一言で、状況が一変する。
「レヴィン・マッケンシーやその前の刺客も含めて、サポートをしていたのは、レアだぞ」
「......本当? ティオ?」
ファルナは無機質な目をかすかに見開き、俯いた王女を見つめる。視線がティオに集まった。
笑顔のまま、たしかにティオが奥歯を噛み締める。ギリッ、と。その音はたしかに幻聴ではない。
しかし、反応はそれだけだ。
「わかってるよ、そんなのは前から」
「頭のネジが一本飛んでいるとは思っていたが、まさか元からなにも入ってなかったか?」
「考えて......だから選んだの」
「お前は......ッ!」
「はーい、ストップストップ。駄目だねえ、愚弟は。頭ごなしに叱っちゃって、必要な時には馬鹿げた反応しかしないのにねぇ。どうしてそう育ったか、姉として悲しいよ」
レアが指を鳴らすと、ファルナの姿がその場から消え失せた。
「平気平気。ローガン君たちのいる部屋に送ってあげただけだからね。だから......」
言葉を続けようとした時、上階から行使力の奔流が無差別に流れ出す。暴力的で、それこそ物理的な濃度に匹敵しそうだ。レアでさえほおを引きつらせる。
「おっと、これはラキちゃんか。失敗したねぇ」
ラキとローガンがこの場に向かってくるのも時間の問題だろう。
「それじゃあね、ティオちゃん。ボクのほうからも出来る限りのサポートはしてあげるから、大船に乗ったつもりでいなよ。言ってないけど、ボクは約束を守る人間だよ」
「うん、じゃあね」
振り返ったレアは、身構えているシグを見て嘲笑の色を混ぜる。
「弱くなったね、シグ」
「............」
「安心しなよ。君の危惧することをボクらはしない。それは保証しよう。あ、それでも、昔と比べて息も出来ない赤ん坊並に弱くなった君よりは、役に立つつもりさ。なに、それでも仲間だったのには変わりない。ゼオもネモも一緒に来てるし、久々に会って旧交を温めようじゃないか。君だって、知りたいだろう?」
「そう、だな」
「悪いけど、ティオちゃんに言及はやめてくれ。彼女に非はない。ボクはこの都市の『跳ね鹿』って宿に泊まってるから、訊きたいことがあるなら全てそこで聞く」
一度ティオに笑いかけたレアは、現れた時と同じように、唐突に姿を消した。




