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姫とハロワと法則世界  作者: なよ竹
偶像の雷鬼
28/39

不意と魔手

 少々パッとしない天気にいつもの笑みを向けたティオは、空を旋回するように飛ぶカラスたちの姿を無意識に目で追った。そして、少し足早に村の中央の井戸を目指す。

 薄く灰色に染まった一面の薄雲に青とオレンジのコントラストは隠れ、空気はどことなく湿り気を帯びている。雨こそ降っていないが、悪戯いたずらっ子のような風も少し冷たい。


「うー、寒いなあ」

 

 この村に来てから二日目、つまり一つの晩を挟んでのことである。

 日ごろからの生活習慣は旅先と言えども抜けず、朝日がテナンド山脈よりも高くなる前には借りていた小さな家のベッドから這い出していた。服装は動きやすいラフなもので髪はサイドテールに結んである。

 動かなければ体がなまると、ティオはこの時間帯を散歩に当てていた。

 だが、仮にも彼女は王女だ。この村では良いとこ出の令嬢と説明している。それでもここは城の中ではなく危険があるかもしれない。

 いつもはシグがこの役に付いている。しかしこの日は、お目付け役として寝ぼけ眼のファルナが侍女服のまま、ティオの背中をふらふら追いかけていた。


「本当に大丈夫? そんなに離れてないんだからファルナはまだ寝ててもいいんだよ?」

「拒否。ティオを一人には出来ない。何かあったらわたしが守......ふわぁあ」


 あくびを隠すこともしない侍女に頼もしさなど見いだせない。それが余裕の表れなのか単なる寝不足かティオには判断が付かなかった。

 

「吉報。でも良かった。シグさんたちから連絡が来て」


 昨夜の夕食時に法具同士の通信で声だけだがやりとりをすることが出来た。ティオには何年も経った後のように感じられ、つい無駄な話までしてしまった。

 彼らに気を使われていたのだと気づいたのは朝起きてから。それがちょっとだけやるせなさを覚え、指先のかゆみのようにすっきりしない。

 それを振り払うようにティオは話の方向を少しだけ変える。


迷宮ダンジョンから出ることって出来るの?」

「解説。最終的に法具ウェポンがある場所にたどり着けば、自動的に外に送り出される。転移の法則かもしれない」

「ふぅん」

「ちなみに、シグさんは今日中には外に出ると言ってた。やったね」


 もうファルナの中ではシグたちが迷宮を攻略できることになっているらしい。

 ティオは戦いというものを知らない。もちろん、見たことならある。城で騎士たちが訓練をして木刀を交わらせる時や、シグが人攫いを殴り倒した時だ。それでも、その本質という物を理解は出来ない。

 命の危険が彼らに付いて纏っている間は呑気に過ごすことが出来そうになかった。

 固くなったティオの笑顔を見かねたファルナが王女に近づく。


「重要。知っておいたほうがいいことがある」


 意図的に抑えられた声量につられてティオは疑いもなく顔を寄せた。重要と言うからには他言は出来ないことなのだろうか。

 ファルナはティオの耳に唇を寄せ、


「御免。ふっ」


 ティオの耳たぶに息を吹き掛けた。


「ひんっ!?」


 突如耳に感じた生ぬるい感触にティオは全身の毛を逆立てた。ファルナが支えなければ腰が抜けたせいで尻もちをついていたところだ。


「なっ、なっ......!」


 ティオの水晶色の双眸には厚い涙の膜が張っていた。


「なにするの!? いま真面目な話してたじゃん!」

「反省。これが最近流行ってる冗談とばかり聞いてて......でも、感度良すぎない?」

「それ絶対ガセネタだし最後のは余計なお世話!」


 なんとか自力で立ち上がったティオは警戒する小型犬のように距離を取った。


「平気。もうネタは使わないから」


 そう言うとティオが頷く間もなく、ファルナは彼我の距離を歩術で一気に縮める。

 見事なものだがもはや才能の無駄遣いだろう。

 逃げることも無駄だと悟ったティオは侍女の言葉を待った。ファルナはわずかに首を横に傾ける。


「質問。肩の力は抜けた?」

「あっ......」


 ティオは肩に乗っていたはずの重石おもしのようなしこりが無くなっていた。

 また助けられた。そう思ったことを見透かしたようにファルナは先手をまたもや取る。


「進言。ティオはもっと私たちを頼って。貴女は無力でもなければ、もちろん万能でもない。至らないところがあれば私たちが補助するから、もっと胸を張らないと」

「頼っても、いいの?」

「肯定。そのために私たちはいるから」


 人形のような表情を崩さないファルナが微かに、見間違いではないのかと思うほど微かに笑顔を見せた。

 侍女であるはずの彼女がすぐに先導したため、ティオにはその事実を確認できなかった。


「ありがと、ファルナ」


 感謝の言葉に対してもファルナは背を向けたままサムズアップするだけだ。

 やはり、なにを考えているのかシグ以上に謎だ。

 ティオはいまだに静かな村の様子を見やる。この辺りは家が密集している。しかし、それぞれの規模が小さいせいかその間からボロボロになった畑が見えた。農業に従事する者ならばとっくに働き始めている時間だが、賊の襲撃のせいか村人はまだほとんど出てきていない。 

 誰もいない井戸にまでたどり着き、ティオは水をくみ上げると両手を一気にそこへ突っ込む。指がちぎれそうな冷たさに小さく声を上げるも、掬った水で顔を洗う。頭の中のわずかなもやが吹き飛ばされたようだ。

 ファルナから受け取ったタオルで顔を拭っているとき、その人物は現れた。


「クフフフ、おはよう二人とも」

「あ......おはようございます。すごいですねレアさんの髪」

「寝相が悪くてね。でも、気に入ってるよこの髪形。似てない愚弟に似ているしさ」


 爆発したように跳ねている銀髪を頭に乗せたレアが肩をすくめる。

 夕食の交流を経て普通に接することが出来るようになったが、ティオはこの中性的な美人が苦手だ。それは初日のやりとりのせいだろう。


「レアさんも朝早いんですか?」

「今日が特別なだけだよ。寝てる時なんとも可愛らしい嬌声を聞いた気がして、ついさっき飛び起きてきたのさ。君たちはなにか知らないかな?」


 やはりこの美人は恐ろしいと思った。

 

「えっと、たぶん空耳だと思うけど......」

「そうか、早く起きて損したよ。チラッチラッ」

 

 わざわざ口で擬音を出すあたりなかなかウザイ。

 

「私は何も知らないから!」

 

 ティオの言葉にかぶせるように、中空を旋回するカラスのしわがれた鳴き声が降って来た。それも複数で一斉に。


「クフフフ、五月蠅うるさいなぁ。どうして中央国カルシアスは鳥類なんかを神聖な生き物に決めたんだろうね」

「例外。カラスだけは邪悪な生き物として嫌ってる」

「へえ、君は物知りなんだね」

「基本。紳士のたしなみ」


 ーーファルナも女の子じゃん。

 ティオはそう言いたかったが、空を飛ぶカラスたちの動きが何か変だということに気が付いた。飛び去る様子もなく一定の場所を中心として旋回し続けている。

 くるくる。くるくる。


「あっちに何かあったっけ?」

「んー、たしか壊された柵の方向だったかな......ちょっとボクが見て来ようか」

「レアさん、私も行っていい?」


 一瞬だけ銀の眼を、ティオではなくファルナに送ったレアが頷く。


「散歩がてらに行ってみようか。だけど、三人一緒でね」


 畑の惨状を視界に収めながら三人は柵へと近づいていく。耕してくれる存在もなく、悲しさと虚しさを掻き立ててくれる。

 途中でふらりと現れたローガンが気安く挨拶をしてきた。煙草たばこの煙が蛇のようにゆらゆら揺れている。


「よっ、お嬢さんがた。こんな朝っぱらから何してんだ?」

「あっ、ローガン。私たち、あの柵のほうに行こうと思って」

「たしかぶっ壊れてるトコだろ? 危険だし姫さんは行かないほうがいいんじゃないのか」

「それだとレアさんが一人で行くことになるし。それより、ローガンはどうして?」

「イリーナ嬢に差し入れ。昨日の晩にも渡しときゃあ良かったんだけどよ」


 小さなバスケットをローガンは掲げる。中身は分からないが微かにおいしそうな匂いが漂う。

 喫茶店の店主でもあるのだから軽食の料理もお手の物なのだろう。

 自慢げに中身を言おうとしたローガンの出鼻をくじくようにカラスが鳴いた。

 

「つっても、ありゃあうるさい」


 ローガンは飛び回るカラスたちに辟易したかのように眉をよせる。

 一行はだいぶ柵に近づいてきた。目印となるのはやはり破壊痕の痛々しい空白部と、そのわきに立つ青々と葉が生い茂った広葉樹だ。そこにカラスたちが群がっている。

 もう目の前。緑が黒に覆われそうだ。

 不吉だ。


「どうして、あんなにカラスが......あれ?」


 肌寒いそよ風が服の裾を揺らす。

 そして、いまは決して認識するはずのない臭いがティオの鼻孔を撫でた。


「嬢ちゃん、姫さんを頼む」

「了解。レアさんは私の後ろに」

「クフフフ、ボクはローガン君と一緒で大丈夫だよ」


 重みを増した三人の声が耳に届きながらも、ティオはどこか遠くにいるような感覚に襲われる。

 ティオは知っている。この臭いを。

 響く、鳴き声。


「警戒。ティオは私のすぐ後ろにいて」


 ファルナに引っ張られるように彼女の背後に移動してから、ティオは目の前の光景を見る。

 唐突にそれが過去のものと被った。あの時、すなわち襲撃事件の際に嗅いだことのある、吐き気のするような独特な香り。鎧獣の腕にこびりついた妹の果ての姿。

 ティオはそれを知っていた。

 死だ。


「誰だ? カザハの村長さんは誰も村を出るなと言ったはずだぜ」

「クフフフ、それを守ることが出来ないのも人間の性だね。まったくもって嘆かわしい」


 ローガンは銃を引き抜くと空へと一発、二発と続けて撃つ。耳をふさぎたい破裂音が花火のように数瞬遅れてやってくる。

 カラスたちは驚き、けたたましく鳴きながら木を離れていった。中には威嚇する存在もいたが力量差を悟ったのかきびすを返して逃げていく。

 たき火のあとをちらりと見やったレアは広葉樹の幹の下まで近寄る。

 レアは懐から取り出した、なんの変哲もないように見えるナイフを木の真ん中に刺した。ほんの指先ほどしか刃が隠れていない。


「これはカザハ君も分かってくれるはずだ。だからボクは悪くないっと。はい、論破してどーん」


 ナイフの柄をわずかにひねる。

 どんな原理なのか刺した部分から縦に線が走り、広葉樹が根元から頂上にかけて真っ二つになった。

 大木が振動する。

 枝葉が不吉な音を奏でる。

 そして、そこから風で糸が切れたミノムシのように落下してくる物体。

 袋だ。それは人がすっぽりと入りそうな。ところどころ破けてカラスのくちばしが侵入したのだと分かる。赤いまだら模様が不規則に出来上がっていた。

 湿った音を立ててそれが地面に衝突した。

 ローガンの足がそこで止まる。


「どうしたんだい?」

「......いや」


 レアの問いかけにローガンは細く煙を吐き出しながら答えた。

 バスケットを地面に置いたローガンは慎重な足取りで袋に近づいていく。固く結ばれた袋の口の紐を跪きながら解いていく。

 袋の口が開いた。

 誰が息を飲んだのだろうか。

 

「嘘だろ......オイオイ、昨日の約束破んのかよ」


 ティオの場所からはローガンの浮かべる表情など分からない。

 だが、視線は確かに、不自然なほど綺麗なままのイリーナの顔に向けられていた。

 カラスがどこかで一際甲高く鳴いた。






 村長であるカザハの家で一同は会していた。昨日と違うのはイリーナの座っていた席にローガンがいることだろう。

 窓の外では薄曇りだった空が今にも落ちてきそうにその厚さを増しており、いまだに鳴き続けるカラスの声は怨霊の雄叫びのように聞こえる。

 時計の音が合いの手を入れるように時を刻んでいく。

 レアが場を見計らって口を開いた。


「致命傷は背中からのナイフの一突き。凶器とかは残ってない。あのイリーナちゃんがやられたのを見ると、相手はよほどの手だれだろうね。それと、ローガン君の証言が正しいのなら右手に付けてあったはずの法具が手首ごと奪われてる。纏めればこんなものだけど、カザハ君、村の人たちは?」

「今のところ被害はありません」


 各家を見回って来たカザハはやや疲れた調子で答える。

 ここでレアが火のついていない煙草を口にくわえているローガンを見た。


「彼女が一人で行って返り討ちにされたわけじゃないよね?」

「見張りをするとしか言っていなかったしな。あいつはそこまで馬鹿じゃなかったぜ」


 銀の美人は頷きつつも、今度はティオのほうを見た。


「君たちはどうする?」


 咄嗟に答えることはティオにはできなかった。

 不幸は続くと言うものだが、イリーナの遺体を発見してから迷宮にいるシグたちとは連絡が取れなくなっていた。最悪のパターンを思い浮かべつつもいまだにふんぎりがつかないでいる。


「......まだ、この村にいるつもり」


 王女がちらりと侍女を振り返れば、ファルナは小さく頷いた。

 

「それじゃ、ボクも同じくそうしようかな」

「それでいいの?」

「クフフフ、食料もまだ揃っていないボクに出て行けと? さすがにそんな度胸はないよ」


 空元気なのかレアは平時と態度を変えていない。ローガンも手でマッチの箱を弄ぶだけで動揺している様子はなかった。ティオには危険な状況にあると理解できているが、彼らの余裕のある態度によってその尺度が狂う。

 

「では、私は住人達に指示を出してきます」

「誰かを付けたほうがいいんじゃないかい?」

「男たちが外で待っているのでお気遣いなく。皆様も各家に戻って頂いて結構です」


 慌ただしく家を出たカザハの視線を見送ったレアは、さて、と居住まいを正す。


「君たちはどう思う?」


 とても広義的に解釈できる問いだった。

 ローガンは自身の手の上でコロコロ転がるマッチの箱から目を上げず、自分の考えを口にする。


「あれだろ。この周辺だと失踪者が時折、ここ最近は頻繁に出てくるらしいって事件。シグのやつもそれを知って早くここらを抜けようとしてたな」

「私たちを山脈のほうで襲ってきた子が原因なのかな?」

「クフフフ、それも関係あるんじゃないのかい。それに魔獣の森も近いし。でも、今は違う。そうだね?」


 たしかに一緒にあの子供はシグたちと一緒に流された。今は迷宮のほうで捕獲されているらしい。

 ならば、別の方面からの攻撃なのか。

 いや、それ以前に、レアにあの時のことを話したことがあっただろうか。

 ティオの心の端に出来た疑問は、進んでいく会話の波に押し流されてしまった。


「推測。あの子供のあとには次の奇襲がなかった。だから、あの子が盗賊一味の可能性は低い」


 ファルナの考えも間違っていないだろう。なにしろ、こちらの戦力を半分に裂いたのだ。あのあとに襲撃があればどうなったかは分からない。

 ティオは首をかしげる。


「それじゃあ、なんでイリーナさんが?」

「......見せしめじゃねえの? いつでもお前らを襲えますってよ」

 

 言葉とは裏腹にローガンは笑みを浮かべている。どこか猟犬のように思わせるのは、わずかに見える歯のせいなのか。


「見せしめ?」

「あちらさんはイリーナの素性まで知ってねえだろうが、見張りをしてる傭兵ならそれだけ力もあるってことだ。恐怖を感じさせやすい。それに、オレらが来る前からあいつは死んでいた。つまり」

「もう村の中に入り込まれてるってこと?」


 ぞわりと冷たい虫がティオの背を這った気がした。

 村の規模はそこそこ大きく、隠れるのはそれほど難しくもないだろう。


「ボクたちだけだと村全体をカバーするのは不可能だしね」

「けどよ、オレには狙いが分かんねえな」

「と言うと?」

「とぼけんな。賊が奪っていったのは食料、それと女だ。良い悪いは別として、イリーナはただ殺されただけだった。法具も奪われてたけどよ」


 不自然だからこそ、糸が絡まるように訳が分からなくなる。


「それに傷は不意打ちだった。真正面であいつとやり合えるのなら、今頃賊よりも兵役についてるだろうさ」


 実力があるという仮定。それは違うのかもしれない。

 ティオは一度、自分が狙われている可能性も考えたが、あまりそれとは接点がない気がする。それこそ、この村にやってくる途中で馬車を襲われていればひとたまりもなかった。

 ローガンは席を立つと煙草を吸ってくると言い残して屋外へと出ていく。

 残ったのはティオとファルナ、そしてレアだ。


「クフフフ、そう警戒しないでおくれ」


 昨日の件を思い出し知らずのうちに身を固くしていたティオに、レアがそう声を掛けた。


「このパターンでいくと次のシーンでボクが密室殺人されてそうだから、そうならないうちに言っておこうと思ってね」

「ゼッタイに聞かないといけないこと?」

「損はさせないさ。これはただの助言だからね」


 妖艶にレアは微笑んで席を立ちあがる。レアは首を周囲に巡らせてファルナ以外誰もいないのを確認すると、ティオに顔を近づけた。

 残念さが先立ちあまり注視していなかったが、改めてその秀麗に尽きる顔を寄せられて王女は固まった。いつになく神妙な顔をしたレアはティオの耳にそっと口を寄せる。


「ふっ」

「ひんっ!?」


 そして、朝のようにティオは耳に息を吹きかけられて情けない悲鳴を上げた。


「真面目にやってよ!」

「いやぁ、悪い悪い。ボクに真面目さを求めるのがそもそもの間違いさ! それにしてもやっぱりいい声でくねぇ」

「ウ~っ!」


 音を立てて席から立ち上がったティオは、ファルナを引き連れて外へと向かおうとする。

 ティオの顔にはやはり笑顔があるが、それでも肩を怒らせているのが誰の眼にも分かった。

 それすらも面白そうにレアはひらひらと手を振った。


「肩が固いと首が回せなくなるよ。いつ足元の落とし穴に落ちるか、横からの矢で射ぬかれるかも分かったものじゃない」

「良いこと言ってるみたいにぼやかさないでよ!」

「それもそうか。クフフフフフフフ」


 口も目も三日月に歪めるレアに見切りをつけたティオは扉の取っ手に手を掛けた。

 

「答えっていうのは案外近くにあるものさ。ただ、ちょっとだけ見つけにくいだけでね」


 その言葉は、ティオの頭にこびりついて離れなかった。






 カチッカチッカチッ。

 深夜だ。いい子も悪い子も眠りだそうとしている時間。けれどもその巨大な時計は止まることを知らない。それが存在意義だから。時を刻むのをやめればなにも残らないから。

 暗い中でひとり寂しく動き続ける。

 黒い雲に隠れたさらに黒い夜空を見ることもなく、たき火の痕すらも見ることがない。

 室内には誰もいない。家にも誰もいない。

 それでも針は止めない。時間が刻まれるごとに三本の針は、思い思いに進み続ける。

 秒針が一周回った。短い針が小気味いい音をたてて動く。カチリ。

 一時間に一回。一日で二十四回。それが長針の動く数少ない出番。一日で最後の出番がやって来た。

 

 ごぉぉぉぉぉぉおんーーーーーーごぉぉぉぉぉぉおんーーーーーーごぉぉぉぉぉぉおんーーーーーー


 そしてこれが、一日に一度しかない時鐘の出番。

 虚しくても響く。それが存在理由だから。なにもしなくてはなにも残らないから。

 くるくると針が回りだす。左回転、つまり、逆方向で。

 巻き戻していく。なにもかも。すべてぜんぶオール。

 鐘の音が止んだとき、針たちは身勝手な行動をやめていた。

 また、同じ時間を指し示しながら何事もなかったかのように時を刻んでいく。

 カチッカチッカチッ。

 小気味いい音が部屋に響き始めた。

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