遺跡と王族
暗い洞窟ともとれる場所。しかし、普通の洞窟ならば気が利いたように明かりが置いているわけもなく、床が大理石を加工したように平坦なはずもない。
だからここは洞窟ではなかった。この場所を人々はこう呼んでいた。
遺跡。
それはこの大陸において二つの意味をなす言葉だ。
一つは先人たちの記録が眠っている場所であり、考古学者たちにとっては金銀財宝のような価値のある平和な場所。
もう一つは守護者と呼ばれる存在が徘徊する迷宮。冒険者のように何人もの人間が挑み散っていってなお、足を踏み入れる者が減ることはなかった。
法具は迷宮でしか取れないのだ。少なくとも他の場所で見つかったことはない。
理由は不明。それでも事実は嘘をついていなかった。
より強力な法具が眠っている場所は危険度もそれだけ高く、守護者たちがその基準とされることもある。数多くの迷宮が大陸に存在しているが大抵の場所はもう攻略され尽くし、残った難易度が高すぎて攻略不可とされる場所だけが国の管理下に置かれており、独占を狙っているも手の付けられない状況となっている。
テナンド山脈の中に迷宮があるとはネイシェンも初耳だ。
川に落ちたと思ったらそこまで流され、侍女である自分が攻略をするとは夢にも思わなかった。ましてや、目の前に現れた一つの存在が寒さ以外の理由で足を震えさせる。
守護者。クリーチャーと似て非なる存在。それが狭い通路の中で空気から溶け出すように姿を見せた。
肉質的な要素はなく、街角で芸者が使うようなマリオネットが一人で動くような不気味さがあった。それが人間ほどの大きさもあり、目には原理不明の赤い光があればなおさらだ。
「やってやるわよ! ナタリアさんのほうが百倍怖いっての!」
その叱責は自分に向けたもの。萎えかけていた生存本能を奮い立たせる。
前を向いたままの軽くあげられていたネイシェンの両手が、自分のスカートをはたくように後ろから前へ勢いよく振り下ろされ、振り上げられた。バサッ、と音がして目立たないが深いスリットの入っているスカートが大きく捲れ上がる。
黒のレギンスに包まれた形の良い脚が付け根近くまで露わになり、太ももに巻かれたベルトが露出する。片足に三本ずつの棒が差し込まれていた。
すかさず指に挟んで引き抜く。腕を交差。数は三に、長さは倍に。腕を開く。彼女が手に持っていたのは連結させられた一本の棍。
翻っていたスカートが落ち着きを取り戻しネイシェンの扇情的な脚線を隠す。その光景に目を奪われていたわけではあるまいが、ネイシェンが棍を構えたのを見て守護者はようやく戦闘態勢に入る。
守護者がわずかに身体を前に傾けて両手を前にたらす。指先は鋭く変形し、今にも飛び掛からんとする猛獣のそれだ。
行動は遅いくせに先手を取ったのは守護者だった。
関節は自由自在に動き、シグと手合せした時の動作は参考にならない。こんなときに役に立たない青年を恨みながらネイシェンは棍を捻る。守護者の爪を弾いた。
背後は水。後退は出来ない。だが、ネイシェンはそれを苦としない。
武礼侍女は主を守るためにいる。背後を明け渡すこともしなければ後退もせず、その場で動いて攻撃をさばく。
「シッ!」
そして、反撃。
全身をバネのように駆使して薙ぐ。体勢を崩した守護者に返す棍を叩き付けた。壁にぶつかって跳ね返ってきたところをもう一薙ぎ。しかし、そう簡単にはいかず右腕に阻まれる。鈍い金属音が通路に木霊する。
ネイシェンは反動を利用して棍を回転させ守護者の左側の頭部に叩き込んだ。
彼女の懐はがら空き。爪が心臓を抉り出さんと突き込まれようとする。
焦去砲
侍女の手にする棍の先端から放たれた光線が、守護者の頭部を跡形もなく消し飛ばした。
正体は振動数を上げた超音波。それを量子化して熱線としたものである。
頭を失った守護者が糸の切れたマリオネットのように崩れ落ち、現れた時と同じく空気へと消えていった。
遅れて地面に落下した、鋭利な断面をのぞかせる腕も消失する。
カツカツと拍手代わりの湿った靴音が響いた。
「お見事」
「お世辞なんていらないわよ。あんたに助けられてなきゃ、さっきのは死んでたんだし」
「たしかに反撃の隙を相手に与えてるところで駄目だ」
ネイシェンは荒くなりそうな息を押さえつける。
背後で観戦していたシグは肩をすくめたのだろうか。
「だが、生きているのなら及第点だな」
褒めているのか分からないが、以前に手合せをしたときには及第点なんてもらえなかった。
普通なら彼が前面に出るはずだが、手甲に包まれた右腕は折れて頭から血を流している重傷だ。服に隠れているが打撲と擦り傷のあとが痛々しいはずだ。ここに流されるまでネイシェンがほとんど壁に激突しなかったのも、この青年がかばってくれたからである。
そんなことをしなければ無傷だったろうに。
「これが実戦だ。やり直しは一切効かない。ファルナがいなくとも単独で戦う方法も覚えれば視野も広くなるぞ」
酸欠で気絶している幼女を抱えた左手で器用に糸を回収しながら、怪我の状態などなんとも思っていないようにシグは反省点を挙げた。
「ご指摘どーも。で、本当にこっちであってるの?」
「知らん。そういうのは俺ではなくレトロに訊け」
「あたしに動物の言葉が分かると?」
「いつもの粗野さから同族なのかと今まで思っていたんだが、なんだ違ったのか」
「ケツに棍をフルスイングするわよ」
それほど広くはない正方形の通路が一方通行で闇の奥まで伸びていた。
日の光が届くはずもなく常闇の世界のはずだ。
それを否定するかのように、壁のあちこちに奔った線からは仮想の光がこぼれる。どくんっどくんっ。まるで血管が脈動するかのように光の強弱が変化するさまは、巨大な生物の体内に迷い込んだかのようである。
薄気味悪さを演出する内装に辟易しながらも、ネイシェンは周囲を警戒しながら歩き続ける。先導はフェレットもどきのレトロ。動物的な勘のおかげなのか分かれ道でも迷うことなく進める。
しかし、鬱憤は溜まるばかりで普段以上に棘のある言葉が口から出てしまう。
「あんたは今役に立たないんだから何かしなさいよ」
「無理言うな。お前は怪我人に一体何を求めているんだ」
背後にいるであろう青年はどこ吹く風だ。それもイライラを募らせていく。
ぴちゃりと歩くたびに湿った音がするのは、濡れた衣服から落ちた水滴によるもの。衣服が肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
ネイシェンは乾ききっていない赤銅色の髪をやや乱暴にかき上げた。
「ほんっとに、戻れたらあんたのことぶっ飛ばす」
「戻れたらな」
「......たくっ!」
彼女は上に下着同然でもあるノースリーブのインナーしか着ていない。それによって、悲しくなるほどにまな板な部分が外目に晒されている。さすがに下はスカートのままだが、それでも羞恥心を掻き立てるのには十分だ。
外では夏が近いのにここはご丁寧にも冬場のような気温設定だった。濡れたままの服を着ているよりも脱いだほうが体温を奪われなくて済み、それはネイシェンにだってわかる。
仕方ないとはいえ、納得するかどうかは別である。
「やっぱあんたムッツリスケベでしょ」
「自分が注目されていると思っての発言なら恥ずかしいぞ。お前に欲情するなんて限られた奴だけだろうしな......ああ、図星か。悪かったな絶壁」
「こいつホントにムカつく!」
ネイシェンはこちらもずぶ濡れなシグを振り返った。本当に興味なさげな顔がさらにフラストレーションを活性化させ、熱した鉄球のように通路を燃やすことも出来そうだ。
頭から流れた血が固まり赤色がまだらに灰色を染め上げる。右腕はマネキンのように垂れ下がり、怠惰な雰囲気も心なしか数割増しだ。
これぞ怪我人といった風体。
左腕に気絶している幼女を抱えてなければ変質者という肩書も消せないのだが。
「で? その子が起きたらどうするのよ? あんたをギッタギタにするほど強いんでしょ」
「酸欠で気絶している今はただのガキだろう」
幼女の首根っこを左手で引っ掴んだシグはネイシェンの前に持ってくる。
よく見れば本当に幼い。十をいくらか越えたばかりでひどく痩せている。短い黒緑の髪は一括りにして背中に流されており、顔立ちも含めてネコ科の幼獣と言ったほうがしっくりくる。
あれほど目立っていた右額の巨大な角はきれいさっぱりなくなっていた。
「もしかして法則者?」
「法具を持っていると言っただろう。だから違う」
「一つだけしかないって犯罪臭するセクハラ、じゃなかった、身体検査した時に言ってたじゃない」
ネイシェンは目線を落として幼女の腰で揺れる小槌を確かめた。おそらく内向干渉法則によるもので、効果は単純に質量と体積の巨大化。柄の部分も自由に伸び縮みできるがそれだけだった。
ほかの持ち物は未熟な肢体を隠す薄手の衣服ぐらいでしかない。
「じゃああの角ってなんなのよ」
「それはこいつが化け物だからに決まってるだろうが」
「はあ?」
シグの何を言っているんだとばかりの顔をネイシェンは何を言っているんだという目で見返して、
「何言ってんのよあんた」
実際に口にした。
「普通じゃないかもしれないけどちゃんとした女の子よ」
「お前にはこれが人間に見えるのか」
「それ以外に見えてたまるもんですか」
シグは今にもため息をつきたそうな顔をした。
「これだからゆとり世代の弊害はモロに出やすいんだ」
「そう何歳も違わない奴に言われたくない台詞ね。あたしが無意識にぶっ叩かないうちに理由言ってみなさいよ」
「これだからゆとり世代は自分の頭で考えようと......ぐっ」
「あたしの我慢が効かなくなるうちにさっさと言え」
弁慶を宣言通りに攻撃されたシグはぼそぼそと口を開く。
「こいつは合成獣だ」
聞きなれない単語にネイシェンは首をかしげた。
「なにそれ」
「人間以外の『なにか』がくっついているってことだ。猫の顔をしていても体は獅子になっているみたいにな」
「......あたしって生物学なんて専門外だけど、生体実験ってやつ?」
「ああ、それで合っている」
まじまじとネイシェンは幼女の顔を眺める。こうして見ても、まったく人間と変わらない。
「嘘じゃない? 仮にそうだとしても、なんであんたはそんなこと分かるのよ」
「実物を何度も見ているからな」
「証拠は?」
「無い。だが、お前も見ているだろう。素で異常な体の頑丈さや、俺たちの乗ってきた馬車と同じ質量の物体を振り回せる膂力を」
それは分かっていた。何かが変だとは薄々感じており、真に受けたくなかったというのが本音だ。
それが事実ならば、あまりにも変わりすぎ、そしてむごすぎる。
「どうしてそんなこと?」
「知らん。だが、力を使う時はなんらかの表立った変化がある」
その証明があの角だったということだろうか。
肩をすくめたシグは幼女を床に降ろす。
「起きているんだろ。そろそろ自分の足で歩け」
「ぐうっ......うるさい、ワルモノ」
幼女は床に体が付いた途端、弾かれたように起き上がろうとして、そのまま座り込む形でシグの糸に捕縛された。身じろぎをするが糸が肉に食い込むだけで、痛そうに眉をしかめる。
髪を逆立てるようにして威嚇することしか出来ていない。
「頼みの法具はこっちにある。今のお前はただのガキと変わらないぞ」
「ふんっ、オマエたちワルモノだ。ラキが命令なんか聞くかバーカ」
幼女、ラキはシグを見上げながらべーっと小さな舌を出した。
「生意気なガキだな。礼儀ってものを叩き込んでやろうか」
「やめなさいよそんなこと。この子があんたに教わる礼儀なんてないわよ。それより、この子って今は大丈夫なんでしょ?」
「ああ、油断はできないが」
「だったらあたしに話させて。あんただと相手にできなさそうだから」
シグを押しのけたネイシェンはラキに視線を合わせるように片膝をついた。ラキは警戒した目で彼女柄を見たが、ネイシェンは出来るだけ優しげな顔で向かい合う。
「ラキちゃん、だよね」
「......なんだ」
「なんであたしたちを襲ったのかな? ラキちゃんの言うみたいに悪いことなんてしてないのに」
「ウソだ。みんなを見捨てたのはオマエたちだ。だからワルモノの仲間だ」
「見捨てたって、どういうこと?」
「とぼけるな! そのせいで、みんなは!」
怒りに満ちた甲高い声が通路に響いて消える。それにつられたかのように空気が揺らめき守護者が二体出現する。
「話はあとだ。片付けるぞ」
「う、うん」
ラキの言葉に首をかしげつつ、一体の守護者による振るわれた爪を弾き足をすくう。
その時にはもう一体の守護者が頭から股まで両断されていた。
これで、ネイシェンはタイマン勝負をすることとなる。今回の訪問組のなかで実戦経験が最も少ないのはネイシェンであり、その訓練に迷宮をシグが利用したからだ。
なんの冗談かと思ったが、南国の傭兵のランク付けも迷宮が使われるらしい。
「しつこい!」
守護者が絶え間なく両の手で殴ってくる。それを受け流す。距離が縮まり守護者が抱擁するように腕をネイシェンの背へ回す。棍を間に挟んで防ぎ、抜け出すと赤く光る目に突き。
「法則は使うなと言ったはずだ」
「......っ!」
棍の先端に集めていた行使力が霧散した。させられた。シグから飛ばされた無形の行使力が回路を乱してそうなったのだ。
性懲りもなく死の抱擁をしてくる守護者。そのひざを棍で薙ぎ払い転倒させる。地面と接した頭部を光る目ごとネイシェンは叩き潰した。
消えていく守護者の霧を掻き分けるように、肩を怒らせたネイシェンがシグに詰め寄った。
「ちょっとさっきのどういうつもり!」
「法則を使おうとしたからだ。能力に頼ろうとするな」
「もうすこしで死ぬとこだったのよ。それ分かって言ってんの?」
「俺というヘルプが後ろに控えている。全面の信頼で心置きなく戦えるはずだ」
「こんな当てにならないヘルプになんて信頼なんか置けない!」
ラキの元へ向かおうとしたネイシェンはふと立ち止まった。
「ねえ、前に手合せした時にもあたしが法則を使おうとしたときあったわよね」
「俺の顔面にビームを放とうとしたな」
「わざわざあたしの背中に手を入れて集中力乱さなくても、さっきので良かったはずじゃ?」
「行使力無しのルールだったろ。俺が使うのもはばかられてな」
「変なとこで律儀になるな!」
腹いせにシグの足を蹴りつけたネイシェンは、足を踏み鳴らしながら再びヤトと向かい合う。いまだにあの背中に手を入れられて撫でまわされたぬるりとした感触が忘れられない。
シグを意識の外に追いやって、ラキの可愛らしい顔に集中しようと意識を切り替えた。
だが、幼女の様子が少しばかりおかしいことに気づく。少しだけむずむずして、つらそうに眉を下げている。
そして、ネイシェンは間違いなく耳にした。
くぅ~。ヤトの腹の虫があげた悲鳴を。
「......お腹、減ったわね。それでイライラしてんのかしら」
「ち、違う! さっきのはラキのじゃない!」
「そうね、そういうことにしておくわ。でも、本当にあたしもお腹減ったなあ」
「オマエ信じてないな!?」
「おいおい、そこで俺を見るな。お前たち二人を満腹にするほど持っていないぞ」
「ラキは腹減ってない! おい、無視すんな!」
厚い涙の層を金色の瞳に溜めたラキを無視して、シグはため息を吐きながらコートをごそごそ探る。手品のように手の平サイズの棒状の携帯食料が二つ出てきた。
その一つをシグはネイシェンに差し出す。
「食え。味は保証しないが腹持ちは良い。腹が減ってはなにもできないしな」
「いつもそんなの持ってんの?」
「非常食はそんなものだ。お嬢様には分からないだろうがな」
いつも通りの皮肉と一緒にネイシェンは携帯食料を受け取る。生憎、金品の類はないので蹴りでお代を済ませて包みを開いた。粘土のような固い物体に躊躇うも、それを口に運んだ。
味は可もなく不可もなく。
「普通」
「だから味は保証しないと言ったはずだ」
シグはもう一方の包みを開いくと、その先端をつまんで肩に乗ったレトロにやる。それからラキの口に携帯食料を近づけた。ぷいっとラキは顔を背けてしまう。
「いらない」
「そうか。なら俺が食うぞ」
「......ああっ!」
食料が自分から離れるとラキは切なさそうな声を上げた。しかし、また近づけられると口を閉じる。子供にありがちな変なところで面倒くさく頑固になるところだ。
シグは食料の先端をぐいぐいとラキの柔らかい頬に押し付ける。
「情報源に死なれたら困るのは俺だ。何日もロクに食っていないお前の空腹のつらさも分かる。嫌でも食うんだ」
「う~、うぅ~っ」
頑なに自分から口に運ぼうとしないラキに深くシグはため息をついた。
黒手袋に包まれた手がもう一度食料の先端部分をつまむ。指先分のそれをシグは口に放り込み、この世の終わりとも思っているようなラキの顔にまた携帯食料を近づけた。
「俺は小食なんでこれで十分だ。喰いきれなかったぶんはお前が食ってくれ。包みも開いてそこらに捨てる訳にもいかないからな」
「......ふ、ふんっ、ならラキが食べてやる!」
ラキは小さな口を限界まで大きく開けながら、勢いよく残りの携帯食料にかぶりついた。たったの三口で食べ終わったの見てシグは立ちあがった。
「なんだ?」
意外なものを見る目を向けてくるネイシェンにシグが訊いた。
「あんたってそんなことも出来るのね」
「こいつは情報を隠すつもりはないからな。それなら、今のうちに懐柔させてやるほうが扱いやすいだろ」
「曲がりくねった根性もありそうだし」
ネイシェンは棍を肩に担いで、空が広がってるであろう天井の向こう側に意識を向ける。
まだ、一日だ。幸いにもこの迷宮はそれほど難易度の高い場所ではない。
ここを出られればすぐにでもティオたちと合流できる。彼女たちにはファルナとローガンがいるから問題ないはずだ。
懐をがさごそと探っていたシグの顔がわずかに歪んだ。
「......しまった」
「どうしたの?」
そして、シグは小さな立方体の物体を取り出した。ネイシェンの記憶が正しければ、それは通信用の法具だった。
彼女の胸の内を占めるのは安堵や歓喜ではない。マグマのようにぐつぐつに煮立った怒りという名のすばらしい感情である。
「ね、ねえ、それはなんなのかしら?」
「法具だ。これがあればあいつらと通話も出来るはずだ」
「......あたしが聞きたいのはそんなことじゃないのよ。どうしてあんたがそれを持って、今まで使おうとしなかったかなんだけど。まさか、忘れてたなんて言わないわよね」
「すまん、忘れ......ぐっ」
棍が風を切り湿った打撃音を奏でた。
ネイシェンがこの一通りの行動をする前に思ったことは、法具があることよりも時間があることへの安堵でもある。まだ一日目のはずなのだから。
彼女は間違っていない。ただ、一言付け加えるとすれば。
まだ、限られた時間だけはある。
そして、見えない手が動き出すのはそう遠くなかった。
場所は変わって首都へ。王城の最上階の一室、国王の書斎ではその主であるヴィンセントが机の上で難しい顔で書類に目を通していた。対面に座るアリスは用意されたテーブルに腰を掛け、優雅にナタリアの用意してくれたハーブティーを口に運ぶ。
ヴィンセントはいつもよりラフな格好で机に足を乗せながら、周囲を緩やかに泳ぐ数枚の紙を手元のものと交換する。
それをいくらか続けたところでようやく紺碧の眼を娘に向けた。
「これがお前の人選か?」
「ええ、良くできておりますでしょう、お父様」
儚げな微笑みを浮かべるアリス。ヴィンセントは彼女に今回のティオの出国を任せており、嘘の情報が書かれているとは思っていない。
「おれの指定した人選もあったのだが」
「ええ、あれですか。ですが、お父様が私に全権を委任してくださりましたし、せっかくなので私の考えた構成で行かせようかと思いましたの」
「同行する騎士団のメンバーにも変更があったようだな」
「魔獣の森の付近ではやはりクリーチャーによる被害の可能性もありますし。ですから、新人の千人隊長の方より、万人隊長であるジョセフさんを向かわせたほうがいいと思いまして」
すべてが建前。アリスの手回しによって西国圏内ならばティオの安全は保障されたものとなっている。
いや、中央国に入ったとしてもか。
「同行するのがあの護衛者に素性も知れぬ元傭兵」
ヴィンセントは一度アリスの脇に控える侍女長に視線を送る。
「それによく話題になる問題児の侍女二名か」
「そのお二方は実力に関してならばナタリアさんのお墨付きですよ」
「体裁としてはどうだ」
「そちらの書類に書かれているように十分だと思いますけど」
二枚の紙を引き寄せたヴィンセントは内容を再び確認した。
ファルナ・ケイン・キャロニス。十七歳。養成学校最終成績一位。全体的な能力は申し分ないが、言われたことだけをやるなど融通の利かない性格が難。同期の侍女からセクハラで訴えられた回数が歴代最高。上級貴族キャロニス家の次女だが、娘に甘い父を利用して侍女となる。
ネイシェン・クローリー。十七歳。養成学校最終成績四位。武礼侍女としての高い素質には目を見張るものがあるが、意識の低さから侍女長の補習授業の常連である。平民出身だがキャロニス家の厄介になっている。特定の内容の話でキレやすく、よく侍女長に叩きのめされる。
「これでか?」
「はい、それでです」
長く息を吐き出したヴィンセントはコツコツと指で机を叩く。あの侍女コンビは国王に呆れたため息を吐かせているなどとは思わないだろう。
据え置いた箱から小さな矢が浮き上がり、その先端をヴィンセントの背後にある円状の的に向けた。矢が消えた。そうアリスには見えたが、軽い音と一緒に的の中央に矢が突き立っていた。
「ウォーガルはともかく、傭兵が一人いたはずだ。あれはなんだ?」
「さあ? シグさんが目星をつけていた方らしいですけども」
あくまでとぼけたアリスの答えを聞き流し、ヴィンセントは再び一枚の紙を引き寄せる。
ローガン・クォンツ。二十五歳。“双頭”と呼ばれた元狼であり、現在は喫茶店鳩の巣のオーナー。休日の趣味はナンパと読書。前科者として騎士団のブラックリスト入りをしている。理由は騎士団の勧誘をしに行ったレノア・ワークメイルに過剰なセクハラ発言をしたためだと思われる。傭兵との交流は切っていないらしく、招いた翌日に稀に店が全壊する。
シグにしても言うに及ばず、これらを見る限りロクでもないと言ったほうがよいのだろう。
少なくとも、ヴィンセントはこれを見た後で関わりたくはないと思った。
アリスが微笑みを絶やさないまま言った。
「現在ティオさんたちはテナンド山脈付近にいます」
「魔獣の森を越えたんだったな。第一種のクリーチャーとは鉢合わせしなかったのか?」
「早朝からお昼ごろにかけての強行軍らしいですね。クリーチャーとの交戦は最低限だったのでしょう」
滅茶苦茶な人選に違わぬ滅茶苦茶な行動だ。らしいと言ってしまえば何かが負けるだろう。
「付近の村で今日は休むらしいですね。でも、彼女たちは二週ほども日程を縮められたんじゃないですか?」
「おれに聞くな。お前のほうが詳しいのだろう」
なぜ、アリスがそこまで知っているのかは指摘しない。それほどに彼女は根を様々なところに伸ばしている。そうでもなければ、国王権限で命令した騎士団の構成を変更できるはずがない。
矢を背後にヴィンセントは飛ばす。もちろん法則『精動放射』でだ。軽快な音が室内に響くが的には新しい穴が開いていない。最初に当たった矢の尻に突き刺さっているのだから。
「ふふ、予定通りなら帰ってくるのは秋より前ですね。もう少しであの子の誕生日です」
「もうそんな時期か」
「あらお父様、ご興味が?」
「今年は豊作になりそうだ。『秋の豊穣』の仕事が多くなる」
表情を変えないヴィンセントはまた矢を飛ばす。二本目の矢の尻にそれは突き刺さった。
「ですが、もうティオさんは成人になります。結婚のことも考えないと」
ナタリアがカップに注ごうとした茶が盛大にこぼれた。それはテーブルの上だけであったが、完璧主義のナタリアには珍しい。
「どうしましたナタリアさん?」
「いえ、少し手が滑りました。最近は乾燥が続いていますので」
何事もなかったようにナタリアはテーブルを拭き始める。
ヴィンセントは彼女の失態にわずかに眉をしかめたが、気にしていない様子を装う。
「あれの貰い手などいるのか?」
「きっと、そのうち素敵な方が現れると思いますよ。ですから、そろそろウェディングドレスを作ってあげないと......」
盛大な音をたてて何もない場所でナタリアが転んだ。頭から床に落ちるほどの半月回転だった。
「あらあら、大丈夫ですかナタリアさん」
「失礼しました。乾燥とは靴裏にまで影響を及ぼすようです」
「その割には汗を滝のように......」
「夏が近いですから」
きっぱりと言い切り立ちあがったナタリアは、何事もなかったように片づけを再開した。
アリスも指摘はせずに続ける。
「やはり白ですね。あの子には似合った色ですし、そのドレスを着たらどれだけカワイ」
とうとうナタリアが机を巻き込んで転倒した。飛び散るお菓子とお茶の飛沫。アリスは自分のカップだけをちゃっかり手に持ちながら、ヴィンセントが法則でそれらを空中で止めたのを見ていた。
よろよろと起き上がったナタリアは、クールな表情を痙攣させ嫌な汗を流しながらアリスを見上げる。
「ア、アレンシア様。てぃ、アルティナ王女がけ、け、けっこんとは、ハハッ、面白い御冗談を」
「おい、ナタリア。休んでいろ、聞く必要などない」
「ふふふ、冗談ではけしてありませんよ?」
ぶつぶつと四つん這いの体勢のまま「嘘、これは嘘、あの子がお嫁なんて......ハハッ」と呟き続ける侍女長を置いて、二人は話を脱線させないようにする。
カップや飛び散った茶をもとに戻しながら、ヴィンセントは半眼でアリスをねめつける。
「結婚というのならお前もだろう。そろそろ相手を選んでほしいな、次期女王様?」
「心にもないことをお止めください。お父様も反対なさっているでしょう」
王族はそれを継承させていくからこその存在である。子を成すことが重要になり、身体の弱すぎるアリスには荷が重いだろう。ならば継承させるのは王位に興味のない第二王女にするか、または第三王女であるティオにするか頭を悩ませる。
今の王族に男児はいないのだから。
「......その話はあとだ」
「私のお母様はまだ現役だからバンバン産めるとおっしゃっているのですが」
冗談めかしにアリスはカップを口に運び茶を飲み干す。空になったカップをおろそうとしたとき、それが音を立てて砕け散った。
的を狙っていたはずの矢がカップを狙撃したのだ。
「黙れ」
有無を言わせぬ重みの増したヴィンセントの声が届いた。
「アリス、お前にも分かっているだろう」
「......これはおふざけが過ぎたようです。お許しください」
アリスが持ち手の部分だけになった陶器のそれをテーブルにそっと置く。
王族の血筋は少ない。それはヴィンセントがある出来事から子を作ることを辞めたせいでもある。
原因となったティオは知らないだろう。
だが、それがヴィンセントの唯一の償いでもあった。
「ですが、もうあの方はおりません。お父様がもう気に病むことでは」
何も言わずにヴィンセントは書類に目を戻した。
異端すぎる来訪組のメンバーは今どうしているのか。
それを取り巻く異常な状況の渦が動き出しているのは、国王である彼にはすでに感づいていた。




