春風と暗雲
人間はあり得るはずのないことを真正面から受け止めると、秀才だとしても頭が追い付かなくなるものだ。
この時のリュピアも、その例に漏れることがなかった。
「わたしが、シグさんと一緒にですか?」
「悪くない話ではないかな」
シグとの手合せが終わった午後に、リュピアはフォティスから旅の話を切り出された。
山の中腹ということもあり雪がまだ残っているが、麓の森の間から覗く町では緑が見え隠れしていた。もうすぐ、春に移り変わろうとしてくる時期だ。
リュピアは一瞬だけ向日葵が咲いたような笑みを顔に作りかけ、すぐに表情を曇らせた。
「......でも、お祖父ちゃんはどうするんですか?」
やはり自分の存在が枷になっていたと思うとフォティスは苦笑する。
「私のことは気にしなくてもいい。まだまだ現役だし、一人でやっていけるだろう。それよりも、リュピアは外の世界のことも知っておいたほうがいいと思うのだが」
「それは......嬉しい、申し出ですけど」
ちらりとリュピアが視線を背後に向けた。木刀などを片付けているシグの姿があった。
彼も気づいたのかリュピアを見やったが、彼女はすでに顔を背けていた。
「シグさんに、迷惑をかけるんじゃないでしょうか?」
「彼はもう了承済みだよ。あとはリュピア次第さ」
「そうなんですか!?」
もう一度リュピアは振り返ったが、シグの姿はなくなっていた。
「......まあ、すごい魅力的な提案ですけど」
「彼はコーヴァスに行って、いくらか滞在するらしい。そこから別の場所にリュピアは行くか、もしくはシグ君と一緒に居続けるかだ。私としては後者がお勧めだがね」
「からかわないでください! お祖父ちゃんに言われなくても分かってますよ!」
「ほう、何をかな?」
リュピアは木刀でフォティスに切りかかったが、老人の鞘に納められた剣で受け止められた。
涼しい顔をしている祖父に、リュピアは不機嫌な顔を作る。
「話す義務を感じませんね」
「ならば、その義務を全うしてくれ。シグ君はどう思うかな?」
「なんの話だ?」
いつの間にか二人のすぐそばまで来ていたシグが首をかしげた。
「シグさんは知らなくていいことです!」
「そうか? ならいいんだが」
「そうなんです。別になにもわたしは思ってもないので、これからも何もありません」
「お前は俺と一緒に来ることにするか?」
「最初から聞かれてた!?」
大きく動揺するリュピアを見ておかしなやつだと思いながら、シグはぼさぼさの灰髪をかいた。
「俺としてはあまり良いとは思えないがな」
「やっぱり、迷惑ですか......?」
「いや、違う。フォティスから聞いたこともあるだろうが、旅はそれだけ危険があるんだ。命をなくしたくないなら、この町を出るな。俺が言いたいのはこれだけだ」
それを聞いて碧眼をゆらゆらとリュピアは彷徨わせた。
シグに倒されていた傭兵たちの姿が目に浮かぶ。力を振るえば人を傷つけ殺すことも容易いと学び、それが自分に向かってくることもはっきりと意識するようになった。
明確な恐れがリュピアの中に生まれていた。
だが、憧れているだけでは変わらないと言ったのも彼だ。
リュピアは胸に手をあてた。
「わたしは、それでも外に行ってみたいです」
場の勢いに流されたわけではない。
いつも抑え込んできた渇望とも言えるものが決意を実らせたのだ。強い意志を宿らせる少女とは対照的に、シグの返事は呆気ない。
「......そうか」
分かっていたことを実際に聞かされたように諦めにも似ているため息だった。
そこに引っ掛かりを覚えたリュピアだったが、シグが反対する気がないことに安心した。
「これで決まりかな。私からもよろしく頼むよ」
「そういう割には白々しいな」
非難がましいシグの言い草にフォティスは弱弱しく笑い返した。
リュピアもおずおずといったように、口を開いた。
「あのー、わたしは何も道具とか用意してないんですけど。もうすぐシグさんは出発するんですよね?」
リュピアの記憶では、家には旅の役にたちそうな道具はあまりなかった。
今はもう春の気配が色濃く地上を照らしている。雪が少しばかり降り積もっていようと、出発しようと思えばすぐにでも大丈夫なのだ。
「それは町に買いに行こう。必要なものはそこで揃えられる」
「ハンバーグ家でしたっけ? まだいるんじゃないですか?」
「スタンバーグ家だよ。それも、あと少ししたら......いや、いますぐでも大丈夫そうだ」
フォティスは山道を登ってくる数人を見つけた。リュピアもつられてそれを目にしたが、傭兵ではなく町の住人たちであった。
ほどなくして、登山者たちはログハウスの前にたどり着いた。
「フォティスさん、奴ら今朝のうちに町を出ていったぞ」
「わざわざすまないね。私たちのせいで迷惑をかけてしまっただろう。出来れば詫びをしたいのだが......」
「いいよいいよ、あんたには世話になったことがあるんだ。これぐらい大丈夫さ」
がやがやと騒がしくなった家の前で、シグとリュピアは取り残されたように立っていた。
「仕返しとか、何もありませんでしたね」
「やってほしかったのか? 意外にマゾだな」
「違いますよ! 何もないにこしたことはないって言いたいんです!」
なにかのモーションを掛けてくるかと思ったが、あの豪商一家はすでに町を出ていったようだ。
身構えていたからか、勝手に空回りをしてしまったような気がした。
フォティスがリュピアに声を掛ける。
「リュピア、これから町に降りよう。犬橇と馬を出しておいてくれないか」
「わかりましたー」
肩の荷が一気に降ろせたようで、リュピアも心に余裕が出来たのだろう。軽い足取りで小屋のほうまで歩いて行った。シグも手伝うためにあとを追うが、その耳に会話が小さく届く。
「山登りも疲れただろう。私はリュピアとさっそく町に行くつもりだが、君たちはこの家で休むかい?」
「いえ、それは......甘えさせてもらうわ。本当は町長もあなたに会いたがっていたしね。早いほうがいいわよ。ねえ?」
「えっ、まあ、そうだな」
何故か、町民たちの声には焦燥と動揺が含まれていた。その時のシグにとって気がかりと言えば気がかりだったが、心に留めることもなく小屋へと入っていく。
リュピアは橇の点検をしながら、麻袋などの詰め込みをしていた。
「なんか、わくわくしますね。遠くに行って、新しいものを見ることが出来るのは」
「......そうか。そういうものなのか」
「どうしました?」
「お前と同じことを言ったやつがいたんだ。その時の俺には理解できなかったんだがな」
犬の首に付けるロープをリュピアに手渡しながらシグは言った。
「へー、その人と気が合いそうですね」
「無理な話だろうがな」
「え? なにか言いましたか?」
「なにも。それよりもロープに自分から絡まるな。どうすればそうなる」
「し、仕方ないじゃないですか。手元が狂ったんです! でも、大丈夫ですから!」
犬の数に比例してロープは同じ数だけ分岐する。それらがリュピアの体の各所にこんがらがっていた。
「これでは先が思いやられるぞ」
「聞こえるように言わないでくださいよ。わたしの硝子のハートが傷つきます」
「硝子? ダイヤモンドの間違いだろ」
「無駄に硬すぎます!?」
リュピアは抜け出そうともがき続けるが、網のようになったロープに余計に絡まるだけだった。
肩をすくめながらも、シグは丁寧に一本一本ほどいていく。口ではいろいろ言いながらも、結局は助けてくれる。一緒に過ごしてきて、何度も目の前で助けてくれた。
高熱を出して寝込んだときや、狂暴化したイノシシの集団突進から逃げるとき。実践稽古では根気強く付き合ってくれたと思う。よく愛想も尽かさないものだ。
リュピアもいつの間にか、大丈夫だと言いながらシグに自然と頼るようになってしまった。
短い期間で当たり前のような存在になっていたのだ。
「どうした、手が止まってるぞ?」
「あ、いえ、なんでもありません」
「そうか......いや、お前はじっとしていろ。動けば動くほど面倒くさいことになる」
「言わなくていいことは口にしないでください!」
気分が台無しにされたようで、半ば自棄になった声が出た。デリカシーのなさや無神経なところが玉に瑕である。
犬たちに橇を庭までひかせる頃には、フォティスも荷物などを家から準備し終わっていた。
「おや、リュピアは顔が赤いが、どうかしたのかい?」
「なんでもありませんよーだ!」
「そういうことにしておこう。とりあえず、シグ君は家に残ってもらうことになるがいいかな? 家を空けておくだけというのもまずいだろうしね」
「問題ない。あいつらはどうする?」
「ここまで来て疲れているようだし、お茶を出してもらいたい。彼らは顔見知りだし、問題は起こさないだろう」
シグは一か所に固まっている町人たちを見やったが、何やら内輪で話している。
交流などないがフォティスがそう言うのならとシグはうなずいた。
「わかった。夕飯の準備もしておくが?」
「すまないね、お願いするよ」
「わたしは野菜少なめのメニューを希望します!」
「よし、待っていろ。ニンジンとピーマンをふんだんに使った料理をな」
いやだいやだと声を上げるリュピアを乗せた橇が、トレントを引き連れて山道を駆け下りていく。それに腕を振りながら見送ってから、シグは町人たちに振り向いた。
気だるげに彼らに家を示す。
「あがっていくのなら、茶を振る舞ってやるが?」
「ええ......頂くわ」
代表したのか、一人のややくたびれた恰好の女がおっかなびっくりといった様子で答える。
うしろの数人は秒刻みに顔の表情を曇らせ、あるいは青い顔になっていった。
さすがに図太いシグも見ず知らずの他人を気遣った。フォティスからもてなしてほしいとも頼まれ、客人という立場の者たちでもあるのが理由だが。
「そこまで体調が悪いのか?」
「いえ、違うわ。久しぶりに家から遠出で来たから、なまった体には響くものなのよ」
苦笑しながら女が言うが、それならば大丈夫だろうとシグは自身の中で決めつけた。人によっては豪胆と評することのできる性格は、さして言及しようとする気も起こさずに、シグはそのまま彼らを家に招き入れる。
フォティスとリュピアはトレントだけを引き連れて、町の門の前にいた。山を登ってきた彼らのものであろう足跡を除けば、平坦で綺麗な道が続いている。
犬たちと橇は雪が積もったままの森の手前まで待たせており、そこからは徒歩でこの場所までやってきていた。
「フォティスさん! どうしてここに!?」
櫓の上にいる二人の見張り番のうち一人が、驚きの声を上げた。
「いや、なに。冬の間に迷惑を掛けたことで町長に詫びを入れたくてね。ついでに買いそろえたい物もあるのさ」
「......あの、フォティスさん。実は」
「おい!」
何かを言おうとした見張り番の片割れに、相方が肘をぶつけて無理やり黙らせた。
「リュピアちゃんと話をさせやがれ! かれこれ数か月も会ってないんだぞ!」
「そんなの関係ねえだろうが! 何が嫌であの陰気な爺さんの酒場まで、毎日居るはずもない妖精を求めたと思っているんだ!」
「なーにが妖精だ。こっちは女神だ!」
「はい? 何言ってんの? 天使に決まってんだろうが!」
「お二人とも、お勤めご苦労様でーす。仲良くしてくださーい」
『はい! 仲良く頑張ってます!』
フォティスと共に苦笑したリュピアはさっそく開けられた門の中に足を踏み入れる。
視界には久しぶりに見る街並みが映った。去年も一昨年もさして感じなかった懐かしさが胸を占め、感慨深い気持ちになった。
「リュピア、そろそろ行くよ。シグ君を待たせるのも申し訳ない」
「はい!」
しんみりした空気を振り払うように、先に進んでいたフォティスの姿を目指して駆け出した。
櫓の上からそれを見ていた最初にフォティスに声を掛けた見張り番が、ぼそりと相方にしか聞こえない声量で呟いた。
「これで、おれ達は良かったのかよ? なあ?」
「知るか、馬鹿」
相方は投げやりに返し、壁を抉る勢いで蹴りつけた。
「どうしようもないのはお前だって分かってんだろうが」
そして、櫓の物陰に潜んでいるナイフを手に持った傭兵をにらみつけた。
刃は下手なことを見張り番がすれば、その喉を躊躇いなく掻き切っただろう。そのあとは家族も同じようにされると言われていた。
リュピアたちの姿はもはや建物が密集する地域へと入り、ここからでは見えなくなっている。
彼女たちを心配する権利など、もはや自分たちにはないのだ。
客間と呼べるほどの部屋がないため、居間に町民たちを座らせたシグは棚に置かれた缶のラベルを見比べていた。
「茶の種類はそこそこあるが、濃いめがいいか薄めがいいか? 口に合わないなら白湯にしておくか?」
「お気遣いなく......」
女はそう言うが、シグは真剣に鋭さを幾分か取り戻した目つきをやめない。
どのようにもてなそうかで頭がいっぱいのようだ。外見とのひどいギャップに招かれた者たちが混乱する。内心の焦りがさらに助長される。
背を向ける黒コートの青年に一瞬だけ女は見る。すぐに一緒にやってきた者にそれを向ける。
あまり強そうには見えなかった。
些か高すぎる身長が圧力を生むが、怠惰な風貌がおつりがくる量で打ち消してしまっている。
女が頷き、他の数人も意を決したようにそれに合わせた。
「少し、外の空気を吸ってくるよ」
「上着は着ていったほうがいい。麓と違ってここは冷えやすいからな」
背を向けたままシグは返した。
それを見て、女は外に直通する扉から出ていく。視界の端にはあらかじめ毒の塗りたくったナイフを取り出した同じ町の住人達が、足音を忍ばせながら青年に近づいていた。
ついさっき出会ったばかりの青年だが、それゆえに掛けてやる情もない。こうするしかなかった。許してもらおうなどと思ってもいないが、これだけで報酬が出るのならば安いものだと女は思う。
扉を後ろ手で締めながら、女は懐から小さな四角の立方体を取り出した。
「____首尾よくいきましたかな?」
「ええ、こっちは終わったよ。だけど本当に報酬はくれるんだろうね?」
「なるほどなるほど、立候補された方にはもれなくボーナスもありますからね」
声がその立方体から発せられる。聞いていて気持ちのいいものではないが、女は言葉の意味を咀嚼して笑みを口に刻ませる。
「フォティスもリュピアも予想通り町に向かってるよ」
「こちらも確認しております。あなた方が下山すればもう終わってるでしょうし、今から撤退をお願いします」
「ははは、意外と簡単な仕事だっ......ギィッ!?」
女の目線が急に高くなり、喉が潰れる力で圧迫された。手から立方体が零れ落ちたがそんなことを気にする暇もない。なにか黒い物体が視界をよぎったのだけは分かった。
「何が簡単だったのか教えてもらいたいな」
気力のなさは変わらない、底冷えするような声が耳に届いた。
「な、ん......」
喉元を黒い一つの手で締め上げられながら、女は青年と向き合わせられる。
開け放たれたままの扉の奥では、ナイフを持って向かっていった町人たちが積み重なっていた。一様に腕が変な方向に折れ曲がり、意識を飛ばすことも出来ずに呻いていた。
「答えろといっているのが聞こえないのか?」
シグが手に込める力をさらに強くしたことにより痛みと苦しさで女は我に返る。
危険だ。何かわからないが、ただ危険だということが認識できる。
無意識にはずそうと女の手が宙をさまようが、腕をはずすには到底不可能だった。
「いう......いうから、はなし」
願いどおりにシグは手を離す。女が降り積もったままの雪の上へと落ち始める。
その瞬間、シグは女に手加減をほとんどしない蹴りを放つ。
武術の心得もない一住民の女は面白いようにそれをまともに受け、数メートル以上も吹き飛んだ。
「ぃあ......あぁああぁ......」
意識を手放せていたらどれだけ楽だったろうか。内臓を掻きまわされたような不快な感触。腕が砕けて上手く動かない。衝撃によって頭が白くなっていく。恐怖が沸き上がる。
足音。シグが近づいてくる。
それを聞いて女は芋虫のように身をよじらせ、指一本ぶんでもいいから離れようともがく。
蜘蛛は弱った獲物をみすみす逃がす真似などしないというのに。
女の髪がひっぱりあげられ、苦痛によってさらに顔がゆがんだ。
「俺を襲うのはどういうつもりだ? お前は傭兵なんかじゃないだろう」
「たす、助け......」
「いいから答えろ。これから一切、余計なことをしゃべるな。その言葉の数だけ、端から骨を砕く」
有無を言わせぬ圧力に女は泣きながら何度もうなずく。
必ずこの青年は実行するだろう。それは問答無用で女を蹴り飛ばしたことから理解できる。
シグは相手の口から情報を聞き出すには、まず力と恐怖を叩き込むべしと教わっていた。それに従っているにすぎないが、嘘も話すことも出来ないようになるのは相手の精神力のもろさから分かっていた。
女たちを迎え入れた時とまったく同じ声音に表情。人間を壊すことになんの躊躇いもない。恐怖で身をすくませてしまうが、助かるために必死に口を動かす。
「ただ、あたしらは、頼まれただけで......」
「その割にはえらい乗り気だったな。だれがお前たちを誘った?」
「サ、サルポネだよ」
だれのことか分からなかったが、シグはすぐに豪商一家の当主の名だと思い出した。
「そいつらは町から出ていったと......いや、そういうことか」
もとから彼らが語ったことなど、すべて嘘だったのだ。町にはまだ傭兵をともなった豪商がいる。
この家まで来るには時間と労力を激しく消費するため、わざわざリュピアたちから懐に入ってくるようにした。町に来るのは誰でもいい。それを餌にしてまたおびき寄せればいいのだから。
「全員がぐるなのか?」
「反対した奴もいた......だけど、そういう奴らは家族が人質にされてて強く出れなかったのさ。もう占領されてるのと変わらないよ」
「お前は賛成派だったのか?」
「金を出して、くれんのさ。その金でこの町をすぐに出ていってやるつもりだった」
シグは女の髪から手を放した。拘束を逃れたが女は逃げる気力もなくなったのか、痛む箇所を抑えて震えていた。
「馬鹿だな、お前たちは」
「な、なにが?」
「そんな約束なんて守るつもりは奴らにはないだろうさ」
たかが息子の仇討のためにここまでした。ならば後始末も大仰におこなうだろう。
町を去っても国に密告する者がかならず現れるはずであり、そうなれば商売もやりにくくなる。そのために町ごと消すということもあり得るのだ。そうでもなければここまで面倒なことはしない。
まさかそんなことはしないと否定する女。シグはそんなことは気にしない。
「町がひとつ消えることは別に珍しいことでもない。戦争が終わったとしても、この地方周辺なら心当たりはないか?」
そこでやっとシグが言いたいことに気づいた。この町の近くにも、半日もしない距離に同じ規模の町があった。だが、数年前に壊滅したのだ。法則者の仕業などと言われていたが、おかげでその次の町に行くまで長い距離と時間が必要になった。
この町も同じようになくなっても、また起こっただけで済むのだ。
女を手当てすることもなくシグは馬小屋に向かう。途中で正方形の物体を拾い上げた。そこから待っていたように声が飛び出す。
「いやはやいやはや! そちらはどうやら失敗したようですね」
「雑すぎるだろう。警戒されるからといって、傭兵を一人も混ぜなかったのが悪いな」
「まさかまさか、二人ほど忍ばせておりましたが、あなたには一般人と変わりありませんでしたな」
最初に向かってきた男たちがそれだったのだろう。動きなどを見る間もなく叩きのめしたのだから、分からないはずだ。
声の主であろうサルポネはとても愉快そうだ。
「そっちに二人が向かっているだろう? 無事に返しさえしてくれれば、こっちも何もしないで楽なんだが」
「いやいや、我が息子がほとんど指揮しておりまして、不可能でしょう」
シグが馬小屋の扉を開ければ、とても馬とは呼べない文字通りの化け物が鎮座している。頭にはレトロが乗っかっており、動物同士で水入らずの話でもしてたのだろうか。
「それは難儀だな。教育を改めたほうがいい。そんなタイプが跡継ぎとは世も末だ」
「これはこれは、お気遣いありがとうございます。ですが、かわいい息子でして」
「俺もそっちに向かわせてもらうが、場合によってはどうなるか分からないぞ?」
「いえいえ、こちらも願ったりかなったりでございます。色々と手間を省けますし、処理にも困らない」
言葉には出さない。しかし、物騒な内容へと会話は姿を変えていく。
「俺は面倒事はきらいだが、恩は仇で返さない主義でな。リュピアたちの安全が保障されていなければ、町はどうでもいい。ともかく何もするな」
「これはこれは、すでに遅い忠告でございます。ご要望にお応えできないとはこれまた商人の恥」
大人しくしているケルビムに専用の馬具をはめつつ、シグは面倒事になったと内心ため息を吐いた。あの二人がどうなったか気にもなったが、それについては何も答えが返ってこなかった。
「ですが、あなたをお待ちしております。やってこなければ彼らの身の保証はできません。実際、あなたは息子にとっておまけなのですよ。それはともかく、あなたが義を重んずるか身を重んずるか分かりませんが夕刻までお待ちしております」
通信が途切れるのとシグの作業が終わるのは同時だった。
レトロはケルビムの頭の上でどうするのかと首をかしげながら、つぶらな瞳が立ち止まったシグを映す。こんなことで怖気づく青年ではないはずだから。
「嫌な予感というものがするが、行くぞレトロ」
その声を聞いてレトロは嬉しそうにシグのうしろのフードの中に入った。
そして人間に恐れられる存在のケルビムに躊躇いなくまたがる。乗馬術は一通りならっていたが、さすがにクリーチャーに乗る日が来るとは思っていなかった。
「町まで頼む」
ケルビムは町まで聞こえるであろう咆哮を上げて小屋を飛び出した。そのまま雪の斜面を危なげなく駆け下りる。普通の馬よりも踏破力が格段に高い種だ。足場が悪かろうと乗り心地も最悪だろうと、リュピアが評したように信頼できる。
時間はほとんどかけずに山を下った。
太い幹の針葉樹森の中へシグを乗せたケルビムは駆ける。道らしい道もないが、巨大な体でも木とすれすれに走ることにケルビムは恐怖を抱かない。
そのケルビムが突然、身体をぶつけるのも厭わずに横へそれた。木が粉砕され、弾き跳んだ木片が傷を造る。
野生の勘による行動は間違っていなかった。
地面から何かが突き出る。それは一瞬で空まで上がるように飛び出した。
シグはケルビムの上から通り過ぎた背後を見たが、巨大な枝が落下しているのが見えただけだ。
また先ほどの攻撃。ケルビムは体勢を崩していたため反応が遅れ、わき腹に当たる部分に掠る。ケルビムは転倒する。シグは鞍から飛び上がって離脱する。
木に激突して止まったケルビムのわき腹を見て、命に関わるほどでもないと分かった。
周囲を警戒しつつシグは怒りの咆哮を上げるケルビムに近寄る。傷を見た。それは斬られたような跡だった。普通の馬とはやはり違うらしく、転倒からすぐに起き上がる。
「どこにいるか分かるか?」
動物に言葉が通じるはずもないが、ケルビムは森のなかの一部を凝視していた。
襲撃はシグも予想していた。これは相手も手だれだろうということは分かる。クリーチャーは行使力を持つが、その量はふつうの人間を軽く超える。無意識に障壁も展開しているが、それを破るには骨が折れるのだ。
「そこにいるなら出てきたらどうだ」
彼自身あまり期待していない勧告を投げかけたが、意外にもあっさりと相手は姿を現した。だが、よそうしていた集団やギレンに傭兵たちといったものではないことに驚く。
木の陰から出てきたフォティスはゆっくりと口を開いた。
「驚いたな、避けられるとは思っていなかったよ」
「何をした? いや、言葉を変える。どういうつもりだ?」
赤みがかった剣を手にするフォティスは表情を曇らせた。
「リュピアと、町のためだ」
「人質か。だが、わかっているか? どうせこれが終わればすべて葬られる......直球で言うが、俺と手を組め」
「......それは出来ない。私が裏切ったことが伝えられれば、リュピアを殺すと言われたのさ」
「問題を先送りにするつもりか?」
「人間とはそういうものだ。そして、私はそうして生きてきた」
剣の先がシグに向けられた。
シグは小さく舌打ちして、フードの中のレトロにだけ聞こえるように伝える。
「レトロはケルビムと一緒に町に向かえ。あとで俺も追うが、判断はお前に任せる」
「キュイ!」
一鳴きしたレトロはケルビムに飛び移る。乗り手のいないケルビムはレトロから教えられたのだろうか。そのままフォティスを迂回するように、レトロを乗せて森の中を通っていく。
フォティスは一度だけ目をそちらに向けたが、すぐにシグに戻した。
「悪いが君にはここを通させるわけにはいかない」
「何度も言うが正気か? こうしている間にもリュピアは危険なんだぞ。奴らのいいなりになっても、それは変わらない」
「だが、君にはここを引いてほしい。邪魔はされたくないと言っていたしね」
表情を浮かべることなく、フォティスは用件があったから言ったというように話す。
「それがだめならば、君には死んでもらうしかない」
「大人しく引くとでも?」
「......君はこれぐらいでは動揺しなかったね。しかし、私も自称ではないが“楼閣の剣聖”などと言われた身だ。戦い合えば、殺してしまうだろう」
剣聖。その単語を聞いた瞬間にシグは、自分の中にあった手加減という言葉が消えたのを感じた。
二つ名に剣聖がつく人物は過去に何人もいる。たった一つの条件さえ満たせばだれでもなれるからだ。西国の抱える数多の騎士の頂点に立つ人物。騎士団長。
かつてその身分であった者と戦おうとしていることに、シグは悪態を付きたくなった。
「本当にここを引く気はないのかい?」
「ああ、無理だな。リュピアを助けるのには変わりない。あんたがよくても俺はダメだな」
「それは余計な心配さ。こうなれば手心は加えないが、いいかね」
「口だけでペラペラ話すやつのセリフか?」
フォティスは説得をあきらめたように首を横にふる。短すぎる気もしたが、一緒に過ごした青年の性格からもう不可能だと分かったからか。
シグが地を蹴り黒い風となる。
堕ちたものだ。フォティスは自嘲し、長年の戦友である剣を振る。
いまだに離れた距離のシグに届くはずもないそれは、結果を実現する。
事象干渉法則『空誅牢閣』
咎人を貫き罪人を切り裂くそれは天を衝く。
業の大きさに比例して絶刀となる概念。それが発現し、幾人もの命を奪った者の命を強奪する。
夕日の光が入り込む森に鮮血が舞った。




