後悔と依頼
無数に存在する過去のシーンの中で人生を左右する出来事も同じ数だけある。
だが、自分の人生はあの出来事がなければ変わることがなかっただろう。
ひどく虚無を抱えた、美しい記憶だった。
底までがすっきりと見える澄んだ水を湛えた泉のそばに、二人の人影がある。
淡い月の光を水面は緩やかな風に揺られながら不規則に反射させる。うっすらと浮かぶ人の輪郭は、少女と少年のものだった。
泉の淵に腰をおろしていた少女が、吐息のようなつぶやきを零す。
「綺麗ね......」
不思議な声だ。綺麗な声とも違う、ひどく透明感があり耳に気持ちのよい余韻を残す。極端な物言いで表現するならば神秘的と言おうか。その声でひとたび歌えば、さぞ多くの者を虜にするだろう。
少女のうしろで木に背をもたれ掛らせた少年は、その言葉を耳で拾っていた。それでも同意すればいいのかも分からず、この場に来てから保つ沈黙を続ける。
「来たかいがあったのかしら?」
少女は返事を求めずに独り言となる言葉を紡ぐ。
肌に心地の良いひんやりとした空気を纏った風が、少女の純白の髪を揺らす。灰の髪を除けば黒ずくめな少年と違い、少女の姿は夜の闇にも浮かび上がる。
「よく、こんなに綺麗なところを見つけられたわね」
「偶然だ」
ようやく少年は口を開くが短くぶっきらぼうだった。少女と二人だけで一緒にいるとどうも落ち着かないことが多く、最近まで気にもしなかったことから彼自身も当惑していた。
「でも、ありがとう。ワタシのお願いを聞いてくれたんだよね」
全幅の信頼を持ち合わせる感謝の言葉が、妙に歯がゆい満足感を持たせる。この場所を探した苦労が一瞬でむくわれた気がした。そのことを意識はしていなかった。
少女が少年のほうに突然振り向く。顔は闇に塗りつぶされ、真紅の双眸だけが唯一目にすることが出来た。
歪みもなく真っ直ぐとした瞳が少年への懇願の色をにじませた。
「もう、ワタシはここから出ていくつもり。シグなら一緒に来てくれる?」
少年はじわりと湿った苔に覆われた地面を見る。答えは決まっていた。あとはどう少女に伝えるか思案していただけだ。
僅かな時間をおいたあとに、少年がはっきりと言う。
「____」
少女は笑った。
ソファに座ったままのシグは閉じていた目を開く。
いつもの怠惰な雰囲気が鋭さを圧殺するが、睡眠による寝ぼけなどはそこに一切ない。
そして、ため息をはく。夢は見ない質だと思ってはいたが、まさか昔の場面が出てくるとは思わなかった。もう思い出せないが、悪い夢ではなかった気がする。
「おや、起きてしまったのかい?」
「寝つきが悪いだけだ。そういう老いぼれはベッドにいる時間だぞ」
「年をとってしまうと眠りが浅いのさ」
火が踊るように揺らめく暖炉の前にフォティスがイスに座っている。窓の外で吹き荒れる雪とは対照的に、とても穏やかに映った。
「寝れないようなら、老人の話にでも付き合ってはくれないか?」
「退屈だったら眠らせてもらうが」
「それで構わないよ。むしろ、ゆっくり眠れていいんじゃないのかい」
意識が覚醒しきって睡眠欲がなくなっているシグは、そばにあった小さなイスを持って暖炉の前に移動した。
イスの上で毛布にくるまっていたレトロが非難する目を向けつつも、暖炉の温かさを受けてシグの膝の上で目を閉じる。食って寝るだけではだめだと、シグにネズミ狩りをさせられたのだ。ひどく疲れていた。
「お茶でも必要かな」
「......いただく」
はなしが長くなりますというパターンだ。聞くと言ってしまったからには無下には出来ない。それに恩もロクに返してすらいないので、最初から拒否権などないだろう。
熱い液体の入ったカップを弄びつつ、シグはフォティスがイスに着くのを待った。
「シグ君はこれからどうするのかな?」
「これからだと? まさか......」
「いやいや、君のことが煩わしくなったとか、食い扶持が厳しいなどではないよ。もちろん冬が明けてからのことさ」
真剣な顔をする青年にフォティスはそっと手を上げた。
もし嘘でも言って肯定してしまえば、すぐにでもここを去っていくだろう。わかっていたからこそ、先に否定した。
「......それなら、なぜだ?」
お互い踏み入ったことは聞かない。最初に世話になった時から成立していた不文律であった。
シグとしては町に来る前からあった守秘義務などないも同然なので、リュピアにあれこれ話したがそれも昔のはなしだけだ。
これからどうするかなど、初めて聞かれた。
「リュピアのことだよ。出来れば、その時にでも彼女を連れて行ってほしい」
これにはシグも驚く。表情では眉を微かに上げただけだったが、予想だにしていない申し出でだった。
いまは寝室のベッドの中であろう少女は、近くでこんなやりとりをしているなど知らない。
「あんたはどうするんだ?」
「もとからここを死に場所に決めていたからね。一人でも大丈夫さ」
「俺が聞きたいのはそれじゃない。あんたの肺のことだ」
今度はフォティスが驚く番だった。ほとんど外的な症状も出ない病気であったはずだが、人の生死を見れる人間にはばれるものなのか。
「まあ、それも理由の一つさ。医者によれば手が付けられないらしい。わかったのは近々表に出る、というくらいだ」
あまりにもあっけからんとした物言いに、フォティスは自嘲する。
「私が死ねば、リュピアはここに一人で残ることになるだろう。あとはあの子の自由だが、それは今だろうと変わらないことだ。君と一緒なら、安心して送り出せるからね」
この田舎の家に留まる事をリュピアは願っていない。だが、枷となる祖父の存在が邪魔をし続けていた。
良くも悪くもタイミング的には間違っていない判断だった。
「俺はこれからコーヴァスに向かうつもりだ。しばらくは滞在するが」
「仕事をやるのかい?」
「やるんじゃない、見つけるんだ。真っ当としたのをな」
本来は当てもない旅という痛い内容だったが、この家に来てからは幾分か変わった。
働くのは実にいい。手を血ではなく土で汚し、頬を流れるのはギリギリの瀬戸際を渡る冷や汗ではなく達成感が溢れるものだった。
それは決して、人を殺し続けたことへの償いではない。死者へ送るのは追悼ではなく無関心だ。
ただ、働けばいらない考えもなくしていける、自分にとって必要な要素があった。
ここまで正直に話すと、フォティスが抑えきれずに笑い零した。
「いや、失礼。普通はここまで真面目に考えるものでもないものだからね」
首をかしげるシグは、自分の発言におかしいところを探そうとしても見つからずにさらにかしげた。
「だが、それもいいだろう。君が言っていることは間違いないしね。あとで職を探せる場所の地図を書いてあげよう、場所が変わってなければいいんだが」
「それはありがたいが......リュピアはどうすればいいんだ?」
「嫁にでも貰ってくれればありがたいのだが」
「よしてくれ、もう嫌われてしまったからな」
シグは両手をあげて降参のポーズを示した。
ギレンたちを片付けてしばらくしてから、リュピアのシグに対する挙動がぎこちない。シグのいい面だけを見ていてしまった彼女は幻滅していたことだろうと思っている。
相変わらず昔話を聞かせて稽古の相手もしているが、最近では目も合うこともまれだ。
「戦いについてのことなら、区切りを付けたとずっと前に言っていた。だが、まだ引きずっているらしいな」
ギレンたちが山の斜面を絶叫コースで転がり落ちてから、今ではそれなりの月日が経っているのだ。
報復などがなかったのは、すぐにこの地域の冬の本場に入ったからだ。いまの吹雪は朝から止むことがなく、視界が一メートルも開かない。山を再び登ってくるのも不可能なほど、ひどい荒れた天気が続く。
冬が開けようにもすぐに出発したいであろう豪商たちだ。一応のため、向こうが出発するまでにもシグはこの家に居続けるつもりだった。
なんとか気まずい空気を改善しようとシグは色々フォローし続けたが、焼け石に水なのかぎこちなさに拍車がかかっている。
「いや、それは......」
「なんだ?」
何言ってんだこいつと語る目で、フォティスもシグもお互いを見やった。
「君は日ごろから気にかけてくれる相手をどう思う」
「ありがたく感じるが」
「それを何度も何度も繰り返されれば、それが好意に変わることはしているかな」
「好意? 親近感を覚えるということか?」
「いまの状況はそれじゃないかい?」
「それはないだろう。あいつは優しぎるから、いくら下種な奴らでも潰した奴を怒るだろう。今日も顔を合わせただけで赤くして離れていったんだぞ」
なにがだぞ、だ。フォティスは一から説明しようとしたが、それでもこの青年は理解できないだろう。
悪意を受けることは当たり前だがその逆は何もないとすら思っている。ギレンの人ではないと言ったのもあながち間違っていなさそうだ。
虚しさと悲しみがフォティスの心を苛む。
「はぁ......まだ、君が了承してくれるかどうかもまだ決まっていないことだし」
「いまの道中はかなり危険だ。それも分かって言っているんだろうな?」
「だからだよ。君なら彼女を守ってやれるだろう」
大戦後の難民の問題はこのごろ薄れてきたらしいが、賊となって略奪に身を染めた者もいまだに居る。
シグに護衛も兼ねてもらおうという魂胆だった。
「殺すことは出来ても、俺は守ることは出来ない。この人殺しに命を預けようなんて正気か」
「ぼけたつもりはないさ。リュピアも承知の上だろうし、君が殺すわけでもないだろう」
シグはカップを手にしたまま肩をすくめた。
「どうにも分からないな。なぜこの家から、あんたはリュピアを遠ざけようとするのかが」
フォティスは相変わらず苦笑する。だが、苦渋の成分が幾分か多く含まれたものだ。
「単なる一騎士の馬鹿な話だ。自分のような道を歩ませたくはなかったがために、孫の人生もすべて変えてしまったというエゴの結果で起こった。私のせいで一族の名を地に落としてしまった」
「貴族がこんな辺鄙な町にいるのは、そんな理由か」
シグはリュピアの太陽のような金髪を思い出す。最初に酒場で会った時かの疑問が解けた気がした。
フォティスの独白は止まらない。
かつて大戦を経験した戦士が口をそろえて言った言葉から始まった。
「あの戦争は、地獄だった」
老人の目は暖炉の光を映していた。
「同胞が隣で死に、部下がアリのように潰れていく。殺すか殺されるかではない。どうやって自分だけが生き残るかと、常に暗い考えを持ちながら見ていることしか出来なかった。そんなことにも気づかず、部下たちは命をなげうち続けてくれたのさ」
命に値段はかけられない。どこの楽天主義者の言葉だったろうか。
あの戦場で命の値段は、路傍の石ころほどの価値もなかったではないか。
「私の家系は代々騎士を輩出するものでね。男も女も、騎士として育てられた。ワークメイル家も同じような方針だったかな。ともかく、戦争が始まってわずか数か月の時、私は彼女に同じ思いをさせたくないとばかりに全てを捨ててしまった」
「そこまでしてなぜ、あいつに剣を教えた? そんなことをしなければ、あんたは悩む必要もないはずだ」
「彼女の人生は彼女だけのものだと、あれから思い続けてね。望むのならばと、汚点ばかりの私が少しでも救われるためにやったことだ」
おそらくフォティスも自分が何をしたいのかが理解できていない。
支離滅裂となり始めた彼の言葉をシグは待つ。
「私は弱かった。もはや、耐えられないんだよ。勝手に何もかも歪ませ続けるのは」
終始、フォティスの表情に変化はなかった。口だけがまるで別の生き物のように開閉し、内心のものを吐き出そうとうごめいていた。
「あいつはそのことを知っているのか?」
「なにも知らないだろう。聞かれないのをいいことに、私は自分が傷つかないため言っていない」
シグはカップに口をつけてからフォティスを見た。
「あんたの提案は受け入れる。世話にもなったしな。あんたは楽が出来て、リュピアは夢がかなう。これ以上ないほど、理想的な話じゃないか」
同情も軽蔑もない、聞く者によっては熾烈な内容だ。これがどれだけフォティスの心を救ったことか。
先ほどまでの話などなかったかのように、二人の話は世間話へと移っていく。
シグはただ淡々と暖炉で燃え盛る炎を見続けていた。




