愛情と襲撃
西国ではこの日、『春の祈願』が正式に開催されることとなる。
これは大戦後で三度目の祭りだ。ハメは盛大に外す。これは国民全員の総意だ。そのためか、城壁越しに暑苦しい熱気が伝わってくるようだ。
それだというのに王城マクシミランでは、後始末を本祭と共に片付けるため、春の祈願の初日に会を開く。
山積みになった食器を運んでいる二人の侍女も、関係ないとばかりに不満を口にする。
「ナタリアさん人使い荒すぎじゃない? でも、あたしたちがサボって怒らせちゃって、シワを増やすのもはばかれるよね」
「同意。時間は薬にして劇薬。なんて残酷なの」
「ネイシェン、ファルナ。その私が後ろにいることに気づいていないのですか?」
恐怖に彩られた顔の若い侍女と、般若の形相をした上司の一幕があったりなかったり。
ともかくパーティの進み具合は順調と言っていい具合だ。
会場は王城の中で最も広いホールが使用され、参加人数を考えれば大きすぎる気もする場所であるが、それは他国へこの国の最大の権威と見栄を知らせるためだろう。
爛々と輝くシャンデリアの下では、赤を基調とした絨毯の上で様々な装いの人物がひしめいている。立食式が採用されており、椅子に座らなくともよかった。
着物と呼ばれる独特の服を着ているのは東国アズマからの役人。浅黒い肌を持つのは南国レガーナから来た者だろうか。
多国籍乱れる(といっても三カ国分だけの)さまは、大戦以降あまりないことだった。
各国の実力者の失踪についての会議が前提であっても、これもまた独自に交流を深めるいい機会なのかもしれない。
思惑と下心の込められた名刺が大量に行きかい、子女の紹介も所かしこでおこなわれる中で、ひときわ目を引く存在。
この社交会に参加する人物の中では、最も権威のあるとされる第三王女だ。
西国の王女は美姫ぞろいなのは有名な話だが、その中でも異端な存在であるティオのことを注目する人物も多い。
王族にして黒目黒髪という異質さは政治的な観点からも見逃せないのもあるが、この場では王女という肩書のほうが重要なのだ。
「はぁ、私はもう疲れたよ、シグラッシュ」
「どこの犬だ」
疲労がわずかに含まれた声を拾い上げたシグラッシュことシグは、ため息をつきたいのを抑える。
「もう半分以上終わったところだ。王女ならもう少し辛抱しろ」
「うへぇ、まだ半分? このペースで話しかけられると息つく暇もないんだよね。あのお皿の肉をがっつきまくってれば問題解決じゃない?」
「別の問題が大量発生してもいいならな」
外交的な問題であったり、王族との付き合いのためであったり、果ては単なる好奇心だったり。近づいてくる人間はあとを絶たない。
「議員が一人、あと十二秒でここまでくる」
シグの声で服装に失礼がないかティオは身体にさっと目をはしらせる。
白を基調としたスレンダーラインのドレスは、彼女の細身ながら均整の取れた肢体を強調する。背中など傷が目立つところは露出しておらず、細かいものは化粧でごまかしていた。
鴉の濡れ羽のような髪も、いつもならいくつかある癖毛がなくなるほど梳かれている。装飾品の類はほとんどなくとも、良い素材を最大限に生かしていると言っても過言ではない。
「お初にお目にかかります。南国で一議員を務める、シールズ・カザーと申すものです」
「どうかお気楽にどうぞ。あまり堅苦しくても、この会には似合いませんよ?」
老議員相手に、にこやかなお姫様モードに入ったティオから一歩下がった位置で、シグは直立不動の体勢を崩すことなく控える。
猫かぶりがうまいと思いながら。
「ははは、たしかにそうですな。して、そちらの青年でしょうか。最近雇われた護衛者とは?」
「ええ、彼にはよくしてもらってます。小言が少し多いですけど」
「ふむ。......年寄りの戯言ですが、命を任せるのなら、相応の態度が必要ですぞ」
不思議そうな顔をしたティオは小首をかしげる。
それについてシールズは続けて言わず、あとは当たり障りのない世間話をしたくらいだ。好々爺の雰囲気のまま、シールズはひょこひょこと人ごみのなかに消えていく。
「あの人って、今日来てる南国のなかで一番偉いんだってさ」
「見かけによらんな」
そんな彼の姿もまた、頑固な癖毛も整えられ、護衛者の制服を隙もなく着こなされていた。両手の手袋はともかく、トレードマークの黒コートがはぎとられている。
格好だけなら護衛者をしているシグは、ゆっくりと周囲に視線を巡らした。
少し離れたところでは、たくさんのフリルが付いたドレスを着こなすニーナが、配属された護衛者を控えさせて東国の参加者と会話している。
ーー顔と名前が一致しないな。
西国のものならば見知った顔がある。しかし他国のものまでは顔と名前が一致しない。それこそ脅威になりえる要因には十分だ。
昨夜に灰装束を手引きした者は、まだ見つかっていなかった。
「どうしたのシグ? 気になる人でもいた?」
声だけの疑問にシグは肩をすくめる。
「お前の姿に見とれていたんだ。とても眩しいぞ」
「私に目も向けないでよくそんな芸当できるよね。あと目が嘘くさいよ、もともとだけど」
「そうかもな。造形の美については知らんが、十分いいとは思うが」
「なんで口にチャック付いてないかなー」
やや棘のある言葉をシグは再度肩をすくめるだけでいなす。
昨夜の灰装束の件は、憮然とした雰囲気を出しているティオに詳しく教えていない。
刺客の数少ない所有物は、持ち主のようにひしゃげている始末で足跡をたどることもできず、正体不明の刺客として処理されることになった。
「ーーやっぱりさ、昨日なにかあったの?」
「それよりもまた議員だ。今度は二人で十秒」
言葉を打ち切らざるを得なくなり、ティオは外向きの雰囲気を作る。医学の関係者だったのか馬が合い会話が弾んだが、相手が一組だけではないこと以外にも早く別れた。
壁際まで移動したティオは自分の護衛者の顔を見上げる。
「シグは昨日から変だよ。大切なところだけうやむやにしてシグらしくない。聞いても屋根から落ちたとかしか言わないし、ニンジャと殴り合ったとかゼッタイに嘘だよ」
「本当のことしか言っていないんだがな。あのニンジャは強いぞ」
「そうやって受け流さないで。シグになにかあったら私は怖いの」
決してティオは頭が悪いわけではない。むしろ趣味の時間もろくに取らず勉学に励んでいるほどだ。細部まで理解できていなくとも、推測を立てることはできた。
「なにもなかった。それでいいだろう。だからこそ、この会は開かれているんだからな」
千人隊長のレノアはこの会の中止を提言していたらしいが、最終的には今さら取りやめられないと国王が続行を決め、かなりの強行策だったと思われる。
「俺の心配はしないで自分の心配をしろ。なにかあれば俺が盾になるがな」
「そんなこと、言わないでよ」
「お前は護衛者の仕事を理解しているのか?」
「わかってる。だけど、私にそんなことを言わないで」
そう言ってティオは傍を通り過ぎる侍女が持つ皿から、ノンアルコールカクテルのグラスを手に取る。
宝石のような青色の液体に映る眉をよせた顔を見た。
「いま何かが起こるわけでもないだろう。お前はいつも通りでいればそれでいい」
いつも通りにという所にアクセントを付けたシグの答えに、ティオは表情を変えずに不服そうな雰囲気を出す。
「あともう少ししたら、ちょっとだけ外に出ようね」
シグの返事を聞く間もなく、ティオは足を踏み出す。人が自然と道を開けてできた空白を背筋を伸ばしながら進んでいく。
笑顔のまま軽やかに、しかし細く白い足を止めることなく。
そのあとを続くシグはティオが出したはずの結論を聞いていないことを、なぜかこのタイミングで思い出した。
それでも別にどうでもいいことだと思う。自分の手出しや口出しは勝手にやったことであり、彼女の意向は関係ないことだとすぐに割り切った。
だが、一かけらの興味もないと言えばウソとなることにも彼自身は気づいていなかった。
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何気なくシグが支給された懐中時計を開いた。針はあと半刻で会の終了予定時刻を示すだろう。
緩やかに緊張の糸がほつれるのは、騎士たちも例外ではない。
あくびを噛み殺し、シグはティオの背後を付いて回った。この場にいるほとんどの者と挨拶をかわし、いくらティオに体力があっても疲労はたまるだろう。
「ちょっと付き合ってくれないかな?」
だからこの提案にもシグは拒否することはしなかった。
すれ違う貴族や役人に会釈をしながらホールを出る。出入り口はいくつかあるが、巨大な正面以外の場所は前提として少人数を通すためであり、このときは封鎖されていた。
入り口となる扉の前では騎士たちが複数人立っており、入場者を厳しく統制している。
廊下へと出ても談笑に励むものたちがいた。
ティオはそのまま足を止めることなく優雅に進んでいく。
それも人目につかない部屋に来るまでだったが。
「はしたないぞ」
「今回くらい大目に見てよ、けちだなー」
「俺はいつもお前のことを大目に見ているつもりだ。イージーからハードに引き上げてやってもいいんだぞ」
「なんの難易度がレベルアップするの!?」
使われていない部屋に入るなり、ティオは柔らかい長椅子に埋もれるように座り込む。ドレスに皺が出来ないように調整するところが抜かりない。
「今日は慣れてるつもりだったけど、文化が違うと気を使うことが多いし。やたらとえらい人ばっかり呼ばれてるし、去年より人が多すぎだよ」
「仕方ないだろ。お前は王女なんだからな」
愚痴を王女だからという一言で受け流す。
むすっとした雰囲気のティオが笑顔のまま自分の隣を手でポスポス叩いた。シグにはなんとなくだが、この笑みを浮かべる王女の雰囲気が理解できてきた。それが良いことか悪いことかはわからないが。
「なんだ、埃でも積もっていたか?」
「ちがう! ちょっとこっち来てよ。......だけだと分からないだろうし、私の隣に座って」
「面倒だな。別に今じゃなくてもいいだろうが」
「キミってほんっとに無神経だね。いいから早く早く」
もとが二人用の椅子だけに、シグが座るとおのずと彼らの間隔は近くなる。
お互い何も言わず、会話の空白が出来上がった。
ティオには時間がそうあるわけでもない。護衛者として一言言おうとしたが、機制は先に制された。
「シグに言われてから色々と自分で考えてみたんだ。いつもあえて考えようとしなかったこと」
「一昨日のうちにもう纏めていたのか?」
「ううん、昨日もずっと考えながら」
あの異常な忙しさの中でよくそんな余裕があったものだ。とても別のことに思考が回らなそうだというのに、ミス一つせずに行動していた姿をシグは思い浮かべる。
「私には愛って言葉がなんなのか、分かんないってことが分かったの」
「これはまたロマンチストだ」
「もう、茶化さないでよ。珍しくまじめに話してるんだから」
「自分で珍しくと言っていればそれまでじゃないか?」
口答えしても始まらないからか、ティオは何も言わなかった。
理解して心の中で反復した本心の核を突いていたことを確認し、堪えていたものを吐き出したくなる。
この気を遣わなくてもいい青年になら、なんだかんだ言われながらも受け止めてくれると思っていた。
「だが、誰もが完全に理解できている感情でもない」
「そうだね。でも私は何も知らなかったんだ。いくらそれっぽい本を読んでも、街に出て仲良くしている人たちを見ても、少しどころかまったく理解できなかった。どうしてそうなるんだろう? って」
押し殺されていく声音は、いつもの調子を狂わせないようにすることで精一杯だ。
「小さい頃は信じてたの。私に向けられる愛情が本物だって......でも偽物だって、騙されてたって知っちゃってさ、もうなにが本物なのか分かんなくなっちゃった」
おどけるように言ってみたつもりか。ティオのそれは成功したとは言い難い。
どれだけ内心を吐露しようとも、笑みがティオの顔から消えることはなかった。文字通りの仮面であろう表情の裏には、癒えない傷を負った小さな少女の姿がある。
「いまも誰かの手のひらで踊らされてるだけだと思うと、すごい怖いんだ。アリス姉さんもセリオスさんも、それにシグも私を助けてくれるけど、心の底から信じ切れてないんだ」
「ヒドイなそれは。言わなくても済んだんじゃないか?」
「ごめんね。信頼とか言っちゃってたけど、単なるポーズだったみたい。それに、話しておかないとって思ってさ」
裏切ってしまった行為をティオは自分から明かす。これで護衛者がどう思うのかと考えると気落ちして、暗雲とした心情だ。
しかしシグの顔には失望の色などなく、口調もいたって平穏な怠惰を抱えたままだった。
「お前がそう言っても俺は何も変わらない。何を望んでいるんだ?」
「......私は、シグが」
「あえて言うなら、お前は一つ勘違いをしている。お前は、一人じゃない」
言葉の意味が分かっていても理解できないのか、口を止めさせられたティオは首を僅かに傾げた。
頭に疑問符を浮かべるティオをよそに、ため息を小さく吐いたシグが椅子から立ち上がり、閉まった扉へと声を掛けた。
「おい、こそこそしていないで出てきたらどうだ?」
扉の向こうで一拍だけ空気が止まりつつも、ゆっくりと開かれていく。壁も厚く多少の防音性がある室内からの声に反応したのは、行使力での聴力を活性化させていたためだろう。
気まずげにニーナが顔を出した。
「ニーナ?」
「ご、ごめんなさい。聞き耳を立てるつもりはなかったんです。ただ気になってしまい......」
子供の興味心がニーナをここまで掻き立てたのか。
会の主役が二人そろって抜け出してしまったことになる。
「シグ、いまの時間は?」
「まだ大丈夫だ。だがそろそろ急いだほうがいいな。ナタリアから有意義な小言をもらえるぞ」
「だってさ、ニーナ。話も終わったし、一緒に会場のほうに行こっか」
「え、あ......はい」
本当に終わったはずがない。しかし気配りなどもせず妹を追い詰めることもしなかった。咎めることもせず、ティオはニーナの肩に手を置いて促す。
シグを伴い、王女二人は廊下に出た。
どちらも気まずく思い会話が途切れたが、ティオのほうから話を振った。
「どうだったニーナ? 初めてだったけど緊張しなかったかな?」
「は、はい。でも、最初だけでしたので、粗相はなかったと思います」
「うん、よろしい!」
「目つきの怪しい方には、ティオ姉さまに言われたとおりに指摘したら逃げていきましたよ。根性がなかったです」
「戦えなくても口撃の威力は上げとかないとね」
姉に褒められてニーナは表情を少しだけ緩ませた。
「そ、その、この場で言うことではないのですが、数日前のことも含めて......ごめん、なさい」
「だから大丈夫だよ? シグからも聞いてるし、謝らなくてもニーナを責めることなんて絶対にしないからさ」
羽毛に触れるかのように、ニーナのほおを撫でる。
それでもニーナはすぐに割り切れた様子はない。話題を変えるように改めて話を振る。
「もう少しで閉宴なのは分かるよね? 私たちの出番もあることとか、国王がやってくるとか」
「は、はい。わたしもそれで、ティオ姉さまと移動しようかと」
「ごめんね、ニーナは先に控室に行っててほしいんだ。私もすぐに行くからさ」
「ど、どうしてですか?」
「セリオスさんが呼んでるの。それと、私はこのままホールに行かないといけないしね。早めに済ませときたいから」
視線の先では廊下の端に、セリオスが立っていた。それを見るとニーナは納得する。
ニーナの付き人であろう男も付近におり、別れてもちょうど良い場所だ。彼女も先ほどのこともあり邪魔したくないというのが本心だろう。
「で、では、わたしは先に行って待っていますね」
「うん、またあとでね」
シグを引き連れてティオは彼に近寄っていく。
廊下の端のほうにいるセリオスは「待たせてんじゃねーぞ、あぁ!?」と言いたそうな顔でティオとシグを見た。ティオが手を振るのに返すのは一ミリほどの頷きだ。
ただいるだけでヤバいオーラを放出しているセリオスの周囲は、必然的か自然的に空白地帯を生む。人払いには持って来いだった。
「少し待たせちゃった?」
「いえ、貴方がたの時間の邪魔をするつもりはなかったのですが」
ものすごく気にしてそうな顔のセリオスは、シグに向き直る。
「昨夜の件はお話に?」
「ちゃんとありのまま伝えたさ。それでも疑い深く信じようなんてしなかったが。こいつはわかってない。それで十分だ」
「左様ですか」
ただ訊いただけなのか、むっとしているティオをセリオスが見下ろす。
「これより始まる閉宴の挨拶に国王がやってくるでしょう。どうか、お心を乱されずに」
「わかってる、大丈夫だよ。そもそもあの人は私に見向きもしないだろうしね。アリス姉さんにそう伝えといてくれる?」
「御意」
慇懃無礼な態度で年季を感じさせる礼をするセリオス。
シグはフードの中からレトロを引っ張り出すとセリオスに突き付けた。首を掴まれながらジタバタもがくレトロは、セリオスから離れようと必死だ。
「すまないが、終わるまででいいから、レトロを預かっててくれ」
「では、お引き取りしましょう。アリス様もペットがほしいと日ごろから言っておりますので」
「キュイ!?」
「こいつは馬鹿じゃないから、部屋の中に放り込んでおけば静かにしているはずだ。おとなしくしてろよ」
主人の声を聞いたからではないが、レトロはセリオスに抱えられて哀れに見えるほど縮こまっていた。ティオは隣で不憫だと思った。
三人の脇を、壇上の準備をするためであろう使用人が数名、台車をひきながら控えめにホールへと入っていく。
「うわ、そろそろ行かないと。ナタリアさんの小言って長いんだよね」
「では、わたくしはこれで」
セリオスが去り、踵を返すようにティオがホールへと体のむきを変える。シグもいつもならば、その黒髪を追う形で歩くだろうが、違和感を覚えて立ち止まった。
「どうしたの?」
「いや......」
生返事を返し、すぐにティオのあとを追う。
ホールに入ると静かながらの盛興が、空気の揺れとなって二人を迎えた。
緩やかな活気へと降りていくホールには、おかしいところはなにもない。それはティオも同じようで、なにかに気づいた様子もなかった。
談笑する貴族。取引について話す議員。唯一、剣を腰に下げた騎士。
ーーこれは、なんだ?
シグが思考したのはほんのわずかな時間だ。理由を直接目にするには、それ以上の遅延は必要なかった。
違和感が自分に向けられていなかったがゆえに、気づくのが遅れた。
平穏は作られるより、破壊されるほうが簡単だ。いくら哀愁に浸っても現実は逃そうとしてくれない。かつてそう口にした同業者の言葉が脳裏に蘇る。
壇上の下。木製の踏み台を抱えている存在感の薄い無特徴な男。茫洋とした目がティオのドレスの裾に流れる。野次馬。好奇心。そう結論付けるのが馬鹿らしいほど、けしてそんな柔な顔ではない。
獰猛な眼光がティオを射抜く。
男は重く踏み込み、腰をゴムのようにねじった。ミシリと空気が軋む気配。
もとから注目していない存在など目に入っていないため、使用人の不審な挙動に気づいたのは周囲の僅かなものたちだけだ。その中で咄嗟に動けるものがどれほどいたか。
溜めは終わった。男は勢いよく腕をハンマー投げのように振り抜く。
その手にあった踏み台は消えている。
「正気か?」
強引にティオを抱えて、シグはその場にふせた。
標的をはずした踏み台が巨大な扉とぶつかり、火薬でも仕込んでいたのか爆発する。
先端の尖った木片と一緒に金属片も床に突き刺さった。それが近くの人間の肉に食い込み、さらにえぐっていく。シグのほおも裂け、垂れた血がティオの手の甲に落ちた。
「え......?」
ティオがどこか気の抜けた呟きを漏らす。笑みと呆然が同居した顔をしている。
そしてやっと連鎖的な恐慌が起こった。苦痛、驚愕、恐怖の順に彩られる声は、混乱を呼ぶのに十分な力を秘めている。
偽の使用人が自らが起こした阿鼻叫喚の中、肉食獣のごとくすれ違う人間を殴殺しながら、一直線にティオへと駆けてきた。
「じっとしていろ、いいな?」
当たり前だが、とっさに現状を理解できていないティオを降ろすと、シグは服の裾からナイフを取り出して投擲。はなから武器の所持が禁止といっても守るはずがない。
脚部を狙った投擲物を男は傷つくのも厭わず、右手で強引に払いのけた。行使力の障壁に阻まれて思ったほどダメージはない。
男の豪走は止まることなく、先の踏み台で体の一部が吹き飛んだ屍を飛び越しては、一直線に進む。
ーー狙いはうしろの王女か?
それほどまでに迷いのない動きだ。
しかし踏み台が当たっていれば、ティオは死んでいた。灰装束とは無関係にも思えず意味のない考えが頭を通り抜ける。
ならば、護衛者のやることは一つだけだ。
男の進路にシグが立ち塞がる。邪魔ものとして男が獣の顎のごとき熊手を、シグの頭部に繰り出す。それを右手で打ち払い、左拳を男の腹部に叩き込まんとした。それを弾かれ、予想していたシグは連撃に繋げる。時間的に三秒。瞬間的な十合のやりとりをし、だが仕留めるには至らない。
シグは膝を砕く容赦のない蹴りを放ったが、それも男が大きく飛びずさったことによって不発に終わった。距離は広がり、男はホールの中央に。
そこでようやく、剣を引き抜いた騎士たちが男を取り囲んだ。
「手足を切り飛ばしてもいい! この曲者を捕えろ!」
「ッ! やめろ」
警告を発したシグを無視して、上級騎士に言われたことを実行するため、一人の騎士が男に肉薄し、次の瞬間には横薙ぎの一閃。
噴水のように盛大な血しぶきが噴き上がる。
「なっ!?」
驚愕の声は誰のものだったか。
首のなくなった騎士が膝を床につけた。
腕を振り上げている男の姿から、とてつもない腕力だけで騎士の首を吹き飛ばしたのだと悟る。どちゃりと落下した騎士のなれの果てを見て、予想は確信に変わった。
我先にと、ホールから人が雪崩れだした。出口は一つしかない。入ろうとする騎士は波にもまれて応援として機能しない。
シグはほおの血をぬぐいながらティオを抱き起こす。
「おい、動けるか?」
「シグのおかげで怪我はないよ。でも、キミが」
「かすり傷だ。騎士のやつらが足止めをするだろうから、お前は早く逃げ......」
扉の人波はいまや奔流だ。細身のティオならばあっさりと押し潰されるだろう。
「......られないよな、これは」
「でも、出口に向かわないといけないんじゃない?」
「いや、そういうことでもない。遅かったな」
シグはもう人の塊を見ていなかった。
「オオオオォォォオオオッ!!」
咆哮が空間を揺らす。とても人間の喉から出たとは思えなかった。細められたシグの視線は、両腕に作った行使力の障壁だけで騎士の剣を受け止める男から、膨大な行使力がさらにあふれ出たのを見た。
たった一人の襲撃。
それはこの男一人で成功するからこそ、行われたものだとしたら。
敵陣の中で孤軍奮闘が可能な戦力であったのなら。
Graaaaaaaaaaaaa!
男の野太い方向と共に発生した行使力の奔流は、剣を叩き付けていた騎士どころかその周囲、会場全体を巻き込む波となってすべてを吹き飛ばした。
無形の力に抗うように、シグは足を踏ん張りティオをかばう。悲鳴を上げないだけこの王女は大したものだと思いながらも余裕がないのは、三度体ごと床を転がったからだ。
嵐の発生が唐突なら、終わりもまた唐突だ。
もはや中央に居たはずの男はいない。代わりなのか、そびえ立つような巨躯が会場の端からでさえ見える。
大きさは四メートルを優に超え、二足で立っているが顔は獅子のようであり、ずんぐりとした獣人を彷彿させた。
しかし生物らしさはそこにはない。表面は白く分厚い壁のようなものでおおわれており、肉質的なところは全て隠れている。獣神の像だと言われたほうがしっくりとくる造られたような体躯。
そして幅が大人二人分以上あるほどの、異常に発達した巨大な腕。
男が成り代わった姿だということは教えられていなくとも、ホールに残された人間たちは嫌でも理解した。
Graaaaaaaaaaaaa!
二度目の咆哮は、空気に絶叫さえ上げさせる。
たくましすぎる腕の拳を左右で打ち付けられた。
完璧狩戯
『なにか』が鎧獣を中心として吹き出る。
「な、なんだこの壁は!?」
逃げようと出口に向かった貴族は、見覚えのある不可視の障壁に行く手を阻まれた。
人の動きが強制的に止められる。扉を境界として人の交差を途絶えさせたのだ。ある程度の知識があれば、それが本来人体の周囲にしか展開できないはずの行使力による障壁だと分かったはずだ。
「この、化け物がぁ!」
混乱から早くも脱出したのは上級騎士だ。上段による威力の乗った剣が、鎧獣の右腕関節部に振り下ろされる。その一撃は、肘から先を斬り飛ばすはずだった。
剣は食い込むどころか弾かれる音もなく停止する。
『ーー笑止』
狼狽した騎士を見下ろす獣は、虫でも叩き潰すように巨大な腕を振り下ろした。
慈悲など欠片もない自然すぎる動作である。それによって生まれたのは名もない赤い染みだ。
こんなものは戦いですらない。
見た参加者の心に、これから大きくなる絶望の芽が僅かに根付く。
異形が纏うのは絶対的な鎧。それは矛となり盾となる。
内向干渉法則『鎧獣内剛』
本来は身を守るはずの結界内は、獣の狩場へと変貌を遂げた。




