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ある理系男子と微睡み姫

作者: 鳥籠 鴉

──例えば、呼吸。


「簡単に言えば生体は外界から酸素を摂取し、二酸化炭素を排出する行為。

少し詳しくすると、呼吸運動によって肺胞内に吸引された酸素は、肺胞膜を通過し血液中に拡散していき、血中の血色素と結合し、全身の組織へと送られる。

一方、物質代謝の過程で生じた二酸化炭素は組織細胞から血液中に拡散し、血漿中に溶解した状態で肺へ送られる。肺では酸素分圧が低い方から高い方へのガス移動によって血液から肺胞内の空気中へと拡散し、呼息によって体外に排出される。

この長ったらしい経緯を辿って人間は呼吸というものをする。

例え原理を知らなくとも、生まれたばかりの赤子さえ本能で行う。」


ノートをとる様に。

或いは演説をするかの様に。

独りつらつらと騙る。

一通り独り言を言って満足したのか目の前の池に背を向け、そのまま身を委ねる。

バシャッと大きな音を周りに反響させながら、服が濡れるのを意に介さず水面を揺蕩う。

どうせ替えはある。

水の波紋が広がり、浮かぶ木の葉を揺らす。

先の音に驚いた蝉達が止めた輪唱を再開する。

ジジジと恨みを言いながら目の前を去っていた蝉も数匹。


青々とした葉を茂らし池に影落とす木と、そこが見える程澄み渡るひんやりとした水が、この季節のじめじめとした空気と熱を忘れさせてくれる。

しかし、どんなモノもこの微熱に浮かされた様な頭を冷やしてくれない。


「言うだけ言って飛び込みましたか?」

気だるそうなリリックソプラノが尋ねた。

木が風もなく若々しい緑の葉を落とす。

「ッ!…別に誰かに聞かせるつもりではなかった。」

先客が居る事に多少なりとも驚く。

普段では教育機関なのだから、何処に人が居ようが驚かない。

しかし人により時間割が違うとは言え、今は授業の真っ只中。

教育機関だからこそ今、ここに人が居るのはおかしい。

…まぁ大方、自分と同じ理由だろう。

「そっちじゃないよ、飛び込みの方。…プッ」

けらけらと陽気に笑い出す。

一通り笑って満足したのか、いやー笑った笑ったなどと宣いやがった。

「うるさい、笑うな。それに何時もの事だ。」

「何時ものなの?…ぷくくっ、わざわざ海パン持って?」

またけらけらと笑い出す。

「ここで着替えても良いのよ?」

今度はぐふぐふ不穏な笑い声が聞こえ始めた。

…要らぬ想像でもしてないか?

いや、してる絶対にしてる。

「良く見ろ、服のままだ。どうせ替えがある。」

「あれ?本当に?つまらないなぁ。」

どうやら答えにご不満のらしくぶつぶつ何か言っている。

「でも、どちらにしろ着替えるには着替えるかぁ…。」

変な奴。本当に、変な奴!


「…そういえば、さっきのあれ、全部覚えたの?」

閑話休題。

声音もまた眠そうな声に戻っていた。

「全部は覚えてないし、あれで全部でもない。まだミトコンドリアやら二酸化炭素分圧には触れてない。

なんならそこから話すか?」

「あー難しいのは、勘弁勘弁。」

間髪入れず、やる気のない声で丁重に…とは程遠くお断りされる。


──風が沈黙を運び込む。


今日の俺は微熱感のせいか何処かおかしい。

名も顔も識らぬ者に普段抱いてる疑問を投げ掛けたくなった。

多分理由も特にない。

ただ、普段なら無駄でしかない会話というものを、この会話に対しは楽しいとすら感じたから。


「呼吸とは重要ではあるが絶対ではないと思う。」

…ただ、これで反応が無ければ止めておこう。

「それは、何故?」

眠る手前なのかも知れない。

しかし彼女は途切れながらも、睡眠ではなく自分の話を聞いてくれる様だ。

このひどく幼稚な疑問を。

「絶対であるならば、片時も呼吸を止めれない事にならないだろうか。」

「言葉だけで取ればそう、ね。」

カサッと1回だけ音をたて木の葉が肯定を示す。

「しかし数秒、或いは数分間息を止めたとして、何になる?

試しに俺は水に潜ってみる。」

相手の反応を待たず2、3度深呼吸。

後、大きく胸を膨らまし、肺に空気を溜め、ばしゃりと音だけを残して姿が消える。


…大体1分半。

再びばしゃりと姿を現す。深呼吸をし息を、高鳴る心臓を落ち着かせる。

「ふう、息を止めているその間、数百の細胞が死ぬと言われているが、今それを俺は実感出来ていない。」

「それは今すぐ死ぬ訳ではないからかも知れないよ。」

合いの手と欠伸が一つ。

言いたい言葉が止めどなく溢れ出す。

まるで子供相談に相談する子供の様に。

彼女ならこのどうしようもないこの気持ちもただ聞いていてくれるという錯覚。

「…皆、俺は空気の様に必要であり不可欠だと言った。」

「大切な人には、言う、だろうね。」

また木はかさりと音をたて肯定した。

「でも俺は自分が誰かにとって不可欠だとは認識していない。」

「それは、何故?」

先程と同じ様な気だるい声で尋ねてくる。

責めている感じではない。

純粋な疑問。

何故かそう捉えられた。

「他人からの反応。

兄と俺との他人の発言、或いは行動。

多分、他人に話した所で答えは大方、さっきと同じ。」

ただ漠然と感じていた他人の兄と自分との接し方の差。

自分は友人にさえ兄貴の弟としてしか見られない。

「私には、分からない。

兄弟は居ないから。」

先程より更に途切れがちに言葉が紡がれ、2回木の葉が揺れる。

他人の不幸話を聞いた所で、相手はどうしようもないのは分かっている。


「僕は死のうと思う。」

「…君は死のうと思った。」

オウム返しに言葉が戻って来る。


「君は死ぬの?」

「あぁ。俺は死ぬ。」

「そう。なら仕方ないね。」

「止めないのか?」

「…止めて欲しいなら。」

興味など微塵も無いと言いたげに返される言葉。

「ただ…最期にさっきの問に対する私なりの答え、聞いてくれる?」

彼女は彼女なりに答えを導き出してくれた様だ。

「あぁ、聞かせてくれ。」

「貴方自身で答えは出してあるよ。本能であると。

赤子でさえ本能で息をし生きている。

誰かに必要とされる事もまた、本能じゃないかな。理屈で人は生きてない。」

「でも俺は本能で必要とされてないと感じる。」

「差異というものは人を喜ばせる場合もあるが、時に不規則性偶発不快感を表す。

事前に予兆があり、知る事は出来てもそれを回避出来る人間は殆ど居ないに等しいの。

これを克服したいなら、2つの行動がある。

1つは差異の克服を進化の過程であるとする。

まるでプログラムされていたかの様に。

もう1つは差異を人間らしさであるとする。

あたかも計算された誤算ともいうべきだろうね。

言い換えれば許容。」

先程とは打って変わり、饒舌に彼女は語る。

まるで自分が体験したかの様に。

「私が必要としてるよ。

君の事を今、この瞬間。」

1+1が2であると言う様に、さも当たり前に彼女は答えた。

「…ふっ、あはははは。」

何故だかとても可笑しく感じた。

今まで他人は必要だとは言ってくれた。

誰かが必要としてくれると。誰も自分が必要としているとは言ってくれなかった。

そんな自分が他人に何年も望んで止まなかった言葉を、彼女は初対面の自分に当然だと言う様にものだから。

しかも見事に自分のコンプレックスを曝してくれたのだから。


風が木の葉を揺らす。

「…りがと。」

「ん?何が?」

「いや、何でもない。」

水から上がり替えの服に着替える。

すうすうと小さな寝息が聞こえる。

背を向き俺は歩きだした。

「…死にに、行くの?」

か細い、寂しげな声音が尋ねてきた。

「いや、4限目。今行けば間に合うから。」

「ふーん。そういえば、最初のあれ酸素分圧のとこ、逆だったよ。」

そう言ってまた彼女は微睡む。

…分かってたんじゃないか。

普段なら自分の非を指摘されるとむっとする俺も、今日は悪い気がしなかった。


──視界が歪む程の熱気の中、まだまだ熱は下がらないが、少しだけ冴えた頭で俺は教室に向かう。


次にまたあの場所で会ったのなら名前位、聞いてやる。



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