白い目の傘
列車を降りて、駆け足で屋根のある駅舎に走る。
しとしとと振り続ける雨に困っているぼくの目に入ったのは、一本の善意の傘だった。
傘を開いてみると、小さな白い目がついているのに気が付いた。
白墨をこすりつけたような小さな白いシミが、ぼくを見つめるように二つ並んでいる。
傘はぼくを覆いきるには少し小さかった。
それでも傘は一生懸命冷たい雨粒を防いでくれる。
ぱたぱたと雨が傘を叩く音が耳に心地よかった。
あくる日、出かけるついでに、傘を駅に返した。
返してください、なんて一言も言われていないけれど、また誰かの役に立てばいい。
その日も思わず雨が降った。
また白い目の傘に助けてもらおうと思ったけれど、
善意の傘立てには一本の傘も残っていなかった。
そろそろ立春を迎えようという日、ぼくはまた白い目の傘を見つけた。
まるで、その傘立てからなくなったのが嘘のように、
白い目の傘は平然と雨で困っている人を待ち続けていた。
ある雨の日ぼくは、白い目の傘を一人の女の人が持っていくのを見た。
ある雨の日ぼくは、白い目の傘を差して歩いている親子を見た。
ある雨の日ぼくは、転がされてる白い目の傘の下で毛づくろいをする猫を見た。
何度かしばらく見えなくなることはあっても、
晴れの日の白い目の傘は、当たり前のように善意の傘立てで雨の日を待っていた。
夏の真ん中に、台風がやってきた。強い雨、それ以上に暴れる風。
台風が過ぎ去った晴れの日、
善意の傘立てに挿された、白い目の傘は骨が折れていた。
それでもどこか誇らしげに、白い目の傘は手に取る人を待っていた。
それから何度か雨がやってきたけれど、白い目の傘はいつも傘立てに残るようになった。
意を決して雨の中に走り出す人を、見つめる傘の白い目は、どこか悔しげで、
ぼくは、白い目の傘をそっと手に取った。
歪んだ骨だけじゃない。傘に張られた布地は色あせて、ぼろぼろになって。
もの問いたげな、白い目だけが、初めて見たときのままだった。
ぼくは、自分が持っていた青い傘を、善意の傘立てに挿した。
そして、白い目の傘を、さび付いた軸をなでるように開く。
ぼくを覆うにはその白い目の傘は少し小さくて。
それでも、一生懸命に雨粒を防いでくれた。
ぱたぱたと雨が傘を叩く音の一つ一つが雨の代わりに体にしみた。
それから、白い目の傘はずっとぼくの家の傘立てにいる。
もうこの傘を差すことはないけれど、
雨と戦い続け、ぼくらを守り続けた白い目の傘。
そのぼろぼろの姿を見るだけで、ぼくも負けていられない気持ちになる。
あれからまた雨が降った。
傘は持ってきていなかったけれど、善意の傘がまだ残っていた。
それは見覚えのある青い傘だった。
傘を開いてみると、小さな白い目がついているのに気が付いた。
白墨をこすりつけたような小さな白いシミが、ぼくを見つめるように二つ並んでいる。
傘はぼくを覆いきるに十分な大きさで、
かわらず傘は一生懸命冷たい雨粒を防いでくれる。
ぱたぱたと雨が傘を叩く音が耳に懐かしかった。
雨とともに季節は移ろい行く。
寒くなったり、暑くなったり。
冬の冷たい雨を、梅雨の長い雨を、ぼくらは白い目の傘とともに越えて行く。