どこですか、ここ?
美味い。安い。早い。
この言葉を作った人は天才だと思う。
別に牛丼屋だけの話ではない。世の中の仕事はだいたいこれで評価される。
ただし僕の仕事である引っ越しバイトに限って言えば、少しだけ字が変わる。
美味いではなく上手い。
早いではなく速い。
つまり、上手い。安い。速い。
安いについては主に僕の時給の話になるので深く考えないことにしている。何事も触れない方がいい荷物というものはあるものだ。
僕、佐倉清史は、高校を中退してから引っ越し会社でバイトをしている。
学歴も資格もない。職歴らしい職歴もなく、履歴書に書けるものなんて名前と住所。あとはせいぜい体力には自信がありますくらいのものだった。
その体力も面接官からすれば若者の自己申告でしかない。僕だって逆の立場なら信用しないと思う。
そんな僕を経歴だけで断らず雇ってくれたのが今の引っ越し会社だった。
給料が特別いいわけではない。
仕事はきつい。朝は早いし夏は暑い。冬でも階段を何往復かすれば汗だくになる。
先輩たちに軽く扱われることもある。
「若いんだからもっと走れよ」
「中卒なんだから根性見せろ」
「お前は頭より体を使え」
そう言われることも珍しくない。腹が立たないと言えば嘘になる。
けれど社長には雇ってもらった恩がある。
「真面目に来るなら、まず一ヶ月やってみろ」
社長は僕の履歴書を見てもすぐには突き返さなかった。だから雇ってもらった以上は任された仕事をきっちりやると決めている。
引っ越しの仕事はただ物を運べばいいわけではない。重い物を持って速く動き、時間内に作業を終わらせる。
もちろんそれも大事だ。
でもそれだけならこの仕事はもう少し簡単だった。
冷蔵庫を先に入れたせいで、奥に置くはずの段ボールが通らなくなることがある。タンスの向きを間違えれば廊下の角で詰まって運べなくなる。小物の箱を適当に積めば、あとで依頼主が必要な物を探す時に困ったんだと苦情が来る。
食器の箱を下に置けば危ないし、衣類の箱を奥に入れすぎれば、引っ越したその日の夜に着替えが出せない。
荷物は置けば終わりではない。
その人の生活はそこからまた始まる。
だから僕は運ぶ順番を考える。
だけど、これを言うと先輩たちにはだいたい笑われる。
「お前、段ボール相手に真面目すぎんだよ」
まあ、それはそうかもしれない。
段ボールは喋らない。冷蔵庫も文句を言わない。タンスに至っては、たまに壁を削って人間側を黙らせてくる。
それでも、人から預かった物を適当に扱っていい理由にはならない。
だから僕が気にするのは、預かった時と同じ状態で届けられるかどうかだけだ。
上手く運ぶ。
余計な損を出さない。
速く終わらせる。
それが今の僕なりにできる社長への恩返しだった。
だったのだが。
あろうことか今の僕は、その仕事を見事にほっぽり出している。
いや、違う。
ほっぽり出したという表現には大きな語弊がある。バックれてやろうなんて気持ちはもちろん一ミリもなかった。
朝からちゃんと現場に入った。段ボールの数も確認して、搬出の順番も頭の中で組んでいた。
先輩に言われた通り、僕は二階の奥部屋から少し大きめの段ボールを一つ抱えていた。
そこまでは間違いなくいつもの引っ越し現場だった。
ところが次に踏み出した足は、二階のフローリングではなく湿った土へ沈んだ。
「えっ?」
靴底から伝わる感触がおかしい。そう気づいて顔を上げると、さっきまであったはずの廊下も奥部屋の扉も消えていた。一緒に作業していた先輩の姿までない。
「あれ。荷運び用の使い魔を召喚したはずなんだけど……?」
知らない声がした。
声の方には、ローブを着て杖を持った少女が立っていた。
「えっ……どこですか、ここ。何で……」
少女に聞いたはずなのに、自分でも何を尋ねたいのか分からなかった。どうして廊下が消えたのか。先輩たちはどこへ行ったのか。それとも僕だけが、どこかへ来てしまったのか。
元の廊下を探そうとしたのか、少女から離れようとしたのかも分からないまま後ろへ下がる。踵が床から突き出た石に引っかかり、僕は段ボールを抱えたまま尻もちをついた。
「うわっ!」
地面にぶつかった衝撃で腕が緩み、段ボールが膝の横から滑り落ちかける。
「あ、危ない!」
上体を倒して箱の底へ腕を差し込み、地面に落ちる寸前で抱え込んだ。
角も底も潰れていない。中から何かが割れた音もしなかった。
よかった。
段ボールを胸元へ引き寄せて何度か息を吸う。
箱が無事だと分かってから、ようやく目の前にあるものを一つずつ見られるようになった。
少女は僕と同じくらいか少し年下に見えた。薄い金色の髪を後ろでまとめ、ローブのような服を着ている。手に持っているのは、どこから見ても杖だった。
僕は段ボールを抱えたまま足元を確かめ、ゆっくり立ち上がる。
そこには円形の光る模様が広がっていた。円の中へ刻まれた細かい文字は英語でも漢字でもなく、少なくとも僕の知っている文字ではない。
周囲は石造りの古い小屋。
屋根は半分崩れ、床には枯れ葉と土が入り込んでいる。窓は板で塞がれ、扉まで壁の端へ隠すように付いていた。
人に見つからないよう何かをするには向いていそうな場所だ。何をする場所なのかはあまり考えたくない。
小屋の外には暗い森が広がっていた。
太い幹の木には見慣れない尖った葉が茂り、地面には僕の靴より大きな足跡まで残っている。
熊だろうか。
熊の足跡をちゃんと見たことはないので断言できないが、少なくとも近所の犬が残したものではないと思う。
周りは分からないものばかりだったが、腕の中の段ボールに貼られた伝票はさっきまでと何も変わっていない。
僕がどこへ来たにせよ、これは依頼主から預かった荷物だ。元の現場へ戻るまで僕の担当であることは変わらない。
「安心して。僕が絶対に君を元の場所へ連れて帰るからね」
段ボールにそう言い聞かせると、少し気持ちが楽になってきた気がした。




