虚ろな選択
レイは、その場に立っていた。
自分の足で立っているはずなのに、感覚がない。
床に触れている実感すら、曖昧だった。
視界の端で、何かが崩れている。
砕けたガラス。歪んだフレーム。裂けた床。
中心にあるのは――自分だ。
(……俺が、やったのか)
理解が、遅れて追いついてくる。
耳鳴り。断続的な警告音。
誰かが叫んでいる気配。
だが、すべてに距離があった。
水の中から聞いているみたいに、ぼやけている。
「……なんだよ、これ」
声に現実感がなかった。
誰も、近づいてこない。
床に広がった亀裂の縁が、じわじわと崩れていく。
まだ、終わっていない。
レイは自分の手を見る。指先が、かすかに震えていた。
違う。震えているのは、自分じゃない。
空気だ。肌の上を、何かが這うような感覚。
「……っ」
息を吸った瞬間、胸の奥で何かが軋む。
熱とも、冷たさともつかない感覚が、体の内側を巡っていた。
(……これが、さっきの)
理解しきる前に、ユウゴが一歩踏み出す。
「動くな」
鋭く、冷たい声。
同時に、数人の隊員が左右に展開する。
距離は詰めない。
だが、逃がす配置でもない。
「対象、能力再発動の兆候あり」
冷静な報告。
レイは思わず息を止める。
自分の中で何かが動けば、それだけで“敵”になる。
「落ち着け。むやみに刺激するな」
シュウの声が重なる。
その一言で、空気がわずかに和らぐ。
だが包囲は解けない。
レイは、ようやく理解する。
これは保護じゃない。拘束の準備だ。
(……マジかよ)
現実が、少しずつ形を持ち始めていた。
(あぁ……そうか)
自分は今、“対象”として見られている。
「……俺、どうなるんだよ」
言葉が喉に引っかかる。
うまく声にならない。
「拘束する」
その言葉は、確認ではなく決定だった。
ユウゴは言葉を続ける。
「制御不能の力を保持した存在を放置する理由がない」
切り捨てるような言い方。
そこに感情はない。判断だけがある。
「いや~展開早いなぁ」
ハルが肩をすくめる。
軽い調子だが、距離は崩さない。
「まぁでも、“これ”見ちゃうとね」
床を顎で示す。
「さすがに放置は無理でしょ」
言葉は軽いのに、目は笑っていなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
ヒナが声を上げる。
「この人のこと、まだ何も分かってないのに……!」
必死な声音。
「だから危険なんだ」
ユウゴの返答は、即座だった。
揺れない。
ヒナの言葉を、意味ごと切り落とす。
「……っ!」
言い返せない。正しいからだ。
その横で、ミオが小さく言う。
「……レイは、わざとじゃない」
震えている。それでも、言う。
「分かっている」
ユウゴは即答する。
「だが結果は同じだ」
空気が、静止する。
レイは、不思議と納得していた。
(……そりゃそうか)
意思がどうであれ、結果が人を壊すなら、それは同じだ。
危険なものは危険だ。それだけだ。
「レイ」
シュウがレイに声をかける。
その声だけが、妙に現実的だった。
「歩けるか?」
「……ああ」
答えられる。
「なら、移動する」
短い。選択肢はない。
レイは頷いた。
通された部屋は、簡素だった。
白い壁。ベッドと机。窓はない。
閉じ切った空間だ。
レイはベッドに腰を下ろす。
スプリングの感触だけが、やけに現実的だった。
ミオが、少し離れた場所に立っている。
近づきすぎず、離れすぎず。
その距離が、すべてを物語っていた。
沈黙。
壁に反射した白い光が、妙に強く感じる。
時間の感覚が、ずれていた。
どれくらいここにいるのか分からない。
数分かもしれないし、もっと長い気もする。
ミオの気配だけが、やけに近い。
それなのに。距離がある。
「……なあ」
レイは視線を上げないまま言う。
「今の俺、どう見えてる?」
少し間があった。ミオはすぐには答えない。
言葉を選んでいる。それが分かる。
「……同じだよ」
やっと出てきた答え。
「……レイは、レイ」
「嘘つけ」
思わず返す。強くはない。
ただ、素直な反応だった。
ミオは何も言わない。否定もしない。
それが答えだった。
レイは小さく笑う。
「だよな」
軽く言ったつもりだった。
少しだけ声が掠れた。
「でも……」
ミオが続ける。
「それでも、私はそう思う」
まっすぐな言葉。逃げていない。
レイはようやく顔を上げる。
その視線を、受け止める。
「……そっか」
それ以上、言葉はいらなかった。
それでも――聞いてしまう。
「……怖かった?」
ミオの肩が、小さく揺れる。
「……うん」
今にも消えそうな声。
「ちょっとだけ」
正直な答えだった。
レイは、少しだけ息を吐く。
「そっか」
それ以上、言葉が出ない。
ミオは顔を上げる。
「でも……レイが変わったからじゃない」
ゆっくりと、確かめるように言う。
「どっか行っちゃいそうだったから」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
鈍く、痛む。
「……行かないよ」
言ってから、気づく。
そんな保証は、どこにもない。
ミオも分かっている顔だった。
それでも。
「行かないで」
返事は――できなかった。
そのとき、扉が開く。
「立て」
端的なユウゴの声。
そこに感情はない。
「上層部から判断が下りた」
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レイとミオは別室に通された。
長い机。白すぎる光。無機質なモニター。
プロジェクターから映し出された大きな画面に映る男は、
“座っているだけ”で空気を支配していた。
テレビのニュースで見たことがある。
神谷レイジ。星象庁長官――この組織の頂点。
「報告は受けている」
低い声。それだけで、場が固定される。
「対象、天宮レイ」
名前を呼ばれる。
それが、“個人”ではなく“識別”として扱われていると分かる。
「星象庁規則に則れば、即時処分対象だ」
ミオが息を呑む。
だが、レイは驚かなかった。
(だろうな)
納得の方が先に来る。
「しかし――今回は例外措置が適用された」
レイは目を細める。
「……例外?」
「星喰い制圧における戦力として運用可能と判断された」
それだけだった。
(……それだけか?)
わずかな違和感だけが残る。
「よって、処分は見送る」
ミオが、小さく息を吐く。
だが。
「条件がある」
やっぱりな、と思う。
「今後、君は星象庁の管理下に置かれる」
淡々とした宣告。
「行動制限。定期検査。必要に応じた任務同行」
一切の装飾がない。
「拒否したら?」
レイは聞く。
分かっていても、聞く。
「従わない場合は、即刻処分となる」
沈黙。
重くもない。軽くもない。
ただ、空っぽだった。
レイは、ゆっくり息を吐く。
(……生きたいなら、従うしかないか)
形だけの分岐。
最初から答えは決まっている。
虚ろな選択。
選ばされている、という感覚すら曖昧だった。
最初から一つしか道がないなら、それは選択じゃない。
ただの確認だ。
自分が、どちら側に立つかの。
レイは視線を落とす。
床の反射に、自分の姿が映っていた。
ぼやけている。輪郭が、はっきりしない。
(……誰だよ、お前)
さっきまでの自分と、同じなのかすら分からない。
力を持った瞬間、何かが変わった気がする。
でも、それが何なのかは分からない。
協力すれば生きる。拒否すれば死ぬ。
単純な条件。
それだけ。簡単すぎる。
だからこそ、考える余地がない。
(……くだらねえな)
心のどこかで、そう思う。
それでも。
ミオの存在だけが、引っかかる。視界の端に、ずっといる。
息を詰めて、こちらを見ている。
(……まだ、死ねないな)
結局、それだった。
理由なんて、それで十分だった。
「レイ……」
ミオの声。
レイは目を閉じる。考える時間は必要ない。
「……分かりました」
それでも、口に出す。
「従います」
レイジはわずかに頷く。
「賢明だ」
レイジはそれだけ話し、モニターが消えた。
余韻も残らない。沈黙だけが残る。
「いや~完全に囲われたねぇ」
ハルが笑う。軽い。
だが、どこか楽しんでいる。
「うるさいぞ、ハル」
ユウゴが返す。
ヒナは何も言えない。
ミオだけが、レイを見ている。
「……ごめん」
「謝んなくていい」
本音だった。
誰のせいでもない。
そういう構造だっただけだ。
シュウが一歩前に出る。
空気が、自然に寄る。
「ユウゴ、あとは頼んだ」
「分かった」
シュウがユウゴに目配せをする。
「ついて来い」
「どこに」
レイが聞く。
ユウゴは振り返らない。
「星象庁の仕事が何か、教えてやる」
一拍置いて、ユウゴは続ける。
「……と言っても、今はここまでだ」
「は?」
レイが眉をひそめる。
「任務はいつ起こるか分からない。それまでここで待て」
淡々とした口調。
「任務が入ったら同行させる」
逃げ場はない、と言っているのと同じだった。
レイは立ち上がる。
立ち上がった瞬間、足にわずかな違和感が走る。
さっきの感覚が、まだ残っている。
完全に消えたわけじゃない。
地面を踏む感覚が、妙に鮮明だった。
重さも、温度も、はっきり分かる。
(……馴染んでいるのか)
それとも、前が鈍すぎただけなのか。
分からない。
廊下に出ると、空気が変わった。
すれ違う職員たちが、一瞬だけ足を止める。
異質なものを見るような視線。
顔を見ようとするとすぐに逸らされる。
だが、見られているのは分かる。
「悪い意味で有名人だねぇ」
ハルが横から小さく笑う。
レイは何も返さない。事実だからだ。
ユウゴは前を歩いたまま言う。
「ハル、茶化すな」
「はいはい、分かってるって~」
ユウゴの注意に、ハルが悪びれている様子はない。
「余計なことはするな」
「分かってます」
ユウゴとレイの短いやり取り。
それ以上はない。
ユウゴが扉の前で止まる。重そうな扉。
“待機区画”と書いてある。
「先に言っておく。何があっても目を逸らすな」
振り返らずに言う。ユウゴが扉に手をかける。
「――ようこそ、星象庁へ」
ハルがニヤッと笑った。
扉が、開く。
流れ出てきたのは、外の空気じゃない。
温度の均一な、無機質な空気。
レイは一歩踏み出す。そこにあるのは、自由じゃない。
ただ、与えられた場所だった。
もう後戻りはできなかった。
虚ろな選択の、その先へ。
それでも。進むしかなかった。
――まだ、自分が何者になったのかも分からないまま。
読んでいただきありがとうございます!
今回は、レイがひとつの選択を迫られる回でした。
ただ、その選択が本当に“正しかったのか”は、本人にもまだ分かっていません。
ここからレイは、星象庁の管理下で動くことになります。
次回は、制圧部隊の任務に同行することに。
どんな展開になるのか、ぜひ見届けていただけると嬉しいです。
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