第8話:弟子入り志願者は世界1位
翌朝。継星道場の朝は早い。 使い古された板張りの床に、朝日が差し込む。いつもなら俺とサヤの二人きりの静かな朝食だが、今日は違った。
「……あの、エルナさん。本当にやるんですか?」 「はい! 昨夜、荷物はすべてホテルからこちらに運び込みました。覚悟はできています、師匠!」
道着ならぬ、動きやすそうなスポーツウェアに身を包んだエルナが、拳を握りしめて宣言する。 世界ランク1位、総資産百億。そんな雲の上の存在が、築五十年のボロ道場で、俺が昨日ダイソーで買ってきた安物の雑巾を手にしている。
「……まず、師匠はやめろ。カイでいい。それと、古武術を学ぶなら、まずその『力』を捨ててもらう」
「力を捨てる……? 魔力を封印するということですか?」
「違う。もっと根本的な話だ」
俺はエルナを道場の真ん中に立たせた。 彼女はさすが世界最強の探索者だけあって、立っているだけで隙がない。強靭な魔力が全身を保護し、どんな不意打ちにも対応できるだろう「構え」だ。
「エルナ、あんたは強すぎる。だから常に全身の筋肉が『仕事』をしすぎているんだ。それが古武術においては、最大の弱点になる」
「え……? 筋肉が仕事をするのが、弱点……?」
彼女は困惑した表情を浮かべる。現代の探索者にとって、ステータスを高め、肉体を強化し、魔力で硬めるのは「正解」そのものだからだ。
「試しに、俺の腕を全力で掴んでみろ。魔法を使っても構わない」
「わかりました……。失礼します!」
エルナが俺の右腕を掴んだ。 凄まじい握力だ。魔力による身体強化が加わり、大型モンスターの首ですらへし折るほどの力が込められている。俺の腕は、鉄の万力に挟まれたような状態になった。
「……離しませんよ」
「そうか。じゃあ、いくぞ」
俺は力を入れなかった。 むしろ、掴まれている右腕の力を完全に抜き、重力に身を任せるように肩の関節を「落とした」。
「――っ!?」
次の瞬間、エルナの身体が激しく前方にのめった。 彼女が全力で掴んでいた「抵抗」が、唐突に消失したからだ。彼女は自分の力でバランスを崩し、俺が軽く指先で触れるだけで、畳の上に転がされた。
「……今、何をしたんですか? 魔力の霧散も感じなかったのに、私の力が空を切ったような……」
「これが『脱力』だ。あんたが力を込めれば込めるほど、俺はその力を利用してあんたを投げられる。古武術は、自分の力で戦わない。相手の力を、相手に返すんだ」
エルナは呆然として自分の手を見つめた。 彼女が今まで信じてきた「強さ」とは、より大きな出力を出すことだった。しかし、目の前の男は、出力を「ゼロ」にすることで、彼女を圧倒したのだ。
「……凄い。魔法の理論では説明がつかない……。身体の構造を、重力と調和させているんですか?」
「小難しい理屈はいい。まずは、道場中の雑巾がけからだ。ただし、腕の力を使わずに『腰の移動』だけで進め。できなければ、朝飯抜きだぞ」
「はい! 喜んで!!」
世界最高の聖女が、尻を高く上げて雑巾がけを始める。 その光景を、妹のサヤが縁側でお茶を飲みながら眺めていた。
「お兄ちゃん、なんか楽しそうだね」
「……どこがだ。面倒な同居人が増えただけだよ」
だが、俺の心境とは裏腹に、世間は放っておいてくれなかった。 道場の外から、無数のシャッター音が聞こえてくる。
門の外には、どこで聞きつけたのか、数百人の報道陣と野次馬が詰めかけていた。 『聖女エルナ、電撃引退!? 正体不明の格闘家と怪しい同居生活!』 そんな見出しのネットニュースが、凄まじい勢いで拡散されている。
「お兄ちゃん……外、すごいことになってるよ」
「……あいつ、弟子にする前に追い出せばよかったかな」
ため息をついた瞬間、道場の門が大きな音を立てて開いた。 現れたのは、金髪の派手なスーツを着た、傲慢そうな表情の男。
「やあ、ここが噂の『骨董品屋』か。私の大切なエルナを返してもらおうか、野蛮な格闘家君」
男の背後には、最新式の魔導機甲を身につけたS級パーティの面々が控えている。 どうやら、聖女を巡る「格上の存在」が、俺の日常を壊しにやってきたらしい。
「……悪いが、今は掃除の最中だ。帰れ」
「ふん、魔力適性ゼロの分際で。エルナ、こんな男に騙されてはいけない。君の居場所は、世界最高峰の私のパーティ『ゴールデン・ドーン』だ!」
エルナは雑巾を持ったまま立ち上がり、氷のような冷たい視線を男に向けた。
「……うるさいわね、レオポルド。今、私は『脱力』の修行中なの。邪魔をすると、師匠の代わりに私があなたを投げ飛ばすわよ?」
聖女のまさかの発言に、現場にいた全員が固まった。 時代遅れの道場を舞台に、世界の常識が再び書き換えられようとしていた。




