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第6話:聖女の絶望、男の背中

都心のギルド本部から新宿の路地裏にある道場まで、直線距離にして数キロ。  車なら渋滞で三十分はかかるその距離を、カイはビルの屋上を飛び越え、最短距離を直走っていた。


「はぁ、はぁ……っ!」


 カイの背後を、必死の形相で追う影があった。  聖女エルナだ。彼女は自らの身体能力を魔法で極限まで強化し、なんとかカイの背中に食らいついている。だが、魔力を持たないはずのカイが、ただの跳躍と着地の技術だけで自分を上回る速度で移動している事実に、彼女は戦慄を禁じ得なかった。


「(信じられない……。一切の魔力を使わずに、時速百キロ近い速度でビルの間を跳んでいる!? どんなに筋肉を鍛えても、着地の衝撃で骨が砕けるはずなのに……!)」


 彼女には見えていない。  カイが着地の瞬間、全身の関節をわずかに連動させ、衝撃をすべて「推進力」へと変換していることを。継星流・歩法『縮地しゅくち』。それは効率を極めた生物の究極形態だった。


 やがて、カイは古びた道場の門の前に着地した。  だが、そこにあったのは、彼が愛した静寂ではなかった。


「……あ、お兄、ちゃん……?」


 門の前で、妹のサヤが膝をついていた。  その前には、黒い防護服に身を包んだ「探索者」らしき男たちが三人。彼らは最新の魔導サブマシンガンをサヤに向けていた。


「おい、ターゲットの身内だ。こいつを連れていけば、あの怪物の『技術』を吐かせる材料になる」 「抵抗するなら脚の一本くらい撃ち抜いても構わんぞ。どうせ魔力のない一般人だ、代わりはいくらでもいる」


 男たちの下劣な笑い声が響く。  彼らは、先ほどモニター越しに語りかけてきた『深淵を覗く者』という組織が差し向けた傭兵たちだった。


「サヤ!」  カイが叫ぶ。だが、男たちは即座に反応した。


「止まれ! 一歩でも動けば、このガキの頭を吹き飛ばす!」


 銃口がサヤの額に押し付けられる。  遅れて到着したエルナが、その光景を見て息を呑んだ。


「あなたたち、何をしているの!? ギルド法違反よ、すぐに武器を捨てなさい!」 「おっと、世界1位の聖女様のお出ましだ。だが、あんたの魔法よりも、俺たちのトリガーを引く方が速いぜ?」


 エルナは絶望した。  聖女として多くの人々を救ってきた彼女だが、人質を取られた至近距離での戦闘は、広域魔法を得意とする彼女にとって最も苦手とする状況だった。魔法を放てば、爆風でサヤまで巻き添えにしてしまう。


「……っ、やめて……お願い……」  サヤの目から涙がこぼれる。


 その時。  カイが、一歩、前に出た。


「動くなと言ったはずだぞ!」  傭兵の指がトリガーにかかる。


「……どけと言ったんだ。そこは、俺の家の敷居だ」


 カイの声は、驚くほど静かだった。  しかし、その瞳からは一切の感情が消え、底知れない「虚無」が広がっていた。


「ふざけるな! 死ねよ!」


 傭兵が引き金を引ききった。  ババババッ! という乾いた発射音が路地に響き渡る。  エルナは思わず目を逸らした。至近距離からの魔導弾。生身の人間なら、肉片すら残らないはずだ。


 だが。  肉の弾ける音は、聞こえてこなかった。


「……え?」


 エルナが目を開けると、そこには信じられない光景があった。  カイは、一歩も動いていない。  だが、彼の周囲に、ひしゃげた魔導弾の弾丸がいくつも転がっていた。


 彼は――「素手」で、放たれた弾丸をすべて叩き落としたのだ。


「……そんな、弾速を見切ったというの!?」  エルナが叫ぶ。


「見切る必要はない」  カイが淡々と告げる。 「発射される直前、火薬の燃焼と魔力の流動を、空気の振動で感じ取ればいいだけだ」


 カイが再び一歩、踏み出す。  その一歩は、まるで世界全体の重みが移動したかのような、圧倒的な威圧感を伴っていた。


「ひ、ひぃ……ッ! 化け物め!」  別の傭兵が慌てて銃を構え直すが、もう遅い。


 カイの姿がブレた。  次の瞬間、傭兵たちの手元から重厚なサブマシンガンが消失していた。    ガシャガシャガシャッ!!  という金属音。  地面を見ると、三丁の銃が、ネジの一本に至るまで完璧に「分解」され、バラバラの部品となって転がっていた。


「……何が、起きた……?」  傭兵たちが呆然と自分の手を見つめる。  彼らは気づいてすらいない。カイが通り過ぎざまに指先だけで銃の接合部を叩き、構造を破壊したことに。


「……下がってろ、サヤ。汚いものが飛ぶ」


 カイの背中。  それはエルナにとって、どんな魔法の障壁よりも大きく、絶対的に見えた。  聖女として、常に「守る側」だった彼女が、初めて知った。  本当の強者が持つ、静かな、しかし峻烈な背中のぬくもりを。


「さあ……誰から死にたい?」


 カイが拳を握り込んだ。  路地の空気が凍りつき、最強の聖女ですら、その男の背中に向かって跪きたいという衝動に駆られていた。

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