中将閣下の陰謀
昭和18年(1943年)3月、昼は寒気が緩み、桜の季節が近いことを感じさせた。
しかし、海上護衛総隊総司令部・長官室の雰囲気は、その気候と対局の重苦しいものであった。
「ようやく、ガ島は諦めることになったそうだ」
海上護衛総隊司令長官・井上成美中将は、ため息交じりに言った。
「当然でしょうね」
護衛参謀・大井篤中佐は、はっきりした声で応じた。
課業終リからしばらく後の海上護衛総司令部内は、人の動きもまばらになっていいた。
天井からは、豪奢な飾りのついた電灯が下がっている、が、店頭はしていない。西日が浅く差し込む部屋は、少し暗すぎる。
「連合艦隊はともかく、軍令部は不承不承でしょうね」
大井中佐は、目を伏せながらつぶやいた。続ける。
「嶋田大将は何かお考えはなかったのでしょうか。せっかく、あそこまで戦果を挙げたのです。帝国海軍が米海軍に勝るとも劣らないことは示したはずです。戦争を切り上げることを、考え始めないと。」
「繫ハンはおめでたいんだよ。」
井上中将は、窓の外を眺めながらつぶやいた。
「なんですか、それは。」
大井中佐は、井上中将をぐっと見据えていった。
「俺じゃないよ。山本さんだ。」
大井中佐に視線を合わせると、そんな顔するな、と言いたげに井上中将はいった。
山本五十六大将が連合艦隊司令長官に補される前、つまり海軍次官のとき、井上中将(まだその時は少将だが)は軍務局長だった。そして、共同して日米戦につながる、日独伊三国同盟に反対した。ただ、これは抗し切れるものではなく、最後には二人とも海軍省、つまり海軍中央から転出させられてしまった。
「戦争が始まる直前の話だよ。嶋田さんは軍事参議官だった。伏見宮元帥宮殿下が、日米戦もし起こらば日本は勝てるか、とご下問されたときのことだ。」
コップ一杯酢を飲まされたような表情をして、井上中将は続けた。
「嶋田さんは立ち上がって、「訓練も出来上がり、将兵の士気旺盛、自信あり、何より国内の機運より、海軍のみが戦争反対を唱えるのは国家にとって大不忠です」と大見得切ったんだそうだ。それを後で聞いた、山本さんの言葉だよ。」
「今やその方が、軍令部総長ですよ。あの方は、戦争にアイデアを出すわけでもなく、かといってこの戦の落ちつけ方にも関心がない。陸軍にいい顔をするのと、元帥殿下のご寵愛で赤レンガの椅子に座っているんです。」
「おい、大井君、俺の前だけにしておいてくれよ。」
井上中将は、静かに大井中佐をたしなめた。
「俺も陸軍は嫌いだ。大体、そんな程度の理由で嶋田さんを軍令部総長に据えている海軍もおかしい。だが、この戦争を何とかするには、使えるものを何でも使う。君もだよ。どこか南の海でフネと一緒に君を沈めるわけにはいかないんだ。」
溜息をつくように、井上中将は言った。
「ありがとうございます」
大井中佐は、素直に答えた。海軍大学校の学生のとき、舌鋒鋭く教官に楯突きすぎたせいで、放校になりかけたことがあった。自分を買ってくれる井上中将に感謝し、(慎重に行かねば)とおもう。
大井中佐は、言った。
「三井大尉は、少し可哀そうな気がします」
井上中将は、黙って、また窓の外をながめながら言った。
「そうだ。だが、残念だが我々でなければできないこともある。できるだけのことをする。」
「好き嫌いのことは棚上げする、ということですね」
大井中佐は言った。
「そうだ。なんだってやるし、騙されたふりもする。最後には陸からも身内からも命を狙われるだろう。それでいい」
西日はよわく、しかし部屋に長く差し込み、絨毯には大井中佐の長い影が映っている。
そういって黙った井上中将の表情は、海軍軍人ではない。座禅を組む禅僧のように大井中佐には見えた。




