国力と現実、不人気
海軍は、日露戦争に勝利した。
世界史上初の大規模戦争、つまり「第一次世界大戦」でも勝者の側に立った。
だが、どこか余裕がなかった。
この余裕のなさは、国力からくる兵力差、そして昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮条約の締結と日英同盟の解消から、ということでもなさそうである。
具体的には、戦略が「一本槍」であり、柔軟性も発展性もないことである。短期決戦、主力艦による漸減要撃での対米戦勝利。さらに言えば、それ批判的な思考に対し、やや攻撃的になっていった傾向である。但し、全てそうであったわけではない。
「|大戦争」後、日本海軍は、日本が外敵から攻撃される場合、以下のような態様で戦争が展開すると想定した。
一つは、大艦隊による日本近海への侵攻である。開戦初期、敵主力部隊は、我が主力部隊へ全力攻撃、つまり艦隊決戦を実施する。これにより日本海軍を壊滅させる。しかる後、日本国内に侵攻する。
そして、もう一つの可能性があった。
通商破壊により国力が消耗する、という事態が生じることである。
これには、更に二通りの可能性があった。
まず、開戦時、比較的早期に決戦を挑むことは同様だが、同時に通商破壊を実施することである。
次に、開戦後、通商破壊で徹底的に国力を損耗させ、しかる後、決戦を挑むことである。この際、通商破壊を行っている間に、日本海軍を圧倒できるだけの戦力を養成し、これができたのち、任意の地点で決戦を挑む、というものである。
この点、兵力整備を担う海軍省、そして作戦を担う軍令部の認識に大きな違いはない。
ところで、海軍、というより軍事組織は、自国に加えられる脅威を適切に判定しなければならない。その判定をする場合、「起こることは低い、ない」とか、「当然である」等と考えて、脅威を小さく見積もることをすると、ことを誤る。また、都合のいい前提を置く、逆に「不確定であるから確定したときに考える」等の態度をとることも、同様に失敗を招くことにつながる。
つまり、脅威を適切に評価しなければならない。すなわち、脅威が現実化する「頻度」とそれが国家の独立、国力維持に与える「影響度」を考える必要がある。
この辺り、海上護衛戦の評価について海軍が下した評価は、「怪しい」と言わざるを得なかった。
「頻度」は、(おそらく1回しか発生しない「艦隊決戦」に比べ)相当、長期かつ頻繁に生じることとなる。日露戦争のときのような高速・快速艦艇によるもののほか、潜水艦による通商破壊が頻発することが想定された。
「影響度」については、意見が分かれていた。
例えば、日露戦争の際、確かに通商破壊戦は発生し、補給に影響が生じた。しかし、その影響は、戦争全体に影響を与えるほどのものではなかった。
一方、「大戦争」において、イギリスは、通商破壊により敗戦の一歩手前まで追い詰められた。
大戦争直後の海軍は、通商破壊とそれに対応する海上護衛戦に、決して鈍感ではなかった。
大戦争直後、軍令部参謀の新見政一中佐(開戦時中将。舞鶴鎮守府長官)は、海上護衛兵力について重要な提言を行っている。具体的には、英国海軍のような海上護衛を司る総司令部的な機関の設置及び人員の確保と活用、具体的には民間出身の予備役海軍軍人の活用である。
また、山本英輔大佐(のち連合艦隊司令長官。大将)は、対潜兵器の充実と駆逐艦の増強を主張した。
これら意見に対し、時の軍令部長(軍令部長は昭和に入り軍令部総長に改称)山下源太郎大将は、「海上護衛について充実していないことは、ほぞを嚙むような悔しさがある」といった。
これらから、脅威に対し、概ね適切な導出と、その評価ができている、とも思える。現に、|大戦争《第一次世界大戦の直後、海上護衛に関し、新たに獲得した南洋諸島及び対大陸方面との通商保護のためには、最低でも30隻程度の中型駆逐艦(4個水雷戦隊程度)の兵力が最小限必要、との結論を出した。
制度も変えた。
昭和2年(1927年)、連合艦隊参謀に「機雷(防備)参謀」を置くこととした。その上、連合艦隊に敷設艦常盤及び第一掃海隊、そして駆潜艇隊を置く。時を同じくして、軍令部内に「防備班」が設置された。さらに、海軍大学校の卒業生を海上護衛戦部門に回すこととした。
だが、結果的には、評価と分析に応じた対応が取られた、とは言えなかった。
まず、「30隻程度の中型駆逐艦」という兵力は、整備まで行かなかった。
これには、「開戦後主力艦同士の決戦が生じる。」「それにより勝利を得ることで、前線は日本近海から遠ざかる。」という分析があった。
さらに、諜報で得た米海軍の戦力整備方針や作戦計画からも、米海軍が短期決戦構想を有していることも裏付けられた。 この「分析」により、海上護衛部隊に充当する兵力を常設する必要はない、との評価が早々に出されてしまった。先に名前を挙げた山下源太郎大将、山本英輔大将とも、海軍の要路者となった後は、大型・大口径砲を装備した大型水上艦艇、軍縮後は航空兵力の充実に注力する。
実は、この分析には、もう一つ、海軍が決して表だって言われない理由があった。
それは、「わが国民は、戦争に耐えられない」という理由である。
海軍軍人たちは、日露、そして「大戦争」の国民の反応を見ていた。だから、国民の動揺、厭戦気分を危惧していた。
どうせ長い戦は、いろいろな意味でできない。ここで、他責的な思考停止に陥ってしました。いびつな「現実直視」でもあった。
この辺りは、、兵力整備に現れた。より具体的な経緯を述べる。
海上護衛戦に対応する兵力整備計画は、大正11年(1922年)、ワシントン海軍軍縮を受けた①計画から始まっていた。
だが最上型「乙巡」4隻、そして艦隊型駆逐艦の「初春型」が、①計画の目玉であった。海上護衛戦に関しては、駆潜艇までは建造された。しかし、外洋における海上護衛戦に用いる艦艇は建造されていない。護衛駆逐艦は、研究されたが、いつの間にか「夜間襲撃用」の「600トン水雷艇」となっていた。
人材面でも、問題があった。
海上護衛戦部門、即ち「防備」は、海軍内で徹底的な不人気であった。
優秀な士官は、防備分野を希望しない。これは下士官兵も同様であった。先に述べた連合艦隊への「防備参謀」設置、連合艦隊へ防備部隊の編入、海軍大学校の卒業生を防備分野に回すことは、必要性というよりも、有体に言えば不人気対策であった。
だが、この過程で、防備部門独特の気風ができることになる。
独特の気風とは、「リベラルで、粘り強くて泥臭く、リアリストたれ防備隊」ということばであらわされるそれである。
これについては、面白い話がある。




