海防
軍人は、付与された任務を効率的かつ忠実に遂行するならば、正しい意思決定をする必要がある。
具体的には、次のような手順を踏む。
まず、任務を自分の言葉で他人に伝えられる程度に明確化する。
具体的言えばこうなる。組織の任務を明確化する。「明確化」とは、自分の所属する部署の任務を体系的に表現する(できる)ことである。「時」、「場所」で「やるべきこと」を表現する。上級組織、共同部隊、指揮下の部隊との関係も明確であるべきである。
そして、任務の遂行のため、必要となる情報を集める。また、それを整理し分類して、任務に使える程度にはしておく。
情報の整理分析とともに、相手ー仮想敵ーが取るであろう行動を推測する。この「推測」は、仮想敵が取る可能性のある行動を、思いつく限り列挙してみる。
そして、とりあえず、自分が取ることのできる行動も、列挙していく。
最後に、仮想敵が取るであろう行動を見積もる。
それに対し、「自分が取るべき準備」「自分ができる行動」を選び出す。
以上が、意思決定である。
防備、そして海上護衛も軍事である。
いかなる意思決定がされたのか、見てみたい。
海軍の任務は、創設以来、国土防衛である。
このことが端的に現れたのは、日露戦争である。
日露戦争における日本海軍は、自国周辺の制海権確保を目的とした。もっと端的に言えば、自国から満州にいる部隊に対する海上交通線の維持及び日本本土防衛である。
これは、ある程度成功した。
明治38年(1905年)5月、対馬海峡において、戦艦三笠に率いられた第一艦隊の戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻、装甲巡洋艦出雲に率いられた第二艦隊の装甲巡洋艦6隻は、バルジック艦隊の戦艦勢力と装甲巡洋艦の過半を撃沈した。戦艦、装甲巡洋艦といった主力艦艇の他、巡洋艦戦隊、駆逐艦隊、水雷艇隊と連合艦隊を編成し、敵に勝る速力と艦隊運動、そして主砲と魚形水雷の威力をもって成功したものである。最終的に、日本近海の制海権を「ほぼ」確立した。日本という島国の寸土といえどロシア軍の侵攻を許さなかった。(但し、陸戦では、鉄嶺会戦での敗戦と後退が生じたが。)
全くの余談だが、日本の近代は、アメリカの軍艦、つまり黒船による砲艦外交で幕を開け、さらに下関・薩英戦争という局地的ながら外国勢力との戦闘を経て始まったと言ってよい。そう捉えると、日本海軍は、威風堂々の戦艦・装甲巡洋艦をもって、侵攻意思をもった外国勢力を完璧かつ堂々と撃退したとい評価できる。
但し、「完全無欠の勝利」ではない。その裏で、装甲巡洋艦の「游撃戦」に苦しめられた。このことは、国民輿論との関係で問題視された。
大正3年(1914年)、セルビアで発生した事件を契機としたセルビアとオーストリアで始まった紛争は、ロシア、ドイツ、そして同盟国イギリスを巻き込んだ欧州全体の戦争となった。大戦争、即ち、第一次世界大戦である。海軍(そして陸軍)は、これに参戦した。日英同盟による。
同盟国であるイギリスは、陸海派兵を要請した。これに応え、日本政府は、最終的に1個軍(3個師団)、第一、第二遣外艦隊、そして水上砲戦部隊を派兵した。
大戦争は、連合国、つまり日本と同盟国たるイギリスの勝利、ドイツの敗戦で終わる。海上戦に着目すると、以下のとおりである。
まず、水上砲戦でドイツ海軍を封殺し、最終的に勝利した。
一方、通商破壊、特に潜水艦による商船の無差別攻撃は、同盟国イギリスを敗戦一歩手前まで追い詰めた。従って、これに対応するための戦闘、海上護衛戦も重要である・
こうして、日本海軍は、大型艦・大口径砲を使用した艦隊による敵艦隊の撃滅が戦争の帰趨を決する一方、海上護衛も同様である、と考えた。
このことは、海軍軍人たちを悩ませた。軍事を越えた問題、「国民」との関係である。
遡るが、日露戦争に関する事象を上げる。
例えば「常陸丸事件」である。これは、明治、大正と二回発生した。
明治のときは、ロシア海軍旅順艦隊に属する装甲巡洋艦「リューリック」「ロシア」、および「グロスボイ」が、近衛師団の一部を輸送していた軍隊輸送船「常陸丸」を撃沈した。
大正のときは、欧州航路に就航中の客船「常陸丸」が当時の敵対国であるドイツ、その海軍に属する仮装巡洋艦に民間人もろとも撃沈された。
いずれも、報道と国民の反響は極めて大きかった。海軍は、初代常陸丸を「名誉の戦死」と捉えて二代目を作った三菱合資を恨んだ。そしてそれ以上に、「戦争」に恐れおののく国民を見て、動揺した。
これも日露戦争のだが、他の例も挙げる。
上村彦之丞中将を長官とする第二艦隊は、対馬海峡の補給線を保護していた。先に挙げた「常陸丸撃沈」に示すような、これを脅かされる事件は度々起きた。衆議院において代議士がで「濃霧濃霧、逆さに読めば無能なり」と海軍大臣・山本権兵衛と村上長官を追及したのは、戦時中である。
そして、ポーツマスで講和交渉が始まる寸前、東京湾口で内航客船が複数沈められた東京湾事件が生じた。このことは直後の陸戦の状況とも相まって、陸海軍大臣は、戦闘が終わってから、却って立つ瀬がないところまで追い詰められた。
軍人は、国民と軍事の関係に悩んだ。
明治末年、軍部を含む政府の統治は、選挙で多数を得た政党が内閣を組織するという政党政治で行われた。それは、大正デモクラシーによる民本主義の隆盛で定着した。だから、国民は、議会をとおして堂々と政府と軍部を批判した。
国民は、大戦争の参戦に対しても、決して好意的でない面があった。
確かに、戦場から遠いことでの好景気を生み出した。
しかし、戦争増税、物資不足、格差の拡大が顕在化した。やがて、社会不満と結びつき、民衆の示威行動となって表れ、政治的には代議士をとおして議会で表明されるようになった。
海軍は、これらに危惧を抱いた。通商破壊より国民の態度に恐怖した。
政党政治が行われる中で、国民輿論を無視した海軍の運営など、できるはずもない。
このことは、海上兵力の要請、端的には海防艦、量産型駆逐艦の成立と駆逐艦兵力の養成に影響する。




