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1 司令長官の交代

1 太平洋戦争をテーマとしたIF戦記(架空戦記)の態を取ります。昭和18年末からマリアナ沖海戦まで目途とします。なお、「雲と風と星」の同一世界線です。

 史実や、現実にある概念を重視しています(魔法、転生等、いわゆる「ファンタジー要素」は入っていません)推理小説やSFのように、事実は重視します。

しかし、架空戦記、つまり「小説」であることにはご留意ください。ある時点で入っていない概念や、歴史の改編は行っています。

しかし、そうはいっても、史実を極力重視しています。特に、モチーフが何か、とか何のオマージュか、ということが判ってわかっていただければ、とても嬉しいです。


2 架空戦記として面白くしたい、自分が書きたいテーマがあります。そこで、この作品の世界は、以下の点で史実と異なる異世界です。

(1) 日露戦争の「不完全な」勝利

 ア) ポーツマス条約の権益を縮小方向での変更

 イ) 日本陸軍の戦術ドクトリン変更

 ウ) 日本外交の基軸は日英同盟(史実以上)

 エ) 第一次世界大戦時、史実より陸海兵力の派兵を強化

 オ) 日英同盟解消はロンドン海軍軍縮条約条約の直後

(2) 対中、対朝鮮政策の変更(事変及びその地域を含む)

(3) 世界恐慌後、「遅れてきた帝国主義国家」化

(4) 陸軍の派閥抗争はやや緩和

*世界恐慌後の外交政策は、ほぼ史実どおりとする。但し、いわゆる「支那事変」に関する事項は、おおむね2年程度の遅れで生じている。


 10月の澄んで高い空のもとに、儀杖隊指揮官の号令が響く。海上護衛総司令部作戦参謀、大井篤中佐は、厳かな新旧司令長官の離着任式にどこか白けた気分を押さえることができなかった。

 第一種軍装、日本刀型となった軍刀を佩用する儀仗指揮官の中尉は、手にする軍刀を投げ刀から刀の礼の型とし、同時に独特の抑揚がかかった号令を堵列する衛兵にかけた。

「ササァーゲェ、(ツツ)

 指揮官と衛兵の挙動に、前海上護衛総隊司令長官、嶋田繁太郎大将は挙手の敬礼で答えた。悠揚迫らざる態度、堂々たる体躯。そこだけを見れば、頼もしく、そのような司令長官が離任するのは実に惜しいようにも見えた。

 大井中佐は、かけらもそんなことは思っていない。嶋田大将の態度、身の振り方、そして海上護衛総司令部の実態に照らすと、どうしても暗い気持ちになった。


 昭和17年4月、海上護衛総司令部は、海軍省、軍令部の隣接地にある衆議院議長公邸を司令部庁舎として発足した。海軍は、かねての予定どおり、軍令部第一部第十二課を独立させたうえ、連合艦隊、各鎮守府などの艦艇及び若干の航空部隊を統合し設立した。

 ところで、日本海軍は、少なくとも国民に対し、海上護衛を軽んじている素振りを見せていない。しかし、実態は違う。


 そもそも、我が国は、日露戦争の際、終始、装甲巡洋艦の通商破壊戦に苦しめられた。それは、ほとんど奇跡と言える日本海海戦の勝利の後も同じである。(このことは鉄嶺会戦で戦線が後退した状態になり、ポーツマス条約の締結でこれが追認されてしまったことと合わせて、軍部にとって大きな痛恨事となった。後に記する。)

 その後の日英同盟に基づく第一次世界大戦の派兵、商船護衛実施、そして再び起こった商船撃沈事件は、日本海軍における通商保護の認識を否応なく高めることになった。

 いくつか、挿話を入れたい。

 たとえば、常陸丸事件である。

 これは、明治、大正と二回発生した。大正のときは、欧州航路に就航中の客船「常陸丸」が当時の敵対国であるドイツ、その海軍に属する仮装巡洋艦に民間人もろとも撃沈された。

 日露戦役のときは、軍隊輸送船常陸丸がロシア海軍装甲巡洋艦「リューリック」「ロシア」、および「グロスボイ」に撃沈された(厳密な意味で通商破壊戦ではない。)。

 いずれも、報道と国民の反響は極めて大きかった。海軍は、初代常陸丸を「名誉の戦死」と捉えて二代目を作った三菱合資を恨んだ。そしてそれ以上に国民を見て、動揺した。

 国民は、商船が、民間人が戦争に巻き込まれること、ひいては同盟に基づいて自国が戦争に巻き込まれることそのものについて疑問を抱いた。やがてそれは他の社会不満と結びつき、示威行動で、そして代議士をとおして議会で堂々と表明した。軍部にも厳しい目を向けた。

 第一次世界大戦は、ヨーロッパで展開された。自国防衛に直接は関係ない。だが、同盟国であるイギリスは、派兵を要請した。これに応え、日本政府は、最終的に陸軍3個師団、第一、第二遣外艦隊を派兵した。

 大戦景気は国民を潤し、屋が出国民全体の経済を押し上げた。一方、米騒動を象徴とする国民生活の困窮、格差の拡大、歪みも生んだ。

 その中で、「世界大戦の参戦、そもそも日英同盟が間違い」という議論まで、公然かつ広く行われるようになった。大正デモクラシーによる民本主義の隆盛、そして、明治末年には政党政治が定着した。だから、議会は、堂々と政府を批判した。

 日露戦争の時もそうだった。

 上村彦之丞中将を長官とする第二艦隊が対馬海峡の補給線を保護していたところ、常陸丸のような事件は度々起きた。国会において代議士がで「濃霧濃霧、逆さに読めば無能なり」と海軍大臣・山本権兵衛を追及した。そして、日露戦争の末期、東京湾口で内航客船が複数沈められた東京湾事件が生じたときには、陸戦の状況とも相まって、陸海軍大臣は、戦闘が終わってから、却って立つ瀬がないところまで追い詰められたこともあった。


 日本が経験した通商破壊戦、具体的には、日露、そして第一次世界大戦のそれは、戦争遂行上の観点だけからいえば、ほとんど児戯に等しかった。

 だが、国民は、全くそう見なかった。

 海軍は、通商破壊より国民のそのような態度に恐怖した。政党政治が行われる中で、国民輿論を無視した海軍の運営など、できるはずもない。


 さらに、軍人、特に海軍軍人たちは、一つの重大な危惧を抱いていた。

 「わが国民は、果たして戦争に耐えうるのか」

 ということである。

 一方、実は、海軍の本音は、ある意味で国民のある部分との意思と合致していた。

 それは、「少なくとも長期戦は出来ない」ということである。

 第一次世界大戦後、米国を仮想敵国として八八艦隊計画に邁進したことが、一つの現れと評することができるかもしれない。この建造計画の根底にあるのは、米国艦隊に漸減要撃を行った末の艦隊決戦による勝利、言い換えれば「1回の決戦ですべてケリをつける短期決戦」であった。この計画自体は、ワシントン海軍軍縮条約で解消されたが。

 長期戦、例えば通商保護に兵力を割きつつ戦争に勝利する作戦がどうしても描けなかった。特にロンドン海軍軍縮条約と同時に日英同盟が解消された後、勝利のシナリオを、どう考えても描くことは出来なかった。


 嶋田大将の立ち振る舞い、そして海上護衛総司令部の実態も、このことと密接にかかわっている。

 海上護衛総司令部の開設までは、以下の経緯があった。

 まず、昭和8年、各鎮守府に防備戦隊が編成された。さらに、翌9年、②計画において、通商保護の用途に用いるため、占守型海防艦建造が決まった。さらに、③計画において択捉型、そして④計画において御蔵型の建造がされた。

 このように書くと、戦力が着々と充実しているとも思える。特に、昭和14年、日中において全面的な戦争状態となった際、(中国が主にドイツ軍の兵器や軍事顧問団をうけいれていたこともあり)「第一次世界大戦のような、通商破壊戦が行なわれるのではないか」という懸念が示された。現に海軍も、「通商保護のための艦艇続々建造」と喧伝をした。

 だが、実態は全く違った。

 そもそも、②計画の海防艦は、連合艦隊所属の駆逐艦を充実させるためであった。

 海上の警察活動、漁業保護等海上の治安維持は、海軍の役割である。そして、ソロシアとの北方海域における通商保護も同様である。これは、連合艦隊所属の駆逐艦の任務であった。

 要するにそのための駆逐艦兵力減少を嫌った軍令部、連合艦隊の意向により、建造されたのが海防艦群である。

 じつは、すでに防備戦隊編成の段階で、南洋及び対大陸方面との通商保護のためには、最低でも4個水雷戦隊程度の兵力が最小限必要、との結論が出ていた。しかし、到底そのような兵力は用意できない。そして海防艦も、海上護衛の必要性ではなく、「連合艦隊の駆逐艦兵力維持」から必要数を建造する、という方針が取られた。

 つまり、本来の海上護衛が目的ではなく、連合艦隊の戦力充実のためということからの措置であった。


 また、人材育成も全く追いついていなかった。

 第一次世界大戦の経験から、通商破壊は潜水艦で行われることは明白だった。当然、対戦兵器、具体的には水測兵器の開発及びその使用人員を要する。

 だが、対潜要員養成のための術科学校である対戦学校が横須賀の久里浜にできたのは、昭和15年のことである。当然、人員は圧倒的に不足していた。

 人員は、単に不足していたということではない。佐官級の人材、つまり。新しい人材の教育、新たな脅威に対応し戦術を考案するべき者が皆無といっても過言ではない。

これは、砲術、水雷、航空といった攻撃的配置には人材も予算もかけた一方、防備には(海軍が国民に喧伝しているほどには)投入しなかったことによる。


 この辺りの事情が、嶋田大将の転出にも表れている。

 開戦時、嶋田大将は支那方面艦隊司令長官であった。一応、連合艦隊司令長官と並立はしている。しかし、中国に大きな艦隊、というより水上兵力はない。その中で、開戦後、海上護衛総司令部が設置された。嶋田大将は、とある海軍の長老に、自分の初陣は日本海海戦であり、その後第一次世界大戦を経験したこと、その際国民輿論を見て海上護衛の重要性はよく理解していることを申し向けた。こうして、嶋田大将は初代海上護衛総司令部司令官になった。

 そうして、嶋田大将はとりあえず半年間仕事をしてみた。軍令部一部長、連合艦隊参謀長、そして第二艦隊司令長官という大艦巨砲威風堂々の艦隊勤務をしてきた嶋田大将にとって、通商保護という仕事の地味さは思う以上であった。大井中佐のみるところ、有体言えば飽いてしまった、というころである。

 そのような中、軍令部総長である永野修身大将が、体調の問題で後退せざるを得ないことになった。「この大事な時期です。問題ない承継が必要です。それには、中央にいて全体の状況がわかっている者がよろしい」と、本人が言ったか、海軍の長老が言ったかはわからない。ただ、適任云々は議論された形跡はないまま、嶋田大将の軍令部総長就任は決まった。


 大井中佐はしかし、新長官には、わずかな期待をした。

 開戦から間もなく1年、海軍は南太平洋で死闘を繰り広げている。その中に会って、手堅いいくさをしており、何より第四艦隊、つまりこれからの主戦場になる地域を担当した艦隊の司令長官を経験している。

(八割は角田中将の手柄だがな)と大井中佐は見ている。現場指揮官である角田中将が遮二無二に突っ込んだことで、ポートモレスビーの占領に至ったわけであり、新長官はそれを後ろから見ていただけ、というのが本当のところである。

 ただ、それでも、大井中佐は期待している。

 新長官は、前第四艦隊司令長官、井上成美中将である。

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