小さな日常と揺れる心
朝の訓練場に立たされた私は、手に模造剣を渡された。
刃は潰されているが、鉄を打った鈍い光を放ち、見た目も重さも本物と変わらない。
「……重っ……!」
持った瞬間、腕がぷるぷる震えた。
「それが剣だ」
ゼノの低い声が響く。
「まさか……こんなの振り回してたんですか、人間って……」
「剣は玩具ではない」
そう言って模造剣を取り上げると、私は素手で立たされた。
腰を落とし、足を運び、重心を保つ。
ただ動くだけなのに、すぐに息が切れて汗が流れ落ちた。
「……っはぁ……これだけで……死ぬ……」
「毎日続けろ。そうすれば“持てる”ようになる」
短い言葉。
でもその奥にある確信が、不思議と心を支えてくれた。
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訓練が終わると、クラウスに呼ばれた。
広げられた羊皮紙には、世界地図。
「人間諸国はまだいくつか健在です。交易都市リュミエラ、軍国ヴァルハルン、そして聖国アステリア……
いずれも、救世の書記官様――つまりマシロ様に注目するでしょう」
「注目って……そんな、重すぎる……」
「救世の書記官様は信仰の対象であり、同時に政治の要でもあります。
歴史・礼儀・各国の風習を学んでいただきます」
机に積まれた分厚い本を見て、私は頭を抱えた。
(これ……社会人の資格試験どころじゃない……!)
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「姉御、筋肉は裏切らねぇぞ!」
昼にはガルドが大声で笑い、食堂までの走り込みを課す。
「無理! ほんとに無理だからぁぁぁ!」
悲鳴を上げながら廊下を駆け抜け、結局ゼノに肩を貸される羽目になった。
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夕方、部屋を訪れたリリィは、両手いっぱいに布を抱えていた。
「マシロ様! ドレスを試着してみませんか?」
少女の目は宝石のようにきらきらしていた。
「え、ちょ、ちょっと待っ……!」
気づけば私は着付け室に引っ張り込まれていた。
「う、ぐっ……く、苦しい……っ!」
ぎゅううっと締め付けられ、思わず呻く。
「コルセットです! これでドレスの形が綺麗に見えるんですよ!」
リリィは楽しそうにリボンを結び、布を整えていく。
鏡に映った自分は、窮屈そうに胸を押さえながら、豪華すぎるドレスに身を包んでいた。
「……絶対、夜会とか無理……」
「大丈夫です! きっと似合いますから!」
リリィはきらきらとした瞳で言い切った。
(……この子の期待に応えなきゃいけないんだろうけど……ほんとに、できるのかな)
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夜。
自室の窓辺に座り、赤黒い空を見上げる。
ふと、前の世界のことを思い出した。
……と言っても、まだ1週間も経っていない。
なんなら3日前まで、普通にオフィスで仕事をしていたのだ。
友達と飲みに行った居酒屋。
同僚と交わしたくだらないLINE。
週末の映画の約束。
「……みんな、元気にしてるかな」
役目が終わったら、私は帰れるんだろうか。
そもそも、その「役目の終わり」ってどこなんだろう。
街を全部直したら? 人々を救い切ったら?
……それとも、永遠にこの世界で?
答えは出ない。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわするだけだった。
けれど、昼の訓練の疲れがじわじわと体を支配していく。
思考がぼやけ、瞼が重くなり――気づけば、ベッドに突っ伏したまま眠りに落ちていた。
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