転校したらスパダリさんに出逢った
中学に上がってすぐに大好きだったお父さんが死んだ。覚悟なんてする暇もなく死んだ。たとえ時間があっても覚悟なんてできなかったかもだけど、家で倒れてからあっという間だった。
お父さんが死んでからのお母さんは見ていられなかった。あんなに明るくて元気だったお母さんが、見る影もなく打ちひしがれ、生きる気力を無くしてしまった。
お葬式はなんとか済ませることができたけど、今では骨壺に収まってあんなに小さくなってしまったお父さんを見るにつけ、頑張るしかない。そう思っていた。
けれどもそれは、そんなに簡単なことじゃなかった。洗濯もお掃除も洗いものもお料理も、見よう見まねだけでは失敗ばかり。洗濯ものに洗剤が残っていたり、洗いもので食器を割ってしまったり、ご飯だけは炊けたけど、おかずは塩辛すぎたり甘すぎたり酸っぱすぎたり味が薄すぎたり濃すぎたり。
でも良いこともあった。悪戦苦闘してるのを見かねたのか、お母さんが手伝ってくれるようになったのだ。まだふさぎ込んでることが多いけど、味付けだったり掃除だったりに手を貸してくれる。
「ごめんね雅美」
「ううん、いいの」
お葬式が終わって一ヶ月が過ぎたころには、たまにだけどお母さんが笑顔を見せてくれるようになった。お料理のときも味付けのコツを教えてくれたりして会話も増えていった。
そして四十九日の法要を終えて納骨を済ませた翌日の朝。
「お仕事が見つかったの。でもね、勤務先が九州になるのよ」
「えっ!?」
お父さんが死んで心にポッカリと大きな穴が開いてしまったけれども、なんとか気力を振り絞って家事に励み、お母さんも元気を取り戻しはじめて、さあこれからだと思っていた。
九州に引っ越したら美和ちゃんとも雅子とも離れ離れになっちゃうし、新しい学校で友達ができるかも分からない。お父さんもいない。仲が良かった友達とも離れ離れになる。そんな現実に直面し、急に不安になって涙が止まらなくなった。
分かってる。もうお父さんがいないからお母さんが働かなきゃならない。我儘言って、せっかく元気になってきたお母さんの足を引っ張っちゃダメ。ダメなのは分かっていても涙が止まらなかった。
それから半月も経たないうちに、お母さんと一緒に新幹線に乗って博多に向かっていた。東京駅のホームには美和ちゃんと雅子が見送りに来てくれたけど、三人で抱き合って泣くしかできなかった。
流れゆく景色の向こうに富士山が見えても、実物を見たのは初めてなのに喪失感に苛まれて感動することすらできなかった。博多に着いて地下鉄に乗り換え、天神駅から私鉄に乗り換え、最後はバスでの移動になった。
東京と比べたらいけないと思ったけど、近くに田んぼとか山があってずいぶん田舎なんだなと思うところに、新たに住むことになるアパートがあった。
前に住んていたマンションと比べたらすごいボロアパートで、キッチンを除けば部屋も二部屋しか無くて気が滅入りそうになる。だけどお父さんがいないからお金を節約しなきゃならないし、贅沢言ってお母さんに負担を掛けたくなかった。
引っ越しの手続きでお母さんは忙しくしているけど、気が紛れるのかふさぎ込むこともほとんどなくなっていた。明日からは学校が始まる。
受け入れてもらえるだろうか。親しい友達ができるだろうか。それを思うと不安で押しつぶされそうになる。けれどもそんな感情を、お母さんにだけは気取られたくなかった。だから無理やり笑顔を作る。お母さんにだけは心配掛けちゃダメだと思ったから。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
翌日の朝、昨日届いた濃紺に臙脂のラインがワンポイントで入った真新しいセーラー服に身を包み、精一杯の笑顔で家を出た。けれども新品の自転車を漕ぐ足には思うように力が入らない。
気が重い。その重さが足に乗り掛かっているようだった。それでも懸命にペダルを漕いだ。晩夏の朝の日差しが降り注ぐなか、そよ風が垂れ下がりはじめたまだ青い稲穂を揺らしている。
そんなのどかで牧歌的な景色も、慰めにはならなかった。中学校に到着し、駐輪場に自転車を止めて職員室を探した。以前に通っていた中学と比べて校舎はまだ新しく、これからはじまる学校生活に新鮮さを加味するような感覚を一瞬だけ覚えたけど、あっという間に不安と緊張によって塗りつぶされてしまった。
職員室を見つけてガラガラとドアを開けた。
「失礼します」
すると薄い縁のメガネをかけた若い女の先生が振り向き、席を立って歩み寄ってくる。清潔そうな白衣を身にまとったショートカットの先生だ。保健の先生だろうか? 理科の先生だろうか?
「貴女が転校生の白石さん?」
「はい。白石雅美です。今日からお世話になります」
「こちらこそよろしくお願いします。私が貴女の担任になる米田です。時間になるまでこの席に座って待っていてね」
「はい」
米田先生は笑顔が優しい先生で、不安がすこしだけ和らいだ気がした。
時間が来てチャイムが鳴ってからは、落ち着く暇もなく時間が過ぎていった。自己紹介は緊張して精一杯明るく振舞ったけど、どう思われたんだろう。
休み時間になるたびに人が寄ってきて色々なことを聞かれ、昼休みは自分で作ったお弁当を食べたけど、何人かの女子生徒が一緒に食べてくれて、受け入れられたような嬉しさが込み上げてきた。
けれども授業が終わって一人になると、急に心が沈んでいって闇に飲み込まれそうな気分になる。このまま家に帰っても、お母さんは仕事で夜まで帰ってこない。
だから部活に入れてもらおうと思って、音楽室に行ってみることにした。東京にいたころは部活には入らなかったけど、ピアノ教室に通っていたから。
ピアノを弾いているときが一番楽しい時間だった。もともと音楽が大好きで、聴くにしても歌うにしても演奏するにしても音楽に浸っているだけで幸せな時間を過ごすことができた。
お父さんが死んでからはピアノ教室に通うこともできなくなって、もうひと月以上も聴くことくらいしかできていない。今はとにかく何も考えずにピアノが弾きたかった。
音楽系の部活に入ればピアノを弾くことができるかもしれないし、心機一転他の楽器にチャレンジしてもいい。そう思って音楽室に来てみれば、そこには誰もいなくてグランドピアノが寂しく佇んでいた。
ピアノを見ていると、弾きたい気持ちがどんどん大きくなっていく。
「弾いてもいいのかな」
そう思ってみたものの、ピアノを弾きたいと思う心に抗えなかった。
「ちょっとだけだったらいいよね」
自制できずに鍵盤蓋を開け、そっと鍵盤に指を滑らせてみると、久しぶりの感触に温かな感情が戻ってきた気がした。椅子を調節してペダルの位置と感触を確かめ、深呼吸する。鍵盤にやさしく指を添えてふと考える。
「なにを弾こうかな」
考えるまでもなくメロディーが頭のなかに浮かんできた。すると自然に指が動き、澄んだ音色が連なってパッヘルベルのカノンの永遠に続くような旋律が辺りを満たしていった。
久しぶりだから指の動きがすこしだけぎこちない。けれども演奏を続けるうちに、どんどん動きが良くなって沈んだ心に安らぎを与えてくれた。
心の赴くままに身を任せ、カノンを弾き続けていると、横からスッと学生服を着た左手が見えて伴奏を弾きはじめた。驚いてドキドキして思わず弾くのを止めて振り向くと、そこには優しげな顔で微笑む男子がいた。
彼は優しくうなずいて続きを弾くように促してくる。こんな少女漫画に出てくるようなことをする男子が本当にいるんだと驚いたけど、嬉しくなって思わ微笑み返していた。
左側の席を空けて演奏を連弾に切り替えると、彼は椅子に座って低音部を合わせてくれた。彼の演奏は驚くほど正確で、優しく導くようにリードしてくれる。
けれども曲の途中からだったからすぐに演奏が終わってしまった。それと同時に、楽しい時間が終わってしまった名残惜しさが襲ってくる。
「もう一回やろうよ」
「はい、よろしくお願いします!」
また彼と楽しい時間が過ごせる。そう思うと嬉しくなって反射的に了承していた。けれども一曲通してカノンを彼と連弾してみたら、彼のあまりの上手さに圧倒されることになった。
けれども演奏中はいままで味わったことがないほどに楽しくて、上手くなったような錯覚さえ覚えるほどだった。それほどまでに彼のリードは的確で、グイグイ引っ張るというよりも、優しく包み込んで引き上げてくれるような感覚に満たされて幸せだった。
「音楽部に入りたいの? 転校生だよね?」
「はい、でも誰も居なくて。それでピアノがあったから弾いてもいいかなって。あっ、白石雅美です。連弾してくれてありがとうございます!」
「僕は吉崎武夫。一応音楽部の部員だよ。でも今日は顧問の先生が体調不良で休みらしいから、部員は僕以外来ないかな。あ、顧問は坂口洋子先生ね。明日の放課後職員室に行ってみたらいいよ」
「教えてくれてありがとうございます。それでそれで、武夫君ピアノ凄く上手だね。まるでプロみたいだったよ」
武夫君はすこしだけ照れた感じだったけど、ピアノの腕前は凄かった。上手だねっていうレベルじゃなくて、プロのピアニストでもこれほど上手い演奏はほとんど聴いたことがないと思えるほどだった。それに背が高くてカッコいいし、優しくて話し上手だし、本当に少女漫画に出てくるヒーローみたいな男子だ。
「面と向かって言われると恥ずかしいかな。一応小6までレッスン受けてたんだ」
「私も同じだよ。でもお父さんが死んじゃって月謝が払えないってお母さんが言ったの。それでやめちゃったんだ」
「なんか、嫌なこと思い出させちゃってゴメン。辛かったよね」
「ううん、そんなことないよ。お父さんのことは今でも悲しいけど、お母さんがいるから私は平気」
話の流れでついつい身の上話までしちゃったけど、武夫君がカッコよくて優しかったからだと思う。
「そっか、ねぇ白石さん、まだ時間大丈夫? ロックとか好き?」
「うん、全然大丈夫。音楽ならなんでも好きだよ」
「じゃぁ、こんなのはどう? 入りたくなったら入ってきていいよ」
武夫君が奏ではじめたメロディーはカノンだった。でもテンポが凄く早いし曲調もカッコいい。聴いたことがない。これって武夫君のアレンジ? 「入ってきていいよ」と言われても、いきなり連弾するなんてムリムリ。
そう思いながらも、アレンジの軽快さについつい体が揺れて乗ってしまっていた。
「どう、この曲で連弾行ける?」
「メロディーのほうはテクニカルすぎて無理かも。コードだけなら何とか……っていうか武夫君。スゴイアレンジだよ。こんなアレンジ初めて聞いたよ。それに上手すぎるよ。それに、すごくカッコよかった」
武夫君が奏でるイントロに合わせ、なんとかかんとかコード弾いていく。一度では覚えられなくてかなり単純化しちゃったけど、かろうじてついていける感じだった。
リズムが狂ったりミスタッチしたりで散々だったけど、そのたびに武夫君がリカバーしてくれてすごく楽しい時間が過ごせた。
けれどもそんな楽しい時間が唐突に終わりを告げる。二人の男子生徒が音楽室になだれ込んできたのだ。
「今弾いてたの曲はクラシックだけどロックアレンジだよな! ビート刻んでたし、ギターソロっぽい旋律もあった」
背が高い方の男子がズカズカと武夫君に大股で歩み寄り、彼の両肩を掴んで揺さぶるようにまくし立てている。
「もしかしてギターとか弾ける? そっちの彼女も伴奏上手かったし、キーボード出来るよね?」
バンドメンバーに誘っているのかな? そう思って武夫君を見ると、彼は怒りの表情を浮かべて背が高い男子を睨みつけていた。
「雄二、いきなり強引すぎるって。そっちの娘も驚いてるじゃん。転校生だよね?」
もう一人の男子が背が高い男子を呆れた様子で諫めている。こっちの背が低い方の男子は冷静な感じがして人当たりも良さそうだったけど、楽しい時間を邪魔された気分になって、ついついつっけんどんな感じで返してしまう。
「キーボードならできますよ。でもいきなりで驚いちゃいました。バンドの誘いですか? うーん」
転校初日に失敗しちゃったかなとも思ったけど、武夫君はもっと怒っていたみたいで、
「ギターなら弾けるぞ。だがしかし、お前らに俺とバンド組めるだけの腕あんの?」
挑発するような言葉で聞き返していた。
「てめぇ、やけに上から目線じゃねぇか。それだけ言うからには聴かせてくれんだよなぁ。おい、たしか吉崎つったよな。今から時間作れ。俺ん家行くぞ。正彦もそれでいいだろ?」
「ハイハイ。あっさり挑発に乗せられちゃって、単純バカはこれだから困るよ。でもまぁ、僕も興味はあるかな、吉崎君」
「てんめぇ! 誰が単純バカだって?」
背が高い方の男子は背が低い方の男子の襟首を掴んで睨みつけたが、背が低い方の男子は手慣れた様子でその手を払いのけ、ヤレヤレといった感じで提案してきた。
「コイツん家、親がライブハウスやってっから来てみない?」
それからは怒涛の展開だった。
背が高い方の男子は雄二君といって、実家がライブハウスらしい。そのライブハウスに武夫君と自転車で移動することになった。武夫君はライブハウスのステージで、カノンのロックアレンジを今度はエレキギターで演奏し、みんなの度肝を抜いていた。
武夫君はピアノもプロ級に上手かったけど、ギターの腕前もプロ級だった。雄二君ともう一人の背が低い方の男子、正彦君は目を丸くして驚いていたし、いつのまにか横にいた新しいクラスメイトのチカちゃんとトモちゃんが、興奮しながら武夫君を褒めていた。
「凄い! 凄い凄い凄い凄い。吉崎君だよね。ほとんどプロじゃん。チカちゃんもそう思うよね」
「うん、うん。わたしより一億倍上手い」
後で聞いたことだけど、チカちゃんの彼氏が雄二君で、トモちゃんの彼氏が正彦君なんだって。
チカちゃんとトモちゃんのことは彼氏がいて羨ましいけど、こんなにカッコいいスパダリみたいな男子が目の前に現れてくれたのが信じられなくて、そんな武夫君と知り合いになれて優しくして貰ったのが嬉しくてたまらなかった。
「吉崎、お前スゲェな。正直言って俺が聴いてきた誰よりも上手ぇ。俺たちとはレベルが違いすぎたよ」
「フフン、師匠は神」
「千佳子、お前が威張んな」
「吉崎、レベルの違いは分かった上で頼む。俺たちとバンド組んでくれねぇか」
「僕からも頼むよ。コイツが言ったとおり吉崎と俺たちじゃ天と地ほどの差があるのは分かった。でも俺たちだって上達してる途中だ。いずれ必ず君に追いついてみせる」
「師匠はきっと分かってくれる」
「私からもお願いするよ! 吉崎君、一緒にバンドやろう!」
雄二君と正彦君、チカちゃんとトモちゃんは四人でバンドを組んでいるんだって。そしてチカちゃんはギターを弾くらしいんだけど、すでに武夫君のことを師匠なんて呼んで崇拝してるし、ヴォーカルのトモちゃんは武夫君をバンドに引き入れる気満々だった。
仲が良い四人が羨ましくて、そこに武夫君が加わったらどうなるの? いろいろなことが重なって、ついついネガティブ思考に陥りそうになる。そんなことじゃいけないと思っても、置いてけぼりにされたみたいなどうしようもない寂しさに襲われていると、武夫君が
「白石さん次第かな。彼女と連弾やって俺、すごく楽しかったんだ。だからバンド組むなら彼女も一緒じゃないと」
と言ってくれた。武夫君が誘ってくれて嬉しくてたまらなかったけど、同時にキーボードなんて高すぎて買えそうもない現実が脳裏によぎり、みんなの期待するような視線が痛くてたまらなかった。
あ、ダメだ。と思ったときには遅かった。いろんな感情が重なりあってどうしようもなくなって涙が止めどなく溢れ、止めようとしたけど止まらない。どうしたらいいか分からなくなって、パニックになりかけていたらチカちゃんとトモちゃんが別室に連れて行ってくれた。
別室でしばらく泣いて落ち着いたところで、トモちゃんとチカちゃんに泣いちゃった理由を打ち明けた。そしたら楽器のことは気にしなくていいよって優しく言ってくれた。ライブハウスにあるキーボードを貸してもらえるんだって。
「だから気にせずにあたしたちと一緒にバンドしよう!」
トモちゃんにそう言ってもらえて、受け入れてもらえたような気がしてずいぶん気持ちが楽になった。そしてせっかく誘ってくれた武夫君に申し訳なくて、いてもたってもいられなくなった。
「うん、わたしでよければ仲間に入れてください。お願いします」
「もっちろん、ウェルカムだよー」
「だったらみんなのところに戻ろう。でもその前に説明してくるから待ってて」
チカちゃんが出て行ってしばらくして、トモちゃんと一緒にみんなのところに戻った。
「いきなり泣いちゃってゴメンナサイ!」
作った笑顔じゃなくて自然な笑顔が出せたと思う。だって本当に嬉しかったから。
「わたしもバンドの仲間にしてください。お願いします!」
「ッシャア!」
雄二君が拳を握り締めて歓喜の声を上げた。武夫君もほかのメンバーも温かい拍手を送ってくれた。
「せっかくだ、記念に一曲やろうぜ。さっきの曲いけるだろ」
「えー、インストゥルメンタルじゃん。あたしの出番無いよ~」
「トモちゃん大丈夫。心の中で歌えばいいよ」
「OK~」
こうして新しい居場所ができたのでした。