◆月の一
——それは、風の強い冬の日のこと。大学受験当日を迎えたぼくは、家から駅までの道を歩いていた。冷たい風を吸い込み、不安を殺しながら、多くの受験生たちと同じような気持ちで、薄く氷の張った道を慎重に踏みしめる。通い慣れた道の途中、いつも高校に行くときと同じように渡ろうとした橋で、ぼくは『幸運なことにも』欄干に足をかけて飛び降りようとする人を見つけてしまった。本能的にその人物に掴みかかり、自決を食い止める。暴れて抵抗するのをどうにか抑え込んでいる間に、電車は一本また一本と走り出して行き、事態が収まるころには、とっくのとうに試験の開始時間は過ぎ去っていたのだった——
「ちゃんと生きてよ! 無様に死ねよ!」
新しい住人として訪れた芙美子さんは、噛みつきそうな権幕で蓮介くんを罵る。水を打ったような静寂が包蓮荘を数瞬の間支配し、みるみると頬を紅潮させた少女は玄関の引き戸を開けて走り去っていった。彼女が座っていた辺りに目をやると、まだ湯気をくゆらせるマグカップの足元に無地のハンカチがあった。
「あの、これって——」
摘まみ上げて蓮田家の人々に確認を取る。
「多分フーミンのだね、今から追えば間に合うかなー」
「そうね、悪いけど美月君、行ってきてくれる?」
我ここにあらずな蓮介くん、それを慰めようと寄り添う絵美さん、不安げな表情の美陽さん。確かにぼくが一番適任みたいだ。
「分かりました、行ってきます」
まだ肌寒い初春の町、上着を羽織らなかったことを後悔しながら芙美子さんを追いかける。町と街を繋ぐ真っ赤な鉄橋、花野橋の丁度真ん中で、ようやく少女の肩を叩くことができた。
「芙美子さん、ハンカチを忘れませんでしたか?」
ショートヘアをなびかせながら、彼女はこちらに向き直る。
「あ、はい、ありがとうございます、えっと——」
「美月です」
「美月さん。ごめんなさい、わざわざ」
芙美子さんはまだ涙ぐんでいた。僕の手からハンカチを取り返すと、ジーンズのポケットに強引にしまう。今ここで涙を拭う気はないらしい。
「あの、すみませんでした、取り乱しちゃって。あんな風に怒鳴っちゃうなんて、恥ずかしい」
ぼくのそれより少し高い位置にある瞳はつややかに潤む。瞬きの度に零れ落ちやしないか不安になった。
「いえ、お気になさることはないです。気持ちは、分からなくもないですから」
いじめというほど過激ではないが、容姿についてや家が貧乏なことでからかわれたことはある。ただ、芙美子さんや蓮介くんの様子を伺うに、それとは比較にならないほど壮絶な経験があったようだ。
「そ、そうなんですか。いじめとか、そういうことに縁があるようには見えないですけど」
平安寺さんは訝しげに僕を見下ろした後、何かに気付いたようにはっとなって、ごめんなさい、と謝った。
「こんな言い方ないですよね。せっかくハンカチ届けて頂いたのに、ああ、もう、今日のわたし本当にダメだ。みんなの前で人を叱るなんて一番やっちゃいけないことなのに」
ここで蓮介くんの気を遣うなんて、懐が深いと感じる。きっと根は優しくて、繊細な子なのだろう。
「ところで老婆心からお伺いしますが、住む場所はどうするつもりですか? ご自宅から学校に通えるならそれでも良いのですが」
「う、うーんと、考えて、なかったです。親には一人で大丈夫だって啖呵切っちゃったし、荷物全部段ボールに詰めちゃったし、家から通えないことはないけど、うーーん」
握りしめていた腕を解き、後頭部を抱える芙美子さん。なんだか、言葉の詰まらせ方が蓮介くんそっくりだ。思わず笑いが漏れてしまった。
「笑わないで下さいよ。本当にどうしよう」
悩める少女に、提言をすることにした。
「蓮介くんと同じ場所で暮らすのは嫌ですよね?」
「申し訳ないけど、そうです」
「それさえなければ、包蓮荘に住むことに抵抗はないですか?」
「うん、はい、気になったのは看板のデザインくらいなので」
「包蓮荘って結構広いんですよ、ぼくや蓮介くんが使っている部屋は二階にあって、女性が使う部屋は一階の玄関から入って左手にあるので、居間でお食事をするとき以外は蓮介くんとはすれ違うこともないと思います。一緒にお食事をしたくなければ、部屋まで持って行ってもいいと思いますし」
「え、そうなんですか。そういえば美陽さん、この後部屋まで案内するって言ってた」
「無理にとは言いませんが、ぼくは平安寺さんも一緒に包蓮荘に住んでくださると、とてもうれしいです。ぼく以外は住人と言っても血のつながりのある家族ですから、ちょっと心細かったですし」
「えっと、誘ってもらえるのはとても嬉しいです」
感情が仕草に出やすい人なのだろうか、平安寺さんは頬に両手をあてがった。
「そっか、女性の部屋は一階で男性は二階――あれ、美月さんの部屋はなんで二階なんですか」
「あー、それは、多分、勘違いというやつですね」
蓮介くんも同じ勘違いをしていたけど、ぼくはそんなに中性的な見た目をしているのだろうか。髪の長さが原因だろうか、それとも服装の問題か。次に服を買いに行く際には一考の余地がありそうだ。
「え、もしかして、男の人!?」
平安寺さんは頬に添えていた手を顔の横で広げた。段々と彼女の普段の姿が見えて来る。
「ええ、一人称で気付きませんでしたか?」
「それは、この世の中色々な人がいますから」
そう言って目を伏せると、油断したのか溜まっていた涙が彼女の目の端から零れた。はっと目を見開くと余計に涙が落ちて行く。
「あ、その、これは違くて、光見、じゃなくて蓮介のせいで泣いてるわけでも、美月さんから人物の多様性に感動して涙が出ているわけでもなくて……」
流暢に言い訳を拵える目の前の女の子の頬を春風が撫ぜて、伝う涙がぴぴっと風花のように街道沿いへちらついた。
「分かってますよ」
「は、はい……恥ずかしい。とにかく、改めて考えさせてください。ハンカチありがとうございました!」
慌てて袖で涙を拭い、平安寺さんは駅の方へと歩いて行ってしまった。結局彼女はハンカチをポケットに突っ込んだままだった。
失業したまま春が来てしまった。美陽さんはせっかくご飯を作ってくれているのだからそんなに急いで仕事を探す必要はないのよ、と言ってくれるのだけれど、ぼくとしては早く手に職をつけたかった。所属感のない現状が辛く、所詮は社会からはぐれた生き方ができない小さな人間なのだと悟る。
仕事を辞めたときはしばらく高等遊民を謳歌してやろうと思ったのだが、桜前線もいよいよこの町におしかけてきそうで、蓮介くんはそろそろ始業式で、絵美さんは大学の入学式を控えていて、ぼくだけ歩みが止まったままなんじゃないかと不安になる。不安になるけれど、居間で課題をこなしている蓮介くんを応援するために、料理を中断してコーヒーを淹れた。
「お疲れ様。お飲み物はいかがですか?」
ノートにかじりつく蓮介くんにマグカップを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
「砂糖もミルクもいらないよね?」
「あ、はい。お気遣いどうも」
今の高校生はどんな勉強をするのだろう。そう思ってノートをちらっと見る。しかし、内容までは蓮介くんの髪に隠れて見えなかった。邪魔をしてはいけないし、台所に戻ろうとすると、蓮介くんが呼び止めた。
「あの、オレ、どうしたらいいすかね?」
ここのところ、ずっと心ここにあらずな状態だったし、きっと芙美子さんのことだろうと思うが、少しはぐらかしてみる。
「うーん、ぼくは英語はあまり得意じゃないから、絵美さんに訊いた方がいいかもしれないね」
「いや、あの人、勉強はできるんだろうけど、感覚派で何言ってるのか分かんないところあるから……、いやそうじゃなくて」
蓮介くんは顔を上げる。久しぶりに彼と目が合った気がした。
「その、平安寺のことで」
真剣な眼差しだった。
「蓮介くんは、芙美子さんとどうなりたいの?」
「それが、分かんないんすよ……、いや、包蓮荘に住むことはないんでしょうけど、平安寺は梅園らしいから、高校は違うけど街ですれ違うこともあると思うし、そのたび避けるのも違うんじゃないかって」
「仲直りしたい?」
「仲直り、は多分できないと思うんです、取り返しのつかないことしちゃったし、許してはもらえないと思うし」
蓮介くんは自信なさげにそっぽを向く。
「それは蓮介くんや芙美子さん次第だと思うよ。いずれにせよぼくから言えることは、過去は変えようがないってことかな」
ぼくにだってこうじゃなければよかったのに、と思う経歴は幾らでもある。でも、それを受け容れて生きていくしかない。
「美月君! ちょっといいかしら!?」
一体、彼らの間に何があったのだろうか。その事情に踏み入ろうとしかけたが、美陽さんが呼ぶ声で我に返る。
「もうしばらくしたら夕食だから、きりの良いところまで行ったらテーブルを空けておいて」
美陽さんのもとへ向かうと彼女はスマートフォンを耳に当てていて、喋りかけようとしたぼくを制しながら、全然大丈夫よ、食べにおいでと言って電話を切った。
「美月君、急で悪いけど今晩のご飯は五人分用意してもらえるかしら?」
美陽さんがいたずらっぽく笑いながら手をパーの形に広げた。なんとなく誰が来るかは見当がついた。
「芙美子さんの分ですか? 分かりました、適当に一品増やせばいいかな」
大きな冷蔵庫を開いて、何を追加しようか考えた。
「急でごめんね、察しが良くて助かるわ」
そういうと美陽さんは台所を見渡して、やったー、今日はみぞれ煮ね、と子供のように喜んでいた。
それから絵美さんがたでぇまー、と気だるげに裏口から帰って来た。いつものように台所に入って来て冷蔵庫から麦茶を取り出し、ガラスコップにとくとくと注ぐ。
「おかえりなさい、欲しかったものは買えた?」
「ただいまー、いやもう薄っぺらいひらひらした服しか置いてなかった。なんで服屋って先のことばっかり考えて今を見れないのかしらねー」
「それは残念だったね。いっそのこと古着屋とか行ってみたら?」
「そうねー、ミッキーも一緒にいこ? ね、デート、買い物デート」
「ふふ、考えておくよ」
絵美さんは豪快に麦茶を喉に流し込むと、横目でこちらを、正確にはコンロの上でふたを揺らす鍋に目をむけた。
「あっは、今日はみぞれ煮だ」
目の横に皺を作って笑い、テーブル拭いてくるねーとレンジの横のスタンドから布巾を取って絞った。
「うん、よろしくね」
はーい、と返事をして居間に消えていく。なんだか妹ができた気分だ。最初はつかみどころのない人だと思ったけれど――実際つかみどころはないのだけれど――、人懐っこくて接しやすい子だな、と最近は思う。
絵美さんと入れ替わりで蓮介くんがやって来た。
「あ、みぞれ煮だ。これ運べばいいっすか?」
「うん、お願いできるかな」
蓮介くんが料理を運ぶのに続いて、ぼくも食器を居間に運び出す。テーブルの上に並ぶ色とりどりの皿たちに、自画自賛になるけれど美味しそうだと感じた。ここ数年はいつも自分の分だけ作ってきた、誰かのために食事を用意することの楽しさを久しぶりに感じられただけで、包蓮荘に来てよかったな、と思うのだ。
そんなちっぽけな悦予に沈みかけた心を引きずり出したのは、チャイムの音だった。ピンポーン、と普段なら誰も鳴らさない呼び鈴が久しぶりにその機能を果たす。
「悪いけど、誰か出てくれるー?」
台所に隣接した美陽さんの部屋から、こもった声が聞こえる。ぼくが出ることにした。その方が良い気がした。
玄関の隅に置いてあるつっかけに足を入れて、カギのかかっていない戸を開く。不安げに握りこぶしを胸に当てる短髪の女性がいた。案の定、芙美子さんだった。
「いらっしゃい、丁度良かったです」
「は、はい、お邪魔します」
入ってくるように手を広げて促すと、彼女は季節に比して厚手のシャツの袖を揺らして、一歩一歩確認しながら入場した。
「うげ」
前方と後方の双方から僕を挟むように聞こえてきたのは、不安とか後悔とか、そういったネガティブな感情をえずく音だった。
「あ、いや、これは、その」
振り返ってないからどのような表情かは分からないが、多分蓮介くんは口をふさぎながら喋っているからこもった声になっているんだろうな、とは推測が付いた。さすがに、うげ、はないよな。
「あの、やっぱりわたし、帰ります!」
身を翻そうとする芙美子さんの手を思わず掴む。
「ご飯だけでも食べて行ってください。今日のはとってもおいしくできたから」
蓮田家みんなの大好物もあるし。
「の、野々目さんが作ったんですか?」
美陽さんに借りたエプロンを見せびらかす。
「うん、一緒に食べよ? 冷めちゃいますよ」
多少は強引な方がいいのではないかと思い、手を引っ張って笑ってみせる。
彼女は僕の背後と僕の目を交互に見て、
「た、食べるだけですから」
ほんのりと頬を紅潮させて言った。平安寺さんの後ろで、開いた戸の向こうから春の青い夜がきらめいていた。
「蓮介はね、元々はとても活発で明るい子だったのよ」
食事を終えて食器を洗っていると、美陽さんがお皿を拭きながら呟いた。
「今はいないけど、あの子にとっての祖父母、つまりは私にとっての両親がこの家で暮らしていたから、お盆や正月には帰って来てたの。ちょっとやんちゃだったけど、誰とも仲良くなれたから、こっちでも沢山友達を作ってね。親戚の評判も良かったわ」
「そうなんですか」
「ええ。今のあの子からは想像できないでしょ? でも、二年前のある出来事ですっかり変わってしまった」
美陽さんはかちゃかちゃと戸棚に大皿を片付けて、次の食器を拭き始める。
「蓮介は同じクラスの女の子をいじめていたのよ。あの子だけじゃなくって、クラスの大勢でね。結構、陰湿だったみたい。SNSを使ったりして。段々とエスカレートしていって。あのね、私は今でもあの子がそんなことをしたなんて信じられないんだけど」
美陽さんは箸を拭いて引き出しにしまう。
「最後にはその女の子を呼びつけて川に突き落としたらしいの。それがきっかけでいじめのことが明るみに出た。私もその女の子が芙美ちゃんだって分かっていれば、包蓮荘に誘いやしなかったんだけど」
「そうか、それが原因で」
それが原因で芙美子さんは高校の受験が一年遅れてしまったのかもしれない。それが原因で蓮介くんは内向的になったのかもしれない。
「蓮介がやったことは悪いこと。許されるべきではないし、きっと後悔は一生付きまとうことになるわ。でもね」
美陽さんは静かに拭き上げた食器を見つめる。
「でも?」
「私は家族だから。例え蓮介がどれだけ間違っていたのだとしても、あの子のことを肯定してあげたいの。美月君も、蓮介のことを嫌いにならないであげて」
「ぼくは蓮介くんのこと、好きですよ」
「本当? なら、とても嬉しいわ」
切なげに笑って、それじゃあおやすみなさい、と告げて美陽さんは自室に帰って行った。
「ねぇ、ママと何の話してたの?」
入れ替わりで台所に絵美さんが現れた。
「蓮介君の話を、ちょっとね」
「レンねー。昔はもっと骨のあるやつだったのに、すっかり牙をもがれちゃったみたい」
絵美さんはぼくではなく、遠くの方をぼーっと見ているようだった。
「ミッキーはフーミンに包蓮荘に住んで欲しい?」
「そうだね。ぼくとしては芙美子さんが来てくれると嬉しいな」
「わお、相思相愛だ」
「それはどういう意味?」
「フーミンはミッキーのこと好きだと思うから」
「ふふ、そうだと良いけど」
「そっかー、フーミンと一緒に暮らせるといいね」
「でも、それは芙美子さんが決めることだから」
ちょっとママに用があるから、そう言って絵美さんは美陽さんの部屋へと消えていった。おやすみ、明日がきっといい日でありますように。