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■蓮の一

——朝もやの街、まだ人通りの少ない道をひたすら走っていた。オレの前を走る少女を追いかけるためだ。標的は必死に逃げていた。オレがまるで鬼であるかのように。やがて橋の上に追い詰めて、少女が何ごとかを叫んだが、訴えなど聞く耳も持たずにオレは手を伸ばした。一瞬の間の後に鈍い水音が鳴って、誰かがオレのことを後ろから取り押さえる。当然だ、オレは人殺しと何も変わりやしないのだから——


 ことの発端は三週間前に遡る。高校生活最初の学年末試験を控えていたオレの家の門扉に、突如として大きな看板が掛けられていたのだ。チープなプラスチック製のそれにはデカデカと『包蓮荘(ほうれんそう)』と書かれており、その向こうには相も変わらず馬鹿でかい日本家屋がある。何度見返しても、ここは二年ほど前から住まわせてもらっている叔母の家そのものだった。


「あら、お帰りなさい! どうしたのよ、いつにも増して猫背ね」


 玄関の引き戸を恐る恐る開けると、叔母の美陽さんが長髪を揺らしながら板張りの上をスリッパでぺたぺたと歩いて来た。お盆の上に茶菓子と湯飲みを乗せている。


「ほら、寒いから閉めて」

「あ、うん。ごめん」


 慌てて戸を閉める。


「じゃなくてさ、あの看板は何なの?」

「ああ、あれね、ほら前から話してたじゃない、せっかくこんだけ家が広いんだから、下宿とかに使えばスペースの無駄遣いにもならないし、家賃収入も得られるから一石二鳥だって。これからの時代、不労所得よ!」


 何から何まで聞いていない。ただ、居候の身分であるために文句も言えない。


「あら、言ってなかったかしら? でも、ずっと私と二人で寂しかったでしょ? 家族が増えて良かったじゃない。ほら上がって。もうお兄さんが来ているわよ」


 美陽さんはそう言うと居間に続くふすまに目をやる。あのふすまの向こうに、もう既に新しい住人がいるというのだ。確かに玄関には几帳面に揃えられた見かけないスニーカーが、端の方にちょこんと置かれている。


 美陽さんに促されて、ふすまの前に立つ。手が塞がって開けられなーい、とオーバーに言うのは、きっとオレが『兄』と話す機会を与えようとしてるんだ。


 意を決して、ふすまに手をかける。しかし、戸は独りでに開いた。


「大丈夫ですか? お気を遣って頂き、ありがとうございます……、おや? あなたは?」


 ボブカット。サラサラの髪。黒縁の四角い眼鏡。長いまつ毛。こちらを見上げる瞳。美人と形容される人が持っているものを全て備えていそうな人だ。


「蓮介! ぼーっとしてないで、中入って。手を煩わせてごめんなさいね、美月君も座って頂戴」


 美陽さんに言われて我に返る。お兄さん。世の中には色々な人がいると考えるべきか、美陽さんの悪い冗談だったのか分からないので、特にそれについては言及せずに居間の座卓の前に胡坐をかいた。美陽さんはお菓子とお茶を配りながら、話を進める。


「この子がさっき話してた蓮介。私の甥っ子だけど、まあ息子みたいなものよ」

「よ、よろしくお願いします」


『兄』に対して頭を下げる。


「こちらこそ、よろしくお願いします。野々目美月といいます」


 野々目さんはオレよりもいっそう深く頭を下げる。


「その制服は、朔葉高校ですか? 何年生?」

「あ、はい。えっと、もうすぐ二年す」


 話しぶりによると、野々目さんは朔葉市出身らしい。高校卒業を契機に勤め先の寮に引っ越したが、職場が合わずに退職して地元に帰って来たのだそうだ。


「てことは、野々目さんは高校の先輩だったりするんですか?」

「あ、いや、ぼくは朔葉高校じゃなくて」

「美月君は梅園よ。超頭いいんだから」

「止してくださいよ。大学にも行ってないんですから。高校を卒業したのも、もう二年前の話です」


 梅園高校は県内でも有数の進学校だ。オレからすれば端から選択肢にもなかった。確かに、超頭いい。それを鼻にかけるような様子が一切ないのも謙虚だ。


「それじゃ、お部屋を見てもらおうかしら? 蓮介のお隣さんよ」


 そう言って、美陽さんはギシギシと階段を上がっていった。確かに、二階には空き部屋が二つある。オレの部屋は真ん中で、両サイドは空っぽだ。野々目さんが美陽さんについていったので、オレも恐る恐る野々目さんの後を追う。華奢な背中だった。


「はい、これが美月君のお部屋。蓮介の部屋の手前ね」


 がらんどうの部屋が顔を出す。以前は物で一杯だったのに、いつの間に片付けたんだろう。そして、オレの部屋よりも明らかに広い気がする。


「あ、ごめんなさい。よく考えたら下の階の説明、全然してなかったわよね? 降りてくれるかしら。案内するわ」

「はい、分かりました」

「蓮介は、ちゃんとこれからする案内を覚えておきなさいよ。私が居ない時も、なんなら包蓮荘を私から継いだ時も案内できるようにしてもらわないと」

「え、そんなに続けんの」


 階段を軋ませながら、話をする。一階に辿り着くと、台所の隣にある風呂場を美陽さんは指差した。


「お風呂とトイレは共用ね。女子部屋側にもあるけど、そっちは案内する必要はないから割愛」


 女子部屋? ああ、玄関側から見て左手にあった、全然使ってなかったところのことを言ってるのかな。


「それで、こっちが台所ね。奥に扉があるけど、これは私の部屋だから用があったらノックしてね。台所に関しては好きに使ってくれて構わないわ。その代わり、使ったものは元の場所に戻しておくこと。お料理はする?」

「はい。自炊はしていますので」

「そう! 今度ぜひ食べてみたいわね。もし美月君が良ければ、家賃をその分安くするからうちのご飯を作ってくれてもいいのよ?」

「ふふ、検討しておきます」


 これで家庭的なのか。ますますオレの中の女性疑惑が強まった。いや、今時ならそういうのって男女関係ないのか?


「それで、台所の向かいにあるのがさっきまで居た居間ね。玄関側からふすまを開けて入ることもできなくはないけど、テレビがあるしなるべくこっち側から入って頂戴。居間の縁側の方に出ると」


 美陽さんが居間に入っていき、縁側に向かうカーテンを開ける。


「中庭があります!」


 鬱蒼とした中庭。オレも美陽さんも庭仕事をしないものだから、草は生えるだけ生えっぱなしだった。


「ま、こんなところかしらね。入居届にもサインしてもらったし、今日から新しい家族ね」

「うふふ、はい。よろしくお願いします。蓮介くんも、よろしくね」


 優しい瞳にドキッとする。


「は、はい。よろしくお願いします」


 こうして、オレに『兄』ができたのだった。




 従姉だった『姉』ができたのは、『兄』ができてから一週間ほど後の話だ。二度目の出来事だったので、玄関にかかとを踏み潰したくたくたのスニーカーがある時点である程度は警戒していたのだが、案の定だった。帰宅して、玄関の戸を開くとそこにはオレを待ち伏せている人がいた。


「おかえり。あっは、聞いてた通り、背ぇ伸びたねー」


 たなびく金髪、目の端に小じわの寄った笑顔、だぼだぼのパーカー、特徴的な笑い方に間延びする喋り方。


「もしかして、絵美ちゃん?」


問いかけに答えず、金髪の女性はオレの後方を指差した。


「呼び鈴鳴らして?」


 要領を得ないが、仕方なく一度外に出て呼び鈴を鳴らす。ピンポーン。


「だいせいかーい」

「わ、わざわざこんな演出させんでも答えてくれればいいのに」

「まぁまぁ上がっていきなさいよ、我が家に」

「オレの家でもあるんですけど! い、一応」


 一応。オレは鞄を肩にかけ直して、絵美ちゃんの我が家に上がり込んだ。


 絵美ちゃんはオレの二個上の従姉だ。美陽さんの一人娘で、母方の実家——つまりはこの家なんだけど——に遊びに来る時はいつもこの人にからかわれていた。ただ、ここ数年は会っていなかった。


「なぁ、なんで急に帰ってきたの、留学してたんじゃなかったんすか」


 絵美ちゃんはアメリカの学校に行っていた。あまり詳しいことは知らないけど、絵の勉強をしに行っていたらしい。そんな髪の色も雰囲気もかつてと異なる絵美ちゃんは座布団二つで簡易的なベッドを作ってごろごろしていたので、隣に座布団を敷いて胡坐をかく。


「んいや、その留学とやらが終わって、お受験に帰ってきたのー」


絵美ちゃんは読んでいた漫画から顔を外して、オレを見上げて答える。


「てかさ、その辺はママに聞いてないの?」

「いや、美陽さん、そういうこと全然教えてくれないし」

「あっは、ママは適当ねー」


 絵美ちゃんは座布団に顔を埋めて、くぐもった声で言った。


「てか、受験ならこんなごろごろしてていいのかよ」

「姉の心配とは殊勝なことねー、どうせ今更勉強したって偏差値は微動だにしないよ。三厘くらいは伸びるかもだけど」

「姉っておい」

「実際もう姉みたいなもんでしょー、お姉ちゃんって呼んでもいいよー」

「じゃあ、絵美姉」

「うーん、エミネムみたいになるから却下」


 絵美ちゃんはやおら起き上がって、オレの顔を覗き込んだ。


「レンー、コーヒー飲む?」


 無防備な顔にちょっとドキッとする。


「へ? ああ、うん」

「じゃあ、淹れて来て! ミルク多めで!」


 クシャリと目の端にしわを作って絵美ちゃんは笑い、膝をバシバシと叩いて来た。


「なんで、オレが……分かったよ」


 仕方なく台所へと向かった。今は絵美ちゃんと二人きりみたいだ。美陽さんは買い物に出かけていて、美月さんは、おそらく自室。廊下はまだ肌寒く、さっさと用事を済ませようと台所へ急ぐ。


 幸いなことにポットにはお湯が残っていて、マグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて、お湯を注ぐ。美月さんが来てから、ドリップコーヒーを淹れる道具が台所に追加されたのだが、まだ使い方を教わってないからインスタントだ。ミルク多めの要求があったことを思い出して、慌てて牛乳を継ぎ足したらなみなみになってしまった。零さないように運ばないと。


「はい、どうぞ」


 座布団に胡坐をかく絵美ちゃんの前に、零れないようにそーっと置く。


「わーお、随分とサービスしてくれたねー」

「ごめん。入れ過ぎちゃって」

「ちょろっと飲んでから持ってくれば良かったのに。そんな抜き足差し足してないでさー」

「そ、それはできないって!」

「あっは。そう、ありがとね」


 絵美ちゃんはコーヒーに口をつけると、マグカップを座卓にスライドさせて置きながら、突っ伏すようにして顔を腕に埋めた。見た目は随分と変わったけど、振る舞いや言葉遣いは知っている絵美ちゃんのままだ。


「絵美ちゃんは、変わらないよな」

「えー、そう? 髪は伸びて色も変わって、そばかすも増えたんだけど」

「そりゃ、外見的にはそうだけど」

「人は変わるものよー、変化これすなわち成長」

「だとしたら、オレは成長できてないな」


 勉強は苦手なままだし。髪も天パなままだし。人と目を合わせて話すのも苦手なままだし。


「あっは、そのタッパで言うことじゃないなー」

「し、身長は関係ないだろ!」

「そうかな。ちっちゃいころは年をとればとるほど背が伸びるもんだと思ってたんだけどなー、ヒマラヤスギよりも大きくなるつもりだったんだけど」


 巨大な絵美ちゃんの肩に乗る自分を想像しようとしたが、うまくいかなかった。


「レンさー、学校楽しい?」


 急な話題変更だ。コーヒーを飲み込む。


「いや、楽しくはないけど」

「楽しくはない、けど?」

「行かないよりは行った方がいいかな、って」

「ま、そんなもんよねー」


 罪悪感や義務感で学校に行っていることは否定できなかった。


「絵美ちゃんは? ニューヨーク、楽しかった?」

「あはは、まぁまぁかなー」


 是とも非ともとれない返答だ。突っ込んだ質問はしない方がいいか。


「大学は? どこ受けんの?」

「そりゃもちろん家から一番近いところよ」

「え、朔葉大学? すげぇ、芸術学部?」

「んいや、国際教養」

「え、ああ、うん、そっか」


 コーヒーが苦い。オレの中の絵美ちゃんは名前の通り絵を描くことが大好きで、てっきり大学もそっち方面に行くものだと思っていた。ただ、絵美ちゃんはなんでもできる人だから、全然違う学部に行ってもおかしくはない。


「てか絵美ちゃん、やけに順応早くない? 帰って来たら家が下宿になってて、オレや野々目さんが住んでんだよ?」

「あー、ミッキーね。いい子だよねー」

「ミッキーって」


 『姉』はコミュニケーション強者だ。オレはまだ全然野々目さんとちゃんと喋れてないのに、まだ帰って来て一日目の絵美ちゃんは野々目さんのことをあだ名で呼んでいる。多分、下の名前のミツキの間のツを小さくして伸ばし棒をつけたんだろうけど、どうにも世界的に有名なキャラクターが脳裏をチラつく。


「ミッキーはさ、料理ができて、気立てがよくて、声も可愛くて、髪もサラサラよねー。男の子じゃなかったら奥さんにしてたのに」

「色々と矛盾を感じるんですが」

「あっは、時代は多様性だよ」


 ニタニタと笑う『姉』。これから少なくとも、二年はこの人と——


「あなたたちねぇ、自分の家だからどこに居ようと自由だけど、試験前なんだから勉強くらいしなさいよ」


 買い物袋をがさがさと鳴らして、美陽さんがいつの間にか帰って来ていた。


「あは、そのつもりだったんだけど、どうせ今更勉強しても精々七分くらいしか点数伸びないからってかわいい弟が言うもんだから」

「こら、蓮介! その理屈なら勉強しなさい、七分も上がったら立派な微熱よ!」

「それ言ったのエミちゃんだし、多分単位も数字も間違えてる――」

「あっは、いいから勉強しなさい」


 二年はこの人と暮らすのか。悪戯っぽく笑う絵美ちゃんには、ずっとドキドキしっぱなしだ。大丈夫なんだろうか、オレは人と生きる幸せを享受していいんだろうか。




 それから二週間が経過して、懸念の『妹』がやって来た。まだ肌寒い三月の、昼前のことだった。


 その日は春期講習もなくて、目が覚めたのは十一時過ぎ。流石に眠り過ぎたことを後悔して、老朽化した階段を軋ませながら降りる。まだ眠い。髪の毛も解いてない。そんな状態で目をこすりながら一階の廊下に出ると、何やら『姉』と『兄』が居間に続くふすまの前でこそこそと話していた。トーテムポールみたいに顔を重ねている。


「女の子、だね」

「ミッキーみたいなパターンじゃなければねー。でミッキーはどう思う?」

「どうって、何が?」

「あの娘のいんしょー」

「印象って言われても。強いて言えば、ちょっと大人っぽいかな。中学生なんでしょ?」

「ふむ、言われてみればそうねー」


 内容が聞き取れるまでに近づいても二人は全くオレに気付く様子がないので、声をかけてみる。


「あの、何してるんすか、二人とも」

「ひぐぅ! シー!!」


 うめき声をあげて絵美ちゃんは跳ねた。結果、絵美ちゃんの頭が顎に直撃し野々目さんも声を殺して顔を押さえる。


「新しい住人さんがいらっしゃってるんですよ」


 顎をさすりながら、野々目さんは言う。ふすまにはわずかに隙間が開いており、どうやらそれを二人で覗き込んでいたみたいだ。


「偵察再開ね」


 絵美ちゃんは中腰になり隙間に目を押し当てる。野々目さんも絵美ちゃんの頭の上から覗きこもうとしていた。オレも仕方なく、『兄』の頭越しに中を見ようとする。座卓を挟んで、手前に美陽さん、奥に誰かが座っている。良く見えない。何か話していたみたいだが、美陽さんが唐突に立ち上がった。


「さて、そろそろそこにいる人たちにも挨拶してもらいましょっか!」


 目を凝らそうとした刹那、ふすまが勢いをつけて開いた。美陽さんが『三兄弟』を順番に見る。


「あはは、ちょっと気になっちゃって。ね、レン?」

「い、いや。オレは今来たばっかだって」


 痛い。絵美ちゃんの肘がみぞおちに直撃する。


「もう、美月君まで。絵美の悪ふざけに付き合うのもほどほどにしておいて頂戴よ」

「申し訳ないです。ぼくもちょっと気になってしまったもので」

「さ! 気を取り直して、来週から包蓮荘の新たな住人になる子よ!」


 ジャーンと言いながら美陽さんは新たな住人の姿を手を広げて示す。正座していた新たな住人は立ち上がり、こちらを見る。


 ショートヘア。凛々しい眉毛。少し赤らんだ頬。薄手のカーディガン。手をぎこちなく前に組んで、よろしくお願いします、と礼をしていた。


「あっは、そんなに堅くなんなくていいよー。アタシは蓮田絵美。よろしくねー」

「ぼくは野々目美月と申します。よろしくお願いします」

「あ、えーと、オレは蓮田蓮介です。よろしく、お願いします」

「さ、自己紹介して」


 美陽さんに促されて、新たな住人も口を開いた。


「わ、わたしは平安寺芙美子といいます。これから三年間はお世話になると思いますので、よろしくお願いします」

「芙美子ちゃんかー、フーミンて呼ぼっかなー」


 絵美ちゃんはぶつぶつと、新住人のニックネームを考えていた。


 その一方で、『妹』は緊張しているのだろうか。どこかびくびくしていて、怖がられているような感じがする。この感じ、どこかで。


 朝日を照り返す欄干。オレを見つめながら落ちていく平安寺。水の音。


 ずっと封印していた記憶がフラッシュバックした。


「へ、平安寺?」


 信じられなくて口を覆う。もう二度と会うことはないのではないかと思っていた、もう二度と会ってはならないと思っていた相手が、今、目の前にいる。


「もしかして、光見、じゃないよね?」

 光見はオレの旧姓だ。


「あら、知り合いだったの? なら良かった。ちゃんとお兄さんとして芙美ちゃんをサポートしてあげてね」


 お兄さんなんかじゃない。


「お兄さんなんかじゃないです、年齢は、同じですから」


 オレが否定しようとする前に、平安寺が突っぱねた。


 オレと平安寺は小中と同じ学校だった。クラスも一緒になったことがある。


「中二のときは同じクラスでした」


 そうだ、あれは中二の冬のことだった。オレは、逃げる平安寺を執拗に追いかけて、最後には手を伸ばして——


「ごめんなさい、わたし、帰ります。ここに住むのかは、考えさせてください」


 オレの前を通り、玄関へと肩を怒らせて歩いていく平安寺。待ってくれ、ずっと謝りたかった。この二年間、ずっと謝りたくても謝れなかった。


「ご、ごめん、平安寺。今まで直接謝れなくて。オレ、間違ってた。本当に申し訳ない」


 廊下に、声の裏返った情けない謝罪が響く。平安寺は、歩みを止めて振り返った。


「なんで、なんで今更謝るのよ」

「え? だって、その」

「なんでそんな、まるで自分がいじめられているような、いたたまれない顔してるの。あんたがいじめてきたんでしょ?」


オレのことを睨みつける視線。二年前と何も変わらない、鋭く、潤んだ瞳に思わず目を逸らすと、それを見逃してくれなかったのか、『妹』は震える声で追撃してきた。


「なんで目を逸らすの? なんでそんな風におどおどしてるの? 別に浪人したのがあんたのせいだなんて思ってない、でもわたしをどん底に突き落としたあんたの右手を忘れたことも一度だってない!」


 平安寺の顔は真っ赤になって、眉毛は吊り上がっていた。


「もう二度と会うことはないと思った、どうせ今もどこかで誰かを傷つけていて、それを省みることなく幸せになっているか、度が過ぎて捕まってるんじゃないかと思ってたのに! なんで謝るのよ、なんでそんな虚しい目するのよ! 加害者でしょ、被害者ぶるなよ、更生してよ、断罪されろよ!」



「ちゃんと生きてよ! 無様に死ねよ!」



平安寺は一息で言い切ると、玄関で靴を履いて引き戸に手をかけて振り返った。


「わたし、帰ります。ここに住むのかは、考えさせてください」


 ぴしゃりと引き戸を閉じる音がして、どうしたらいいのか分からなくなって、廊下で膝をついてしまった後のことは覚えていない。ただ、自分の心臓の拍動がうるさくて、野々目さんが平安寺のことを追いかけていって、絵美ちゃんが黙ってオレの背中を叩いてくれたことだけはなんとなく記憶にある。




 こうして美陽さんの家族倍増計画は頓挫し、『妹』こと平安寺が去って、日付が変わって、それでも日常は続くから春期講習の課題を居間で片付けていた。英語は苦手だ。だからと言って得意な科目があるわけではないが。


「お疲れ様。お飲み物はいかがですか?」


 丸盆を持った野々目さんがマグカップを課題の隣に置いてくれた。暖かいコーヒーの香りがする。


「あ、気を遣ってもらって、すみません」

「砂糖もミルクもいらないよね?」

「あ、はい。お気遣いどうも」


 野々目さんはレースのついたエプロンを着ていた。多分美陽さんが選んだんだろうな。今日も晩御飯を作ってくれているみたいだ。ノートを一瞥する視線を感じて慌てて課題の方に向き直るが、どうにも集中できない。野々目さんのせいじゃない。どうしても平安寺に言われたことが、オレがしてしまったことが脳裏にチラついて、ここのところ何も手につかないのだ。


「あの、オレ、どうしたらいいすかね?」


 長文問題の選択肢を見下ろしながら、野々目さんに訊く。


「うーん、ぼくは英語はあまり得意じゃないから、絵美さんに訊いた方がいいかもしれないね」

「いや、あの人、勉強はできるんだろうけど、感覚派で何言ってるのか分かんないところあるから……、いやそうじゃなくて」


 顔を上げる。野々目さんは中腰でオレのことを見下ろしていた。


「その、平安寺のことで」


 要領を得たのか、野々目さんは微笑む。


「蓮介くんは、芙美子さんとどうなりたいの?」

「それが、分かんないんすよ……、いや、包蓮荘に住むことはないんでしょうけど、平安寺は梅園らしいから、高校は違うけど街ですれ違うこともあると思うし、そのたび避けるのも違うんじゃないかって」

「仲直りしたい?」

「仲直り、は多分できないと思うんです、取り返しのつかないことしちゃったし、許してはもらえないと思うし」


 野々目さんが見つめてくる。直視できずに目を逸らす。


「それは蓮介くんや芙美子さん次第だと思うよ。いずれにせよぼくから言えることは、過去は変えようがないってことかな」


 過去は変えようがない。その通りだ。それを分かっていて、オレは今日までその事実から逃げ続けてきた。


「美月君! ちょっといいかしら!?」


 居間のふすまの奥から美陽さんの声が聞こえる。野々目さんは、はい、と返事をして立ち上がった。


「もうしばらくしたら夕食だから、きりの良いところまで行ったらテーブルを空けておいて。それじゃ、お勉強頑張って」


 せっかく過去と向き合うチャンスが来たのに、オレは不意にしてしまったんだ。次があるなら、それは逃さないようにしなくちゃ。


 しばらくして出かけていた絵美ちゃんも帰って来たので、そろそろ夕飯の準備を手伝おうと台所へ向かう。


「あ、みぞれ煮だ。これ運べばいいっすか?」

「うん、お願いできるかな」


 大皿には豚肉の上に大根おろしがたっぷりと積まれて、ネギが散らされている。好物は落とさないように両手で持って、居間に運ぶことにした。


 台所から廊下に差し掛かったところで、チャイムの音が鳴る。こんな時間に誰だろうか、座卓に料理を置いて玄関へ向かおうとしたが、オレより早く野々目さんが廊下を歩いて行った。


「いらっしゃい、丁度良かったです」


 訪問者を確認すべく、ふすまから玄関の方を覗き込んだ。


 思わず声を漏らす。野々目さんの小さな背中の向こうには平安寺芙美子の姿があった。


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