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故郷

作者: 山谷麻也

 Ⅰ 家族の肖像


 私は山谷麻也。一九五一年生まれ。鍼灸マッサージ師。視覚障害二級。六年前に、埼玉県からUターンした。生まれ故郷・徳島県で治療院を営んでいる。

 女房は一九五八年生まれ。同郷である。と言っても、二人の生家はクルマで一時間以上、離れている。女房の姉が私の生まれた村に嫁いで来ていた。

 母は、いつまでも身を固める気配のない私に気をもんでいた。そこで

 「どこかにええ娘がおらんかなあ」

 と、姉の家族に相談したらしい。この物語の始まりである。

 が、過疎地の現実、二人の生家はすでに廃屋になっている。

 二人とも多数のきょうだいに恵まれた。多産系の子は多産になりがち。我が家もいつの間にか四人の子供が生まれていた。


 長男は一九八三年の生まれ。愛するヨメと一緒に埼玉県在住。電気工事関係の仕事に就き、鍼灸マッサージ師の資格も持っている。

 中学時代からコンピューターに興味を示していた。私のパソコンが古くなったので買い換えたところ、古いパソコンを消しゴムで磨いている。

 「ピカピカになって、七万くらいで売れるよ」

 と、長男。

 「それはちょっとアコギな商売じゃないかな」

 と、いさめたが聞かない。

 長男が留守中に、九州の離れ小島の小学校教員から電話があった。オークションで知り合い、少し確認したいことがあるという。

 「で、お子さん、何歳ですか」

 中学生です、と伝えると

 「ええっ。どこか幼いところがあると思っていましたが、中学生だったんですか」

 電話口でため息が聞こえた気がした。


 長女は一九八七年の生まれ。我々と同居している。看護師。シングルマザー。

 明るく活発な子だった。スーパーに連れて行くと、じっとしていない。こちらも慣れっこになり、放 っておく。やがて

 「迷子のお子様のご案内をいたします」

 とのアナウンス。

 身柄を引き取りに行くと、受付の女性店員と旧知の間柄みたいに話している。

 「この子、自分のことを『迷子です』って言って来ましたよ」

 迷子なら迷子らしく、泣きべそをかくとかしたらどうなんだ。

 

 二女は一九九一年生まれ。やはり親と同居していて、治療院と家事の手伝いをしている。

 物事にこだわらない。埼玉時代によく、三女と三人で出かけた。タクシーの中で妹に話している。

 「駅のトイレのおしっこするところあるでしょ。あそこにねえ、ポチャンと落ちたの。これが」

 と言って、リュックを妹の前に差し出した。コメントのしようがない。絶句。

 

 その妹は一九九三年生まれ。神奈川県に住み、漫画家のアシスタントをしている。

 幼いころから、好奇心旺盛だった。

 テレビで恐竜の番組を放送していた。何を考えたか

 「お父さん。恐竜と怪獣はどう違うの」

 難しい質問である。そんな論文を書いた科学者はいないだろう。しかし、父の面目がある。

 「原始人と戦うのが恐竜で、ウルトラマンと戦うのが怪獣だよ」

 「お父さん。面白い。座布団三枚」

 ユニークな発想をする子だった。テレビで『猿の惑星』を観ていて、叫んだ。

 「(人間に)ひどいことをする。今度、動物園に行ったら、猿をいじめてやるんだ」

 炊事をしていた女房、手を止めて

 「だめよ。そんなことしちゃ」

 二人とも、空想と現実の狭間に浮遊している。


 孫娘は二〇一〇年生まれ。四国の小学校に通っている。

 こんな一族の中で育ったものだから、ハチャメチャなところがある。

 埼玉時代。長女のキーホルダーをガチャガチャいわせて遊んでいた。よほど気に入ったのか

 「ギャハハハ、ギャハハハ。ジィ、お前もやるか」

 一瞬、バイキンマンに見えた。


 三女の一件で露呈したが、私は「歩く辞書」(ウォーキング・ディクショナリー)として尊敬を集めている。自分で調べるか、「子ども電話相談室」に電話すればいいようなことでも聞いて来る。

 鍼灸専門学校の帰り道で亀を拾った。恩を着せておくと何かいいことがあるだろうと、家に連れて帰る。亀は家族の人気者になった。ある日、亀の周りで盛り上がっている。

 「お父さん。亀に耳はあるんだろうか」

 (こっちは勉強で忙しいんだ)

 「もしもし、亀よ、って言うくらいだから、あるんじゃないの」


 後、盲導犬のエヴァンと、ペットのシモンを忘れてはいけない。エヴァンは後半で大事な役を果たすので、その時に詳しく紹介する。

 シモンは二〇〇九年、山梨県に生まれた。ミニチュアダックスフンドのメス。

我が家に来て、みんながいろいろな名前を考えた。

 (この仔の将来をまじめに考えているのか)

 と愛情を疑うようなものばかりだった。

 よく観察すると、賢そうな顔をしている。とっさに浮かんだのが、フランスの哲学者・サルトルの愛人だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールだった。「シモーヌ」ではしっくり来ないと悩んでいると、長男の鶴の一声で「シモン」に決定した。

 はじめはいい名前だと自負していたが、やたらと無駄吠えする時など

 (名前負けしているかな、完全に)

 と、思ってしまう。



 Ⅱ 「五〇」の手習い


 私が目に異常を感じたのは四一歳の時だった。

 都内で小さな会社を経営していた。仕事関係の打ち合わせに向かうべく、地下鉄の構内を歩いていた。注意はしていたつもりだが、横から来た通行人の足を踏みつけてしまった。

 「気を付けろ!」

 交通事故と同じで、一〇〇パーセント、私が悪いわけではない。とりあえず、謝ったが

 (どうしてあれが見えなかったのだろう) 

 と、一日中、気になった。

 家に帰って女房に話し、翌日、地元の眼科に行った。建物は古く、最新の医療とはほど遠い感があった。そういうところを選んだのは

 (とりあえず診てもらっておけば安心)

 という気持ちから。しかし、心のどこかには大きな病院で決定的な病名を告げられることへの恐れがあった。


 残念ながら、後者が的中した。

 個人医院の医師は大学病院へ紹介状を書いてくださった。大学病院では散々、強い光を目に当てられた。叫び出したくなるほどだった。

 「今日は誰と来ていますか」

 と、医師。

 「女房と来ています」

 と、伝えると

 「呼んで来て」

 幼い長男と長女を連れ、女房は廊下で待っていた。

 一家を前に、医者は言った。

 「あなた、失明しますよ」

 確信にあふれる口調だった。


 「障害の受容」ということがまことしやかに言われる。当人にとっては決して容易なことではない。

私の病名は網膜色素変性症(色変)。医学書を片っ端から読む。どれにも「予後不良」、つまり、視野狭窄が進行し、失明に至る、というものだ。一般向けに書かれ、治ったという例などを紹介したものもあったが、まずはマユツバものであった。

 生活が荒れた。もともと深酒をするタイプだったが、酒量がさらに増えた。元気づけようと、知り合いが酒席を設けてくれたが、一人になると余計にみじめになった。

 ある夜、真っ暗な空に、煌々と輝く光を見つけた。星が見えるなどということは近年にないことだった。

 (なんで、あれが見えるのだろう)

 「色変」は遺伝子に異常が生じることから発症する。遺伝子だから、先祖代々伝えられてきたものである。

 (私の家系は、時が来ると発症する時限装置をセットされた遺伝子を持っている。あまりに乱れた生活をする者が現れたら、警告の意味で時限装置を起動させる)

 (あの星の光はそれを伝えるために時空を旅して来たのでは)

 これが結論だった。


 病はゆっくり進んだ。

 障害者仲間には

 「山谷さんの場合、一生見えてますよ」

 と言ってくれる者もあった。

 ところが、訪問先で出されたお茶に気付かず、ひっくり返しそうになる。視野狭窄が進んだのである。 斜め前から名刺を差し出されても見えず、おそらく不快な思いをさせていただろう。

 (そろそろ、潮時かな)

 女房に打ち明ける。

 「そんなに悪くなってるの」


 鍼灸マッサージ師の免許を取るために、専門学校に入学したのは二〇〇一年四月。四九歳の時だった。六〇の手習いならぬ、五〇の手習い、だった。長男と長女は高校生、二女と三女は小学生。五人の学生を抱えて、女房は看護の現場に復帰することになった。


 その専門学校は厚生労働省のリハビリ施設で、一環として東洋医学の課程が設けられていた。在学者には中髙年が多く、私のクラスの平均年齢は四九歳だった。

 よくまとまったクラスだった。「G5」(ゴールデン・ファイブ)と呼ばれる五人の知恵者がいて、私もその一角を占めていた。もっとも、「ジジィ・ファイブ」などと陰口をたたく者もいたが。

 授業は週五日制。多くが寮で生活していた。校内では原則禁酒、禁煙。クラブ活動もあり、クラス別のスポーツ大会は大フィーバーした。その気になればいくらでも勉強できる環境だった。しかし、入学者の中には、世間の垢にまみれすぎていて、退学処分になる者もいた。

 入学の事情が事情だけに、ここの入学式・卒業式は厳粛そのものだった。二年の時、送辞を読む役が回ってきた。和やかな雰囲気にしたくて、笑いを取る部分を準備した。読み進むうち

 「先輩方は学業に、クラブ活動にと、一生懸命に頑張られました。特に、スポーツ大会では勝利に格別な執念を燃やし、お陰で私たちのクラスでは勝利の祝杯ならぬ、敗戦の苦杯を浴びたものです」

 「いいぞ。山ジィ!」

 G5の一人からの掛け声。式場は相変わらず静まりかえっていた。


 専門学校の三年間は瞬く間に過ぎた。三年の正月、市場調査のつもりで、女房と地元の不動産屋に行ってみた。

 「デパートの前に空室があったのでは」

 不動産屋はすぐ案内してくれた。

 二月に入り、契約を促す電話があった。国家試験も終わっていない。ちょいとした舞台から飛び降りるつもりで、契約を交わしたのだった。

 三月初旬に卒業し、四月一六日、旧友やクラスメイト、前職でお世話になった方々を招いて、「開業披露の集い」を開いた。この時はさすがに込みあげてくるものがあった。




 Ⅲ 運命の「3・11」


 治療院は家から徒歩五、六分の距離。デパートや公園にも近く、市内の一等地だった。

 多くの患者さんに恵まれた。プロゴルファーやプロレスラー、俳優、歌手、舞台監督などを治療したこともあった。ほかの治療院と比べて、医師や看護師、薬剤師などの医療関係者が多かったのも特筆すべきことだろう。これには、内助の功が大きい。

 後輩が治療院見学に訪れたり、母校に呼ばれて講演することもあった。ある時、何かの集まりで、専門学校の先輩に言われた。

 「山谷さん。あなた、儲かってる、儲かってると言って歩いているらしいけど、幻想を振りまくんじゃないよ。視覚障害者のやってる治療院なんて、うまくいくはずがないんだから」

 噂は独り歩きする。私は、儲かっているなどと公言した覚えはない。それに、スタッフを雇っているし、正攻法では儲からない。でも、それでいいではないか。


 三月のまだ肌寒い日だった。

 いつものように施術していると、体がゆっくりと大きく揺れた。

 (めまいかな)

 と思ったが、外を見ると街路樹が揺れている。急いでラジオのスイッチを入れると、緊急地震速報が連呼されていた。

 東日本大震災のほぼ全容を知ったのは、家に帰って、テレビを点けてからだった。

 それはまるで別世界の出来事に思えた。

 津波が次々と家や田畑を飲み込んでいく。

 (こんなことが起きるはずがない)

 と、わが目を疑ったが、事実だった。

 追い打ちをかけたのが、福島の原発事故だった。

 心にぽっかり空洞ができた。やがて、ボランティアが多数現地入りしたが、白杖歩行の私には移動がままならなかった。

 悶々としているうち、鍼灸マッサージの業界団体から、医療ボランティアの募集があった。

 (こんな精神状態で、ボランティアができるのか。とにかく一度行ってみるしかないな)

 いわば災害ボランティアに関わったという、アリバイ作りだったのかも知れない。

 廃校になった埼玉県内の高校に、双葉町から町ごと避難していた。まるで、現代版「ノアの方舟」だった。

 玄関わきに設けられた施術コーナーに、たくさんの方々が訪れてきた。肩こり、腰痛、膝痛などのほか、不眠、高血圧、耳鳴り、頭痛など避難生活の苦労をうかがわせるものも多かった。何しろ、狭い教室に段ボールで仕切りを作り、何家族もが同居していたのだから。

 施術を終えた、ある高齢女性が、私の名札を見て、何かメモし

 「次はいつ来てくださいますか」

 と聞いてきた。

 私は返答に困った。実は、ボランティアは一回限りにしようと思っていたのだ。


 帰りのクルマの中で、目まぐるしかった一日が思い起こされた。

 (あの方は、いつ来てくれるのか、と次回の訪問を待っている。果たして、日本の医療界が本当に求められる医療サービスをどれだけ提供できているだろうか。被災者は、医療難民でもあるな)

 そう考えた時に故郷の叔母や姉がオーバーラップした。整形外科系に限った話ではあるが、長年、病院に通いながらも、慢性の腰痛や膝痛に悩まされている。満足な医療が受けられていないという点では、被災者と同じではないか。

 「田舎に帰らないか」

 思わず、女房にメールしていた。

 それからと言うもの、女房や長女、孫を伴って避難先の高校を何度も訪れた。重い雰囲気に包まれてはいたが、孫が避難先の子供たちと遊ぶ様子を見て、救われる思いがした。

 石巻へも行った。港に見える小さな山が、震災廃棄物を集めたものだと聞かされ、言葉がなかった。


 Uターン計画は極秘裏に進められた。

 クリアしなければいけないこともいくつかあった。

 市内のマッサージ組合が市の事業を委託されていた。事業は正念場を迎えていて、組合の副会長である私が任期途中で抜けるわけにいかなかった。任期は一七年四月まで。

 次に、治療院の継承問題である。組合役員の任期明けまでに、完全に私の手から離し、徳島の治療院に専念したかった。

 そして、住んでいた家の売却。

 組合の問題については、覚悟を決めた。Uターン後、任期いっぱい、埼玉と徳島を往復することにした。

 後継問題は結論から言えば、一九年三月末をもって廃業することになった。

 家の買い手はなかなか現れなかった。築約二〇年。日当たりもいいとはいえない。

 (徳島に新築する家とダブルローンを払うのか)

 と暗い気持ちになっていたところ、買い手がつきそうだ、と不動産屋から連絡があった。

 「方位学をやっているお客様で、間取りを非常に気に入っています」

 そんなこともあるのだ。

 「ただ、一月中旬までに明け渡すのが条件なんです」

 一二月も半ばになっていた。急きょ、近くにアパートを借り、正月返上で引っ越し準備にかかる。リ ビングにうづ高く積まれたゴミを前に、先頭に立って動くことのできない私は

 (間に合うかどうか)

 と、途方に暮れていた。

 しかし、家族の結束は固い。治療院のスタッフや長男の友人たちの応援もあって、ギリギリセーフで明け渡すことができた。

 埼玉―徳島の往復拠点となるアパートは治療院の近くに借りた。三月のある日、1Kのアパートに立ち寄った後、長男の運転で女房と二女、そしてシモンは徳島へと旅立って行った。


 嵐が過ぎた。居酒屋で一杯やった後、かび臭い部屋で飲み直す。

 (もう徳島に着いてるだろう)

 電話してみた。

 「あ、お父さん。今ね、伊豆のホテルに泊まってるの」

 と、女房。

 (そんなことは聞いてないぞ!)

 「明日は、伊勢に泊まるの」

 なんとも呑気な連中である。

 そのうち、手持ちが枯渇して、送金を依頼してきた。

 「神戸で肉を食べてから、徳島に帰るからね」

 (どこか、タガが外れたのと違うか)



 Ⅳ 遠距離通勤


 徳島のアパートは、とある無人駅から徒歩五分ほどのところに、女房の姉が手配してくれていた。このあたりは、かつて鉱山として栄え、古い町並みがその面影をわずかに留めている。

 仮り住まいは、二階建て、3K。二階との往復は、急な階段を昇り降りしなければならず、手すりが頼り。毎日、ロッククライミングの初級コースにチャレンジしている気分だった。

 狭いながらも、ともかく新居が完成するまでは、ここが我が家。家族を送り届けると長男は埼玉に帰り、住民票上は女房と二女の二人家族、シモンは保健所に登録していた。

 最初のほぼ一年間、火曜から土曜まで徳島で泊まり、埼玉には日曜、月曜に泊まった。

 日曜の昼前に特急に乗る。岡山に渡り、新幹線で東京へ。埼玉のアパートに夜着いた。月曜は治療院で仕事し、火曜は市の老人福祉センターでマッサージを行った。夕方、新幹線で岡山まで帰り、最終の特急で四国に渡る。特急を降りたころは深夜だった。

 優雅な旅だった。当時、焼酎党だったので、外国映画によく出てきたフラスコを買って水割りを入れ、列車の席に着くと、おもむろに取り出す。むろん、これでは寝ていた子を起こしたようなもの。新幹線では車内販売が待ち遠しかった。

 今の時代、カード決済が主流なので、お金の実感があまりない。毎回、切符代を財布から払っていたら、もっと早く気付いただろうが、年が改まり、通帳の記帳をしてあぜんとした。

 背に腹は代えられない。東京に行くには、より経済的な高速バスがあると聞いていたので、そっちを利用することにした。

 高速バスの乗り場は、JR代々木駅から暗い階段を通ってゴミゴミした繁華街らしきところの先に。 場末の停留所といった感じだった。ここを毎週利用するのかと思うと、少しだけ気が滅入った。

 そんな時、ふと目にしたのが、四月にバスタ新宿が開業するというポスターだった。

 (そんな大騒ぎすることでもあるまいし)

 と横目に見ていたが、バスタ新宿の利用初日に仰天した。

 新宿駅に繫がり、便利なのはもちろん、まるで国際空港を連想させる施設なのである。要は、代々木にあったようなバス停を統合しただけなのだが、そのメリットは計り知れない。

高速バスは夜九時過ぎに来て、徳島のサービスエリアに翌朝六時半くらいに着いた。九時間あまりをしらふで乗れと言われたら難行だが、焼酎の酔いも手伝って、快適な朝を迎えることができた。

 それにしても、女房には頭が上がらない。毎週、送り迎えしてくれた。早朝のバス停で姿を見かけず、家に電話すると、まだ寝ていたこともあった。しかし、目覚まし時計どおりには起きられないものだ。


 マッサージ組合の年季が明け、フリーの身になる。治療院のスタッフは

 「本当に、もう埼玉には来ないのですか」

 と、不安そう。

 女房や徳島の患者さんは

 (早く、今の生活から抜け出してほしい)

 というのが本音だっただろう。

 あいだを取って、もう一年だけ埼玉に奉公することにした。とりあえず、スタッフは胸を撫でおろしたことだろう。

 考えてみると、これからは火曜の務めがなくなるので、埼玉で泊まるのは日曜の一泊だけ。アパートの家賃と、ビジネスホテルの一か月の宿泊代はトントンなのである。ホテルを選択しない手はない。気分も晴れやかになるというプラスアルファは捨てがたい。

 約束の一年が過ぎた。

 徳島と埼玉を行ったり来たりしているという話が患者さんの間にも広まっていたらしい。

 「まさか、四国に行っちゃうんじゃないでしょうね」

 と、ギクリとする質問をしてくる古くからの患者さんもいた。

 後ろ髪を引き倒されそうになる。

 (スタッフもまだまだ独り立ちできそうにないし、もう一年だけ、埼玉に通うか。ただ、埼玉には隔週で来ることにしよう)

 というのが苦渋の結論だった。そのことを女房に告げると

 「はぁ」

 と、肩を落とした。


 高速バスは一見、時間も経費も節約できる移動手段だが、大変な選択をしたと思い知らされたのは、バスの中でだった。

 最後の一年間は、月曜の早朝に新宿に着き、山手線、私鉄と乗り継いで、軽く食事をして治療院に入る。スタッフが出社する前に、ドライバーさんが迎えに来て往診に出る。昼過ぎに戻り、夕方六時くらいまで施術、夕食後、バスタ新宿に再び現れ、バスに乗り込むのである。

 それにしても、日本の交通システムは世界に誇れるのではないか、と素人ながらに思う。

つごう四年間、徳島と埼玉を往復したが、トラブルは数えるほどだった。

帰りの新幹線などは、大幅な遅れが出ると四国に渡るのはアウト。それは皆無だった。ただ、日曜日に山手線に乗っていた時のことだった。下着泥棒が追われて線路内に逃げ込み、首都圏の交通網が乱れに乱れたことはあった。

 また、高速バスでは、ゴールデンウィークの渋滞に巻き込まれ、徳島到着が昼前という長旅を経験したこともあった。

 いずれも会社側に非はないが、高速バスのクーラーが故障した一件だけは被害者として、記録に残しておく責務があるだろう。

 真冬のこと、二階に上がった階段のすぐ後ろが予約席だった。この列は風通しがよいことは分かっていたが、それにしても寒い。自然に体が震えてくる。何時間か走ったころ、アナウンスがあった。

 「当車、現在、暖房が故障しています」

 (運賃、払い戻してほしい)

 と申し出るほど、野暮ではない。なにしろ、視覚障害者であることに配慮し、余裕があれば、トイレに近い席に替えてもらったり、昇降口に近い席に替えてもらったこともあったのだから。



 Ⅴ ランドマーク


 Uターンの相談をした一人に、故郷で暮らす幼なじみがいた。

 西周三。風変わりな建物を造ることで知られる建築家である。級友の成績を暴露するのは本意ではないが、彼はあちこちで口外しているので、あえてバラすと、中学時代、分数が分からなかったらしい。

 中学を出て左官屋に就職し、親方から伝統の技法を叩き込まれた。正確無比な日本の建築技法に「落ちこぼれ」が収まり切れるはずがない。ヨーロッパを旅行し、ガウディのサグラダ・ファミリアの建築と出合って、彼の能力は解き放たれた。

 「よっしゃ、帰って来い。ワシがええ家つくってやる」

 やはり、持つべきは友達だ。

 アパートに打ち合わせで立ち寄った時も、元左官屋の彼は

 「ええ壁やなあ」

 と、しきりに感嘆していた。

 私の希望は、厚労省の基準を満たした施術室と待合室さえあればいい。女房も何かリクエストを出し、後は全権委任した。

 早々と図面を持って来て、壁や床の色まで好みを聞く。もう彼の中では家が出来上がっているみたいだ。

 ところが、足が遠くなる時期がしばらく続いた。地鎮祭にこぎつけたものの

「今日は西さん、何かしに来てたわよ」

 と、いう報告をたまに女房から聞く程度だった。

 しびれを切らせて直談判に及ぶと

 「そう急かすなよ。ワシはプレッシャーに弱いんじゃ。ランドマークになるような家をつくってやるがな」

 幼なじみといえば、駅前に野田隆文という同級生が住んでいる。彼は長く木材関係の仕事をしていた。今は隠居の身で、ふだんは野菜栽培にいそしむ。その彼が西の姿を認めると、新築現場にやって来る。

 「なんじゃのお・・・・・・木材っちゅうのはやっぱり……」

 などと数十年分のウンチクを傾けるらしい。これも工事遅延の一因か。


 確かに、西は口先人間ではなかった。上棟式が終わり、徐々に全貌が現れてくると、道行く人の注目の的となった。

 まず目につくのは、すっくと立つ土管。ただ置いただけでは、片づけの終わってない工事現場みたいだが、雨水を貯める役割を果たしている。雨どいが最終的にここに雨水を集める仕組み。花の水やりなど、雨水の有効利用である。

 土管には赤、青、黄でペインティングがされている。コンポジションである。モンドリアンが好きなのか、トイレや棚などにも同じような着色が施されている。

 治療室の壁には自然石を使って、巨大なヒマワリが描かれている。道路側には四角な窓はないが、つぼみの部分にすりガラスがはめ込まれていて、明り取りの役割を果たしている。

 エントランスには川から集めてきた小石が敷き詰められている。郵便受けは廃材を利用している。これも彼のコンセプトのひとつ。使い捨てを嫌う。

 玄関の壁、リビングの壁には色とりどりのガラス玉が配されている。その意図は、リビングの壁に張られた細くて長い二枚の板で明白になる。

 「あれは銀河鉄道や。ガラス玉は北斗七星や」

 とは作者の解説。

 まあ、住んでいて楽しくなる家ではある。

 めでたい正月は、かろうじて新居で迎えることができた。あのドタバタ正月から一年が経ったのだ。

快適な生活がスタートしたが、想定外の事態がしゅったいした。長女が孫と共に徳島に来て、看護学校に通いたいという。もとより五人家族用の設計ではない。しかし、また大家族に戻るのだから、良しとするか。

挿絵(By みてみん)

 「過疎地の医療に貢献したい」という夢は、Uターン早々、出張専門の鍼灸マッサージ師として第一歩を記した。その年のゴールデンウィーク明けには、廃校になった母校の旧P小学校に施術所を開設したことでまた一歩前進した。

 旧P小学校はほとんど谷の底と言っていいような場所にあり、一三年に廃校になっていた。猫の額ほどの校庭に、幼稚園から中学校まで同居し、往時は地域交流の中心地でもあった。

 私は一時間ほどかけて学校に通った。幼稚園児や小学校の低学年では、山道を長時間かけて通学するのはつらかったと思うが、そういう記憶はない。

 その頃、私の村には二一軒の家があったが、今では三軒だけ。住民は高齢化し、子供の嬌声が途絶えて久しい。

 旧P小学校には、関東から移住して来た家族が喫茶店を開いている。その二階、かつて保健室があった部屋が治療室になった。来院者はまれだが、ここで思い出にふけり、また、仕事の構想を練るのはなんとも至福のひと時である。



 Ⅵ サファリパーク


 田舎では動物と共存していかなければならない。それは分かっていても、どうしても好きになれないものもいる。ほとんどの人間に嫌われているが、まったくその自覚がなさそうなのが蛇である。表情のないポーカーフェイスが人間との距離をますます広げる。

 旧P小学校分室での施術を終え、バスでアパートに帰る。酒とつまみが切れていたので、中山のおばちゃんの店に寄る。Uターン以来何かとお世話になっているおばちゃんだ。

 「大きな蛇が、畑のところに寝てたで」

 おばちゃんは顔をしかめた。

 くわばらくわばら。背筋がゾッとする。早々に店から退散する。

 晩酌を始め、おばちゃんから聞いた話を女房と二女にする。世事に疎くなるといけない。

 「それ、うちの話よ」

 と、女房。二女が

 「私の足くらいの太さの蛇が…」

 針小棒大に言っているにしても、なんだか、物騒な話になってきた。

 「横の倉庫の下から、うちの床下に入って行ったのよ」

 と、二女の目撃談。さらに

 「お母さん。二階にいると、ズズーッ、ズズーッって音がするんだけど」

 怖いことを言う。都会育ちの強み。知らぬが仏。

 被害が出たのは翌朝だった。

 軒先に鳥が巣を作っていた。子育ての季節になり、雛たちのかまびすしい声は、私たちの目覚ましになっていた。

 招かれざる客があった翌日、軒先は不思議なほど静かだった。

 「キューッっていう声がしたのよ」

 と、女房。私は聞かなくてよかった。

 人間からすると、自然界は残酷である。


 長虫と違い、ムカデは噛みつくからやっかいである。

 埼玉にいたころもムカデには出くわしている。ある晩、寝ていると太腿の裏がもそもそする。眠気が勝っていたが、やがて背中にのぼってきた。

 「何かいる!」

 女房に伝えるが

 「ゴキブリか何かよ」

 と問題視していない。

 私は跳び起きて、パジャマを脱ぎ、振ってみた。ポトッと音がした。一五センチもあろうかというムカデだった。難を逃れようと、持てる足をフル稼働して逃走体制に入っていた。

 女房はティッシュをわしづかみにして抑えつける。次に、渾身の力を込めて固く丸め、ゴミ箱に捨てたのだった。鷹が爪を隠していたのだ。

 有能な女房がそばにいるからと油断していたわけではないが、徳島のアパートで寝ていて足の裏に刺すような痛みを感じた。小さなムカデでも噛まれると痛いものだ。いっぺんに目が覚めた。

 こうして一日が始まった。仕事に出かける前に

 「最近、玄関が妙に臭いのよ」

 と、しきりに鼻をクンクンさせる。

 「ブレーカーのあたり。電気屋さんに電話して、みてもらっといて」

 言いつけに背くわけにいかず、幼なじみの兄さんが電気屋さんをやっているので、呼んだ。

 「この間、(入居前に)点検したばっかりですよ」

 なんだか不満そう。

 「ありゃ。奥さん、鼻がいいですね。ムカデが黒焦げになってますよ。火事になるところでした」

 電気屋さんは青ざめていた。ブレーカーの中で暖を取っていて、感電死したのだろう。あとさき考えないので迷惑千万だ。


 この地区も人口が減り、主役の交代よろしく台頭してきたのが動物たちである。

 「家の裏なんかサファリパークですよ」

 何人もの患者さんから聞かされた。確かに、我が家の裏の空き地にも猿が出没し、しばし走り回っていたことがあった。

 四〇〇メートルほど山を登ったところに湿原がある。ここはサギソウの自生地として知られる。

 三センチほどの可憐な花をのぞき込むと、シラサギが羽を広げて舞っている。「造化の神」の存在を認めないわけにはいかない。孫の通う小学校では毎年、球根を育て、移植する作業を行っている。

挿絵(By みてみん)


 つつじが見ごろと聞き、ゴールデンウィークも過ぎた五月のある日、長女と孫、私の三人で湿原に遊びに行った。サギソウ園の周りを散策していた時だった。

 「ジィジ! 鹿!」

 孫の声に、あたりを見回したが、鹿など見えない。

 「違う! 足元!」

 見ると、膝の高さほどの仔鹿が一匹、私を見上げている。

 記念撮影を済ませ、散策を続ける。仔鹿が付いて来る。孫が走ると、後を追って走る。

 「人間に慣れさせると自然に帰れなくなるから、もう別れよう」

 私たちはクルマに乗り込む。仔鹿の目はいつまでもクルマを追っていた。

 「来年また会えるかなあ。大きくなっていたら、私、背中に乗るんだ」

 孫が無邪気なことを言う。

 晩酌をやっていて、鹿のことが気になって仕方ない。

 (親はどこにいたのだろう)

 (群れに帰って、さんざん叱られてはいないだろうか)

 (「なんで、人間に近づいたのよう」)

 (あるいは、親は害獣駆除のワナにかかってしまったのかも。そうだとしたら、とてもあの仔鹿は生き残れないだろう)

 「明日、もう一度見に行って、もし仔鹿がいたら連れて帰り、小学校で飼ってもらおうか」

 私の提案に家族は大賛成だった。

 翌日、今度は仕事が休みの女房も一緒に、湿原を訪れた。仔鹿の姿は見当たらない。さぞかし女房はがっかりしたことだろう。

 「これでよかったかな。おそらくお母さんのもとへ帰ったのだろう」

 と、私は孫をなぐさめた。もし、仔鹿に再会できていたと仮定して、小学校で飼うのを断られたら、どんな結末になっていたことやら。家長の心配は尽きない。

挿絵(By みてみん)

 

 Ⅶ どんぐり拾い


 孫は徳島に越して来て、年長組で保育所に入った。

 言葉づかいでイジメなどに合わないか心配だった。ところが二、三か月で標準語と徳島弁のバイリンガルになってしまった。語学の学習は早く始めるのが王道だ。

 しかし、いつも使っていないと忘れる。私などは都会生活の方が長かったせいか、標準語が抜けない。都会にあこがれる患者さんは

 「何かしゃべってみてください」

 などとせがむことがある。こういうお話って、困っちゃうんですよ、ほんとに。


 孫にはいろいろな経験をさせようと、ある時、どんぐり拾いの計画を立てた。

 目指すは、裏山。けっこう高度があり、しかも険しい道を登るらしい。私も初体験である。

 孫はよほどうれしかったのか、保育所の先生にどんぐりを拾ってくる約束までしてしまった。

 自動車道もあるが、中山のおばちゃんの店の横から登るのが近道のようだ。山育ちの私にもきつい行程だった。道らしい道がないところもある。やがて、孫の足取りが鈍ってくる。

 「あーあ。疲れた。もう帰ろうよ、ジィジ」

 私は心を鬼にして

 「何言ってるの。どんぐり拾って来るって、先生に約束したんでしょ」

 「先生には、どんぐり、なかったって言えばいいじゃん」

 孫を稀代の嘘つきにさせなくて済んだのは、坂道を登り切ったところで、親切な方に出会ったからだった。

 「どんぐりには少し早いけど、一緒に行ってあげようか」

こうして、両手に余るほどのどんぐりをゲットしたのだった。

 帰りはさすがに自動車道を通った。遠かったこと。よく頑張ったので、中山のおばちゃんの店で、いつもより多めにおやつを買ってやった。


 あんなに苦労したのに、翌日、どんぐりには目もくれず、保育所に行こうとしている。

 「先生に持って行くんじゃないの」

 と聞くと、四、五個つかんだ。

 「え、たったそれだけ。欲張りなやつだな」

 もしかして

 「どんぐりにはちょっと早かったんですよ」

 とでも、言うつもりじゃあるまいな。どこまでも気を許せない孫である。

 しかし、まあ、悪気はないのだろう。でなければ、保育所の入り口にかけてあるような天真爛漫な自画像を描けるはずがない。いい環境だったのだろうな。



 Ⅷ 差し入れ


 田舎に帰って来て、楽しみのひとつは患者さんの差し入れである。

 よく野菜をいただく。おいしい。

 「あの野菜は売れますよ」

 と言っても、田舎の人は、お世辞として受け流す。まずい野菜を食べたことがないからである。

 ある患者さんから大根をいただいた。輪切りにして、生のまま食べる。

 「梨のように甘い」

 と言っても、女房は半信半疑。

 「どれどれ……あ、これはおいしいわ」

 買いに行くことにした。湿原の近くに家がある。傾斜地なので水はけがよく、野菜栽培に適しているのだろうか。買った以上にお土産をつけていただく。関東の知り合いに送ったところ驚嘆のお礼が届いた。地元では野菜作りの名人として有名なことを後日、知った。

 また、同級生の野田も時々、差し入れを持って寄ってくれる。

 「麻也よ。おるか」

 彼の手土産でとりわけ待ち遠しいのは、マツタケだ。どこかに秘密のマツタケ山を持っているらしい。マツタケ狩りもやってみたいので頼むと

 「それだけは、連れて行けんわ」


 野菜をいただくことに慣れると、人間、さもしいもので

 (魚介類などもいいなあ)

 などと思い始める。近くのスーパーで女房がいつも買って来ているのに、である。

そんな気持ちを見透かされたか、ある患者さんが

 「こんど海釣りに行きますから、釣れたら持って来ますよ」

と、うれしいことをおっしゃる。

 しかし、次の来院時は手ぶらだった。

 「小さいのしか釣れなくてねえ。大きなこと言うもんじゃないなあ」

 と反省の弁。

 忘れたころに、グレが六匹ほど届いた。よっ、患者さんの鑑!

確かに。

 「釣れたら持って来ますよ」

 と「差し入れ予告」する人は、持って来てくださった試しがあまりない。特に、釣りは水物。無言実行が無難である。

 ただ、無言実行でも、黙って玄関に差し入れを置いて行かれる方がいるので、閉口する。何しろ、お礼の言いようがない。


 このほか、季節によっては、猪や鹿の肉をいただくことがある。狩猟の免許を取り、害獣駆除に当たっている人である。

 こちらも、正真正銘、天然もの。作物を荒らしまわっていた動物たちの末路ではあるが、いのちの恵みに感謝していただくことにしている。



  Ⅸ ニセ太公望


 「田舎に帰り、のんびり釣り糸を垂れる生活」

 多くの男性のあこがれの的である。

 私もUターンしてすぐ釣りセットを買った。危なくないところから釣れないかなと、アパートの近くの道路の上から、はるか下の川に仕掛けを投げ入れた。しかし、そうは問屋が卸さない。

 そのうち母校の旧P小学校に分室を開設し、毎週、バスで通うことになった。バス停のそばの橋の上は子供のころによく釣ったところである。

 土曜日の四時に治療室を閉め、気もそぞろに釣り場に向かう。五時過ぎにバスが来るので、釣りは短期決戦だ。

 一〇月の末も押し迫った寒い日。歯をガチガチいわせながら釣りをしていた。上流に向けていた竿がいきなり下流の方向に引かれた。竿がたわむ。少しずつ、少しずつ巻き、数分間の格闘の末、ついに釣り上げた。五〇センチオーバーの大物である。

 折から、バスが来た。魚籠びくには入らないので、レジ袋に入れてバスに乗り込んだ。バスの運転手さんもびっくりすることしきりだった。

 行先は自宅の近くの食堂・ヤマメ亭。快く調理してくださった。舌鼓を打っていると、いつしか冷えた体も温まる。女房も駆けつけ、しばし宴が盛り上がった。

 それより大きなものを、支流の橋の上から釣ったこともあった。

 「鯖かと思ったわ」

 と、女房。まさか。

 この大物はラッキーなことにリリースされた。


 ほとんど毎週、釣りをしているので、太公望とみなされていたに違いない。

 タクシーの運転手さんに釣りの話題など振られると、内心、冷や冷やする。また、埼玉に川釣りの名人がいて、川魚料理屋をやっていた。埼玉に行った折、四国での釣果を報告するのが楽しみであった。その主人が釣りのDVDを出した。早速買うと

 「渓友 山谷麻也様」

 のサイン。何とも、畏れ多い。気恥ずかしいことこの上もなかった。単なる「下手の横好き」に過ぎないのに。

 まず、エサがお粗末である。主にソーセージを使う。万能エサのミミズは少し足を延ばせば手に入るが、触る気になれない。長年の都会生活で、すっかり別人になってしまった。

 ある日、中学生らしい子供を連れた女性がクルマから降りてきた。魚籠をのぞき込んでいるので、気を利かせて竿を貸してやった。その子はすぐ釣り上げて大はしゃぎだった。

今度は私が釣り糸を垂れると、子供が魚のいる場所を教えてくれる。

 「おっちゃん。その下にいっぱいいるよ」

 「そんなにいるんですか」

 と、母親に聞くと

「ええ。小学生に雨の絵を描かすと、あんなふうに描くでしょうね」

 なんだか分かったような、分からないような。いずれにしても、魚がひしめいているところに仕掛けを投げ入れていたのである。池の鯉がエサに群がる光景を想像してしまった。

 水面はもとより見えない。加えて、釣り糸も見えなくなっていた。このため、釣りを始めるまでに一〇分以上かかる始末だった。母親の一言で、急速に釣りに対する興味を失っていった。

しかし、家族には釣りを経験させてやり、釣り上げる醍醐味も味わわせた。生涯、記憶に残ることだろう。



 Ⅹ エヴァンゲリオン


 釣り糸が見えなくなったのはともかくとして、よく道に迷うようになった。

 それでも白杖は強い味方だった。秘境の民宿・ロマンス亭の亭主を往診した帰り、道を歩いていて白杖が空を突いた。立ち止まってよく確認すると、下は絶壁だった。コンマ何秒か遅れていれば、「視覚障害者 秘境の渓谷で転落か」と報じられるハメになっていた。

 いくら白杖を突いていても、略図が頭に入っていないと迷う。埼玉では患者さんの家の庭で迷った。徳島でも、自宅が分からず、何度も行ったり来たりしたこともある。

 困り果てたのは、徳島で往診から帰りの山道で迷った時だった。何回か通ううち、余裕が出てきて、近道を考えたのが間違いのもとだった。道を聞こうにも、人は通っていない。携帯電話でタクシーを呼ぶにも、自分が今どこにいるかが分からない。

 (下へ下へ降りていけば、どうにかなるだろう)

 と、山道をとぼとぼ下っていると、公共の施設があった。そこからタクシー会社に電話すると、ほどなくタクシーが到着した。

 実際、ひとつ間違えば、交通事故に遭っていた。埼玉では、トラックのドライバーさんから

 「そこは車道ですよ」

 と、教えられた。「トラック街道」と呼ばれる国道一六号線での出来事だった。

 また、ヤマメ亭から、暮れなずむ大河を眺めながらの一杯は、形容のしようのないものであったが、すでに真っ白の世界になってしまっていた。

 しかし、いつまでも身内に隠し切れるものではない。

 徳島の治療院に全力投球することになり、女房と役所に行った時、建物の入り口がどこか分からない。階段も分からない。これも怖いことである。

 「そんな状態で埼玉に行ってたの」

 女房の声は厳しかった。

挿絵(By みてみん)

 意を決して、一九年四月、「徳島の盲導犬を育てる会」に電話した。すぐ担当者が面接に訪れ、大阪の日本ライトハウス盲導犬訓練所に手配してくださった。

 希望者が多く、二年近く待つと聞いていたが、意外に早く、その時は来た。二〇年六月上旬に訓練予定が組めるという。ただ、四週間ほど訓練所に泊まり込まなければならないとのこと。外泊は認められない。ずっと訓練犬と一緒に生活するのである。これは大変なことになった。

 無理を聞いていただき、特別に、短期養成のプログラムが組まれた。それでも、訓練終了までに三週間弱を要した。

 六時過ぎに起床し、訓練犬のトイレ。朝食を済ませて歩行訓練に出る。座学もあり、犬の健康や福祉などを学ぶ。夕方、トイレの後、ブラッシングし、自室に戻ると訓練犬待望の食事タイムだ。

 訓練生の夕食は七時過ぎから。私の時は、三人の訓練生がいた。同年配ということもあり、話が弾んだ。それに、たしなむ程度ならと飲酒を認められていたので、つい食事時間は長くなった。これはひとえに私のせいである。部屋に戻ると同居者の目は

 「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたの。野良犬じゃあるまいし」

 と、言っている目だった。

 犬の歩く速度は速い。初日は怖くてしかたなかった。

 (残存視力があるから怖いのかも。いっそ目をつむって歩いてみようか)

そう考えて、翌日、訓練歩行では目をつむってみた。すると、前日の恐怖感は消えていた。

(全盲の人が盲導犬を使うときはこんな感じなんだな)

 閉ざされそうになっていた視界が、開けてきた一瞬だった。


 盲導犬の名は「エヴァン」。オス。一九年五月生まれ。庵野秀明さんの『エヴァンゲリオン』に由来するらしい。名付け親のパピーウォーカーさんには「勇者」とか「若き戦士」とかの思いがこもっていたらしい。頼もしい限りだ。

 六月末、私は訓練士の運転で、勇者・エヴァンに伴われて徳島に凱旋した。

徳島での生活は六時半、起床。エヴァンのトイレの後、二〇分ほど散歩に出る。帰って来て、ブラッシング。大型なので時間がかかる。腹が減っているのか、一心不乱に食事をし、後は治療室でゴロゴロしている。

 往診があれば同行し、たまには買い物や食事にも一緒に出かける。やはり夕食は待ち遠しいらしく、ぐいぐい私をケージに引っ張っていく。

 いくら勇者でも田舎の生活は最初きつかったようだ。シモンに吠えられて、心細げに私を見る。トイレで庭に出ようとした時、突然の雷雨。ブルブル震えて、私の足にすり寄ってきた。

それが今では、ドッグフードを置いてある棚まで私をガイドして行って、鼻を近づける。

ドッグフードには水を二〇〇㏄ほどかける。

 「こうすると水分補給だけでなく、満腹感も出るのです」

 と、訓練士はニヤリとしながら教えてくださった。

 ともあれ、エヴァンには次のステップが分かっていて、洗面所の前まで行って、蛇口を見上げている。こうして指示を出した後は、さっさとケージに入り、舌なめずりしている。

 なんだか顎で使われているみたいだ。


 散歩コースにデビューした日、さすがに周囲の目線を感じた。反応したのは通学班の小学生たちだった。

 「あ。犬や!」

 遠巻きに見守る子供たちや親たちに、私はエヴァンを紹介した。

 エヴァンは子供たちの人気者になり、毎朝、すれ違うたびに

 「おはよう! エヴァン!」

 と、元気な声がかかる。

 残念ながら、入店拒否などにあうことも稀れではない。しかし、通学班の子供たちが大人になるころには、田舎も少しは変わっていることだろう。

 「きっと、そうなるよ。エヴァン」

挿絵(By みてみん)


 Ⅺ サケは遡上するが


 一五歳で生まれ育った土地を離れ、徳島市を皮切りに京都、大阪、東京、埼玉と移り住んだ。

 この間、故郷を忘れたことがない、と言えばウソになる。

 サケが川を下るようにひたすら下流をめざした。童謡の「ふるさと」は、文字通り、上流を懐かしんでいる歌である。古くから多くの日本人に愛唱されてきた。

 ところが、私は「3・11」を体験し、特に三番の歌詞は歌えなくなった。

  志を果たして

  いつの日にか歸らん

  山は青き故郷

  水は清き故郷

  (作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)


 「すべての道はローマに通ず」と言われたように、日本では「すべての道は東京」に通じた。田舎より都会が志向され、その象徴が東京だったのである。

 中央志向のベクトルは経済の発展には貢献したかも知れないが、すでに指摘されているように、一方で様々な弊害を生んだ。

 Uターン宣言した時、長年お世話になった視覚障害者の会の会長が感慨深げに言った。

 「山ちゃんの場合、(志を果たして)故郷に錦を飾るのではなく、これから故郷のために働こうというのだからなあ」

 実は、錦どころか襤褸ボロ同然である。しかし、私は家族や親友、地域の方々に恵まれたと感謝している。これらの人たちの期待に背かないためにも「心は錦」の状態に近づけるように努めている。

 (完)


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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/13 14:03 退会済み
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