表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第八話 暈

 ひりついていた空気が、和らいでいく。倒れた【画客】の隣に膝をつき、【貪食】は【画客】の首筋に触れた。


「やれやれ呆気のない。名の縛りさえなくなれば、お前に俺が負ける道理の方がないだろうが」


 立ち上がり、爪先で【画客】を揺らす。【画客】はうめき声も上げなかった。だらんと投げ出された腕と足が、アスファルトの地面を擦る。


「し……死んだんですか?」

「生きている」


 振り向くと、明依がびくりと身をすくませた。【貪食】は足を止め、自分の髪を指に絡ませる。

 黒い影のようだった髪は、今は白く、淡く光ってすらいる。そして黒い目に紅の虹彩。たとえ見慣れた顔であっても、別人のように見えるだろう。

 名を取り返し、人だった頃の記憶も取り戻した。それは、ずっと自分を怪異たれと縛り付けてきた【画客】の支配がなくなったということだ。だから何が変わるかと言われれば、それは【貪食】にも分からないことだが。


「あー……似合わないか?」

「……さあ……」

「そうか……。いや、どうせ泡沫の夢だ。最後のご馳走をもらって終いにしよう。天神の社に行くか」


 差し出された手をとって、明依は立ち上がる。ちらりと【画客】を見ると、まだ倒れたままだった。


「あの……」

「あいつの妄執を喰った」


 明依に答えるように、【貪食】は短く返す。


「もう、何もしたいと思わない」


 ぞわりと背中が粟立って、明依は両手で自分を抱きしめた。明依の様子に、由佳は首を傾げる。


「由佳、あの刀を拾ってこい」

「はい。……結構重いんですよね」

「仕方ないだろう。天神の武器に触ったら俺も明依も焼ける」

「じゃあ刀を持った由佳を私が持つ」


 ひょいっ、と明依は由佳を頭の上まで持ち上げた。由佳は刀を両腕で抱え、「ぎゃあ」と声を上げる。


「爪痛くない? 大丈夫?」

「痛くないけど高い!」

「じゃあこのまま天神様のところにしゅっぱーつ」

「やめておけ、人が見たら由佳だけ空を飛んでいるように見える」

「……え、じゃあ私さっきまで、一人で刀持って騒いでたんですか」


 ふいっ、と【貪食】は顔を逸らす。由佳は笑顔を引きつらせ、うなだれた。


「誰かに見られてませんように……」

「いいじゃないか、新しい都市伝説の誕生だ。お前も怪異の仲間入りだな」

「絶対嫌ですからね」


 ふはっ、と笑いを漏らして、【貪食】は目を細めた。


「先に行っているといい。俺は最後の始末をしてくる」

「はい。……すぐ来てくださいね」


 明依と由佳を見送って、【貪食】は、転がっている【画客】に近付いた。


「おい」

「…………」

「起きているだろう」

「……狸寝入りくらい許してくれてもいいじゃないか」


 目を開き、【画客】は【貪食】を見上げる。


「……カッコよくなっちゃてまあ。満足した? 僕の鼻を明かしてさ」

「そうだな。思ったよりも俺はお前に苛ついていたことが知れた」

「それにしたって、ひどいなあ。妄執(それ)は、僕のサガそのものなのに。君、何一つ美味しく食べられなくなって、それでも【貪食】でいられるかい?」


 頭に手を当て、【画客】は目を閉じる。


「僕は……絵を描く怪異だ。絵に狂う怪異だ……けれど……【貪食(きみ)】も【七つの子(かのじょ)】も、結局、僕のものになってくれない。怪異(ぼく)は……ずっと、ヒトの真似事、ヒトのまがい物だ」


 じくじくと頭の奥が傷む。目を開けば、完膚なきまでに勝利した【貪食】がいる。明依を怪異として成熟させることも、人の名を奪うこともできず。挙句、切り札だった【貪食】の名前すら奪い返された。


「何も……ああ、残酷だね【貪食】。そして悪趣味だ。彼女を描く、それだけにこれほど時間を費やしたのに、その熱だけ奪っていくなんて」


 何かを言おうと口を開いて、【貪食】は言葉を飲み込む。体を起こすこともせず、【画客】は奥歯を合わせた。


「それを奪われたら、僕は【画客(ぼく)】である意味がない」

「……お前は」


 息を吐き、【貪食】は【画客】の隣にしゃがむ。


「ひどい勘違いを続けているらしいな」

「なんだって?」

「お前は【画客】。絵を描き、絵に狂い、万象を描くことを夢見る怪異」


 【貪食】は、拾った筆を【画客】の顔の横に立てた。【画客】の目がそちらに向き、それから【貪食】を見上げる。


そう(・・)、だろう?」


 立ち上がって、【貪食】はその場から去っていく。しばらく目だけでそれを追ってから、【画客】は筆へと手を伸ばした。


「……無茶を言う」


 体を起こして、痛みに軋む背を撫でる。


「……ああ、本当に、無茶を言ってくれる」


 もっとも描きたいものを奪われて、何が描けると言うのか。憎かったのだ。自分を縛り付けた人間が。だから、嗤ってやろうと、そうしなければいけないと。


「……何も」


 けれど、本当は。そんなことをしなくても良かったのだ、きっと。思うまま全てを描く怪異、それが【画客】なのだから。


「僕には、残っていないのに」


 ゆっくりと、【画客】は月に筆をかざす。

 美しい月を、描こうとした。それが始まりだった。

 月の次は星を描いた。そのまま朝がやってきたので、日の出を、それに照らされる山々を描いた。山麓が鮮やかに色づくさまを、何度も描き直した。

 草の汁と木の枝が、いつしか墨と筆になった。ヒトの真似をして体の形が変わり、流れの絵描きだと名乗ったこともあった。

 ただそれだけでよかった。名もない、影もない。世の中全てが目新しく、その全てを描きたいと思っていた。

 けれど、名を与えられ、道を定められた。ならば、その道を逸れてやろうと、人に食って掛かり――実に、二百四十年。

 思うままにしようとした全てに、自分は打ち破られた。


「……は……」


 不思議と、笑えてきた。筆をしまい、ふらつきながら歩き出す。


「ここは……景色が、よくない……」


 このあたりで一番、高いところへ行こう。月も町も、よく見える場所に。誰の邪魔も入らない、静かな場所がいい。

 月の光に、【画客】の輪郭が溶けていった。



 社の戸を開くと、明依と由佳は身を寄せて眠っていた。二人に布をかけ、天神は唇の前に指を立てる。


「……寝ている……」

「やれやれ、二人も怪異を入れることになるとは」


 手を出せ、と言われ、【貪食】は両手を差し出す。天神は、掌の口の上に大きくバツ印を描いた。


「座ってよし」

「……気持ち悪い」

「我慢せい。そこらじゅう喰い荒らされてはたまらない」


 両手を握って開いて、【貪食】は明依の隣に座る。


「ここまでされたら、礼を言わないといけないな」

「何だ急に殊勝な」

「そんな優しい天神殿にもう一つ頼みがあるんだが」

「前言撤回する」


 明依の翼をつまみ、【貪食】はそっとそれを広げる。黒い翼は、髪と羽が混ざっていた。羽が数本抜け落ち、床に落ちる。【貪食】は落ちた羽を拾うと、それを口に運んだ。


「……美味いか?」

「それなりに」


 明依を仰向けにすると、【貪食】は両手を床につき、明依の上に覆いかぶさった。唇の間から、伸びた牙が覗いていた。明依の顔には似合わない、鋭い犬歯。


「いただきます」


 天神が顔をしかめる前で、【貪食】は、明依の唇に口を当てる。白い髪が、炎のように揺らいだ。

 明依の表面に、黒い靄が現れる。明依は眉間にしわを寄せるが、目は開かなかった。靄は【貪食】へと吸い寄せられ、明依の表面から剥がれていく。

 靄が離れた場所から、明依の身体が変化する。爪と鱗のある手は人の手へと戻り、長い髪も靄に溶けた。両足を包んでいた氷は靴と靴下へ、強張っていた頬は血色を取り戻す。


「――はっ……」


 口を離して【貪食】が顔を上げたのは、たっぷり五分ほど経ってからだった。口の端から零れた涎が、糸を引く。

 口元を軽く押さえて、【貪食】は明依の上から退いた。人間の姿に戻った明依を見、満足そうに頷く。


「これで、【アララギサマ】への義理も果たした」

「……お前、まさかとは思うが」

「今のを内密に頼む」

「……まあ……構わないが……」


 天神は笏で口元を隠し、明依を見遣った。目は閉じているが、明依の頬は赤くなっている。ただ血色がよくなっただけではないだろう。


「で。お前、これからどうする」

「ん?」

「【アララギサマ】をなくしたろう。おまけに、せっかく取り返した人の名を砕いてしまった。儂は興味ないが、そこの娘達は知りたがるだろう」


 胡坐をかいて、【貪食】は天神に向き直った。そして、両の拳を床に当て、頭を下げる。


「感謝する」

「……。顔を上げろ」

「俺は、以前と変わらない。俺は【貪食】。それに戻るだけだ」


 ふん、と天神が鼻を鳴らす。


「漸くこの騒ぎも終いか」

「ああ。二人の眼もじきに治る。……所詮、死角の影、夏の夢だ。忘れてしまえるならそれでいい」


 俯く【貪食】に、天神はひとつ、大きなため息をついた。


「茶でも飲んでいけ」

「……なんだ、宗旨替えか?」

「儂は人の子には優しいのよ。なあ、(ヒカサ)


 差し出された茶を受け取り、【貪食】は軽く目を見開いた。


「……いつから?」

「さてな。世には、お前も知らないことが多いということだ」


 天神の手の中で、笏が煙管へと形を変える。煙管を軽く掲げ、天神は自分を取り巻く梅の花弁を一つつまんだ。


「言葉も人の世も移ろうものよ。生まれて生きて、次へと繋ぎ、死んでいく。ときに道を逸れ、ときに戻り、揺れ動きながら世は続いてきた。そんな命の舟を降りたのが我々だ」


 天神が花弁に息を吹きかけると、花の香りが風に乗る。


「そうして舟の外で揺蕩いながら、時折舟に戻りたくなる。叶わない故に願わない、気の迷いのような――あったはずの未来を夢に見る」

「……俺は、怪異だ」

「そうとも」

「侘しくもない、悔いもない。ただ……」


 じっ、と天神に見据えられると、その少年は視線を床に落とした。


「少し……少しだけ、離れるのが惜しいと、思った。変だな。昨日まで、そんなことは全くなかったのに」


 それを寂しいと言うのだと、天神は思いながら言葉を飲み込んだ。

 人の名を取り戻した。その意味にこの少年が気付くのは、どれほど先のことだろうか。それとも、存外遠くない未来だろうか。

 怪異としてではなく、人間として生まれ落ちた。長く怪異として生きようと、その根底にあるものは変わらない。言葉で移ろう怪異とは違う、確かな(よすが)。全てが変わりゆく世の中で、唯一不変であるもの。

 名という祈りの意味に気付くことは、子供であるうちはまだ難しいだろう。それは気付けば与えられていたものなのだから。


「ごちそうさま」


 空になった茶碗を床に置き、【貪食】は両手を合わせる。脇息に肘を置き、天神は片膝を立てた。

 しばらく、天神は目を伏せて黙り、【貪食】も空の茶碗の底を見詰める。


「もう一杯?」

「いらない」


 言ってから、少しだけ【貪食】は表情を和らげた。


「美味かった」

「自慢の梅昆布茶だ」


 口元を袖で隠し、天神は得意げに笑った。



 蝉時雨の中を、自転車で走る。額を伝う汗をぬぐい、明依は片手を挙げた。道の先で、由佳がスマートフォンから顔を上げる。神社の前で、明依は自転車を停めた。


「怒られた?」

「ちょっとね。遅くなるなら連絡しなさいって。明依は?」

「なんか、アララギサマ……じゃなかった、【貪食】がスマホで連絡入れてくれたみたい。メッセージ送ってあった」

「私のもやってくれたらよかったのに」

「送り方わからなかったんじゃない? 私のスマホではちょくちょく遊んでたし」


 明依は自転車から降りると、傍らの鳥居を見上げた。

 鳥居から境内を見ても、あの天神の姿はない。だが一礼して鳥居をくぐると、やや冷え、澄んだ空気が二人を迎えた。


「昨日のこと、嘘みたい」


 由佳の言葉に、明依もうなずく。

 気障ったらしく笑う天神もいなければ、あの静かな堂もない。背伸びをして社を覗くと、暗い中に小さな扉の金具が見える。あの奥にあるのが、御神体だろう。格子窓の縁には塵が積もり、木製の賽銭箱も側面が緑色になっている。

 この社で確かに、自分達は神に会った。けれど、寝て起きて、改めてこの神社を見ると、それが現実だったのか疑わしくなる。


「【貪食】にもお礼、ちゃんと言えてないね」

「うん……おにぎり作って【アララギサマ】のところに行こうかなっては思ってるけど」


 由佳が首を傾げ、「ああ」と明依は言葉を付け足す。


「公衆電話の、本物の【アララギサマ】。由佳に電話させたの、あのひとだから」


 参拝を終え、明依は踵を返す。薄暗い境内からは、道はなお明るく見えた。その眩しさに目を細め――明依は足を止める。

 鳥居の前に、【画客】が立っていた。


「明依?」


 止まった明依を見上げ、由佳は怪訝な顔になる。だが明依の視線の先を辿ると、由佳も顔をひきつらせた。


「もう少しこっちに」


 片手を挙げ、【画客】が手招きする。鳥居を見上げ、明依は【画客】に近付いた。鳥居の境界を挟んで相対すると、【画客】はそれでいいと言うように頷く。何かを言おうとした由佳の前に、明依が手を突き出した。


「謝罪でもしに来たんですか」

「しないよ。許さないだろう?」


 明依が拳を握り、由佳が明依の袖をつかむ。


「けれど」


 明依が口を開くと、言葉を遮るように【画客】は語気を強めた。


「迷惑をかけた、くらいは思うんだ。人でなしでもね。だから、あげる」


 二枚の札を、【画客】は二人に突き出した。大きさはスマートフォンより一回り大きいくらいで、眼の絵が描かれている。


「一人一枚。効果は三十分くらい」


 こう、と【画客】は額に札を当ててみせる。そして、速く受け取れと言うように一歩鳥居に近付いた。明依が手を伸ばして札を受け取ると、【画客】は歩道の端まで退く。


「挨拶とか、別れの言葉とかさ。大事なんだろ、人間は」


 一方的に話して、【画客】はふいっと二人から視線を外し、歩き出す。由佳は札を明依から受け取ると、それを見下ろし、ぱっと顔を上げて鳥居から出た。


「カイ先輩!」


 投げられた言葉に、【画客】は首だけで振り返る。無表情だった顔に、呆れのような色が滲んでいた。


「うちの美術部、毎週水曜に活動してるんですけど。人数はそこそこで、幽霊部員が多いんです」


 止めようとした手を、明依は引っ込める。何を、と言いたげな【画客】を真っ直ぐに見返して、由佳は大きく息を吸い込む。


「一人ぐらい増えてても、気付きませんよ」


 短い沈黙の中で由佳を見、口を開いて、言葉を飲み込んで、唇を結ぶ。それから、【画客】は眩しそうに目を細めた。


「君、本当に馬鹿だな」


 そう言う顔には、知らない笑みが浮かんでいた。

 二人に背を向けると、【画客】の姿は次第に薄れ、やがて見えなくなる。由佳はスカートを握り、きゅっと口を閉じた。



 昼間に見ると、公衆電話は別段明るくも暗くもなく、町の一部として当たり前のようにそこにあった。壊れるほどに軋んでいたドアにも、傷も歪みもない。


「アララギサマって、あの……ええと、【貪食】? とは違う怪異だっていうのは分かるけど、分裂したの?」

「というより、【貪食】が【アララギサマ】に追い出されたように……うーん、あの時は私も怪異だったから、色々見えたんだけど、説明すると難しい」


 明依は電話ボックスを開き、何の変哲もないその直方体の空間に踏み込む。あの時、ここで見ていた全てを由佳に話したとして、どこまで伝わるだろう。怪異の眼で見る世界は、あまりに人のそれとは違いすぎる。


「でも、【アララギサマ】は【貪食】の味方をしたんだよね」


 由佳は【画客】の札を額に当て、上を見る。


「じゃあいい怪異(ひと)だ」


 明依も札を当てるが、電話ボックスの中に変化はない。怪異の眼でさえうすぼんやりとしていた姿だったのだ。人では、見ることもできないのだろうか。


「ねえ、明依」

「ん?」

「見えなくてもいいじゃん。いるんだから」


 由佳は札を外し、口元を緩めてふにゃりと笑った。


「明依は、見えないとダメ?」

「……その言い方はずるい」

「ふふ。じゃ、【貪食】によろしくね。私、カイ先輩を追いかけてくるから」

「どこに行ったかが分かるの?」

「これでも一年、先輩後輩やってたんだもん。分かるよ」


 由佳はぺこりと電話ボックスに頭を下げると、踵を返して走り出した。

 軽い足音がすっかり聞こえなくなってから、明依は電話ボックスから出る。自転車のサドルは、夏の日差しですっかり熱くなっていた。


「……【アララギサマ】。私はあなたの顔も、姿も分かりません。でもあの時、由佳を呼べなければ負けていたかもしれません。守ってくれてありがとうございます」


 人のいない、寂れた公衆電話。それに向かって頭を下げて、明依は鞄からコンビニの袋を引っ張り出す。


「何が好きか分からないから、とりあえずおにぎり持ってきたんですけ……ど……」


 奥のガラスに、青年の後ろ姿が映っていた。姿が見えるわけではない。ただ、こちらを向いて立っている誰かの背中。それが反射して、半透明になって明依の目に届いている。

 その影が手を伸ばして、明依の手から、ラップにくるまれたおにぎりが消えた。きぃ、と金具を軋ませながら、電話ボックスの戸が開き、また閉じる。

 明依は札を取り出そうとして、その手が上から押さえられるのを感じた。顔を上げても、もうその影は見えない。無人の公衆電話があるだけだ。

 けれど、確かにそこには【アララギサマ】がいる。怪異として人の願いから生まれ、幽霊として佇む、そんな存在が。

――――行っておあげ。あの子のところへ。

 静かな声は、耳から聞こえたわけではなく。気のせいか、それとも、そう言われたと思いたかったのかも分からない。

 明依はもう一度頭を下げて、自転車にまたがった。


「ありがとうございます!」


 ペダルを漕ぐ。首筋をすりぬける夏の風が、じわりと滲んだ汗をさらう。かと思えば照りつける太陽は容赦なく、地面に黒々とした影を落とさせる。

 夏は、光も闇も濃い。一年前、怪談を書こう、と思いついたときもこんな天気だった。

 信号待ちで汗を拭い、明依はペットボトルの水をあおる。生温くなった液体を流し込んだとたんに、汗が噴き出した。

 大通りから曲がりくねった路地に入り、駅前から線路沿いの道をずっと南へ。駅を通過した特急が、ごっ、と風を伴って明依を追い越していった。

 しばらくすると視界が開け、その先に公園が見えてくる。昔はよく通ったが、ここ数年は来たことがない。住宅街の片隅にある、遊具も少ない寂れた公園だ。

 どうしてここに、という疑問は、錆びたブランコを見た途端に吹き飛んだ。自転車を停め、明依はそのブランコに駆け寄る。砂のくぼみでつんのめり、汗で頬に髪を張り付けて、浅い呼吸を繰り返しながら。

 誰もいないブランコの一つが、不自然に揺れていた。前に、後ろに。まるで誰かが乗っているかのように。


「見つけた」


 明依は喘ぐように言葉を絞り出して、誰もいない空間を睨みつける。


「教えてくれたんですよ、【アララギサマ】が」


 聞こえない疑問に答えて、明依はぐっと胸を逸らした。


「忘れるわけないでしょう」


 そう言った途端に、喉の奥が震える。


「忘れるわけ、ないでしょう! 人生で一番長い、人生で一番大変な夏休みだった! 怖かったし、嫌だったし……でも!」


 もう一度経験したいかと問われれば、即座に嫌だと首を振るが。


「楽しかった」


 熱い雫が頬を落ちて、明依は目元を拭う。

 怖かった。自分に誰かが悪意を向けているということが。自分が自分でなくなっていくということが。見えないものが視える日々は目が回りそうで、慣れろと言われても無理な話だった。

 けれど、いつでもアララギサマが傍にいた。視界の端で怪異と小付き合い、見えないのをいいことにクラスメイトの教科書を凝視して。猫に本気の威嚇をされては、顔に引っかき傷を作っている。そんな青年が傍にいれば、嫌でも退屈しない三週間だった。


「楽しかったんですよ。だから、こんな終わり方は嫌なんです」

 揺れていたブランコが、ぴたりと止まる。明依はポケットから【画客】の札を取り出すと、それを額に当てた。

 じわりと、景色の中に墨が滲んだような影が生まれる。それはやがてはっきりとした形を取り、一人の青年の姿を描き出した。

 白い髪に深紅の瞳。その神々しさとは対照的に、痩せぎすでみすぼらしい風体。片手で握ったブランコの鎖が、きし、と擦れて音を立てた。


「ぴかぴか、とまではいかないですけど。お米です」

「……それは【アララギサマ】の取り分だ」

「もうあげました。だからこれは、あなたのです」


 ふ、と口元を緩め、【貪食】は立ち上がる。


「俺は、美味い怪異と俺の名を喰いたかっただけだ」

「そうかもしれませんね」

「助けたのも、【アララギサマ】を喰っていたからであって」

「じゃあどうして【アララギサマ】を食べたんです? わざわざ」


 言葉を詰まらせ、【貪食】は視線を泳がせる。


「認めてくださいよ。【貪食】は人を助けたい怪異なんだって」

「できない」

「どうして」


 明依が近付くと、【貪食】は同じだけ退く。明依はぐっと唇を曲げると、【貪食】が座っていたブランコにおにぎりを置いた。


「何かしたい、って言ったでしょう」


 また距離を取り、明依はそれから、口元を笑わせた。


「認めてくれないなら、しますからね。怪異談」

「やってみろ。もう怪異の種もないお前達が、上書きなんかできるものか」

「上書きじゃないですよ」


 明依は【貪食】を指差し、宣言する。


「ヒカサ。あなたの怪異談です。怪異にされた少年の、面白おかしい現代暮らし」

「……待」

「ヤです」


 明依は残りのおにぎりを袋ごと置くと、逃げるように自転車に飛び乗った。札を額から離した直後、【貪食】の姿は煙のように視界から消える。

 このやろう、と叫び声がしたような気がした。



「なんで善意の押し売りし合ってるの」


 ことの顛末を聞いた由佳が、呆れたように笑った。駅前のコーヒー店で、明依はアイスカフェラテにガムシロップを入れてかき回す。


「だって、あのひと礼も受け取らないつもりだったでしょう? それで忘れろっていうのは、忘れて欲しくないってことでしょうよ。じゃあ残してやるしかないじゃん」


 からからと氷を鳴らし、明依は「それより」と話題を切り上げた。


「見つかった? そっちは」

「嫌な顔されたけどね。散々迷惑かけたんだから、ちょっとくらいワガママ聞いてもらわないと」

「そっちも善意の押し売りじゃん」

「私のは悪意だもん」


 どうだろうか、と明依は由佳を見るが、床は眼鏡を押し上げ、ふふん、と鼻を鳴らした。


「それで、ヒカサ君の怪異談? いいじゃん。夏休み明けの教室を嗚咽で彩ってあげよう」

「別に泣ける話にはしないし、怪談だし」

「人が感動するのはね、物語に込められた熱になんだよ」


 由佳はスイートポテトの封を切る。


「少なくとも、今までのどんな怪談より本気で書くでしょ?」

「まあそれは……そうだけど」

「だったらそれを輝かせるのが私の仕事。期待してるから」


 渇いた笑いを返して、明依はストローを咥えた。



 遠い昔の夢を見る。

 忘れていた景色が、夢の中では色鮮やかに甦る。母が、兄が、姉が、弟が、ようやく思い出したかと気の抜けた顔で笑っている。

 死んだのは、酷く寒い夏の終わりだった。口に入って飲み込めるのならば何でも食べた。それでも足りなかった。最初にいなくなったのは弟だった。

 道端でピクリとも動けなくなって、体を登る虫の足音すらうるさくなって。自分の終わりがやってきたのだと悟った時に、あの影が来た。


『そのまま全と無に還るのもいいけれど。ここで出会ったのも何かの縁。君の名前をくれないかい。そうしたら、二つ目の命をあげるから』


 そうして、【画客】の墨で魂を覆われて、自分は【貪食】になった。

 人の名。怪異になった自分を縛る、最大の鎖。自分はかつて人間であり、その人間は【画客】に名を差し出した。それが【画客】と【貪食】に絶対的な上下をつけていた。怪異談で形を縛られ、人と遠ざけられても、それ以上不快なことはなかった。

 その【画客】が、人間の、年端もいかない少女二人に負けた。それが愉快でなくて何だという。美味い怪異も喰えた。名も取り戻した。

 良い夏だった。


「――それでは語ってあげましょう」


 それ以上を与えられて、いいのだろうか。


「怪異となり、怪異を喰らう、とある少年の御噺です」


 満たされない。渇き続ける。そうと定められた自分に、新しい意味が与えられる。


「名を奪われ、彼は怪異となりました。それでもなお、心の底は人のまま」


 灯りの消えた教室から、夏の終わりの空を見る。

 放課後の教室には、二人の女子生徒が残っていた。その内の一人が、ゆっくりと振り返る。

 短い黒髪が、夕日に薄茶に色づいて、大きな気の強い目が、こちらを見る。逢魔が時の薄暗がり、人の去った教室の出入り口。

 その虚空を見る瞳に、自分が映った。

 名と語りで縁取られた、新しい命の在り方。

 かつての母に似た少女が微笑んで、自分の口元が、同じ形になるのが分かる。


「ああ、お前達は」


 さぞ間抜けに笑っているのだろう、自分は。


「いつまでも、怪異(おれたち)を振り回すんだな」


 そうか、と、名付けられた少年は胸元に手を当てる。西日に影った二人を見て、自分の胸中に渦巻くそれに、喜びと名をつけた。


「それで。【ヒカサ】は、どんな怪異なんだ?」


 勿論、既に語られた自分の物語は、知っている。けれど少しだけ興味があった。どうして、何もかもを喰らいつくす自分に、そんな意味を与えたのか。

 明依は照れくさそうに笑って、口を開く。


「【ヒカサ】は――――」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ