第八話 暈
ひりついていた空気が、和らいでいく。倒れた【画客】の隣に膝をつき、【貪食】は【画客】の首筋に触れた。
「やれやれ呆気のない。名の縛りさえなくなれば、お前に俺が負ける道理の方がないだろうが」
立ち上がり、爪先で【画客】を揺らす。【画客】はうめき声も上げなかった。だらんと投げ出された腕と足が、アスファルトの地面を擦る。
「し……死んだんですか?」
「生きている」
振り向くと、明依がびくりと身をすくませた。【貪食】は足を止め、自分の髪を指に絡ませる。
黒い影のようだった髪は、今は白く、淡く光ってすらいる。そして黒い目に紅の虹彩。たとえ見慣れた顔であっても、別人のように見えるだろう。
名を取り返し、人だった頃の記憶も取り戻した。それは、ずっと自分を怪異たれと縛り付けてきた【画客】の支配がなくなったということだ。だから何が変わるかと言われれば、それは【貪食】にも分からないことだが。
「あー……似合わないか?」
「……さあ……」
「そうか……。いや、どうせ泡沫の夢だ。最後のご馳走をもらって終いにしよう。天神の社に行くか」
差し出された手をとって、明依は立ち上がる。ちらりと【画客】を見ると、まだ倒れたままだった。
「あの……」
「あいつの妄執を喰った」
明依に答えるように、【貪食】は短く返す。
「もう、何もしたいと思わない」
ぞわりと背中が粟立って、明依は両手で自分を抱きしめた。明依の様子に、由佳は首を傾げる。
「由佳、あの刀を拾ってこい」
「はい。……結構重いんですよね」
「仕方ないだろう。天神の武器に触ったら俺も明依も焼ける」
「じゃあ刀を持った由佳を私が持つ」
ひょいっ、と明依は由佳を頭の上まで持ち上げた。由佳は刀を両腕で抱え、「ぎゃあ」と声を上げる。
「爪痛くない? 大丈夫?」
「痛くないけど高い!」
「じゃあこのまま天神様のところにしゅっぱーつ」
「やめておけ、人が見たら由佳だけ空を飛んでいるように見える」
「……え、じゃあ私さっきまで、一人で刀持って騒いでたんですか」
ふいっ、と【貪食】は顔を逸らす。由佳は笑顔を引きつらせ、うなだれた。
「誰かに見られてませんように……」
「いいじゃないか、新しい都市伝説の誕生だ。お前も怪異の仲間入りだな」
「絶対嫌ですからね」
ふはっ、と笑いを漏らして、【貪食】は目を細めた。
「先に行っているといい。俺は最後の始末をしてくる」
「はい。……すぐ来てくださいね」
明依と由佳を見送って、【貪食】は、転がっている【画客】に近付いた。
「おい」
「…………」
「起きているだろう」
「……狸寝入りくらい許してくれてもいいじゃないか」
目を開き、【画客】は【貪食】を見上げる。
「……カッコよくなっちゃてまあ。満足した? 僕の鼻を明かしてさ」
「そうだな。思ったよりも俺はお前に苛ついていたことが知れた」
「それにしたって、ひどいなあ。妄執は、僕のサガそのものなのに。君、何一つ美味しく食べられなくなって、それでも【貪食】でいられるかい?」
頭に手を当て、【画客】は目を閉じる。
「僕は……絵を描く怪異だ。絵に狂う怪異だ……けれど……【貪食】も【七つの子】も、結局、僕のものになってくれない。怪異は……ずっと、ヒトの真似事、ヒトのまがい物だ」
じくじくと頭の奥が傷む。目を開けば、完膚なきまでに勝利した【貪食】がいる。明依を怪異として成熟させることも、人の名を奪うこともできず。挙句、切り札だった【貪食】の名前すら奪い返された。
「何も……ああ、残酷だね【貪食】。そして悪趣味だ。彼女を描く、それだけにこれほど時間を費やしたのに、その熱だけ奪っていくなんて」
何かを言おうと口を開いて、【貪食】は言葉を飲み込む。体を起こすこともせず、【画客】は奥歯を合わせた。
「それを奪われたら、僕は【画客】である意味がない」
「……お前は」
息を吐き、【貪食】は【画客】の隣にしゃがむ。
「ひどい勘違いを続けているらしいな」
「なんだって?」
「お前は【画客】。絵を描き、絵に狂い、万象を描くことを夢見る怪異」
【貪食】は、拾った筆を【画客】の顔の横に立てた。【画客】の目がそちらに向き、それから【貪食】を見上げる。
「そう、だろう?」
立ち上がって、【貪食】はその場から去っていく。しばらく目だけでそれを追ってから、【画客】は筆へと手を伸ばした。
「……無茶を言う」
体を起こして、痛みに軋む背を撫でる。
「……ああ、本当に、無茶を言ってくれる」
もっとも描きたいものを奪われて、何が描けると言うのか。憎かったのだ。自分を縛り付けた人間が。だから、嗤ってやろうと、そうしなければいけないと。
「……何も」
けれど、本当は。そんなことをしなくても良かったのだ、きっと。思うまま全てを描く怪異、それが【画客】なのだから。
「僕には、残っていないのに」
ゆっくりと、【画客】は月に筆をかざす。
美しい月を、描こうとした。それが始まりだった。
月の次は星を描いた。そのまま朝がやってきたので、日の出を、それに照らされる山々を描いた。山麓が鮮やかに色づくさまを、何度も描き直した。
草の汁と木の枝が、いつしか墨と筆になった。ヒトの真似をして体の形が変わり、流れの絵描きだと名乗ったこともあった。
ただそれだけでよかった。名もない、影もない。世の中全てが目新しく、その全てを描きたいと思っていた。
けれど、名を与えられ、道を定められた。ならば、その道を逸れてやろうと、人に食って掛かり――実に、二百四十年。
思うままにしようとした全てに、自分は打ち破られた。
「……は……」
不思議と、笑えてきた。筆をしまい、ふらつきながら歩き出す。
「ここは……景色が、よくない……」
このあたりで一番、高いところへ行こう。月も町も、よく見える場所に。誰の邪魔も入らない、静かな場所がいい。
月の光に、【画客】の輪郭が溶けていった。
社の戸を開くと、明依と由佳は身を寄せて眠っていた。二人に布をかけ、天神は唇の前に指を立てる。
「……寝ている……」
「やれやれ、二人も怪異を入れることになるとは」
手を出せ、と言われ、【貪食】は両手を差し出す。天神は、掌の口の上に大きくバツ印を描いた。
「座ってよし」
「……気持ち悪い」
「我慢せい。そこらじゅう喰い荒らされてはたまらない」
両手を握って開いて、【貪食】は明依の隣に座る。
「ここまでされたら、礼を言わないといけないな」
「何だ急に殊勝な」
「そんな優しい天神殿にもう一つ頼みがあるんだが」
「前言撤回する」
明依の翼をつまみ、【貪食】はそっとそれを広げる。黒い翼は、髪と羽が混ざっていた。羽が数本抜け落ち、床に落ちる。【貪食】は落ちた羽を拾うと、それを口に運んだ。
「……美味いか?」
「それなりに」
明依を仰向けにすると、【貪食】は両手を床につき、明依の上に覆いかぶさった。唇の間から、伸びた牙が覗いていた。明依の顔には似合わない、鋭い犬歯。
「いただきます」
天神が顔をしかめる前で、【貪食】は、明依の唇に口を当てる。白い髪が、炎のように揺らいだ。
明依の表面に、黒い靄が現れる。明依は眉間にしわを寄せるが、目は開かなかった。靄は【貪食】へと吸い寄せられ、明依の表面から剥がれていく。
靄が離れた場所から、明依の身体が変化する。爪と鱗のある手は人の手へと戻り、長い髪も靄に溶けた。両足を包んでいた氷は靴と靴下へ、強張っていた頬は血色を取り戻す。
「――はっ……」
口を離して【貪食】が顔を上げたのは、たっぷり五分ほど経ってからだった。口の端から零れた涎が、糸を引く。
口元を軽く押さえて、【貪食】は明依の上から退いた。人間の姿に戻った明依を見、満足そうに頷く。
「これで、【アララギサマ】への義理も果たした」
「……お前、まさかとは思うが」
「今のを内密に頼む」
「……まあ……構わないが……」
天神は笏で口元を隠し、明依を見遣った。目は閉じているが、明依の頬は赤くなっている。ただ血色がよくなっただけではないだろう。
「で。お前、これからどうする」
「ん?」
「【アララギサマ】をなくしたろう。おまけに、せっかく取り返した人の名を砕いてしまった。儂は興味ないが、そこの娘達は知りたがるだろう」
胡坐をかいて、【貪食】は天神に向き直った。そして、両の拳を床に当て、頭を下げる。
「感謝する」
「……。顔を上げろ」
「俺は、以前と変わらない。俺は【貪食】。それに戻るだけだ」
ふん、と天神が鼻を鳴らす。
「漸くこの騒ぎも終いか」
「ああ。二人の眼もじきに治る。……所詮、死角の影、夏の夢だ。忘れてしまえるならそれでいい」
俯く【貪食】に、天神はひとつ、大きなため息をついた。
「茶でも飲んでいけ」
「……なんだ、宗旨替えか?」
「儂は人の子には優しいのよ。なあ、暈」
差し出された茶を受け取り、【貪食】は軽く目を見開いた。
「……いつから?」
「さてな。世には、お前も知らないことが多いということだ」
天神の手の中で、笏が煙管へと形を変える。煙管を軽く掲げ、天神は自分を取り巻く梅の花弁を一つつまんだ。
「言葉も人の世も移ろうものよ。生まれて生きて、次へと繋ぎ、死んでいく。ときに道を逸れ、ときに戻り、揺れ動きながら世は続いてきた。そんな命の舟を降りたのが我々だ」
天神が花弁に息を吹きかけると、花の香りが風に乗る。
「そうして舟の外で揺蕩いながら、時折舟に戻りたくなる。叶わない故に願わない、気の迷いのような――あったはずの未来を夢に見る」
「……俺は、怪異だ」
「そうとも」
「侘しくもない、悔いもない。ただ……」
じっ、と天神に見据えられると、その少年は視線を床に落とした。
「少し……少しだけ、離れるのが惜しいと、思った。変だな。昨日まで、そんなことは全くなかったのに」
それを寂しいと言うのだと、天神は思いながら言葉を飲み込んだ。
人の名を取り戻した。その意味にこの少年が気付くのは、どれほど先のことだろうか。それとも、存外遠くない未来だろうか。
怪異としてではなく、人間として生まれ落ちた。長く怪異として生きようと、その根底にあるものは変わらない。言葉で移ろう怪異とは違う、確かな因。全てが変わりゆく世の中で、唯一不変であるもの。
名という祈りの意味に気付くことは、子供であるうちはまだ難しいだろう。それは気付けば与えられていたものなのだから。
「ごちそうさま」
空になった茶碗を床に置き、【貪食】は両手を合わせる。脇息に肘を置き、天神は片膝を立てた。
しばらく、天神は目を伏せて黙り、【貪食】も空の茶碗の底を見詰める。
「もう一杯?」
「いらない」
言ってから、少しだけ【貪食】は表情を和らげた。
「美味かった」
「自慢の梅昆布茶だ」
口元を袖で隠し、天神は得意げに笑った。
蝉時雨の中を、自転車で走る。額を伝う汗をぬぐい、明依は片手を挙げた。道の先で、由佳がスマートフォンから顔を上げる。神社の前で、明依は自転車を停めた。
「怒られた?」
「ちょっとね。遅くなるなら連絡しなさいって。明依は?」
「なんか、アララギサマ……じゃなかった、【貪食】がスマホで連絡入れてくれたみたい。メッセージ送ってあった」
「私のもやってくれたらよかったのに」
「送り方わからなかったんじゃない? 私のスマホではちょくちょく遊んでたし」
明依は自転車から降りると、傍らの鳥居を見上げた。
鳥居から境内を見ても、あの天神の姿はない。だが一礼して鳥居をくぐると、やや冷え、澄んだ空気が二人を迎えた。
「昨日のこと、嘘みたい」
由佳の言葉に、明依もうなずく。
気障ったらしく笑う天神もいなければ、あの静かな堂もない。背伸びをして社を覗くと、暗い中に小さな扉の金具が見える。あの奥にあるのが、御神体だろう。格子窓の縁には塵が積もり、木製の賽銭箱も側面が緑色になっている。
この社で確かに、自分達は神に会った。けれど、寝て起きて、改めてこの神社を見ると、それが現実だったのか疑わしくなる。
「【貪食】にもお礼、ちゃんと言えてないね」
「うん……おにぎり作って【アララギサマ】のところに行こうかなっては思ってるけど」
由佳が首を傾げ、「ああ」と明依は言葉を付け足す。
「公衆電話の、本物の【アララギサマ】。由佳に電話させたの、あのひとだから」
参拝を終え、明依は踵を返す。薄暗い境内からは、道はなお明るく見えた。その眩しさに目を細め――明依は足を止める。
鳥居の前に、【画客】が立っていた。
「明依?」
止まった明依を見上げ、由佳は怪訝な顔になる。だが明依の視線の先を辿ると、由佳も顔をひきつらせた。
「もう少しこっちに」
片手を挙げ、【画客】が手招きする。鳥居を見上げ、明依は【画客】に近付いた。鳥居の境界を挟んで相対すると、【画客】はそれでいいと言うように頷く。何かを言おうとした由佳の前に、明依が手を突き出した。
「謝罪でもしに来たんですか」
「しないよ。許さないだろう?」
明依が拳を握り、由佳が明依の袖をつかむ。
「けれど」
明依が口を開くと、言葉を遮るように【画客】は語気を強めた。
「迷惑をかけた、くらいは思うんだ。人でなしでもね。だから、あげる」
二枚の札を、【画客】は二人に突き出した。大きさはスマートフォンより一回り大きいくらいで、眼の絵が描かれている。
「一人一枚。効果は三十分くらい」
こう、と【画客】は額に札を当ててみせる。そして、速く受け取れと言うように一歩鳥居に近付いた。明依が手を伸ばして札を受け取ると、【画客】は歩道の端まで退く。
「挨拶とか、別れの言葉とかさ。大事なんだろ、人間は」
一方的に話して、【画客】はふいっと二人から視線を外し、歩き出す。由佳は札を明依から受け取ると、それを見下ろし、ぱっと顔を上げて鳥居から出た。
「カイ先輩!」
投げられた言葉に、【画客】は首だけで振り返る。無表情だった顔に、呆れのような色が滲んでいた。
「うちの美術部、毎週水曜に活動してるんですけど。人数はそこそこで、幽霊部員が多いんです」
止めようとした手を、明依は引っ込める。何を、と言いたげな【画客】を真っ直ぐに見返して、由佳は大きく息を吸い込む。
「一人ぐらい増えてても、気付きませんよ」
短い沈黙の中で由佳を見、口を開いて、言葉を飲み込んで、唇を結ぶ。それから、【画客】は眩しそうに目を細めた。
「君、本当に馬鹿だな」
そう言う顔には、知らない笑みが浮かんでいた。
二人に背を向けると、【画客】の姿は次第に薄れ、やがて見えなくなる。由佳はスカートを握り、きゅっと口を閉じた。
昼間に見ると、公衆電話は別段明るくも暗くもなく、町の一部として当たり前のようにそこにあった。壊れるほどに軋んでいたドアにも、傷も歪みもない。
「アララギサマって、あの……ええと、【貪食】? とは違う怪異だっていうのは分かるけど、分裂したの?」
「というより、【貪食】が【アララギサマ】に追い出されたように……うーん、あの時は私も怪異だったから、色々見えたんだけど、説明すると難しい」
明依は電話ボックスを開き、何の変哲もないその直方体の空間に踏み込む。あの時、ここで見ていた全てを由佳に話したとして、どこまで伝わるだろう。怪異の眼で見る世界は、あまりに人のそれとは違いすぎる。
「でも、【アララギサマ】は【貪食】の味方をしたんだよね」
由佳は【画客】の札を額に当て、上を見る。
「じゃあいい怪異だ」
明依も札を当てるが、電話ボックスの中に変化はない。怪異の眼でさえうすぼんやりとしていた姿だったのだ。人では、見ることもできないのだろうか。
「ねえ、明依」
「ん?」
「見えなくてもいいじゃん。いるんだから」
由佳は札を外し、口元を緩めてふにゃりと笑った。
「明依は、見えないとダメ?」
「……その言い方はずるい」
「ふふ。じゃ、【貪食】によろしくね。私、カイ先輩を追いかけてくるから」
「どこに行ったかが分かるの?」
「これでも一年、先輩後輩やってたんだもん。分かるよ」
由佳はぺこりと電話ボックスに頭を下げると、踵を返して走り出した。
軽い足音がすっかり聞こえなくなってから、明依は電話ボックスから出る。自転車のサドルは、夏の日差しですっかり熱くなっていた。
「……【アララギサマ】。私はあなたの顔も、姿も分かりません。でもあの時、由佳を呼べなければ負けていたかもしれません。守ってくれてありがとうございます」
人のいない、寂れた公衆電話。それに向かって頭を下げて、明依は鞄からコンビニの袋を引っ張り出す。
「何が好きか分からないから、とりあえずおにぎり持ってきたんですけ……ど……」
奥のガラスに、青年の後ろ姿が映っていた。姿が見えるわけではない。ただ、こちらを向いて立っている誰かの背中。それが反射して、半透明になって明依の目に届いている。
その影が手を伸ばして、明依の手から、ラップにくるまれたおにぎりが消えた。きぃ、と金具を軋ませながら、電話ボックスの戸が開き、また閉じる。
明依は札を取り出そうとして、その手が上から押さえられるのを感じた。顔を上げても、もうその影は見えない。無人の公衆電話があるだけだ。
けれど、確かにそこには【アララギサマ】がいる。怪異として人の願いから生まれ、幽霊として佇む、そんな存在が。
――――行っておあげ。あの子のところへ。
静かな声は、耳から聞こえたわけではなく。気のせいか、それとも、そう言われたと思いたかったのかも分からない。
明依はもう一度頭を下げて、自転車にまたがった。
「ありがとうございます!」
ペダルを漕ぐ。首筋をすりぬける夏の風が、じわりと滲んだ汗をさらう。かと思えば照りつける太陽は容赦なく、地面に黒々とした影を落とさせる。
夏は、光も闇も濃い。一年前、怪談を書こう、と思いついたときもこんな天気だった。
信号待ちで汗を拭い、明依はペットボトルの水をあおる。生温くなった液体を流し込んだとたんに、汗が噴き出した。
大通りから曲がりくねった路地に入り、駅前から線路沿いの道をずっと南へ。駅を通過した特急が、ごっ、と風を伴って明依を追い越していった。
しばらくすると視界が開け、その先に公園が見えてくる。昔はよく通ったが、ここ数年は来たことがない。住宅街の片隅にある、遊具も少ない寂れた公園だ。
どうしてここに、という疑問は、錆びたブランコを見た途端に吹き飛んだ。自転車を停め、明依はそのブランコに駆け寄る。砂のくぼみでつんのめり、汗で頬に髪を張り付けて、浅い呼吸を繰り返しながら。
誰もいないブランコの一つが、不自然に揺れていた。前に、後ろに。まるで誰かが乗っているかのように。
「見つけた」
明依は喘ぐように言葉を絞り出して、誰もいない空間を睨みつける。
「教えてくれたんですよ、【アララギサマ】が」
聞こえない疑問に答えて、明依はぐっと胸を逸らした。
「忘れるわけないでしょう」
そう言った途端に、喉の奥が震える。
「忘れるわけ、ないでしょう! 人生で一番長い、人生で一番大変な夏休みだった! 怖かったし、嫌だったし……でも!」
もう一度経験したいかと問われれば、即座に嫌だと首を振るが。
「楽しかった」
熱い雫が頬を落ちて、明依は目元を拭う。
怖かった。自分に誰かが悪意を向けているということが。自分が自分でなくなっていくということが。見えないものが視える日々は目が回りそうで、慣れろと言われても無理な話だった。
けれど、いつでもアララギサマが傍にいた。視界の端で怪異と小付き合い、見えないのをいいことにクラスメイトの教科書を凝視して。猫に本気の威嚇をされては、顔に引っかき傷を作っている。そんな青年が傍にいれば、嫌でも退屈しない三週間だった。
「楽しかったんですよ。だから、こんな終わり方は嫌なんです」
揺れていたブランコが、ぴたりと止まる。明依はポケットから【画客】の札を取り出すと、それを額に当てた。
じわりと、景色の中に墨が滲んだような影が生まれる。それはやがてはっきりとした形を取り、一人の青年の姿を描き出した。
白い髪に深紅の瞳。その神々しさとは対照的に、痩せぎすでみすぼらしい風体。片手で握ったブランコの鎖が、きし、と擦れて音を立てた。
「ぴかぴか、とまではいかないですけど。お米です」
「……それは【アララギサマ】の取り分だ」
「もうあげました。だからこれは、あなたのです」
ふ、と口元を緩め、【貪食】は立ち上がる。
「俺は、美味い怪異と俺の名を喰いたかっただけだ」
「そうかもしれませんね」
「助けたのも、【アララギサマ】を喰っていたからであって」
「じゃあどうして【アララギサマ】を食べたんです? わざわざ」
言葉を詰まらせ、【貪食】は視線を泳がせる。
「認めてくださいよ。【貪食】は人を助けたい怪異なんだって」
「できない」
「どうして」
明依が近付くと、【貪食】は同じだけ退く。明依はぐっと唇を曲げると、【貪食】が座っていたブランコにおにぎりを置いた。
「何かしたい、って言ったでしょう」
また距離を取り、明依はそれから、口元を笑わせた。
「認めてくれないなら、しますからね。怪異談」
「やってみろ。もう怪異の種もないお前達が、上書きなんかできるものか」
「上書きじゃないですよ」
明依は【貪食】を指差し、宣言する。
「ヒカサ。あなたの怪異談です。怪異にされた少年の、面白おかしい現代暮らし」
「……待」
「ヤです」
明依は残りのおにぎりを袋ごと置くと、逃げるように自転車に飛び乗った。札を額から離した直後、【貪食】の姿は煙のように視界から消える。
このやろう、と叫び声がしたような気がした。
「なんで善意の押し売りし合ってるの」
ことの顛末を聞いた由佳が、呆れたように笑った。駅前のコーヒー店で、明依はアイスカフェラテにガムシロップを入れてかき回す。
「だって、あのひと礼も受け取らないつもりだったでしょう? それで忘れろっていうのは、忘れて欲しくないってことでしょうよ。じゃあ残してやるしかないじゃん」
からからと氷を鳴らし、明依は「それより」と話題を切り上げた。
「見つかった? そっちは」
「嫌な顔されたけどね。散々迷惑かけたんだから、ちょっとくらいワガママ聞いてもらわないと」
「そっちも善意の押し売りじゃん」
「私のは悪意だもん」
どうだろうか、と明依は由佳を見るが、床は眼鏡を押し上げ、ふふん、と鼻を鳴らした。
「それで、ヒカサ君の怪異談? いいじゃん。夏休み明けの教室を嗚咽で彩ってあげよう」
「別に泣ける話にはしないし、怪談だし」
「人が感動するのはね、物語に込められた熱になんだよ」
由佳はスイートポテトの封を切る。
「少なくとも、今までのどんな怪談より本気で書くでしょ?」
「まあそれは……そうだけど」
「だったらそれを輝かせるのが私の仕事。期待してるから」
渇いた笑いを返して、明依はストローを咥えた。
遠い昔の夢を見る。
忘れていた景色が、夢の中では色鮮やかに甦る。母が、兄が、姉が、弟が、ようやく思い出したかと気の抜けた顔で笑っている。
死んだのは、酷く寒い夏の終わりだった。口に入って飲み込めるのならば何でも食べた。それでも足りなかった。最初にいなくなったのは弟だった。
道端でピクリとも動けなくなって、体を登る虫の足音すらうるさくなって。自分の終わりがやってきたのだと悟った時に、あの影が来た。
『そのまま全と無に還るのもいいけれど。ここで出会ったのも何かの縁。君の名前をくれないかい。そうしたら、二つ目の命をあげるから』
そうして、【画客】の墨で魂を覆われて、自分は【貪食】になった。
人の名。怪異になった自分を縛る、最大の鎖。自分はかつて人間であり、その人間は【画客】に名を差し出した。それが【画客】と【貪食】に絶対的な上下をつけていた。怪異談で形を縛られ、人と遠ざけられても、それ以上不快なことはなかった。
その【画客】が、人間の、年端もいかない少女二人に負けた。それが愉快でなくて何だという。美味い怪異も喰えた。名も取り戻した。
良い夏だった。
「――それでは語ってあげましょう」
それ以上を与えられて、いいのだろうか。
「怪異となり、怪異を喰らう、とある少年の御噺です」
満たされない。渇き続ける。そうと定められた自分に、新しい意味が与えられる。
「名を奪われ、彼は怪異となりました。それでもなお、心の底は人のまま」
灯りの消えた教室から、夏の終わりの空を見る。
放課後の教室には、二人の女子生徒が残っていた。その内の一人が、ゆっくりと振り返る。
短い黒髪が、夕日に薄茶に色づいて、大きな気の強い目が、こちらを見る。逢魔が時の薄暗がり、人の去った教室の出入り口。
その虚空を見る瞳に、自分が映った。
名と語りで縁取られた、新しい命の在り方。
かつての母に似た少女が微笑んで、自分の口元が、同じ形になるのが分かる。
「ああ、お前達は」
さぞ間抜けに笑っているのだろう、自分は。
「いつまでも、怪異を振り回すんだな」
そうか、と、名付けられた少年は胸元に手を当てる。西日に影った二人を見て、自分の胸中に渦巻くそれに、喜びと名をつけた。
「それで。【ヒカサ】は、どんな怪異なんだ?」
勿論、既に語られた自分の物語は、知っている。けれど少しだけ興味があった。どうして、何もかもを喰らいつくす自分に、そんな意味を与えたのか。
明依は照れくさそうに笑って、口を開く。
「【ヒカサ】は――――」




