第七話 怪異【貪食】
明依と由佳の出会いは、運命的でも劇的でもなく、互いにその日のことを思い出せと言われても首を傾げてしまうほどだった。
かたや空手部所属の学級委員長。かたや美術部と落語研究会所属のムードメーカー。席が前後でなければ、クラスメイト以上にはならなかっただろう。
明依が怪談を書き始めて、一年。大抵のことはクラスメイトに明け透けに話す由佳の、数少ない秘密だった。もしクラスメイトが聞いたら、さぞ驚くだろう。明依が、あの怪談の作者だなど。
電話ボックスの中で、由佳は長く息を吐く。アララギサマは、【画客】の時間稼ぎに行ってしまった。ひとまずここならば、と由佳を電話ボックスに放り込んで。
「……それでは、語ってあげましょう」
由佳は両手を合わせ、電話ボックスごしに外を見た。
「男勝りで、生真面目で、ちょっと怖がりな――私の親友の怪異談を」
眼鏡の奥で、ゆっくりと一つ、瞬きをする。
よく笑い、よく怒り。生真面目と言われるが、案外冗談が通じるところもある。委員長は引き受けるが、生徒会は断固拒否する。空手部でも期待されているとか。時折ひどく短気で、けれど理不尽に怒りはしない。
どんな人かと聞かれて、一言で言い表せるものか。
ただ一つだけ、確かなことと言えば。自分は明依のために、自分の感情を動かせるということだ。
怒り、泣き、笑い。それが明依のためであれば、何一つ苦ではない。打算ではなく、普段は意識することすらない。だが確かに、由佳は明依のために怒り、明依のために戦う。
そんな関係に名をつけるとするならば、やはり、親友、と言うべきなのだろう。
「……明依、だな?」
「はい」
ぎゅ、と一度強くアララギサマを抱きしめると、明依は体を剥がし、アララギサマの前に立った。
「私は、【穂苅明依】です」
金色の瞳に、【画客】は苦々しく顔を歪める。ぱたぱたと走ってきた由佳が、息も絶え絶えになってアララギサマの腕にしがみついた。
「よくやった」
「偉そうに!」
は、と笑いを漏らし、アララギサマは由佳を支えて引き寄せる。
「明依、ま」
「アララギサマは私が守ります」
自分を見据える明依を前に、【画客】はしばし黙っていた。何かを言おうと開いた口を閉じて、長い瞬きを一つ、表情をなくす。
腰の墨壺を一つ、ひっくり返す。真っ直ぐに落ちた墨が、地面にとぷんと広がった。放り投げられた墨壺は、空中でさらりと消えた。明依が腰を落とし、拳を構える。
「怪異の殺し方を知っているかい」
刀のように筆を持ち、【画客】はその先端を墨に触れさせた。
「いいえ。でも」
明依は拳を緩め、引っ掻くように指に力をこめた。手首から先を覆う鱗が逆立つ。
「黙らせ方なら知っています」
【画客】が薄く笑んだ。腰を落とし、翼を広げて、明依は両手で地面をつかむ。喉の奥から、唸り声が漏れた。由佳がたじろいだように一歩退く。
糸がぴんと張るように、明依と【画客】の間の緊張が高まっていく。どちらかが動けば、その瞬間に均衡は崩れるだろう。アララギサマは由佳に小声で耳打ちをすると、音を立てずに明依に近付いた。
「汝は【夜啼鴉】」
「ブッ殺す!」
二つの怪異の声が重なる。と同時に、アララギサマは身を屈め、明依の胴に飛びついた。
「うわっ!?」
「娘っ子が殺すとか言うんじゃない!」
「うるっ……邪魔しないでよアララギサマ!」
出鼻をくじかれた明依は、そのままアララギサマに引っ張られて起き上がる。と、明依の頭があった場所を、【画客】の筆が横切った。
「アレに触れたらあっという間におしまいだ、急場しのぎの怪異談なんか打ち破られる!」
「さっ、先に言いなさいよそういうこと!」
「聞かなかった、聞かなかっただろうが!」
明依は片腕でアララギサマを小脇に抱え、後方へと飛ぶ。
「じゃあどうするんです!」
「障られないように」
「だから!」
「……か、考える!」
「頼りにならない!」
明依は地面を蹴ると、屋根の上まで飛び上がった。勢いよく電柱に着地し、アララギサマが「おぐっ」と声を漏らす。
「逃げるばっかりじゃ勝てないよ? 今僕は機嫌が悪くてね! 君を捕まえたら、【穂苅明依】を丹念にすりつぶしてしまいそうだ!」
「じゃあ捕まるわけにはいかないですね!」
「いいや捕まったほうが身のためだろう、君は怪異なんだ! 怪異なのに人間の名と心なんて、いつまでも持っていてもしょうがないだろう? 君が自ら僕に名を差し出すなら、痛いことはしないさ。こう見えても我が子には優しいからね」
「生きながら名を引っぺがされるのは痛いぞ」
「痛いそうですよ!」
「うるさいな反抗期!」
「やかましい自称親の不審者が!」
アララギサマは舌を出す。【画客】は口の端を引きつらせ、筆を肩に乗せた。
「強い女の子に抱えてもらって煽るって、恥ずかしくないのかお前」
「黙れ現在進行形で恥ずかしいわバーカ!」
「親子喧嘩後にしてくれませんか!?」
電柱から街灯へと明依が飛び移る。電柱の表面を這っていた墨が、一拍遅れて明依の足へと伸ばされた。
「明依、あっちだ!」
「はい!」
街灯から街灯へ、追いすがる墨の手から明依は逃げる。【画客】がその後を追い、地面に広がる墨もそれに従った。景色をまるごと塗り替えるように、一歩ごとに墨が広がっていく。街灯は光を失い、月の光すらも飲み込まれたように、道は漆黒に染まった。
もとより人通りが少ない道だが、それでもこれほど暗くはないだろう。まるで水彩画に墨汁をこぼしたかのようで、地面と塀の境界すら分からない。
その最中に、銀色の太刀が残されていた。塀の影から顔を出した由佳は、あたりを見回し、その太刀に駆け寄る。柄を握るとずしりと重く、濡れたような刃が月の光にぎらりと光った。
道の端に転がっていた鞘に、ゆっくりと刀を収める。それを両手で握り、由佳は【画客】の後を追った。
大きな金色の瞳が、きろきろとあたりを見回す。電柱の上に立ち、明依は両腕でアララギサマを抱え直した。アララギサマは橙色の目を細め、地面を進む【画客】を見下ろしている。
地面を這うように、【画客】の墨は広がっていた。明依がいる電柱の表面も、じわじわと黒く染まっている。明依は、まだ侵食の少ない隣の電柱へ移った。
「逆転の一手、思いつきましたか」
「……あるんだ、最初から」
アララギサマの指が、道を――【画客】の墨に飲まれた中で、ぽつんと残っている明かりを指差す。
「電話ボックス……?」
それは、明依とアララギサマが出会った場所。
「【画客】は勝ちを急いでいる。散々煽った甲斐もあるというものだ」
「あの中に入ればいいんですね」
「ああ。そうしたら」
アララギサマは明依を見上げ、一度口を閉じる。明依が首を傾げると、視線を落とし、頬を掻いた。口のない手を一度握り、目を伏せる。
「さよならだ」
深紅の瞳が、瞼の奥に現れた。
薄く広げた感覚の端を、異物が横切る。
「そこか」
広げていた墨を止め、【画客】はそちらへ目を向ける。
思えばこの二百年ほどは、思うままにならないことばかりだった。しかし、これほど苛立ったことはない。恐らくそれは、目的への困難であるか、障害であるかの違いだろう。困難ならば乗り越えられる。だが障害ならば、打ち砕くしかない。
人の名を手に入れ、さして強くもない技を磨き。人の皮を被り、人の真似をして、人であるかのように振舞った。気ままなウツロであったときとは違う熱が、【画客】を突き動かしていた。
怪異談。こうあれかしとサガを押し付ける、傲慢な人の業。それが自分を【画客】にしたのだと知った時、まず抱いたのは、怒りだった。
何様か。
ただ万象を紙の上に写すだけの存在だった。人がそれを絵と呼ぶのは知っていた。だが、絵を描くことの何が怪か。ただ、自分達の目に見えないと言うだけで、人間は。
だから、決めた。
人を怪異にしよう。そうして、自分が描くのだ。お前達は怪異を組み伏せるものではなく、怪異によって生かされているものなのだと知らしめるために。
きっと傑作になるだろう。人を辞めた人が、怪異として堕ちていくさまは。
「君達はまさに傑作に相応しいモデルだよ」
電話ボックスに、その二人は窮屈そうに収まっていた。明依は翼を折り畳んで身を縮め、扉の側にアララギサマが立っている。
「あのまま逃げるかと思ったけど。まあ僕からは逃げられやしない。さあ観念しようか」
道を覆っていた墨は、【画客】の足元に集まっていた。【画客】が細筆を持ち上げると、墨から薄っぺらな手が生える。真っ黒に染まった紙を、手の形に乱雑に切り抜いたようだった。
「いいかげんに……ねっ!」
黒い手が、べたべたと電話ボックスに張り付いてくる。アララギサマは左腕をつかみ、ぐ、と口元を笑わせた。
「やめておけ、ここは【アララギサマ】の領域だ。縄張りを侵すなら、お前にも代償を払わせる」
「そのくらい何さ! 僕はそれ以上の成果を手に入れられる。袋の鼠になってくれるとはね、嗚呼全く、君の愚かさには感謝をしないと!」
黒い手の指先が、電話ボックスの扉にかかる。扉に足を当てて閉じながら、アララギサマは首元に手を伸ばした。
「……『音を紡ぎて形となし』……。限界、か」
指先に触れるのは、亀裂。皮膚の上を這うように、ひび割れが首から顎へ、そして頬へと伸びていく。
「明依、答えろ」
振り返らないまま、アララギサマは、笑った。
「お前は、助かったか?」
背中越しの声。それに、明依は言葉を詰まらせた。
助かっているわけがない。今まさに追い詰められている。そもそも、自我を保っているのも辛うじてで、自分は怪異に傾ききっている。
――ああ、けれど。
初めに【夕暮】から逃れられたのも、【巣籠】から由佳を守れたのも。こうして、すんでのところで踏みとどまっていることも、確かに、彼のおかげなのだ。そうでなければとっくに手遅れになっていた。細い糸を紡いで紡いで、何とか、自分は、穂苅明依はここにいる。
欲を言えば、こんな事態になる前に、何とかして欲しかったところだが。
「ええ、助かりました」
そう口に出すことに、迷いは要らなかった。
もう、明依は知っている。アララギサマが、自分を助けるためにここにいることを。アララギサマの事情は知らなくてもいい。本当に助かるかどうかはまだ分からなくてもいい。
それが必要な言葉ならば、言う。それが、アララギサマへの信頼だ。
「そうか」
ふ、とアララギサマの背が、明依へと傾く。
「対価は先払い」
頬の亀裂は目元へと至り、卵の殻が破れるように零れ落ちた。
「であれば、【アララギサマ】との縁は終いだ」
アララギサマが――【貪食】が、左手を持ち上げる。そこに刻まれているのは、天神の言の葉。【貪食】を【アララギサマ】たらしめていた、最後の楔。それが、ぱん、と弾け、桃色の花弁となって散った。
日に焼けた腕は土気色に。傷は瞬く間に癒え、瞳は深紅、それを囲う白目は黒く反転する。
「是より先、人の子踏み入ること能わず。須らく、彼岸の与太噺である」
電話ボックスのドア越しに、【貪食】は【画客】を見上げて、笑う。
アララギサマの幻影を置き去りに、【貪食】はドアをすり抜けた。着物の裾が離れた瞬間、電話ボックスのガラスが一斉に曇る。白く濁った向こう側で、【貪食】が【画客】の喉元に両手をかけるのが見えた。電話ボックスに張り付いていた黒い手が、べりべりと引き剥がされる。
一瞬の沈黙。惨劇の予感に、明依は思わず目を背けた。水がガラスにかかるような、嫌な音がする。
公衆電話を見下ろし、明依はスカートを握る。ガラスが濁ったのは、アララギサマの慈悲か。
と、季節外れの冷風が、首筋をするりと撫でた。明依は身震いをする。気のせいだろうか、と顔を上げた明依の横を、半透明の腕がすりぬけた。
――――五秒。
そう、頭の中で声がする。細い腕は電話を指差し、それから明依の手に重なる。
――――あの子に、五秒くれないか。
手に促されるまま、明依は受話器をとった。
「……【アララギサマ】?」
左腕のみ、それも不明瞭。だが、確かに自分の背後に、何かがいる。
明依が呼びかけると、見えないそれが、笑ったような気がした。
全身を縛り付けていた鎖が緩んだ。そんな感覚だった。
人に触れること能わず――その縛りを【アララギサマ】で打ち消して、【貪食】は明依の傍にいた。だが裏を返せば、明依が助からない限り、【貪食】は【アララギサマ】のサガに縛られる。すなわち、その【アララギサマ】が人間であれば、【貪食】も人間に。
もちろんそれは本当の意味ではなく、見せかけに過ぎない。【画客】のように人の名を使った人の皮でもない、ただ『人間の幽霊のような怪異』の殻。言葉を武器とすることも、怪異談をすることも不可能なはりぼてだ。
では、明依と【アララギサマ】の契約が終わればどうなるか。
「――はっ」
もう遠慮はいらない。相手は怪異。自分も怪異。であれば本能のまま、喰い荒らすだけ。
墨の刀を両手で受けて、【貪食】は大きく一歩踏み込んだ。踏ん張りのきかない【画客】は、それに押されて塀に背を当てる。
「お前っ……何で! 喰ったものは吐けないはずだ!」
「お前、俺の怪異談を知らんだろう」
両掌の傷が、そのまま口を形作る。【貪食】は足を振り上げ、【画客】を横から蹴り飛ばした。
「『汝、人に触れること能わず。永久に満たされぬ渇きを抱く』……浅慮だったなァ! お前の怪異談、お前の戦略! それこそがお前の負け筋だったというわけだ!」
深紅の瞳が、【画客】を映す。脇腹を押さえて咳き込み、【画客】は【貪食】を睨み上げた。
「げほっ……なら、なら! 君が戦う理由はないはずだ。あそこの彼女は、もう君が護るものじゃない」
「分からないか?」
ひたひたと【画客】に近付いて、【貪食】は笑みを深める。獰猛な、獣そのものの笑み。
「あの怪異は俺の獲物だ。そして」
手を振りかぶる。【画客】は立ち上がり、【貪食】から距離を取った。
「俺は、お前が、嫌いだ」
「こっ……の、野郎」
胸元を握り、【画客】は歯の間から息を吐く。
勢いまかせに見えるが、電話ボックスからは着実に引き離されている。いっそ逃げに転じて、罠でも仕掛けて足止めしようか。いや、【貪食】なら、罠など食い破って終わりだろう。下手に離れると、狙いに気付かれる。
触れれば終わりなのに。明依は十分怪異になっている。だと言うのに、目的のための最後の障害が、これほど大きいとは。
「なら、君から」
振った袖から、墨が零れる。大きく一度息を吸って、吐いて、【画客】は顔を険しくした。自ら切り落とした左手が、今更に憎らしい。
「篭絡されてもらおうかな!」
声を張る。それが虚勢だと、【貪食】には見抜かれている。だがそれでもいいのだ。力で敵わなくとも、技ならば、触れれば自分の勝ちなのだから。
まだ負けではない。【貪食】への絶対の切り札が、自分には残っている。
握った小筆を顔の前に構え、【画客】は地面を蹴った。腕の一本、目の片方くらいは覚悟した。傷ならいずれ癒える。時間がかかるとしても、自分には無限に等しい時間がある。だが、今ここで【貪食】に負ければ、八つ裂きにされるよりも苦しいだろう。
掌の口と、筆。二つの怪異は、互いの得物をまっすぐに伸ばす。【貪食】の背後で、街灯がゆらりと、蝋燭のように揺れた。
「いい子だ」
筆が、唇に触れる。瞬間、【貪食】の右手は漆黒に染まった。皮膚を這うような黒は、瞬きの間に肩まで到達する。
「ご褒美に、今度こそ最後まで染めてあげよう」
首から顎へ、そして、一束の白髪までも墨色に。弾かれたように【貪食】は後方へ跳ぶ。【画客】はさらに一歩踏み込み、
「お前の負けだ」
漆黒の怪異が、笑う。
【画客】の胸元を、銀の刃が貫いた。
「……あ……?」
景色が揺れる。【画客】の鼻先を、黒い翼が掠めた。
目の前に、明依と、由佳が立っていた。自分と【貪食】の間に立ち、由佳は両手で太刀を握っている。震える由佳の手に、明依の手が重なっていた。
先刻、アララギサマが持っていた太刀だ。その刃が真っ直ぐに、【画客】の胸から背へと抜けている。
「名前」
明依の目が、【画客】を睨む。
「【貪食】の名前、返してもらいます!」
風を切る音と、一拍遅れて、雷鳴。明依は翼で由佳を包み、後方へと退いた。由佳の手から太刀が離れる。【貪食】は明依の襟首をつかむと、そのまま自分のそばまで引っ張った。
「がっ……ああああっ、あああああああああアアアア!」
その場に膝をつき、【画客】が叫ぶ。修復した左手が、光に焼かれて灰となった。
天から降る稲妻を、神木の上から眺める影が一つ。ヒュウ、と口を鳴らして、天神は片手でひさしを作った。その左手には、古めかしい弓が握られている。
「天罰てきめん。あとは煮るなり焼くなりせい、【貪食】」
光が消えると、街はまた夜の帷が降りる。
「ま……儂も人から怪異、そして神になった身。お前の願いもついでに叶えるが良いさ、【貪食】。元であれど、人の子ならば、儂は慈しむとも」
弓を一振りすると、それは煙管へと形を変える。
天神の視線の先で、【貪食】は一秒、言葉を失っていた。
明依が現れたことは驚かない。怪異としての力が強いのだろう、姿を隠していたのならば、戦いの中で見落としていたのだと理解できる。
だが、由佳がなぜ、ここに。
「あれ持って逃げろと言ったろう由佳!」
「だ、だって明依が」
「文句は受け付けませんからね!」
夜の道は、雷撃で真昼のように照らされていた。【貪食】はシッと息を吐き、身を低くして【画客】との距離を詰める。
雷光が消え、膝をついた【画客】が顔を上げるまで、三秒。十分だった。
まず到達したのは、右手の口だった。それが【画客】の喉元をつかみ、地面に仰向けに押し倒す。そのまま【貪食】は、【画客】の腹に膝を乗せた。
「がっ!」
左手で額を押さえたまま、右手を【画客】の胸元へ。手はずぶりと、薄い胸に沈み込む。
「返してもらう」
痛みに呻く【画客】から、【貪食】が右手を引き抜いた。
その手には、大粒の真珠のような珠が握られていた。それを見た瞬間、【画客】の顔色が変わる。
「やめっ……」
手を伸ばす【画客】から離れ、【貪食】は真珠を握る。【画客】は体を起こすと、激しく咳き込んだ。
月の光に、真珠をかざす。 濡れたような表面は、光に照らされて七色に変化した。掌の口から伸びた舌が、真珠の表面を撫でる。
「冷たいな」
「ぐっ……返せ、返すんだ【貪食】!」
「返せ? これは俺のだろう」
明依と由佳の前に立ち、【貪食】は【画客】を見下ろす。由佳は腰が抜けたのか、明依に支えられて【貪食】を見上げていた。
「ああ……ああそうだ、思い出した。母だ。明依は、俺の母に似ていた」
【貪食】の黒髪がざわつく。
「そうか、お前が」
緋色の瞳が燃えるように揺れた。
月の光の中で、【貪食】の姿が変化する。黒く染まった右半身は色を取り戻し、黒髪は、真珠と同じ白へ。
「お前が奪っていたんだな」
呟くような一言は、存外に静かで、落ち着いていた。
「くっ……、だから、だから何だ。名を取り戻したから無敵になったつもりか! まだ、僕が君に負ける道理はない。全部返してもらおう、人の名も、僕の芸術も!」
「そうか」
吼える【画客】の眼前で、【貪食】は珠を口へと運ぶ。そして、
「え」
噛み砕いた。
「……え?」
飴玉のように砕けた珠は、光の欠片となって霧散する。その残滓を飲み込んで、【貪食】は意地悪く笑った。
「で、何を返すって?」
「お……お前……名前、を……」
「あっはっは。人の名前は甘くてしょっぱくて美味いな。一度食べてみたかったんだ」
唇を震えさせ、【画客】はふらふらと後ずさる。
「嘘だ……自分の、名前……そんな、そんな簡単に」
「さて、これでお前の奥の手は無くなったわけだ」
「……ま、まだ、まだだ、まだ明依が」
明依へと目を向けた【画客】の頭を、【貪食】の手が貫いた。後頭部へと抜けた手の口が、何かを飲み込んで満足げに舌を出す。
ぐるん、と目が回り、【画客】はその場に倒れる。その手から、細筆が地面へと転がった。




