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第六話 神祝ぎ、【穂苅明依】

 鳥居を数歩進んだところで、顔面に冷水が飛んできた。


(けが)れを祓え無礼者」

「……客人の顔面に手水ぶっ掛ける男が何を」

「平生であれば貴様などまれびとではないわ。人の子がどうしてもと言う故仕方なしのことよ。この天神の寛大さに涙するが良い」


 腕を組んで胸を張るのは、若い男だった。飾り気のない黒の狩衣姿で、艶やかな黒髪を首の辺りでまとめている。男を取り巻くように、淡く光る梅の花びらが待っていた。


「アララギサマ」

「はーそりゃどうもありがとォ御座いますぅ!」

「顔、顔」


 由佳の後ろに立って、心底嫌そうにアララギサマは手と口を雪いだ。


「で、こんな末社に出張るとは。暇なのか、天神殿」


 賽銭箱に座り、その男ははんと鼻を鳴らした。


「暇なわけがあるか。(オレ)は今日とて人の子に大人気よ。ふふん、毎年何人の受験生が儂に願いをかけると思う?」

「知るか」

「しかしそれゆえ、儂は人の子が愛しくてな。藤原の子でなければ等しく! 儂は慈しもうとも」


 笏で由佳を差し、天神は眉間に皺を寄せた。


「故に知恵と場所を貸してやるのだ。平伏して謝辞を述べよ。熱心に参ったその娘にも同じだけ感謝するが良い怪異よ」

「……由佳には礼を言う」

「え? いえ」


 長いため息を吐いて、天神は足で社の戸を開けた。


「ほれ入れ俗物。怪異とて傷は深かろう」


 社の中は蝋燭で薄ぼんやりと明るかった。軋む床に正座し、由佳は隣のアララギサマを支える。元から顔色がいいわけではないが、今はさらに青白く、左腕は力なく垂れ下がっていた。黒く塗り潰されていなければ、由佳にもその惨状が見えただろう。天神は顔をしかめ、アララギサマの前に立つ。


「ぬしの名は【アララギサマ】でよいのだな?」

「……今は」

「よかろ。『音を紡ぎて形となし、語りを重ねて御霊となす。(カサネ)サガ、名は緒となりて、汝を現世の雫とす』」


 天神の指が、アララギサマの額に触れる。


「語る名は【アララギサマ】」


 ぱん、と、天神の指先で光が弾けた。その光を起点に、アララギサマの表面を光の輪が走る。それが床に届くと、傷はすっかり塞がっていた。


「……すごい」

みせかけ(・・・・)よ。まことに傷を治すのは時のみ。怪異の傷は人のそれとは違う。削がれた力を儂の言の葉で埋めたに過ぎん」


 二人の向かいにどっかりと腰を下ろして、天神は右手を袖の奥へと引っ込めた。


「…………」

「なんだ、今更礼が言えんか? 恥じることはない。向こう五十年は受け取ってやるとも」

「そう言われると言いたくない」


 塞がった傷を撫でて、アララギサマは吐き捨てるように言った。

 天神が左手を振ると、床の上をポットワゴンが走ってきた。ぐっ、と由佳は頬の内側を噛む。


「で? 貴様、あれだけ粘着していたくせに、あの娘を別の怪異に掠め取られたのか。馬鹿め」

「明依に粘着はしていないし掠め取られてもいない。それから」

「菓子いるか?」

「いらん!」


 饅頭を口に運んで、天神は片膝を立てる。床の上を滑ってきた茶托と茶碗を受け止めて、由佳は表情を曇らせた。


「……お茶、飲んでる場合でしょうか」

「急いても知恵は出んさ人の子。まずは腹ごしらえ。それから物事の整理をして、次の一手。詰みではないのならば長考は許されるのだよ」


 梅昆布茶の香りがふわりと立つ。由佳は暗い顔のまま、茶碗に口を当てた。


「しかし今時分、人の子が怪異になるなどな。人と怪異はもうずいぶん離れたと思ったが」


 天神の目が、アララギサマを見る。アララギサマは一度目を閉じ、細い息を吐いた。正座をして、膝の上で拳を握る。


「時間はない」

「そうさな。時間はない。だからその時間を、焦るばかりで空費してはいけない」


 空の茶碗を置き、天神は脇息によりかかる。


「あの娘は、内より出でたる怪異の種に食い破られている。悪趣味なことよ。人としての名を失わないまま、怪異になり果てるその苦痛たるや」

「怪異の……種?」


 天神に顎で示され、アララギサマは眉間の皴を深める。


「カイセンパイと名乗っていたあいつは、【画客】という怪異だ。あいつは単体では弱いんだが、絵描きの怪異で、万象を『描き出す』ことができる。……怪異談はされている。されているが……」

「弱い怪異は恐ろしくない。だから、弱みも必要ない」

「そうだ。だから……人に害をなすことに、縛りがない」


 天神に頷き返し、アララギサマは自分の髪に手を伸ばす。一筋だけ残る、白い房。そこを指先に絡めて、一度目を閉じた。


「人と怪異は離れた。その中で、明依を怪異にするために、【七つの子】という名を利用した。怪異の種を植え付けた上で明依に怪異談を繰り返させ、より怪異に近付ける」

「待ってください、種を植えるって、いつ? カイ先輩と明依は、【夕暮】の時に初めて会ったんですよ?」

「奴が『カイセンパイ』になる前だ。明依も、初めから怪異が見えていたわけではないだろう」


 しわだらけの紙を、アララギサマが由佳に差し出す。


「明依が、奴のほころびを見つけていた」


 それは、小さく折り畳まれたコピー用紙だった。開くと、二枚の名簿だと分かる。一枚は三年二組、もう一枚は、落語研究会のものだった。


「……名前……ない」

「明依に気付かれたと感付いて、強硬策に出た。すなわち、カイという人間が明依の怪談を語ることで成立する、簡易的な怪異談」

「ま、待って、手口は分かりました。でも、だとしても! 明依と私がやった怪異談は五回、カイ先輩が無理やりやったのは一回。あと一回はどこで」

「こっくりさん」


 手で狐を作り、アララギサマはその鼻先を由佳に向けた。


「あれ、明依の怪談だろう」

「……あ……」

「なるほどな。……ま、怪異談も今の世の人には難しかろう。あの娘やら絵描きの怪異やらがいるから成立していたようなものだ。逆に言ってしまえば、あの絵描きの怪異がいた故、ただの怪談語りも怪異談にされた、と」

「明依が選ばれたのは……まあ、素質があったんだろう。怪異に一度触れただけで天眼になる奴だ」


 うんうん、と天神は頷く。由佳は視線を落としたまま、かたかたと震えた。短く震える息を吐いて、それから唇を引き結ぶ。泣くか、とアララギサマが身構えた。

 だが、次の瞬間響いたのは、床に紙が叩き付けられる音だった。


「許さない」

「……由佳?」

「全部、怪異の勝手じゃないですか。目的なんか知りませんけど、明依が狙われる理由なんてないでしょ!?」

「お、おう」

「だったら怪異のことは怪異のことで終わらせればいいのに、なんでっ……、ああもう、明依がここにいたらアララギサマ壁にめり込んでるんだからね!」

「……うん」


 腰を浮かせて憤る由佳に、アララギサマは何とか返事をする。由佳は「うんじゃない!」と怒鳴りつけた。


「まあま、ほら、怒ってもしょうがないぞ人の子」

「今私が怒らなくていつ怒るんですか、こっちは親友が大変なことになってるんですよ! 神様からしたら他人事かもしれないけど!」

「分かった分かった、うむ、分かったから落ち着きなさい」


 由佳を座らせて、天神は姿勢を正す。脇息をどけると、天神は空だった茶碗に茶を注いだ。


「では、うん、人の子も事態を理解したところで、次の一手を授けよう」


 むっと唇を曲げながらも、由佳は座り直す。たっぷり三つ数えてから、「では」と天神は茶碗を突き出す。


「言ったように、今あの娘は、人でありながら怪異である。これは、人と怪異の在り方の違いによる」


 天神が笏で触れると、茶碗の茶は揺らぎ、やがて赤黒く濁る。


「怪異にとっての名は在り方、命そのものだ。そこのが【アララギサマ】と名乗れば【アララギサマ】であるように。いわばこの茶。しかし人の名というのは、器だ。命が外に零れないようにするための」


 天神が笏を持ち上げると、赤黒い茶は、水の塊として空中に浮きあがった。


「これが怪異。如何様にもうつろう形のない命。怪異談は、霧のようなこ奴らを一つのかたまりにしておく、見えざる器だと思えばいい。人とて本当に名を失えば怪異となる。だがあの娘は」


 笏の動きに従って、茶が茶碗に戻る。かたりと揺れた茶碗からこぼれた茶が、茶托へと伝った。


「こうだ。人の名を持っているゆえ、まだ怪異になり切らない」

「じゃああの怪異は、その、人の名前を取るつもりですか」


 天神がアララギサマを見る。アララギサマは指先を唇に当て、首を横に振った。


「今は難しいだろう。今明依の名を奪えば明依はウツロとなり、【画客】が望んだ怪異にはならない。怪異は怪異談をすることができないからな」


 由佳は怪訝な顔になり、アララギサマを見上げる。【画客】――カイは単身、怪異談を成功させた。だからこそ明依は【七つの子】となり、今こうして頭を悩ませている。

 そもそも、カイがアララギサマを『人間の幽霊だ』と語ったから、アララギサマは無力化されたのではないか。


「あれはカイセンパイ……人間の皮を被っていたからだ」


 由佳の疑問に答えるように、アララギサマは頷いて顔をしかめる。


「奴は昔人の名を奪ったことがある。その名をこねくり回して作ったのが『カイ』という生きた人間の皮。明依が引っぺがした」


 つまり、とアララギサマは茶碗を取る。


「明依が、可能性を繋いでいる。だから由佳、明依のために怪異談をしろ」

「は……えっ、私、ですか!?」

「明依の名前を護るんだ。【穂苅明依】の怪異談で、明依の中身を【七つの子】から挿げ替える」

「そうだな。あの娘が【七つの子】に飲まれてしまう前に。それがいい」

「で、でも。怪異談は書き手と語り手が欲しくて……あ、アララギサマ今人間ですよね! 幽霊だけど、怪異談、できません?」

「できません。人のふり程度ならできるが、カイのように怪異談を成功させられるほど器用じゃない」


 アララギサマは片膝を立て、そこに左腕を乗せる。傷を塞がれた腕には、木の枝が這ったような跡が刻まれていた。


「だが……。ああそうだ、人のふりでもできることはある。何とか時間を稼ごう。由佳はその間に、【穂苅明依】の怪異談を終わらせろ」


 由佳を見ると、その瞳は揺れていた。怒りはまだ残っている。だが、不安と恐怖も確かに浮かんでいた。アララギサマは目を細め、ゆっくりと頷いて見せる。


「穂苅明依のことを一番よく知っているのはお前だろう、親友」

「……!」


 膝の上で、由佳は手を握った。天神は腕を組み、アララギサマに目を向ける。


「ふむ。あの娘の心を留め置くのはそれでよかろう。だが怪異は怪異」


 天神は笏で湯呑を指す。


「人の()に怪異が入っていることには変わりあるまい。どうやって追い出す」

「……では」


 アララギサマは持っていた湯呑に口をつけ、中身を一気に飲み下す。そして空になった器を茶托に戻し、にぃ、と口元を笑わせた。


「これでどうだ?」




 重たい足を引きずり、夜の路地を歩く。


「……やられたなあ……痛かったなあ」


 薄い笑みを浮かべながら、【画客】はブロック塀に肩を当てた。


「夥を破られちゃったよ……ふふ……いい怪異だなあ。早く名前をあげないと……由佳を使うか……ふ、ふはは、楽しくなってきたよ、何年ぶりだろう」


 月明かりの下に、その姿が現れる。短い黒髪と尖った耳、青みがかった緑の服。派手な腰帯と連なった墨壺、装飾の多い足元は唐服にも似ている。


「ああ、もう少し……もうひと頑張り、きっと……きっと素晴らしい怪異になる。そしたら」


 握りしめた手の中に、筆が現れる。それを月にかざして、【画客】は目を細めた。

 恍惚。その言葉がよく似合う表情だった。面倒見のいいカイ先輩(にんげん)を演じる必要はもうない。怪異として思うまま、目的へと突き進むだけだ。

 月からゆっくりと視線を落とす。住宅街の、狭い道。街灯が円錐に照らす場所に、青年が立っていた。


「やあアララギサマ。諦めが悪いね」

「………………」

「君はアララギサマだから、どうしても彼女を助けなきゃいけないんだろうけれど……ああそうだ、君は喰うことはできても、吐くことはできないんだっけ。可哀想に」

「……【画客】」


 ぱん、と両手を合わせ、アララギサマは視線を落とす。


「人間を侮ると、足元をすくわれるぞ」

「……へえ?」

「それでは語ってやりましょう。奇妙な優男の怪異談を」


 アララギサマはすっと背筋を伸ばした。【画客】は変わらず、道を挟んだ向かいからそれを見ている。


「それは、夢か幻か。いるはずのない影、いたはずの影。名は知らず、顔も知らず。しかし確かに在ったと言う」

(カイ)の怪異談? ふぅん……浅知恵の極みだけど、君にしては考えたんじゃない? 不可能だということさえ除けば、一発逆転の最高の手だ」


 煽りを意に介さず、アララギサマは語り続ける。【画客】はアララギサマに近付くと、光の輪の外側からアララギサマを見下ろした。氷のように冷えた瞳が、嗤う。


「人間ごとき(・・・)が、僕を意のままにしようなんて」


 手を一振り。右手の甲が、アララギサマの頬を打った。言葉を途切れさせ、アララギサマはよろめく。


「思い上がるなよ」

「……、男は」


 舌打ちを一つ、【画客】は墨壺を取った。アララギサマの襟首をつかみ、自分に引き寄せる。


「気が変わった」


 墨壺の蓋を指で弾いて、【画客】はアララギサマを塀に押し付ける。アララギサマは片手で【画客】の腕をつかむが、顔は苦し気に歪められ、指先は【画客】の手首を引っ掻くばかりだ。


「色々とお目こぼししてあげていたけど、もうダメだね。人間の真似をやめないなら、君をまず塗りつぶすことから始めよう」

「――男は、企みが知れたと見るや身を翻し、迫ります」


 アララギサマの空いた手が、【画客】の襟をつかんだ。「そうか」と【画客】は、目元へと突き出した墨壺を傾ける。

 黒い、黒い墨が流れ落ちる。それはアララギサマの瞼に落ち、目から頬へと伝う。まるで黒い涙のようだった。


「……?」


 なおも、アララギサマは小声で怪談を続けている。だが、その唇はもう動いていない。【画客】が怪訝な顔になると、にわかにアララギサマの手に力がこもった。


「おいでやおいで沼の底」


 くぐもった声が【画客】の耳を這う。前髪の間から、真珠色に光る目が覗いた。


「とわの安息、まどろみの場所」


 アララギサマが舌を出す。その舌の上で、もう一つの口が笑っていた。


「あばよ」


 ぐにゃり、と【画客】の視界が歪んだ。一瞬、足元が傾いたように錯覚する。その隙に、アララギサマの姿をしたそれは、【画客】をぐいと引いた。

 景色が歪む。光の輪に向かって、引きずり込まれるように。さながら蟻地獄のようだった。抵抗しようと腕を引けば足が滑り、足を引けば腕を飲まれる。


「【巣籠】っ……!」


 墨壺を放り出し、【画客】は自分の襟をつかむ。すり鉢状に歪んだアスファルトは、既に【画客】の足首までを飲み込んでいた。白い手は【画客】の左手首と襟をつかんだまま、その中に沈んでいく。

 【画客】は右手を振り、袖の中から細筆を取り出す。筆先で自分の襟をなぞると、なぞった部分からほつれるように襟が破れた。一瞬の躊躇の後、【画客】は左手の肘から先も同様に切り捨てる。

 沈み込む地面から足を引き抜く。と、円錐になっていた地面は水面のように揺れたかと思うと、また元のアスファルト舗装へと戻った。切り離した腕を墨で補い、【画客】は視線を巡らせる。

 橙色の光が、ざっと道を照らした。舌打ちを一つ、【画客】は立ち上がると同時に筆を振った。一振りで身の丈ほどまで巨大化した筆は、黒い線を空中に描く。


「【夕暮】か。意趣返しのつもりか【貪食】」


 黒い線は、景色を両断していた。真っ直ぐに続いているように見える道は書き割りで、【夕暮】が見せる幻覚に過ぎない。

 筆を槍のように下段に構え、【画客】は視線を巡らせる。【貪食】は必ず、近くにいるはずだ。

 虚空から、トラバサミが襲い来る。それを筆で叩き落し、墨で薄い膜を張る。次の瞬間、膜を食い破ろうと不可視の牙が喰い付いてきた。


「【狩】」


 間髪入れずに、耳を劈くような悲鳴が空気を揺らす。それは無数の棘となって【画客】に襲い掛かった。


「【喘鳴】」


 棘を墨でいなした【画客】に、背後から獣が迫る。尖った耳と長い鼻。黒い犬のようなそれは、真っ赤な口を開いて【画客】の首元に喰らい付く。


「【こっくりさん】」


 だが、次の瞬間には【画客】の姿は崩れ、びしゃりと地面に広がった。地面に激突した獣はそのまま霧散する。


「借りものばかりで節操がないな」


 ブロック塀の上に立ち、【画客】は虚空を見上げる。


「君が挑めよ【貪食】! そんなに僕が怖いのかい? ああそうか、君は今【人間の幽霊(アララギサマ)】なんだっけね。ならばなおさら! 大人しく僕に屈するがいいさ、流石の僕も怒るけれどね!」


 苛立ちに顔が歪む。筆を振り下ろした一撃が、風景に亀裂を入れた。蹴りでその景色を突き破り、【画客】は夜の路地に戻る。散った風景は、風に飛ばされて塵となった。


「【アララギサマ】は優しいから」


 勢いあまって前のめりになった【画客】の背に、声がかかる。振り向けば、街灯に半身隠れるようにして、アララギサマが立っていた。


「助けてと言われれば、助けるまでは離れない」


 その手には、一振りの太刀が握られている。


「だから助ける。どんな手を使ってでも」


 赤銅色の瞳が、ぎらりと光った。太刀の切っ先は地面を滑り、からからと音を立てる。腰を落としたまま走り出し、アララギサマは勢いに任せて刀を振り上げた。【画客】が墨から作り出した刃が、それを受け止める。ち、と舌打ちが漏れた。稚拙な攻撃であっても、届いてしまえば【画客】には脅威だ。


「僕に構って、彼女を放っておいていいのかい」

「俺はお前と違って人望があるんだ」

「あっはっは、言うね。君の人望じゃないだろう」


 墨の刃は鞭のように変化し、刀を絡めとる。アララギサマは刀から手を離すと、退いて両掌を重ねた。


「明依」


 囁くように、祈るように。


「俺はここにいる」


 アララギサマから奪った刀を放り出し、【画客】がアララギサマに手を伸ばす。距離にすれば街灯一つ分。時間にすれば二秒足らず。使える武器を使い尽くしたアララギサマと、対してほぼ無傷の【画客】。あと一歩で勝敗は決する。勝利を確信し、【画客】は口の端を緩めた。


 柏手の音が、暗闇の向こうから響いた。


 目が醒めるような破裂音。はっと息が吸い込まれ、【画客】は足を止めた。

 そして気付く。自分の眼前に、長い爪が突きつけられていたことに。


「明依」


 穏やかなアララギサマの声に従って、爪が下がる。

 その怪異は、髪の翼でアララギサマを包み、その背後に張り付いていた。【画客】に向けた手は伸ばしたまま、もう片方の腕をアララギサマの首に回している。


「人に呼ばれると、分かるものなんですね」


 金色の瞳を細め、怪異は翼を下ろした。数歩下がって、【画客】は顔を苦々しく歪める。その青い瞳には、月を背負った少女が映っていた。


「ありがとう」


 アララギサマにそう囁いて、怪異の少女は薄く笑った。

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