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第五話 怪異【七つの子】

 初めの違和感はどこだったか。

 自分が見聞きしたものを怪異と断じたときか。それとも、聞いたこともない怪異談にやたらと詳しかったことか。或いは、アララギサマが露骨に嫌悪を見せていたときか。

 落としたスマートフォンを拾うのも忘れて、明依は壇上のカイを凝視していた。

 初めにアララギサマと会った日。由佳から聞いた怪談と、寸分たがわない姿でアララギサマは現れた。だからこそ自分は助かった。怪談として、アララギサマを知っていたから。


(でも、それはおかしい)


 明依が見ているアララギサマは、アララギサマの姿を(・・・・・・・・・)していないはずなのだ(・・・・・・・・・・)


(少なくとも……掌に口、なんてところまで一致するわけがない)


 怪異に近付いた明依には、死角に潜むものが見える。そのただ中にあって、カイはやはり姿かたちは変わらず人間のままだった。

 だが、違う。他の生徒達が薄暗い怪異の靄の向こうに霞んだにも関わらず、カイは、その場所だけ日が当たっているかのようにハッキリとした姿を保っている。

 すぅ、とカイの視線が滑り、明依を捕えた。その瞳の色は、海の青。


(怪異だ)


 そう確信して、明依はスマートフォンを拾いながら身を屈めた。


(カイ先輩……、やっぱり気のせいじゃなかったんだ、あの絵描きの怪異が……でも……)


 絵描きの怪異は忠告をした。

 アララギサマはそれに反論をした。絵描きの怪異は、記憶を塗り替えるのだと。


(……どこまで信じるか)


 それは、自分にしか決められないことだ。

 明依は由佳にメッセージを送り、そっと視聴覚室を出た。

 階段を降りると、踊り場にアララギサマが立っていた。


「聞かないんですか。自分の怪談」

「はん。俺のじゃないことを知ってるくせに」


 明依が階段を降りると、アララギサマもついてくる。そういえば、報酬のアイスをまだ払っていなかった。


「そういえば」

「静かに」


 振り返ると、アララギサマの指が明依の唇に当たった。


「外まで」


 そう言われて、明依は頷く。アララギサマが有無を言わせないときは、何か理由がある。 アララギサマに指差されるまま、昇降口から校門へ。学校の塀沿いにしばらく進んでから、アララギサマが別の道を指差した。その先には、いつか由佳と一緒に行った、天神の社がある。

 石鳥井の前でアララギサマを待たせ、明依はアイスを買いに行ってくると財布を取り出した。だが、アララギサマがその手首をつかんで引き留める。


「ここにいろ」

「……何です? ここに何か」

「カミがいる」


 鳥居に寄り掛かって、アララギサマは社を指差した。

「ここは参道。神域だ。【画客】の眼も届くまい。奴は今、人間のふりにも忙しいだろうから」

「……やっぱり、カイ先輩が」

「そうだ。言っただろう。本当に恐ろしい怪異は、気付かないんだ。手遅れになるその刹那まで」


 思えば、アララギサマの警告ははっきりとしていた。カイに近付くな。怪異と目を合わせるな。だがカイはといえば、怪異談を教え、手順を教え、怪異をよく見ろと言い。カイが怪異だと分かってしまえば、何のための誘導だったのかがよく分かる。


「それで、アララギサマ」


 アララギサマが明依の傍によくいたのは、そして小さなウツロを喰い荒らしていたのは、カイからの干渉を防いでいたのだろうか。明依はアララギサマを見上げ、そっぽを向いたその横顔に目を細めた。


「何を話してくれるんです?」

「俺の怪異談のことを」


 赤銅色の瞳が、何かを懐かしむように細められる。


「ほんとうの、怪異談のことを」


 生ぬるい風が、明依の頬を撫でていった。



 語り、語られ。口伝(くちづて)の言の葉が重なり、時に捻じれ、時に枝葉が増え。そうして、見えないもの、理解できないものに、人はこうだと名をつけた。お前の名はこうだ、これこれこういういきものだ、と。

 語るが先か、在るが先か。古い怪異に問えば、皆一様に目を細める。そして、言うのだ。

 かつて、人と怪異はおなじであったと。天地の境で、人があり、怪異がある。それは葉の表と裏のようなもので、人のないところに怪異があり、怪異がないところに人がいた。

 それがいつしか人が増え、怪異は人の邪魔ものになった。

 人と怪異が分かれた最大の理由が、怪異談――言葉で怪異を縛る、人の業だった。


「怪異談は、人と怪異に上下をつける。対等であり、干渉せず、近からず遠からずでいた人と怪異を、名付け、支配するものと、名付けられ、調伏されるものに」


 人は怪異に敵わない。それが絶対であった。だが、怪異談によってその立場は変わった。死角に潜んでいた怪異は日の元に引きずり出され、名という首枷と、噺という轡をはめられる。怪談、物語として記録されることで、怪異に決まった姿という枠をはめるのだ。


「怪異談に語り手と書き手が必要というのは、間違いではないが」


 アララギサマは、とん、と明依のスマートフォンに触れた。


「本当に大事なのは声と、記録だ。口伝ではない記録。文字。お前達も、まさか頭の中にあるものをそのまま伝えて覚えはしなかったろう」

「……なるほど……え、じゃあ、その、書き手と語り手が同じ場所にいなくっても成立するんですか?」

「しようと思えば、する。二人以上、というのは、死角をなくすためだ。怪異が逃げ込む隙をなくす。三人でも四人でもいい。……無茶を言うのであれば、俺のような怪異を殺せる奴が外で待っていて、輪の中で一人で語るのでも、成立しうる」

「……ざっ」

「雑把とか言うなよ」


 きゅっ、と唇を閉じて、「やだなあ」と明依は笑って見せる。


「でもどうして今更になって教えてくれたんですか?」

「……だから、【アララギサマ】は」

「あなたは【アララギサマ】じゃないでしょ? バレたのに、ふりを続けるんです?」

「…………ああそうさな。言っておこう。俺は、人を救えない怪異だ」


 掌を見下ろして、アララギサマはひとつ、長い瞬きをする。


「俺の怪異談。そこに、人と触れること能わずとある。俺は……俺という怪異は、【アララギサマ】でなければこうして、お前と話すこともできない」

「………………」


 見上げた顔は大人びているが、目を凝らせば、そこには明依よりも幼い少年がいる。これがアララギサマと名乗る彼の、本当の姿なのか。怪異と言うにはあまりに人間に近い姿だ。


「……あと一回」


 目を閉じて、明依はスマートフォンへ視線を落とした。スペシャルトークショーが終わったらしく、由佳からメッセージが届いている。


「あと一回なら、怪異談ができるはずです。だから、その」

「余計な世話を焼くな」

「でも」


 ならば何故、アララギサマはアララギサマであろうとするのか。それは、人に触れられないのが不都合だからだろう。


「……あなたは多分、優しいから」


 アララギサマと名乗る彼が、奥底で何を思うのか。言葉足らずでも、何かを隠していても、三週間も傍にいれば表情が読めるようになる。


「私だって、何かしたいって思うんです」

「そうか。……じゃあ全て終わったら、ぴかぴかの白い米でももらおうか」

「食いしん坊」


 はっ、と笑い声を漏らして、アララギサマは明依を見下ろした。

 下を向いた明依の髪は、夕日をさらりと映している。濡れたような黒髪。短くしているのが勿体ないほどだが、運動をするときにはこの長さでも邪魔だろう。

 数えるのもやめたほどの昔に、こんな髪の女を見た。目を細めて記憶を辿っても、墨に塗りつぶされたように、その顔も声も思い出せない。見上げていたあの女は、自分の何だったのか。それは数少ない、彼の――【貪食】の、怪異としてではない記憶だった。


「……あれ、でも」


 明依が顔を上げ、アララギサマは懐旧から目を覚ます。


「私が怪異談をあと二回しなければ、怪異にはなりませんよね? これって解決じゃないですか?」

「解決じゃないです。天眼どころか怪異の眼を持ったお前が人間でたまるか。それに俺は」


 ぱん、と。

 渇いた柏手の音が、二人の会話に割り込んだ。


「やあや、お揃いで、どんな内緒話だい?」

 長い影が、道に伸びている。それを辿って振り向けば、由佳とカイが立っていた。

「……カイ先輩」

「君は顔に出るね、明依さん。目が合ったとたんに逃げ出すなんて、気付いたと言わんばかりじゃないか」


 由佳はぼんやりとした表情で、眼鏡の奥の目は焦点が合っていない。その肩をつかんで支え、カイは由佳の首に筆を押し付けていた。


「聞こうじゃないか。僕は、どこでしくじった?」

「……最初に変だなって思ったのは……多分、【夕暮】の怪異談のときです」


 語りを由佳に任せたのは、由佳が希望してのことだろう。だが怪異談をよく知っているカイならば、その危険性も知っていたはずなのだ。


「由佳に語りをさせたのは……カイ先輩が、怪異だからですよね」

「あはは! そうか、ちょっと強引だったか」

「それから、アララギサマが見えないはずなのに、アララギサマがわざわざ隠れてたから」

「それから?」

「その……、二つ目の怪異は、カイ先輩からの連絡で接触しましたし」


 由佳を見て、その虚ろな瞳に焦燥がつのる。カイはもしや、人間を操れるのだろうか。だとすれば、由佳を【巣籠】のいる部屋に行かせたのは間違いなく。


「で、君は」


 筆の先端をくるりと一周させて、カイは笑みを深めた。


「怪異談をさせたアララギサマよりも僕は、信じられなかった、と」

「だって」


 まっすぐに、カイの目を見返す。吸い込まれそうな瞳は、その奥底に闇が凝っている。


「アララギサマは、嘘はつきません」

「……へえ」


 カイはアララギサマを見て、もう一度明依を見る。


「妬けちゃうね。親切にしてあげた僕より、傍に突っ立ってるだけの男を選ぶなんて」

「危険に引き込んだひとより、助けてくれたひとを信じるのは当然じゃないですか」

「そうかそうか。君はもうそちら側、と。じゃあ」


 カイが由佳の背を押した。由佳はつんのめって、明依に支えられる。カイは踵を返したかと思うと、そのまま走り出した。


「逃げっ……」

「ここにいろ!」


 すぐさま、アララギサマが後を追う。二人の怪異の姿は、あっという間に角を折れて見えなくなった。二つの影がすっかり見えなくなってから、明依はその場にへたり込む。ぶるりと体が震え、怖かったのだと自覚した。


「……由佳」


 首に触れると温かく、顔色も良かった。ただ眠っているようだ。筆が触れていた部分にも、何か跡があるわけではない。安堵の息を吐いて、明依は由佳を座らせる。


「――こちらへ」


 涼やかな声が降ってきた。明依は顔を上げ、目を瞬かせる。


「中に入れなさい」


 鳥居の向こう側、石の参道の中心に、影が立っていた。



 総じて、強力な力を持つ怪異はその代償として、いくらかの縛りを課されていることが多い。アララギサマ――【貪食】もそれは例外ではなく、全てを咀嚼し、食い破る【貪食】は、それゆえに『人と触れること能わず』と怪異談に記されている。

 では反対に、強力ではない怪異はどうか。

 怪異談は結局のところ、人間にとって脅威である怪異へのカウンターだ。脅威でなければ見向きもされず、縛りも緩い。

 それが、カイ――【画客】の一番の強みであった。


「怪異談なんて所詮、人の浅知恵」


 電話ボックスの上にしゃがみ、カイは目を細める。


「人は怪異に敵わない」


 見下ろした地面には、黒い水たまりがあった。その上に、アララギサマが倒れ伏している。投げ出された手の上を、黒い痣が這いまわっていた。


「酷いじゃないか。僕のようなか弱い男を、あんな怖い顔で追い回して」

「が……」

「聞こえないね。もうしばらく黙っていてくれると嬉しいな。うんうん、それでいい」


 カイは地面に降りると、しゅっ、と自分を囲むように輪を書いた。筆を虚空へ放り投げて、勝ち誇るようにアララギサマを見下ろす。


「頑張ったって無駄無駄。僕が夥(カイ)である理由を真面目に考えたかな? ただ僕が人間ごっこを楽しんでいるだけだって?」


 墨色の水たまりから顔を上げて、アララギサマの目がカイを睨む。


「君は【アララギサマ】を喰ってアララギサマになった。そうまでして人に近付きたかったとは驚きだ。しかしまあ、反抗期は親の楽しみでもあるからね。寛大な僕はそう思っていたのだけれどね」


 意地の悪い笑みに顔を歪め、カイは両手を合わせた。


「灸をすえるのも務め。ではそこで、無力にうち震えながら聞くがいい。彼女のための、最後の怪異談を」


 逢魔が時。道にカイの他に人影はない。長く伸びる影はアララギサマに覆いかぶさり、地面に磔にされたまま、アララギサマは呻く。


「――それでは語ってあげましょう。人気のない夜道。街灯すらぽつらぽつらとしかない道に、煌々と光る場所が一つ。吸い寄せられるように近付くと、それは古ぼけた公衆電話」


 円の中で一人、カイは語り出す。


「携帯電話全盛期の今時分、もうずいぶん使われていないのだろう、扉に蜘蛛の巣が張っていた。男は吸い寄せられるように、電話ボックスの扉を開く。きぃ、きぃと金具が耳障りな音を立てた。扉が閉まったところで、ふ、と男は首を傾げる。何故、と」


 アララギサマの腕が、持ち上げられる。絡みつく綱を引きちぎり、自らの肉を削ぎながら。這いまわる痣は皮膚を突き破り、地面に腕を引き戻そうとする。


「が、あ、ああ」


 指先がアスファルトをつかむ。だが、その掌には口がない。瞳はこげ茶色、瘦せこけた身体は、起き上がることもできずにのたうつだけだ。

 まるで生きた牢獄に喰らい付かれているかのようだった。力尽きれば、指先すら動かせなくなる。全身を無数の針が貫いたような痛みが、常にアララギサマを責め立てる。腕を上げる、ただそれだけに、どれほど力が削がれることか。

 それでも。アララギサマは拳を握り、地面を打つ。骨が軋む胴を起こし、なおも自分を縛ろうとする黒い縄を引きちぎって。


「お……れ、は」


 顔を上げる。今度こそ真っ直ぐに、カイを睨みつける。カイは眉一つ動かさず、つらつらと怪談を語っていた。


「俺は、【アララギサマ】だ!」


 人を助ける怪異。そんなものが生まれる理由など一つしかない。


 誰かが、願ったからだ。


「そうだね」


 囁くように返して、カイは、ぱん、と手を打った。


「だから君の負けなんだ」


 ゆらり、とカイの背後に黒い影が立つ。カイの足元の輪は消え、カイは満足げに振り返った。

 明依が、そこに立っていた。

 否、一見すればそれは明依ではない。短い黒髪も、ころころと変わる表情も、血色のいい頬も喪われている。だが、それは確かに明依だった。

 長い、長い髪が地面まで伸びている。夜の闇よりもまだ濃い漆黒。肩から下の髪は広がり、鳥の羽が飛び出していた。

 倒れるように一歩、カイに近付く。髪の陰から鴉が飛び出し、ギャアッ、と耳障りに鳴いた。生ぬるかった風が、にわかに凍てつく。明依が踏んだ場所から、地面を赤黒い氷が覆っていった。ぱきりぱきりと氷が鳴る。明依の口から、白い息が漏れた。


「いい姿だよ、【七つの子】」


 満足げに、カイは筆を取り出す。


「さあ、傅いて父にその顔をよく見せておくれ。名をあげよう」

「明依!」


 アララギサマの叫びに、明依の顔が上がる。瞳は金色の光を帯び、顔は仮面のように表情がない。


「明依」


 軋む体を引きずって、アララギサマは声を絞り出す。明依は一度、長い瞬きをして。


「――キヒッ」


 笑った。


 ぞわり。カイの背が粟立つ。明依が発したのはたった一言。意味を成してもいない、ただ口の間から漏れ出ただけの声。

 それに確かに、自分は恐怖した。その事実に、カイは苦笑う。


「僕も人間に近付いたものだ」


 カイの横を、冷たい風が吹き抜ける。それにカイが気付いた瞬間には、口に明依の手がねじ込まれていた。黒い鱗が生え、赤い爪を持った手が、カイの口から喉を貫く。

 悲鳴は出なかった。声になろうとした息は、ごぼりと血を泡立てて終わる。そのままカイを地面に叩き付けて、明依はアララギサマを見下ろす。びしゃりと飛んだカイの鮮血が、アララギサマの足元まで届いた。

 拘束が解け、アララギサマは腕を押さえて立ち上がる。


「明依」


 口を笑わせながら、明依は震えていた。かち、かちと尖った牙が鳴る。


「明依、怪異のサガに飲まれるな」


 ぺたりと、アララギサマの手が明依の頬に触れる。口のない掌は、冷たい明依の頬を撫で、自分へと向かせた。


「お前は強い。俺のようになるな」

「……ア、ああ」

「大丈夫、まだ助か」

「アァアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 腕を一振り。アララギサマは頬に一撃を受け、ブロック塀に叩き付けられる。


「がっ……」


 明依は両手でガリガリと頭を引っ掻き、首を激しく振る。そのたびに、振り回された髪から黒い羽が落ちた。


「アアアア、ウアアアアアアア――――ッ!」


 悲鳴のような、咆哮のような。撒き散らされた羽はアスファルトの上で黒い塵となる。


「アララギサマ!」


 割り込んだ声に、何とかアララギサマは顔を上げる。由佳が、必死の形相で走ってきていた。


「ゆ……」

「立って! 走れますか、走れますね!」


 明依の横を駆け抜けて、由佳はアララギサマの手首をつかむ。軽い体は簡単に地面から引き剥がされた。走ってきたそのままの勢いで、由佳はアララギサマを引き摺って逃げる。明依は地面に膝をつき、額をアスファルトに叩き付けた。その喉からは、獣のような唸り声が漏れている。


「ま、待て、待て! 駄目だ、今」

「ダメです! アララギサマ、聞いてなかったから分からないでしょうけど!」


 伸ばした掌ごしに、明依がこちらを見ていた。


「あなた今、人間なんですよ!」


 透ける指先は、怪異のものではない。アララギサマは奥歯を鳴らし、拳を握った。


「っ……【画客】っ! ……、……!」


 苛立ちとともに吐き出して、アララギサマは踵を返す。


「どこに!」

「天神様のところにっ……とわあっ!?」


 顔をしかめたまま、アララギサマは由佳の腰をつかみ、小脇に抱える。ぐん、と速度を増して、アララギサマは走り出した。あっという間に明依との距離は離れ、やがて角の向こうへと消える。


 明依は二人を追うでもなく、地面にうずくまっていた。地面に広がる薄氷が、瞬き始めた星を映す。その氷を、指先が削った。

 やがて、垂れ下がっていた黒髪はその形を変える。首を境に左右に分かれ、体を覆うほどの翼へ。上体を起こして翼を広げると、その幅は道を塞ぐほどだった。両手で顔を覆い、明依は大きく一度、翼を上下させる。

 突風が、明依を中心に吹き上がった。電線を、軒先の木々が揺れ、硝子窓がガタガタと鳴る。明依は風と共に飛び上がると、電柱の上に着地した。

 嵐のような風に、何事かと老人が顔を出す。見上げた宵の空に、群れた鴉が飛んでいた。

妙に冷たい風が吹いている。

 突風にあおられたのか、男子学生が膝を撫でながら自転車を押していた。その学生が家の前を通り過ぎると、老人も顔を引っ込めて窓を閉める。

 男子学生は、電話ボックスの前で足を止めた。


「穂苅ー! ……おっかしいな、確かにいたのに」


 明依のパスケースを持って、男子学生はきょろきょろとあたりを見回した。


「穂苅ーっ! いいんちょー! 風で吹っ飛んでないよなー!」


 自転車に跨り、男子学生が去っていく。それを見下ろして、明依は大きく翼を広げた。

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