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第三話 怪異【巣籠】

 それは、空き部屋に棲む。

 欠けた窓ガラス、くすんだ日の光。埃とカビの中で、膝を抱えて待っている。

 もし見かけても、決して近付いてはならない。それは、いつでも同胞(はらから)を求めている。



 蝉時雨を浴びながら食べるアイスは、夏の味がする。


「暑くないんですか?」

「暑い」


 ガードレールに軽く寄り掛かって、明依はアイスの容器を咥えていた。その隣ではアララギサマが、ガードレールにしゃがんでいる。手には明依と同じアイスの容器があった。


「明依もこっち来ればいいのに。涼しいよ」


 由佳が、石鳥井の向こう側から呼んだ。二人はそろって首を横に振る。

 高校から駅に行く道中には、小さな神社がある。住宅街の隙間にぽつんと残されたような、古い天神の社だ。鳥居の向こうは手水所と本殿、それに続く石畳があるばかりで、それ以外の場所はほとんど手入れがされていない。生い茂る木々で、真昼でも薄暗い場所だった。それでも管理している人間はいるのか、敷地の隅には倉庫があり、その横に手押しの一輪車が立てかけられていた。

 参拝を終え、由佳は鳥居をくぐる。頬を伝った汗をぬぐい、明依は預かっていたペットボトルを差し出した。


「明依、お参り嫌いだっけ?」

「見えないものは信じないタチなの。天神様に頭下げるより、机に向かって頭下げてた方が受験では強いでしょ」


 アララギサマは自分と明依を指差し、由佳を見た。


「そう言う割には、見えないアララギサマと馴染んでるじゃん」

「私には見えるからね」


 明依が差し出した缶ジュースは、ぱっと空中で姿を消す。由佳には見えないが、そこにアララギサマがいるのだろう。


「いいなあ見えて……怪異と神様って似てるんじゃなかったっけ。見えないの? 天神様」

「こんな末社に毎度顔を出すわけがないだろう」

「こんな末社にいつもいるわけないってさ」

「ふうん。そんなもんなんだね」


 ペットボトルを空にして、由佳は軽く顔を扇いだ。

 並んで歩く明依と由佳の後ろで、アララギサマは缶ジュースのプルタブを引っ掻いていた。その足元には影がなく、足音こそするが、着物の衣擦れは聞こえない。


「ねえ、明依」


 由佳は明依の耳に口を寄せた。


「アララギサマって、どんなビジュアル?」

「……えーっと」


 明依はちらりとアララギサマを見る。プルタブが開けられなかったのか、缶ジュースの上半分が無残な姿になっていた。


「身長はカイ先輩と同じくらい……あ、でもちょっと猫背だからもう少し大きいかな? すっごく痩せてる。髪の毛はこう、ぼさーっとしてて……」


 説明をしながら、ふと思い出したように明依は由佳に問いかける。


「そういえば、アララギサマの怪談って、結構新しいの?」

「え? あー……うーん。でも、怪談よりは都市伝説って感じしない? 電話使ってるし」

「ふうん……着物だし、昔からいる怪異なのかなって思ったんだけど……怪異談されたことあるって聞いたし」

「カイ先輩みたいな人がいたんじゃない? 怪異談自体は簡単だったしさ」


 空き缶を噛み千切り、アララギサマはずかずかと二人に近付いた。


「違う」


 アララギサマが、由佳の背を軽く押す。由佳は首を傾げて振り返り――目を丸くした。


「都市伝説なんて若いやつらに、こんな芸当ができるか」

「……由佳?」

「見える!」


 拳を握り、由佳は顔を輝かせた。ふん、とアララギサマは胸を張る。


「うわー! 身長高い! 怪談のイメージそのまま! 白メッシュかっこいー!」

「悪くない気分だな」

「あ、掌! 本当に口がある! わー、わーっ! ちょ、ちょっと触っていいですか?」


 落ち着け、と明依は由佳の両肩に手を乗せた。


「嬉しいのは分かったから」

「だってだって! 芸能人が目の前にいるようなものじゃん、テンション上がらない方がおかしいって!」

「ちょっとは怖がれっての!」

「明依が怖がらないものを、私が怖がる必要ないじゃんねー」

「ねー」

「アララギサマも悪ノリしないで!」


 飛び跳ねる由佳を押さえつけて、明依はアララギサマを見上げた。


「何だその顔」

「いーえ」

「美味い怪異を作ったのはこの娘のおかげもあるだろう? 料理人には敬意を払って機嫌をとらなければ」


 由佳はアララギサマの掌を揉みながら、開閉する口のまわりに指先を触れさせている。


「あんまり見るなって言ったのに……」

「多少なり見えた方が怪異談にも力が入るだろう」

「もうやりませんよ、あんなこと」


 明依が言うと、由佳が不満げな声を上げた。


「由佳だって怖がってたくせに」

「それは何も見えなかったから。アララギサマが見えてたら怖くないもんね」


 由佳が見上げると、アララギサマはふふんと得意げな顔になった。


「語り手が言うなら、二人まとめて守るのもやぶさかでない」

「ほら」

「ほらじゃない。人を脅かすような怪異がそうそういちゃたまらないよ」

「残念ながらそうでもない」


 アララギサマは、ガードレールの上を歩いていた猫に手を伸ばす。姿は子猫のようだが、横腹には渦巻きがあり、身体全体の色はくすんだ緑。尾は三本ある。持ち上げると、額に大きな目玉があった。三つ目の子猫に、明依は眉間にしわを寄せる。


「必ず、また怪異談が必要になる。だいいち、ウツロが一人の人間に執着する、それが普通のはずがない」


 アララギサマが両手で挟むと、子猫は煙のように消えた。由佳と明依は顔を見合わせる。


「あのぉ……それって、明依がまた何かに襲われるかもっていう……」

「かもじゃない」


 え、と明依は足を止めた。四つの大きな瞳に見上げられ、アララギサマは顔をしかめる。黒い前髪の間から、赤銅色の目がじっと二人を見下ろした。その瞳に、薄緑の光が混じる。

 風が、三人を撫でる。夏の風は生ぬるく、暑さゆえの不快感は一層増した。口を開き、何かを言いかけて、また口を閉じる。それを二度繰り返してから、アララギサマは視線を空へと泳がせた。


「……ほんとうに怖い怪異は。気付かないんだよ。手遅れになったその瞬間まで」


 上を見たままで、アララギサマはぽつりとこぼす。


「精々、美味い怪異を作るんだな」


 強い風が吹き付けて、明依と由佳は思わず目を閉じた。二人が目を開くとそこにアララギサマはおらず、午後の日差しに照らされた道だけがあった。


「……何か」


 由佳は明依を見る。明依はゆっくりと頷いた。


「隠してるね」


 明依がまた襲われる。それを察しているだけならば、今姿を消してまで追及を逃れる必要はないはずだ。

 ならば、アララギサマはその先――何故、明依が狙われたのかを、知っている。


「……明依、あのさ」

「大丈夫」


 頬を叩き、明依は背筋を伸ばした。


「理由があるなら怖くないよ。その理由が理不尽なら思いっきり怒るだけだし」

「うん……それなら、いいんだけど」


 真っ直ぐな明依の視線は、一週間前、青白い顔で相談してきたときとはまるで違う。だが、頼もしいはずのその横顔に、何故だか由佳は不安を覚えた。

 目の前にいるはずの親友の姿が、どこか遠くなるような気がして、由佳は大袈裟にその腕に抱き着いた。


「しけちゃったね。うちでゲームしていこ!」

「またぁ?」

「いいでしょぉ? 次は明依に勝つもんね」

「ふふん。リアル有段者にカラテで挑もうとはいい度胸」


 じゃれ合いながら、二人は歩道を歩いていく。

 電柱の上からそれを見下ろして、アララギサマは目を細めた。



 由佳経由でカイから連絡があったのは、二日後の昼過ぎだった。


「ごめんね、休みの日に」

「いえ」

「もうすぐ由佳も来るって。先に見てもらえる?」


 部室棟の三階の角部屋。そこはもう五年近く使われていないらしく、廊下に面した窓にはヒビが入っていた。運動部、文化部ともに多いこの学校だが、同好会の数は年々減っているらしい。そのため、昔は使われていた部室が空室になり、そのまま放置されているそうだ。


「去年の秋くらいからかな。ちょくちょく、空き部屋から物音がするっては言われてたんだけど……この学校にも七不思議ができるって、ガラにもなくはしゃいだのを覚えてるよ」


 この先輩も、はしゃぐことがあるのか。そんなことを思いながら、明依は扉に耳を当てた。確かに、何かカタカタと音がする。


「ネズミとかじゃないんですか?」

「ネズミはドアを開けないだろう?」

「えっ」


 つまりはこういう話らしかった。

 物音がすると言っても、明依の言う通り、大抵の生徒はネズミか何かだろうと思っていた。窓ガラスは割れて隙間があり、中がどうなっているのかも分からない。鍵もかかっている以上、外から内部を確かめるすべはなかった。

 異変は三日前の夜。昼寝をしていた生徒が、そのまま夜まで部室に残っていたらしい。下校時刻を過ぎており、あたりはもう暗くなっていた。

 急いで帰ろうと部室を出ると、別の部室のドアが開いていた。お仲間がいたのかとほっとするのもつかの間、それが、隅の部屋――空き部屋のドアだと気付く。

 空室になって五年、年に一度の大掃除以外はドアが開かれたことはない。溜まり場になってもいけないからと、鍵は職員室に保管されていた。

 誰かいるのだろうか。男子生徒は、静かに自分の部室のドアを閉めた。

 かしゃん。鍵がかかる。それからもう一度、空室のドアを見た。そして、気付く。ドアの縁に、白いものが見えていることに。

 それが人の指だと気付いた瞬間、男子生徒は死に物狂いで逃げ出した。


「…………」

「……ごめんって」


 耳を塞いでいた手をどかして、明依はしかめっ面でカイを見上げる。


「途中からノッてきてましたね?」

「良い反応するからつい。いやあ穂苅さんに是非怪談スペシャルトークショー来てほしいなあ。最高な悲鳴が聞けそうだもん。来週ヒマ?」

「絶っ対行きません」

「これからも怪談書くなら、四谷と雨月は履修しておいたら? 一年生が話すんだ」

「嫌です」


 たとえ由佳に引きずられそうになっても行かない。そう決めて、明依はカイから一歩離れた。


「それで、私が中を確認すればいいんですか?」

「あ、うん。僕には見えないからさ。怪異なのかどうか、分からないんだよね」


 溜息を一つ、明依は、割れたガラス窓に顔を寄せる。


「気をつけてね」

「はい……暗いですね。カーテン閉まってるのかな」

「ライトつけるよ」


 カイのスマートフォンが、ガラス越しに部屋を照らす。

 カーテン越しに日の光は入ってはいるが、窓の前に積み上げられた荷物がそれをほとんど遮っていた。空室になってから、使わない備品の物置にでもされているのだろう。段ボール箱や椅子が、雑多に詰め込まれていた。

 ライトが差し込むと、部屋の中を漂う埃が見えた。少しカビの臭いもする。

 そして、部屋の中心に、それは座っていた。


(……!)


 髪の長い、人のようだった。正座をした後ろ姿しか見えないが。髪も肌も全てが白く、周囲の景色と溶けて一つになりそうなほど、輪郭が曖昧だった。床に広がるほど長い髪は、腰のあたりから二つに分かれ、鳥の羽のように形を変えている。


「きーぃ、き、きーぃ」


 首を傾け、口から声を漏らす。薄い唇と歯が見えた。と、その体が、ふらふらと左右に揺れ始める。


「木はせ、鳥はせ、東、北の星から、草の下」


 揺れながら、今度ははっきりとした言葉を紡ぐ。


「いずこ、いずこや、かわいい子。笑え、笑えや、愛しい子」


 体の揺れは激しくなり、明依は悪寒に身震いした。細い体の向こうに、卵のような丸いものが見える。どうやらそれを、膝の上に抱いているらしかった。


「穂苅さん? 何か見え――」

「けひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 甲高い声。明依は弾かれたように窓から離れ、ほとんど反射的にしゃがみこんだ。直後、壁を何度も叩く音がする。それはカイにも聞こえたのか、カイもドアから遠ざかった。


「うゅりのしにりよぜかはちこらちこあさあさなでいぉでいお」


 耳を塞いでも、その声は耳朶を這うようにして耳に入ってくる。一瞬でもアララギサマのように言葉が通じそうだと思った自分を罵って、明依は縮こまった。【夕暮】と初めに出会ったときは、迷いなく逃げ出したのに。


「てんげんだ、げんげんだ、目玉を喰ってあげましょう」


 耳障りな音。きっとガラスを引っ掻いているのだろう。明依は、隣にしゃがんだカイの服を握った。立って逃げなければと思っていても、足が動いてくれない。カイは何も言わず、明依の手に自分の手を重ねた。

 ああ、今、自分は、怖いと思っている。そう自覚すると、更に体の芯が冷えていく。悲鳴どころか、声の一つも出そうにない。

 自分が背を当てているこの壁、たった一枚の壁の向こうに、得体の知れない怪異がいる。明依は耳を塞いだまま、視線をいそがしく彷徨わせた。目を閉じれば、その瞼の裏に、あの姿が浮かんできそうだ。


「また【ウツロ】か」


 降ってきた声に、明依ははっと顔を上げる。手すりの上に、アララギサマが立っていた。


「あ……」


 アララギサマは明依の隣に降りると、片手で窓ガラスを叩いた。割れたんじゃないか、という音が響く。

 カイが、明依に覆いかぶさる。明依はカイの体に隠れたまま、ぎゅっと目を閉じた。


「人の獲物に手を出すとは、いい度胸だ」


 笑っている。そんな声音だった。明依は俯き、唇を噛む。耳を塞ぐ両手に、力がこもった。


「……穂苅さん」


 カイの手が、明依の手を叩く。明依は恐る恐る片目を開いた。


「もう大丈夫。音は止んだよ」


 ほ、と詰めていた息を吐く。カイの背後で腕を組み、アララギサマは鋭く舌打ちした。


「来い」


 乱暴に明依の襟をつかみ、アララギサマは歩き出す。それに引きずられながら、明依はカイに何とか頭を下げた。カイは引き留めようとした手を引っ込め、困ったように顔を笑わせる。

 階段を降り切ったところで、明依は壁に押し付けられた。脇腹すれすれに、アララギサマの足が突き立てられる。


「……何ですか」

「お前があいつと仲良しなのが気に食わない」

「そっち!?」


 明依は思わず声をあげた。


「お前が不用心なのは歓迎する。たくさん襲われてたくさん怪異談をしろ」

「イヤですけど?」

「アララギサマはとっても優しいのでもう一度警告してやる。怪異を見るのはまだいい。だが、怪異といたずらに目を合わせるな。……見えている、と気付かれるな。人と怪異の境界は脆い」


 明依が顔を上げると、アララギサマは明依から顔を逸らした。明依はその視界に割り込もうとするが、そのたびにアララギサマがそっぽを向く。数度の攻防の後、アララギサマの手が明依の頭をつかんだ。


「あだだだだだ」

「やるなといったことを何でするんだ」

「つい好奇心が」


 解放された額を撫でて、明依はアララギサマを見上げる。


「変なんですよ」

「あ?」

「怪異談しろって言うのに目を合わせるなって言ったり。納得できる説明してくれるなら、もうちょっと信頼するんですけどね」

「信じて欲しいなんて言ってない。信じるならば勝手にしろ」


 確かにそれは、その通りだが。

 階段を降りてくる足音に、アララギサマはまた不機嫌な顔になる。そして「忠告はした」と言うなり、またその姿を消した。姿が見えなくなる寸前、その瞳が橙色の光を帯びているのが、ちらりと見えた。

 その色の既視感に、明依は思い当たるものがあった。あれは、怪異【夕暮】を食った直後に見えた目の色だ。普段のアララギサマの瞳は赤銅色。やはり目の色が変わっているのは、気のせいではないようだ。


(……『【アララギサマ】は、とっても優しい』……?)


 ふむ、と明依は顎に手を当てた。



 部室棟の怪異の噂は、既に少なくない人数に広まっていた。幽霊だとか、妖怪だとか、その正体はころころと変わっていたが。落語研究会の部室で、由佳は真剣な表情でスマートフォンをいじっている。


「新しい怪談ってこうやってできるんだよねえ。アララギサマ何か言ってた?」

「怪異談しろって」

「する?」

「考え中、あんまりあてずっぽうの怪談書くのも怖いかなって」


 確かに、あの怪異は危険かも知れない。だが、【夕暮】の時とは違い、見た目以上の情報がまだない。


「あー……それはそうかも。アララギサマが、もうちょっと怪異談について教えてくれればいいんだけどね」

「彼はきっと怪異談が嫌いだろうからね」


 困ったように笑って、カイは茶菓子を明依に差し出す。


「そうなんですか?」


 ありがたくそれをもらって、明依は首を傾げた。


「うん。だって、怪異談は怪異をその姿に縛るってことだろう? 人間にとって都合よく。それってさ」


 眼鏡の奥で目を細め、カイはきゅっと唇の片端を吊り上げた。


「『お前はこういう存在だ』、って、無理矢理に押し付けられるってことなんだから」

「……やっぱあんまりやらない方がいいのかな」

「まあ大丈夫じゃないかい? アララギサマが味方な間はさ。……それに、怪異のことを何も知らなくても、怪異の方はお構いなしに襲うんだ。だったら、迎え撃てる僕達が動いた方がいい」


 気楽そうに笑うカイの後ろで、カタカタと窓が鳴る。外を見ると、一羽の鴉が窓枠にちょんととまっていた。鴉は一声鳴くとさっと飛び去る。明依と由佳は顔を見合わせた。


「……なんか」

「不吉?」

「いやいや、ヤタガラスは神様の使いだし」


 壁越しにそんな話を聞きながら、アララギサマは飛んだ鴉へと手を伸ばす。と、ぐにゃりと鴉の姿が歪み、アララギサマの掌に吸い込まれた。首が噛み砕かれると、羽や足は灰色の靄へと変わる。


「……侵食する」


 掌から滴る、赤黒い泥のような鴉の残骸。アララギサマは目を細め、拳を握った。



 翌日の夕暮れ。部活の雑務を終えた明依は、急ぎ足で校門に向かっていた。


(……あれ?)


 視界の端に部室棟が入り、足を止める。


「由佳?」


 三階に、由佳が立っていた。別に何をするでもなく、だらりと両腕を下げている。場所は、例の角部屋の前だった。

 ぞわり、と嫌な予感に明依は身震いする。由佳はふらりと体を傾けると、ドアに手をかけた。瞬間、あの笑い声が明依のもとまで届く。


「っ……由佳」


 鞄を放り出し、明依は部室棟へと走った。だが階段の下に辿り着いたとき、既に由佳はドアを開けていた。

 明依には見えた。由佳を引きずり込もうとする、数多の白い手が。


「由佳!」


 怪談を二段飛ばしで駆け上がり、八秒。三階の廊下を駆け抜けるのには、三秒も要らない。だが間に合ったとして、何ができるだろう。


「由佳!」


 三度目の呼びかけで、ようやく由佳の目が明依を見る。と、みるみるうちにその顔は蒼白になり、口が悲鳴を上げようとした。が、白い手が即座にそれを塞ぐ。


「馬鹿」


 空から、漆黒の影が降ってきた。


「呼ぶなら俺を呼べ」


 由佳を捕えていた白い手が、瞬く間に食い千切られる。明依は由佳の手をつかみ、自分の方へと引き寄せた。その背後でアララギサマは、部屋のドアを閉めて蹴りつける。


「引きこもりめ」

「あ……アララギサマ」

「耳を塞いで離れろ。こいつの声は毒だ。引きずり込まれるぞ」


 きゅっと唇を引き結び、明依は頷いた。震えている由佳に肩を貸し、大急ぎで階段を降りる。

 はじめの目撃から何日か。まだ一週間は経っていない。


『語り、語られ。古来から、怪異と人は言葉で繋がってきた』


 もし噂話で、あの怪異が強くなるのなら。いつ犠牲者が出てもおかしくない。由佳が助かったのは、アララギサマがいたからだ。まさかアララギサマが、あの部室に近付く誰もを助けてくれるとも思えない。


「怪異談、しよう」


 明依の言葉に、由佳は小さく頷いた。


「急いだほうがいい」

「あ、アララギサマ」

「ウツロはやっぱり不味い」


 白い手をスルメイカのように食べながら、アララギサマは二人と並走する。青白い顔の由佳と不機嫌なアララギサマを見比べて、明依は決意する。


「じゃあ、今書きます」


 険しくなった明依の表情に、アララギサマは口元を笑わせた。



 地面に、枝で正方形を描く。枝を放り投げ、アララギサマは明依と由佳を手招きした。


「こんな中庭のど真ん中で」

「ちまちま準備などしていられるか。怪異談に必要なものは二つ。それは揃っている」

「いや、そうじゃなくって」


 下校時刻は近いが、この中庭を見下ろせる校内にはまだ人がいる。中庭で背中合わせ、何をしているのかと言われれば答えに窮する自信がある。

 そう言いたいが、明依は執筆に忙しかった。由佳はと言えば、明依の肩に顎をつけるほど近付いて、明依の手元を覗き込んでいる。耳元では、今しがた書きあがったばかりの怪談を読み上げる声がしていた。書いたそばから覚えているらしい。


「怪異談が始まったら奴が来る。目を閉じるな。見えるほど強いウツロでも、死角でが一番強い」

「はい」

「俺は怪異談の手助けはできない。その枠から出るなよ」

「はい、出ないで……」

「それから」

「はい、ああもうよくしゃべりますね今日!」

「…………すまん」


 アララギサマは眉尻を下げるが、それを見る余裕も明依にはない。スマートフォンでのフリック入力には慣れているが、そう長い文章を書くとなると流石に指が痛くなってくる。

 傾いた日の光が、一階の窓の淵にかかったころ。


「できた!」


 書きあがった怪談を由佳に引き渡し、明依は地面にしゃがみ込んだ。由佳は即座にメモを遡る。


「しんど……あ、で、アララギサマ、なんでしたっけ? うつろは、ええと」


 頭を掻きながら顔を上げる。と、アララギサマは、北校舎を見上げて黙っていた。目元は前髪で見えないが、両手は緩く拳を握り、口元は牙が見えている。

 明依もそれに倣って見上げると、三階の窓が見えた。あのあたりは、美術室だろうか。暗い廊下に、一人の男が立っている。


「……カイ先輩?」


 校庭の端から端までほど遠いわけでもないが、その男の顔はよく見えなかった。だが、明依が呟くと、白い学生服と、切り揃えられた黒髪が見える。


「忌々しい」


 それが誰に向けられたものなのか、今更聞くまでもない。

 だが、その理由を問いただすことも、何故か明依にはできなかった。



 明依と背中を合わせ、由佳は扇子を握る。強く握った痛みで、膝の震えを忘れさせた。


「――それでは語ってあげましょう。声で惑わせ、引きずり込む。そんな悪鬼の御噺です」


 由佳の語りの間、明依は黙って由佳と片手を繋いでいた。その眼前に何がいるのか、由佳は知っている。

 怪談噺は、口に出して読めば完成ではない。怪談として昇華された現象があり、それを言語化した書き手がいる。そして、その怪談を恐れる聞き手がいて、舞台は整う。

 明依は舞台を整えた。ならば完璧に語るのが、自分の役割だ。


「人の入らない空き部屋に、寂しく巣食う女が一人。生まれることのなに我が子を抱いて、今や今やと啼いている」


 言葉ははっきりと。しかし張りすぎては怪談にならない。時には囁くように、時には怯えるように。明依が見た怪異を、誰もが見るように。

 引きずり込んで閉じ込める怪異。ただそれだけならば、正面から襲ってくるほうがまだ恐ろしいかもしれない。だが、『出られない』という恐怖はじわじわと、指先で削るように精神を蝕んでいく。

 得体の知れないものがいる、狭い部屋。窓には落下防止の鉄格子。割れた小窓から入る光が唯一、心を慰めてくれる。だが、怪異はそんな自分を許さず、ついに身動き一つすらできなくなる。泣いて叫ぶことも、壁やドアを叩くこともできない。殻のように動かない体の中で、それでも心ばかりはまともなままで。

 怪異【巣籠】は、そんな自分の心が折れる時を、今か今かと待ちわびている。ガラスを引っ搔くような声で鳴きながら。体を折り曲げて、自分の顔を覗き込みながら。

 助からない。その事実を、受け入れなければいけない瞬間がやってくる。


「そうして、声も出ないまま、少女は叫ぶ。それは、どうにも抑えきれない絶叫でした。いっそ、一息のうちに命が絶えてしまったならば。そう願う少女の目の前で、怪異は笑います。待っていたのです。少女の魂が熟れる、その瞬間を」


 明依の身震いが、由佳にも伝わった。遠くで、何かが笑っているような声もする。扇子を握り、由佳は自分の太ももを叩いた。

 見えるから。アララギサマがいるから。怪異談の力を知っているから。だからといって、怖くないはずがない。沈められた檻ごしに鮫を眺めていたとして、目の前の鮫が全く恐ろしくない人間がいるだろうか。

 それでも、声も出さず、目も逸らさずに、明依は戦っている。

 ならば。


「蝶番がきしみます。差し込む朝日は、部屋を静かに照らしました。埃の積もった床、腐った壁。その中に、少女が一人。床に横向きに倒れたまま、足を縮め、両手で白い卵を抱いています。さっと風が一つ吹いたかと思うと、開いたドアはまた、ばたりと閉じてしまいました。少女は瞬き一つせず、人の頭ほどの卵を抱え込み、きぃ、と一声鳴きました」


 同じ声が、すぐ耳元でしたように錯覚する。瞬きを一つ、由佳は扇子を鳴らした。


「【巣籠】の怪異談――――是にて、御終い」


 風の匂いが変わる。

 明依が、両手を後方へと伸ばす。自分をかばうようなその姿勢に、由佳は確信した。今振り向けば、そこに怪異【巣籠】がいる。


「アララギサマっ!」


 明依の叫びと同時に、アララギサマの笑い声がした。急速に近づいてきたそれに、悲鳴が重なる。

 振り向くと、真っ白な腕が五本、アララギサマをつかんでいた。地面をこする、羽にも似た髪が揺れる。その髪の奥に、白い横顔が一瞬、見えた。

 腕を、コードでもそうするように引っこ抜く。由佳と明依は揃って目を逸らした。喉を食いちぎって声を奪い、人の四倍ある腕を全て取り去り、羽をむしる。淡々と、笑顔のままで『下処理』を終えると、アララギサマは地面に胡坐をかいた。

 極力そちらを見ないように、明依と由佳は地面の線を消し、互いの無事を確かめる。気付けばすっかり日が暮れていた。急いで下校しなければ。


「帰るのか?」

「帰ります」

「そうか」


 アララギサマは、拳大の球を持って立ち上がる。いつの間にやら、【巣籠】の姿はすっかりなくなっていた。あの巨大な真珠のようなものが、【巣籠】の核だろうか。


「……ゆっくり食べてていいですよ」

「お前らを送ってから、じっくりいただくとする。もう日も落ちているからな」


 指先で核を回し、アララギサマは目を細めた。


「それとも、内緒話でもあるか?」

「あるって言ったら、隠れて付いてくるでしょう」


 明依はアララギサマを見上げ、自分の目を指さした。


「【夕暮】の力で隠れて、ね?」

「……はん」


 薄く笑い、アララギサマは鼻を鳴らす。


「目のいいことだ」


 にこっ、とわざとらしい笑顔をアララギサマに向けてから、明依は由佳の手を引いて歩きだした。アララギサマはそれを追わず、渡り廊下の壁によりかかる。


「ちょっと、明依、どういう意味?」

「なんか変だなって思ってたの」


 アララギサマから離れてから、明依は手を離す。首をひねる由佳に、明依は独り言のように続けた。


「あのひと、食べたモノを取り込める怪異なんだ」

「……でも、怪異談されたんでしょ? カイ先輩から聞いたアララギサマ、そんな話なかったよ」

「だから、多分」


 ちらりと後ろを見ると、アララギサマは、両手で持った核をかじっていた。


「【アララギサマ】も、本当の姿じゃない」


 だとすれば、怪談と雰囲気が違うことも頷ける。都市伝説を若いと言うのならば、それより以前から存在していたはずなのだから。

 小走りで去る二人の背を見て、アララギサマは核の最後の一口を口に放り込む。と、赤銅色の瞳が揺れ、真珠色に変わった。親指で唇をゆっくりと撫でて、赤い舌先で指の腹をなぞる。長い瞬きを一つ終えると、瞳はまた赤銅色に戻っていた。


「……侵食する」


 長く伸びていた校舎の影は、夜の闇の中に溶け始めていた。せっかちな外灯が砂利道を照らす。部活終わりの学生達が、騒がしくその上を歩いていく。

 その中に、カイの姿があった。アララギサマは鋭く舌打ちをする。カイはふと足を止めると、中庭へと目をやった。だがすぐに、隣を歩いていた男子学生に声をかけられて歩き出す。


(カイ)か」


 吐き捨てるように、アララギサマは呟いた。

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