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第二話 怪異【夕暮】

 禁止されているわけではないが、他学年のフロアに行くことは滅多にない。それこそ部活の用事でもなければ。明依はやや緊張した面持ちで、三年二組の教室を覗いた。


「やあ穂苅さん」

「うわっ!?」

「何か先輩に用事かな?」


 急に後ろから声をかけられ、明依は身構える。だがそこに立っていたのは、カイだった。


「あ、先輩……」

「うん? 僕に?」

「はい。これありがとうございました。怪異談についても怪異についても……先輩、すごく詳しいんですね」

「すごいなあ、二日で全部読んだの? 勉強家だね」

「字を読むのは好きなので」


 そっか、とカイは笑う。


「怪異談って、なんか特別な力とかが必要なわけじゃないんですね」

「そりゃあね。どんな人間でも使えなきゃ儀式として広まらないよ。実態のない怪異を捉え、一つの形に閉じ込める。人間が怪異に対抗できうる、唯一の手段なんだから。レポートでは小難しく書いてたけど、極端な話、人間が二人いれば成立して……」


 予鈴が鳴り、カイは「おっと」と話を切り上げる。


「続きが聞きたかったらまた放課後。ごめんよ拘束しちゃって」

「いえ。また相談させてください」


 笑顔のカイに頭を下げ、明依は階段を急いで降りる。踊り場で、アララギサマが防犯ポスターを眺めていた。


「おい」

「何です」

「俺、あいつ嫌いだ」

「は? ……はあ」


 だから何だ、と思わなくもないが、明依は適当に頷きを返した。

 アララギサマの手には、どこからか持ってきたノートがあった。それを食パンのように齧りながら、アララギサマは明依の後ろについて歩く。慣れたわけではないが、昨日よりは明依も気にならなくなっていた。


(守られてるのは事実だし、多少は我慢だよね……)


 昨日の夕暮れ時も、明依は襲われた。犬小屋ほどの大きさもある蛙で、それが道の向こうから五匹も六匹も跳ねてくるのだからたまらない。アララギサマに電話ボックスに放り込まれ、いいと言われるまで目と耳を塞いでいた。

 カイや由佳は羨ましそうに話を聞いていたが、実際、他人に見えないものが見えるというのは疲れるものだ。課外授業中も、黒板を隠す一反木綿のようなものや、好き勝手に教室をうろつくアララギサマが嫌でも視界に入ってくる。自分の消しゴムが半分食べられても気付かないクラスメイトが羨ましい。

 課外授業が終わり、部活に行ってもアララギサマはついてきた。体育館の横で猫と威嚇をし合い、乱入してきた鴉を追ってふらふらとどこかへ行ったかと思えば、何故かシュークリームを食べながら戻ってくる。


(気になる……!)


 目を合わせるな、あまり見るなと言ったのはアララギサマの方だというのに、こう視界の端をうろちょろされると気になって仕方がない。はっきり人の姿をしているからか、他の怪異よりも無視がしにくいのだ。背も高く、墨のような黒髪は否が応でも目を引く。それでいて、数分目を離した隙に何をしているか分からない。

 早くこの日々が終わりますように、と願いつつ、明依は道着の帯を締め直した。



 カイのレポート曰く、怪異にも大きく二種類いるらしい。アララギサマのように怪談が存在し、はっきりとした姿があるモノと、そうではないモノだ。前者は人間の『怪異談』によって姿や力をある程度固定されているが、後者はそれがない。そのため、倒すとなると雲を掴むような作業になってしまう。

 明依を狙っているのは、どうやら後者らしかった。


「怪異談をやれ」


 護衛を始めて一週間、襲ってきた化け猫の軍団を両手で喰い散らかしたそのままで、アララギサマは明依を指さした。


「もう面倒だ。喰い尽くせる程度かと思っていたのに多すぎる! 毎日同じ味、いい加減に飽きた」

「で、でも怪異談なんて私」

「できるだろう、人間なんだから。さっさと書いて語って、奴を俺の前に引き摺り出せ」


 アララギサマは丁寧に、喰い散らかした一体一体を両手で拾っては喰っていく。明依はその様子から視線を逸らして、眉間に皺を寄せた。


「……分かりました。書いてみます」


 由佳経由で、カイに連絡できるだろうか。流石に、文章として読んだだけでは怪異談を完全に理解したとは言い難い。

 怪異談に必要なのは二人。怪談の作り手と、語り手だ。物語を綴り、語ることで、怪異に実態を与える。カイは『怖い幽霊を人形に閉じ込めるようなもの』と言っていた。怪異談を行うのであれば必然、協力者が一人必要となる。

 自室に戻るなりノートパソコンを開き、明依はカフェラテに手を伸ばす。ついさっきまで大量の化物に襲われていたのに、図太くなったものだと自分でも思う。だが確かに、怪異談を行えば、アララギサマに付きまとわれる日々も終わる。そう思えば、少しは気合が入った。


「……よし」


 理不尽に襲いかかってくる化物との、これは、文字と音を使った戦いだ。

 床で寝ているアララギサマにジャージの上着をかけて、明依は軽く頬を叩いた。



「何で由佳がいるの……」


 印刷した怪談を片手に、明依は学校の教室にいた。課外授業も終わり、冷房も止まっているのでじわじわと室内の温度は上がっている。約束の時間ぴったりにやってきたカイの後ろで、由佳はいかにも不機嫌そうな顔をしていた。


「何でって。怪異談やるんでしょ」

「そうだけど。由佳も怪異談知ってるんだ」

「あのさ、先輩を紹介したのはどこの誰かな? 一昨日明依と先輩を取り次いだのは?」


 言われてみればその通りなのだが、明依を襲っている事態に関しては由佳は完全に部外者だったはずだ。


「……手伝わせてよ。これでもちょっとは反省してるんだから。まさか怪異が実在するなんて思ってなかったけど、私が明依に変な縁結んじゃったのかなって」

「というわけで、語りは由佳にやってもらおうと思ってね。僕は諸々の準備してくるから、由佳はよく話を読んでおくように」


 そう言うなり、カイは由佳を残して教室から出ていく。教卓の中にいたアララギサマが、そっと顔を出した。


「明依、原稿ちょうだい」

「……由佳」

「大丈夫。すぐ覚えてみせるから」


 明依は首を横に振る。だが由佳は明依に近づくと、その手から紙束を引ったくった。


「大丈夫」


 にひ、と由佳は歯を見せて笑う。


「私、怖いの好きだし!」


 痩せ我慢だ。そんなもの、見れば分かる。声は少し震えているし、笑顔だって引き攣っている。いくら話に聞いていたとはいえ、由佳も怪異談をするのは初めてだろう。

 見えもしない、得体の知れないものを相手に語る。それが、怖くないはずがない。


「……ありがとうね」

「水臭いなあ。こういう時こそ助け合うのが、親友ってもんでしょ」


 どれほど危険かも分からないことに首を突っ込んで、強がっている。そんな姿を見せられて、当事者の自分が怖気付くわけにはいかない。

 由佳が怪談を読んでいる間、明依とカイで教室の机を片付けた。中央に広目のスペースを作り、そこに、灰と塩を混ぜたもので円を描く。半径一メートルほどの小さな円の四方向に山を作り、カイはそこに木の葉を刺した。


「これで合ってる……はず。怪異談の史料は少なくてね。こういう準備がいらないって文献もあったけど、安全な方がいいもんね」

「怪異に襲われたりするんですか?」

「どうだろ……でも怪異談は、言うなれば自由に走り回っている犬に首輪と鎖をつけるみたいなものだからね。すっごく嫌がるかも」

「その時は俺が喰う」


 教卓から顔を出して、アララギサマが言った。明依がそれを伝えると、「頼もしいね」とカイは笑う。


「あの、先輩」

「うん?」

「私って、語りの間は何をしていればいいんですか?」

「そうだなあ。あの輪の中で、祈るとか。大人しくしてください、怪談の通りになってくださいってさ」


 両手を軽く合わせて、カイは微笑んだ。


「神様にそうするみたいに」


 明依は軽く手を合わせ、口元を綻ばせる。教卓に頬杖をつき、アララギサマは露骨に舌打ちをした。



 午後五時のチャイムが鳴る。縁の中に背中合わせになって、明依と由佳は正座した。


「――それでは語ってあげましょう」


 扇子の音を一つ挟み、由佳が静かに口を開いた。


「夕闇に紛れ、人を襲う。そんな悪鬼の御噺です」


 朗々と、由佳の言葉が教室に響く。たった二時間でここまで仕上がるのかと、明依は身震いした。


「かの怪異の名は【夕暮】。それは、橙色の光に乗ってやってきます。長く伸びる影、迫る夜。夢か幻か、それとも異界への誘いか。いいえ、いいえ。それは【夕暮】の手招きです」


 ゆらり、と、灰の山の頂点で木の葉が揺れた。明依は顔を上げる。カイは気付いていないようで、教卓の中を覗き込んでいた。嫌そうな顔のアララギサマが、教卓の反対側で身を縮めている。

 エアコンはついていない。窓も閉まっている。風はない。だが、木の葉は右へ左へ、不安定に揺れている。

 明依はそっと両手を合わせた。震える指先をごまかすように、掌までぴったりと合わせる。


「……!」


 目の前に、三つ指の足が現れた。それは瞬きのたびに輪に近付き、枝のように細い指先が足のまわりを這いまわる。脳裏に浮かぶのは、あの、腕を引き摺っていた化物の姿だ。

 視線を落としたまま、明依は震える息を吐いた。由佳には見えていないだろうか。見えていない方がいい、こんなもの。由佳の語りは滞りなく、震える明依に軽く寄り掛かってくる背中は頼もしい。


「穂苅さん。何か見えたら、よく見ておいた方がいい。視線でそこに留まらせるんだ」


 何とか、カイに頷きを返す。

 ぎりぎりぎりぎり。近付いてくるのは、歯ぎしりの音だ。節が三つある指が、灰と塩の輪を引っ掻いては離れる。


「娘はそれに問います。どちらから、と」


 ぱしん、と由佳の扇子が鳴った。太ももを叩く音だ。普段、滅多なことでは語りの間には入れない音。それで、由佳も恐ろしいのだと思い出す。

 この円の中は、果たして安全なのだろうか? そもそも怪異談をする人間の安全は保障されるのか。


「目を閉じるな!」


 鋭い声が、耳朶を打つ。


「死角は【ウツロ】の領域だ」


 声は、アララギサマのものだった。当然、由佳には聞こえていないだろう。


(うつろって何……いや、今はそれよりも!)


 目を閉じるな。それだけは分かった。とにかく、目を閉じれば危険なのだろう。明依は無理に顔を上げず、輪の外側をうろつく足を睨み据えた。

 由佳の語りはもう後半に入っている。だが、目の前をうろつく化物も一向に消える気配はなかった。

 両手を合わせたまま、ぺたぺたと歩き回る足を見る。


「…………」


 何分そうしていただろうか。ふつふつと、明依の中に湧き上がってくるものがあった。

 そもそも、これは何なのだろう。連日夕方に襲ってくるので【夕暮】と名付けたが、その姿は毎回異なる。蛙、化け猫、人型からスライムのような不定形のものまで。全部味が一緒だとアララギサマが言うのだから、同じ怪異なのだろう。手を変え品を変え、どうしてそうまでして自分に執着するのか。

 そもそも何故、自分がこんな目に遭わなければいけないのか。縁だのなんだのという曖昧なものはあまり信じないたちだが、アララギサマはともかくとして、こんな化物に襲われる理由など思い浮かばない。

 理不尽だ。


「…………」


 由佳を巻き込み、先輩の手を煩わせて。自分は四六時中怪異が見える体質になり、アララギサマに付きまとわれている。

 面倒だと思うことも嫌なことも全部、この、よくわからないモノのせいだ。

 そう思うと俄然、腹が立ってきた。


「……へえ」


 教卓で頬杖をつき、カイは笑う。


「あの子面白いじゃないか」


 腕を組み、アララギサマは鼻を鳴らした。


「――かくして、娘は家に辿り着きました。しかし、危険が去ったわけではありません。彼女を狙うのは【夕暮】。そう、毎日、そこに訪れるものですから……」


 体を折り曲げて、大きく開いた口の奥から、橙色の目玉が明依を見上げる。明依はそれを冷淡に見降ろした。


「【夕暮】の怪異談――――是にて、御終い」


 ぱしん。由佳が扇子を叩き、立っていた木の葉がはらりと倒れた。

 瞬間。金切り声と共に、怪異【夕暮】の両手が明依の首へと伸びる。明依は由佳を突き飛ばしながら立ち上がり、


「ぅオラアアアアアアアアアッ!」


 大口を開ける球体を、蹴り飛ばした。

 鍛え抜かれた蹴りは、球体の丁度真横にヒットする。明依を覗き込んでいたがために、【夕暮】はそれを避けられる体勢になかった。もやんとした感触とともに、球体は枯れ枝のような体から離れ、飛んでいく。


「えっ」

「えっ?」


 床で一度跳ねたそれを、アララギサマが両手で受け止めた。取り残された身体は、おろおろと明依とアララギサマを見比べる。いや、首はないのだが。


「えっ……明依、何したの」

「……もげた」

「何が!?」


 身体の方が、長い腕で這うようにしてアララギサマの方へと移動する。明依は由佳を助け起こし、「ごめん」と服の汚れを払った。


「くふっ……はっ……はっ、ははははははははは! あっははははははははははははは!」


 球を持ったままで、アララギサマが笑う。


「怪異談を成功させるだけでは飽き足らず、怪異を蹴り飛ばすとは! ははははは! お前、さいっこうだ!」


 ああ、成功していたのか。明依がほっと胸をなでおろすと、その視線の先で、アララギサマは大きく口を開けた。


「では約束通り」


 頭を取り戻そうとした指を、ぽきりと噛み砕く。見えていないとは分かっていても、明依は由佳の目を覆った。

 丸い頭を片手で咥えたまま、口ともう片方の手で体を咀嚼する。ギャッ、ギャッと途切れ途切れの悲鳴が響く中、五分もすれば【夕暮】の身体はなくなっていた。アララギサマは胡坐をかき、両手で持ち直した頭にかぶりつく。スイカをそのまま齧っているかのような光景だった。頭は綿菓子のように糸を引き、引きちぎられた歯が合間合間で噛み砕かれる。

 自分を脅かしていた怪異ではあるが、明依は【夕暮】に同情した。悲鳴からして、頭が半分になるまでは生きていたか、意識があったのだろう。自分だったら、など想像したくもない。

 十五分が経つ頃には、アララギサマの手には、こぶし大の橙色の球一つだけが残っていた。両手でじっくりとそれを撫で、アララギサマは口角を吊り上げる。


「それは……」

「【夕暮】の核だ。ウツロから怪異になるとこれができる。これが、美味いんだ」


 味以外にもっと大切なことがありそうなものだが、アララギサマは宝物を手にした子供のように目を輝かせている。


「核がなくなると、怪異は死んじゃうんだよ」


 箒片手に、カイが言った。へえ、と頷きながら、明依も掃除に参加する。明依から解放された由佳は、バケツに雑巾と水を入れてきていた。時計を見ればもう六時近い。早く片付けて帰らなければ、見回りが来てしまう。


「すみません、色々任せちゃって」

「ううん。怖いものたくさん見たんだろう? 駅まで送るよ。穂苅さん、怪異が見えなくなるといいね」

「私は明依が見えるの歓迎だけどね。こんな面白い怪談たくさん語れるならさ」


 こら、と由佳をカイがたしなめて、明依は苦笑した。

 せっせと教室を片付ける三人を眺めながら、アララギサマは【夕暮】の核を齧る。つるりとした表面だが、硬くはなく、むしろ練り切りのように歯の裏に張り付いてくる。ゆっくりと時間をかけて一口咀嚼し、飲み下す。それから改めて、もう一口。

 怪異であるアララギサマの味覚は当然、人のそれとは異なる。唇を舐め、指の背でゆっくりと口元を拭って、アララギサマは微笑した。人にとっては食う気にもならない、化物の心臓。それはアララギサマにとって、最上の美味である。


「おい」

「はい……あれ、アララギサマ、目の色変わりました?」


 アララギサマを見上げ、明依は自分の目を指差す。ふいと視線を逸らし、アララギサマは橙色の瞳を瞼で隠した。


「一つ、提案がある」


 明依は眉根を寄せ、首を傾げた。



 ノートの上を、爪の大きさほどのハムスターが行ったり来たりしている。


「……悪化した」


 教師に聞こえないように、明依は悪態をついた。明依の席は窓際で、その窓の前には人一人が寝られる程度のスペースがある。そこに横になって、アララギサマは林檎をかじっていた。


「何が悪化だ。光栄に思え。お前のその目が治るまで、守ってやるというのだから」


 言葉はいいが、その根底にあるのがただの食い意地だというのを明依は知っている。明依と由佳の怪異談で作られた怪異【夕暮】が、よほど美味しかったらしい。

 付きまとうのはもう諦めるので、せめて教師の言葉に被せて話さないでほしい。

 眉間のしわを深めて、明依は深いため息をついた。

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