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第一話 怪談「無人公衆電話」

 人気のない夜道。街灯すらぽつらぽつらとしかない道に、煌々と光る場所が一つ。吸い寄せられるように近付くと、それは古ぼけた公衆電話。携帯電話全盛期の今時分、もうずいぶん使われていないのだろう、扉に蜘蛛の巣が張っていた。

 男は吸い寄せられるように、電話ボックスの扉を開く。きぃ、きぃと金具が耳障りな音を立てた。扉が閉まったところで、ふ、と男は首を傾げる。何故、と。

 その疑問が行動に移る前に、公衆電話が鳴った。電話が鳴るのは日常茶飯事だが、それが公衆電話となれば別。異様な光景である。その奇妙さに男は慄然とするが、手は自然と受話器に伸びていた。未知への好奇心なのか恐れなのか、定かではないままに電話を取る。


「もしもし……」


 さあ、と雨のような音が返ってくる。ただのいたずらか、と男は受話器を耳から離した。


『……い』

「ん?」


 ぽたり、と男の肩に雫が落ちる。雨漏りでもしているのか、と男は視線を上げ、


『ちょうだい』


 そこに張り付いている、少年と目が合った。



「――そして少年は、大きな口で男の首を……」


 バシン! と、大きな音が教室に響き渡った。


「きゃああああ!」「ウワアアアアアッ!?」


 複数の悲鳴が重なる。そのいくらかは、いの一番にあがった悲鳴に対する驚きのようだったが。甲高い悲鳴をあげた女子は、隣にいた女子の頭をスパァンと叩いた。


「痛っ!」

「あんた悲鳴うるっさい!」

「理不尽!」


 叩かれた女子は、後頭部を押さえて振り返る。そこには、手にノートを持って仁王立ちする女子生徒がいた。


明依(めい)、邪魔しないでよ!」

「お邪魔はどっち? 時計見て、と、け、い! さっさと掃除終わらせないと帰れないよ」


 明依、と呼ばれた生徒は、ノートで机をばしばしと叩く。


「夏休み前で浮かれるのも分かるけどさ。どぉーせ来週も課外授業じゃん。くだらない怪談は、いつだってできるでしょ」

「お堅いなぁー。夏といえば怪談でしょ?」


 語り手だった少女が椅子から立ち上がり、掃除の準備を始める。ぶつくさと不満を言いながら、小さな怪談話会は解散した。


「明依にも語ってあげよっか。落語研究会とっておきの怪談」

「ノーセンキュー。バケツに水汲んできたから、由佳は廊下ね」


 にべもなく断った明依に、語り手の少女は不満そうに頬を膨らませた。


「そんなこと言って。明依、怖いんでしょ」

「は?」

「明依ってばお化け嫌いだもんね」

「……うるさい」


 乾いた雑巾を投げつけて、明依は唇を尖らせた。


「えー、なになに、委員長お化け怖いんだ」


 箒を片手に、男子生徒がからかうように言う。明依は「うるさいってば!」と顔を赤くした。

 机を廊下に出し、教卓も運び、広くなった教室の床と窓を拭く。その気になれば速いもので、十数分で掃除は終了した。机と椅子を元通りに並べたところで、教師が戻ってくる。

 高校生にもなると、夏休み前の注意も聞き飽きてくる。宿題もあり、課外授業も部活もある。浮かれて遊べと言われても難しいだろうに。


「明依も夏休み部活多いんだっけ? うちの空手部強いもんね」

「まあねー。由佳は、美術部で何かあるの?」

「なぁんも。あ、でも落語の方の先輩から、夏の怪談スペシャルトークショーの練習には誘われてる」

「スペシャルトークショー……」


 あまりにも落語とかけ離れている響きに、明依は呆れたような笑いを漏らした。


「今回の目玉はマジでいいからね。アララギサマっていって」

「聞いてない」

「まあまあ聞いてよ。今日の私は喋り足りないの。どっかのイインチョさんが遮ってくれちゃったおかげで」

「目玉を今喋っていいの?」

「どうせ明依、トークショーには来ないでしょ」


 聞いて、としつこくせがむ由佳を引き摺るようにして、明依は昇降口へ向かう。部活がなく、午前中で帰れる日など貴重だ。クーラーのきいた部屋で、趣味に没頭するに限る。


「オチまで全部知ってる怪談聞いても面白くないし」


 明依は昇降口前で、思い出したように一冊のファイルを鞄から引っ張り出した。


「ほら、新ネタ」

「やったぁ! 土日でがっつり練習して月曜日披露するね!」

「悲鳴はほどほどにさせてね」


 ファイルを受け取り、由佳は「分かってる分かってる」と笑う。明るい髪色に赤い縁の眼鏡のこの少女が、怪談を語るとなると別人のようになる。正直なところ、明依は由佳の怪談だけは聞きたくないと思っていた。

 たとえそれが、自分が書いた物語であっても、である。



 趣味らしい趣味を持ってこなかった穂苅明依がここ一年夢中になっていること、それが怪談づくりだった。高校入学時、たまたま席が前後だった由佳と仲良くなり、三人しかいない落語研究会に連れていかれ、そこで聞いた短い怪談。怖い話は苦手だと言っているのに、気付けば一時間も聞いていた。

 結局明依は空手部に入り、落語研究会にもあれ以来行っていない。だが由佳は日々語りの腕を上げ、クラスメイトに披露していた。動画投稿サイトで聞くまとめ動画に慣れていた高校生にとって、人の声での語りは物珍しかったらしい。ただの朗読とも違う、聞き手を物語に引きずり込むような語り。それを、つい先刻まで一緒に話題のスイーツの話をしていたクラスメイトがするのだから、面白くないはずがない。

 もっとも、耳を塞いで逃げる生徒も、明依だけではないのだが。


「そーいえば」


 無遠慮に明依のベッドに座って、由佳はスマートフォンをいじっていた。明依は自分の机で、古いノートパソコンを起動する。母から譲り受けた骨董品だが、文字が打てれば明依には十分だった。


「明依、自分が怪談書いてますーって人に言わないよね。何で?」

「だって、別に面白くもないし怖くもないじゃん。由佳が話すから怖い感じがするだけで」

「はー。真正ってやつだこりゃ」


 明依は由佳を振り返り、首を傾げる。由佳はローテーブルのジュースに手を伸ばした。


「本当にヤバい人は自覚がないってやつ。一年の終わりくらいだっけ、明依が私に怪談くれたの。普通にめっちゃ怖かったんだからね? そのくせ今まで小説なんか書いたこともなかったって言うし。ネットからの転載を疑ったよね」

「悪かったね」

「で、夏休みも新作を書くの?」

「まあね。何となく前から書きたいなって思ってるのがあって」


 ふ、と視界の端を何かが横切った気がして、明依は窓を見る。


「何だ鴉か……」

「なに?」

「んー……最近、何か、黒っぽいのがよく見えるような気がするんだよね。見間違いだとは思うんだけど」

「お化け? 怪談書きすぎて遂に憑りつかれたとか!」

「茶化すのやめて、マジで」


 紙の上のインク、ただの文字列ならばともかく、現実で幽霊や妖怪など見たくもない。由佳ならばさぞ喜ぶだろうが。


「じゃあそんな明依ちゃんに、私がとっておきの対処法を教えてしんぜよう」

「怪談ならやめてよ」

「まあまあ、一話だけだから」


 いじっていたスマートフォンをベッドに放り投げ、由佳はラグの上に正座する。眼鏡の奥で、すっと視線が鋭くなった。こうなると、よほどでない限り止められない。明依は観念してパソコンを閉じる。

 ぱん、と扇子で太ももを叩き、由佳は薄く微笑んだ。


「それでは語ってあげましょう。怪異を喰らい、人を救う。そんな奇妙な少年の御噺です」


 怖くなったら逃げよう、と、明依は嫌々由佳の向かいに座った。


「無人の公衆電話。日もとっぷりと暮れたころ、一人の少女が、電話ボックスに駆け込みました。秋も近付く夜のことです。風は肌寒く、少女は肌着一枚でした。ようやく灯りの中に逃げ込んで、ほっと一息。しかし、追手の声が暗闇からやってきます」

「何が追ってきてんの」

「突っ込み禁止」

「はい」

「さて、追手に怯える少女の後ろで、公衆電話が鳴りました。少女は、学校で流行りの噂を思い出します。公衆電話で呼べば、人を助けてくれるという存在――【アララギサマ】の噺です。藁にも縋る思いで、少女は受話器を取りました。ざあ、と風が吹く音が数秒。少女は呼びかけます。


『アララギサマ?』


 電話は答えません。少女は必死でした。なにしろ、得体の知れないものに追われているのですから。


『アララギサマ、アララギサマ。聞こえていたらおこたえください、助けてください』


 口上を言っても、電話は答えません。少女は仕方なしに、受話器を耳から離しました。


『承った』


 ぽつり、と、受話器から声がします。ほとんど同時に、少女の後ろに、一人の少年が立っていました。少女の目には、ガラスに映ったその背中しか見えません。

 かち、かち、かち。少女の耳元で、硬い音が三度しました。それから、キィー、と戸が軋む音。受話器を持ったまま、少女は、自分の後ろからする嫌な音を聞いていました。助かったと思うのもつかの間、ぴちゃぴちゃと、嫌な足音が近付いてきます。少女は受話器を握ったまま。ぎゅうっと目をつぶりました。


『ああ、腹が減った。お前、握り飯を持っていないか』


 後ろから、アララギサマがそう言います。少女はそんなもの、持っていません。


『では、干し肉をひとかけ、持っていないか』


 もちろん、少女は持っていません。かち、かち、かち。あの硬い音が、ぐんぐん近付いてきます。


『では、』


 ぬうっと、黒い両手が少女の前に突き出されます。その掌には口があり、伸びた舌が、少女の頬を舐めました。


『お前をもらおう』


 かち、かち、かち。それは、アララギサマの歯の音でした。

 それから、少女は行方不明になってしまいました。少女の服の切れ端が、寂れた公衆電話の下に落ちていることに、いったい誰が気付いたでしょう……」


 明依は、クッションを由佳の顔に押し付けた。


「もがっ」

「バッドエンドじゃん!」


 教室で話していたものと似ているが、それよりもたちが悪い。一度希望を見せられた後の絶望ほど、堪えるものはない。


「それのどこが対処法なの」

「ちゃんと変なのから助けてくれるじゃん」

「その後に食べられたけどね!」

「おにぎり持ってればいいんだよ」

「そんな間抜けな対処法ある?」

「べっこう飴よりは効果ありそうじゃない?」


 やはり理由をつけて話をしたかっただけではないか。明依は椅子に座り直し、ノートパソコンを開いた。


「大体、世の中の怪談って理不尽すぎ。因果関係があいまいだと話に集中できない」

「怪談ってそんなもんじゃない?」

「書いてると気になっちゃうの」

「じゃ、明依が新しいアララギサマを書いたら? 理不尽じゃなくって、バッドエンドじゃないやつ」


 それは怪談といえるのだろうか、と明依は眉根を寄せる。口ではなんだかんだといいつつも、やはり恐ろしい怪談となるとたいていが理不尽だ。ただ歩いていただけで通り魔に襲われるような、どうしようもなさの中に恐怖はある。


「そういうのはちょっと」

「ふーん?」

「人のネタ取っちゃ駄目でしょ流石に」

「都市伝説とかって大体、噂が広まって創作が入ってそのまま、って感じでしょ。面白おかしく脚色されてさ。もっと怖くなるなら、明依がアララギサマを書くのは大歓迎だけど」


 はいはい、と由佳をあしらって、明依はUSBをノートパソコンに差した。



 駅前まで由佳を送って戻ると、もう夕暮時だった。コンビニで買ったアイスを片手に、明依は家路を急ぐ。


「……ん?」


 街灯の間に佇む、公衆電話が目に入った。薄暗い中ではいっそう明るく見え、妙に存在感がある。


「……いや、ないない」


 一瞬アララギサマの怪談が頭をよぎったが、明依は小走りで電話ボックスの横を通り過ぎる。

 と、その先の街灯が、ぷつりと消えた。


「へっ?」


 構わず進もうとした明依の足も、いったん止まる。ただ消えるならばまだしも、道の左右の街灯が、複数同時に消えるなど。停電だろうか、と振り返れば、明るい電話ボックスが目に入る。


「変なの……」


 こうなると、鴉の鳴き声も何だか不吉に聞こえてくる。明依はポケットの中のスマートフォンを握り、足を速める。

 その目の前に、口があった。


「!?」


 とっさに身を引く。がちん、と白い歯が嚙み合わさる。明依は息を飲んだまま、よろよろと退いた。

 化物がいた。

 いや、それを何と言うべきか明依は知らなかった。だが、人ではない。人と同じ大きさだが、断じて人ではなかった。二つの足と、腕と、頭がある。だがそれを人と呼んだら、自分の中での人間の定義が崩れる。明依は首を横に振り、口を覆った。

 両足。胴。肩。そこまではいい。けれど両腕は地面に垂れるほどの長さであるし、頭がある部分には、丸い毛の生えた球があった。目も鼻も耳もない。球を上下に横切るように割れ目があり、そこにびっしりと歯が並んでいた。ぎりぎりぎりぎり、と歯が擦りあう音。

 明依は逃げだした。悲鳴など出ない。あと一歩進んでいれば頭を食い千切られていたという事実だけは理解できた。踵を返せた自分を褒めたいほどだった。


(やばい、やばいやばいやばいあれはやばいって!)


 日々空手部で鍛えているからこそ、明依は逃げることをまず選択した。

 たとえば学校に不審者が侵入したとき。道で刃物を振り回す男を見かけたとき。誰しも一度は、それを制圧する妄想をするものだ。道具を使い、技を使い。だがそれは妄想に過ぎない。もっとも有効な手段は、逃げることだ。何よりも自分の命を守るために。

 まして、相手は明らかに人間ではない。


「あうっ!」


 何かにつまづいて、明依は転ぶ。手から落ちたスマートフォンが、地面の上を滑っていった。痛みに顔をしかめ、明依は体を起こす。ずず、ずず、と、重い足音が近づいてきていた。

 ――――リリン……ジリ……ン……


「……え?」


 スマートフォンを拾おうとして、耳を疑う。スマートフォンは、丁度電話ボックスの扉にぶつかって止まっていた。明依は顔を上げ――鳴っている、公衆電話がそこにあった。

 まさか、という思いと、もしかすると、という期待が交錯する。事実今、得体の知れないものに襲われているのだ。

 明依は電話ボックスに入り、扉をきっちりと閉じた。それから、やかましいほどに鳴っている公衆電話に手を伸ばす。


「……もしもし」


 風が木の葉を揺らすような音がした。


「あの……アララギサマ?」


 ち、と舌打ちが聞こえたような気がした。明依はちらりと振り返り、もうすぐそこまでに迫っている化物から目を逸らす。


「あ、アララギサマ、アララギサマ、ええと、いらっしゃいましたらお応えください」


 狭い電話ボックスの中が、少し冷えたように感じた。


「おにぎりはないですけど、あの、助け――――」

『承った』


 声が、返ってきた。


「……は」

「承ったと言っている」


 明依は顔を上げ、息を飲む。

 ガラスの壁に、明依が映っている。青白い顔だ。その明依に重なるようにして、黒い背中も映っていた。

 きぃ、と扉の金具が鳴る。明依は受話器を握ったまま、視線を落とした。あの化物は、もう電話ボックスのすぐ前まで来ている。

 まず初めに聞こえたのは、歯ぎしりの音だった。それに重なって、かち、かちと硬い音がする。獣の唸り声と、若い男の笑い声。何かを引きちぎるようなぶちぶちという音。硬いものを力任せにへし折るごりごりという音。それから、何かを啜る音。コップの縁からこぼれそうになった水を啜ると、こんな音がするだろうか。

 耳を塞ごうとして、明依はその場にへたり込む。受話器を握る両手が、酷く震えていた。


「おい」

「ひっ!?」

「終わったぞ」


 振り返るのが恐ろしく、明依はやっとのことで頷く。

 穏やかな、若い男の声だった。だがその声は、耳で聞いているというより、脳に直接響いてくるような、奇妙な明瞭さがあった。


「ああ、腹が減った。お前、握り飯を持っていないか」


 聞き覚えのある言葉に、明依は首を横に振る。


「そうか。では」

「あ、アイスならあります!」


 明依はコンビニの袋を握りしめ、後ろへと突き出した。


「……あいす」


 手から袋が取られる。指に触れた硬い感触に、明依はまた目を閉じる。ごそごそとビニール袋の中を探った後、包装が開けられる音がした。


「お前、俺が何だか知っていたのか?」

「えっ……ええと、怪談をちょっと、聞いて」


 からからと笑い声が降ってきた。


「そぉか、運のいいやつめ。精々、気をつけて帰れ」


 そう言われて、明依はようやく振り向く。さっ、と、夕日が明依を照らした。

 逆光の中に立っていたのは、瘦せぎすの少年だった。丈の短いぼろの着流しと、ぼさついた黒髪。一筋の白髪だけが、真っ直ぐに首の中ほどまで伸びていた。背は高い。だが、笑った顔には幼さが残っていた。


「……アララギ、さま?」

「他に誰がいる。ほらさっさと電話を切って帰れ。逢魔が時は物騒だぞ」


 よく見れば、その薄い掌には確かに口があった。水色のアイスキャンディーを食べ終わると、木の棒はその掌の口に吸い込まれていく。


「これ、どこで採れる?」

「え、あ、えっと、コンビニで……」


 白いビニール袋まで食い千切りながら、アララギサマは「ふうん」と頷いた。明依が指差した方向を見て、そのまま歩き出す。


「あ、あの?」

「あん?」

「これって、その……わ、私はこのこと、どう思えばいいんですか?」


 ビニール袋をすっかり平らげてから、アララギサマは面倒そうに視線を巡らせた。


「夢、でいいんじゃないか?」


 そう言うなり、アララギサマは軽く地面を蹴った。その体はひょいと家の塀の上に乗り、そのまま屋根まで飛び移っていく。数秒も数えないうちに、その姿はすっかり見えなくなっていた。


「……夢……はは、そうだよね、夢だよね……」


 受話器を持って、明依はよろよろと立ち上がる。片手で持てるはずの緑の受話器が、やたらと重たかった。



 机の上を、小さな猫がうろついている。


「夢じゃなかった……」


 親指サイズの猫を目で追いながら、明依はひそかにため息をついた。あまり見ないようにと気を使いながら、課外授業に意識を戻す。

 あの日。化物に襲われ、アララギサマに助けられて以来、明依の目には、奇妙なものが視えるようになった。思えば、これまで視界の端を横切っていた黒いものがこれだったのかもしれない。他の人間には見えず、触ることもできないらしい存在。


「怪異だね」


 明依の話を聞いた男子生徒は、笑顔のままでそう答えた。落語研究会の部室は狭いが、畳張りでそれなりに快適だ。明依に頷いて見せるのは、由佳の先輩であり、落語研究会で一番怪談に詳しいという三年生、カイだ。


「怪異?」

「ああ。僕は怪談を集めるために、そういった方面の文化もいろいろと勉強しているんだけれど……穂苅さん、怪異ってどんなものか知ってる?」

「……いいえ」


 由佳が横から差し入れた茶を受け取り、明依は座布団に座り直す。何となく正座しているが、帰りに無事に歩けるかが心配だ。


「怪異というのはまあ何と言うか、現象が意識を持った存在……概念の擬人化というのが近いかな。思想としてはアニミズムと呼ばれる。八百万の神々ってやつだね」

「怪異って、神様なんですか」

「まさか。たとえだよ」


 へら、とカイは笑った。茶を啜り、明依はちらりと由佳を見る。由佳は落語本から顔を上げると、ちょっと笑った。


「……というか、私の言うこと、信じるんですね」

「そりゃ由佳から君のことはよく聞いているし。君の怪談をよく読むけど、見えないものを居ると騙って、人をからかうタイプじゃないだろうしね」

「明依が会ったっていうアララギサマも、先輩から聞いたんだよ。だから先輩に聞いたらいいんじゃないかなって」


 うんうん、と由佳は頷く。明依は湯呑を置き、足を崩した。左足が大分しびれている。


「じゃあ、何で見えるようになったんでしょう」

「さあね。波長が合っちゃった、とか?」

(そこは適当なんだ……)

「ともあれ、人を襲う怪異なんてきっとまれだよ。穂苅さんは運が悪かった……いや、アララギサマが助けてくれたから運がよかったのかな? まあ、滅多にあることじゃないと思うし。見えないふりをしていたら、そのうちまた見えなくなるって」


 よかったら、とカイはファイルに入った紙束を差し出す。


「何ですか?」

「レポート」

「大学生みたいですね」


 びっしりと文字が書き込まれたレポート用紙に、明依は苦笑する。


「残念だけど、人間って基本的に怪異には無力なんだ。アララギサマみたいな例外もあるけど、怪異が意志を持って君を襲ったら、僕にもどうしたらいいか分からない」


 けれど、とカイは指先を合わせ、薄く笑った。


「昔の人間は、ちゃんと対抗手段を作っていた。それが、『怪異談』という儀式だ」


 レポートのタイトルには、『江戸後期の怪異談に関する研究』と書かれていた。


「語り、語られ。古来から、怪異と人は言葉で繋がってきた。それを儀式として確立したのが怪異談。捉えどころのない怪異を『こうだ』と定義づける。神も妖怪も祟りも謂れも、元をたどれば同じってことさ」

「……語り、語られ……」


 以前どこかで、そんな話を聞いたような気がする。妖怪がいるから物語が生まれるのではなく、物語があるから妖怪が生まれる。そんな、人の言葉の力を説いた話を。


「……先輩って何者なんですか」

「ただの怪談好きな高校生。今はなんだってすぐに調べられる時代だろう?」


 そう言われるが、怪異談、など聞いたことがない。明依も怪談を書くようになって、それなりに色々と調べることはあったのだが。


「相談、ありがとうございます。信じてくれる人がいると、心強いです」

「お礼なんて。同士が見つかる以上に嬉しいことなんてないんだから」


 同意を求められ、由佳は力強くうなずいた。


「……と、いうわけで」


 由佳が、羽織と扇子をカイの横に置く。そして自分は、明依のすぐ隣に正座した。


「僕は相談に乗った。報酬として、君の一時間をもらおうか」

「……怪談は少なめでお願いします」

「ごめんねー明依。聞き手がいた方が、先輩も練習になるからさ」


 ああ、これは怪談をみっちり一時間話すつもりだ。遠い目になりながら、明依は乾いた笑いを返した。



 カイのレポートは、たっぷり十枚あった。自室でカフェラテを片手に、明依はレポートをめくる。


「ほぉ、怪異談か」

「……ん?」


 振り向くと、アララギサマがいた。


「うわああああっ!?」

「やかまし」

「なっ、な、」


 振り抜かれた明依の腕をよけ、アララギサマはローテーブルに腰掛ける。


「なんっ……ええ!?」

「やかましいと言っている」

「それ私のカフェラテ!」

「美味いなこれ」


 空のマグカップを床に置き、アララギサマは「聞け」と軽く手を振った。


「あの空色のアイス、美味かった」

「えっ……あ、はあ、どうも?」

「だが報酬をもらったが、仕事が終わっていない。だからしばらくお前に憑くことにした」

「は……ん?」

「お前を襲ったアレ。まだ全部喰い終わっていないんだ」


 アララギサマは片膝に足を乗せ、指先を噛む。実に嫌そうな顔だった。


お残し(・・・)はしない主義でな。勝手に喰うから気にするな。怪異なぞ女子供が見るものじゃない」

「……守ってくれる、ということですか?」


 はっ、とアララギサマは鼻で笑った。


「そうさな。さっさと喰ってさっさと去ろう。……俺は優しいので警告してやるが、お前あまり怪異と目を合わせるなよ」

「はあ、はい……?」


 分かったような、分かっていないような顔で明依は頷いた。「分かればいい」とアララギサマは赤銅色の目を伏せる。だがすぐに目を開くと、す、と目線を横に滑らせた。


「その……それと」

「?」

「こんびに、というのは何処にある?」

「……そこの道を五分くらい東に行ったところにありますよ」


 もしかすると、迷子だったのだろうか。「そうか」と満足そうに笑ったその顔が、急に幼く見えた。

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