神樹神䛡大繋 詠われぬ月
神樹神話体系2作目、前作から繋がっておりますので、未読の方は、ぜひ一読してからお読みください。
天に浮かぶ下弦の月が杯に陰影を落とす。
武人須佐は一人、神樹の麓に座り込み杯を傾けた。
静かな夜。
気が付けば、横に男が一人腰掛けていた。
「君は、姿に似合わず雅を好む、いったい誰に似たのやら…」
「…弦月」
男の名を須佐は苦々し気に呟いた。
武人として研ぎ澄まされた須佐の感覚を逃れえるものは少ない、横で楽し気に杯を揺らす彼は、数少ない中でも一番須佐が会いたくない相手であった。
武人としても、そして、人としても敵わない相手。
「おや、もう姉上とは呼んでくれないのだねぇ」
弦月はその口元に弧を描いて嗤った。
その男は、日によって姿を変える。
彼の姉である夜見は、沢山の姿を持ち、時に妖艶な女性、剣を嗜む美男子、果ては幼げな少女姿で現れることすらある。
今の姿は、弦月。
並みの武人を剣で打ち破る美貌の青年の姿だ。
「……」
「おや、だんまりかい?」
カカと笑いながら、瓶を揺らす弦月、淡々と酌を受ける須佐。
この姉は下手に触れてはいけない。
時に苛烈、引きこもり気質ではあるがそれでも職務は渋々と行うもう一人の姉よりも、彼は夜見の享楽的な姿勢を苦手としていた。
「で、その感じでは大日女さまの不況でも買ったかい?」
「神とは、なんなのだろうなと思ってな」
「ふむ、それは、巫女や神官でなく、人の学者の領分だねぇ。それが、探究者。求道者が求めるものだ。
いつから、君は求道者に鞍替えしたのだい?」
「…茶化さないでいただきたい」
額に皺を増やす須佐を楽し気に眺め、時に酒の肴と言わんばかりに彼の勘気を荒立てようと触れていく。
「ただ、私にはあの蛇が、ひどく眩しく見えたのだ。
やり方は間違えたのかもしれぬ、しかし、あれは間違いなく自らを慕う者たちに対して真摯であった」
「…間違いねぇ」
「異論でも?」
揺れる盃に月を浮かべ、凄絶ともいえる笑みを零し、一気、弦月は杯を干した。
「あの者たちは、何か悪いことをしたのかい?」
「…剣を打った、武器を造った、我ら天津へと向けうる刃を研いだ」
「彼らは、かの蛇を称えるために自ら作れる最高の物を捧げただけだとしても?」
「それは、巫女と、神官の領分だ」
「そうだねぇ」
同時に杯を煽る。
答えは出ている、須佐にとっても弦月にとっても。
ただ、言い知れぬ薄霧を吐き出そうと須佐が苦心しているだけである。
「…須佐。これは、独り言だ」
手酌で自らの盃になみなみと注ぐと、弦月はその杯を神樹の下へそっと置いた。
まるで、聞いてくれるなと、神樹に願うように。
「君は、高天原を出た方がいい」
「…それは」
「優しすぎるのだ君は、そして、同じくらい他者にもその優しさを求めてしまう」
苦く、そして重い思いを、須佐は杯と共に流し込んだ。
「収めることでなく、寄り添うことを選んだ。
それが、天津ではなく、国津としての生き方だ。
だから、須佐、君は国津として生きなさい」
「…姉上」
「今は、弦月だよ、僕は」
茶化すように笑い、弦月は立ち上げると裾を払った。
ゆらゆらと、楽し気に揺れながら弦月が歩き出す、残された杯はすでに空になっており、一枚青々とした葉が残されていた。
― 詠われぬ月 ―
「…優しいのね」
「望、見てたの」
高天原に鎮座する大鏡、揺ら揺らと歩く弦月は水を差されたように足を止めた。
振り向いた先には、鏡に映る自分。
艶やかな黒髪の乙女が、映っている。
「僕は、優しくなんてないさ」
「優しいわ、朔
私たちと違って、あなたは苦しみを知っている。
悲しみを知っている、須佐と同じように、人の業を背負って生きている」
大鏡から伸び出た血色の無い手が、弦月―朔―の頬を撫でようとして、するりと通り抜けた。
「私は、滄海原から出られない、あなたを慰めてあげることも出来ない」
「…望」
朔の手が伸びて無情にも鏡界に阻まれた。
弦月の姿が、紐を解くように解けていく。その下には、鏡写しのように望と似た赤髪の乙女の姿が現れる、その目は赤く、止まらぬ赤い涙が雫となって地を濡らした。
「あなたの、涙を止めてあげることも出来ない」
朔と望。
同じ姿で生まれながら、方や祝福され滄海原の主、方や穢れを流す異形の流離人。
須佐の見る、享楽的な姿は微塵もなく、合わせ鏡の二人はただ分かたれた運命に抗う少女でしかなかった。
「次は、いつあえるかな」
「そうだね、須佐にはきっかけが必要だ、きっとその時にでも…」
止まらぬ涙のままに、互いに額を合わせて泣く二人。
小さな逢瀬は終わりを告げる。
二人を引き裂くのは、神樹の影を長らく伸ばす、暁の光。
「…朔 」
続く言葉は無く。
大鏡は無情にも、合わせ鏡の役目を止めた。
残されたのは、赤い涙を流す、弦月が一人。
人の営みの音が上がるころには、大鏡の前には誰の姿もなく、朝の神事を執り行う神官が点々と零れる赤い雫の跡に小さく悲鳴を上げることとなった。
須佐は一人、人々の営みの中を歩いていた。
足を止めたのは、小さな屋敷の前、一人の少女が歌っているのにひかれるように足は歩みを止めていた。
子守歌か、詩なき歌が、須佐の荒んだ心に芽吹くように水を注ぎこむ。
「これは、武人殿。
我が家に御用ですかな?」
無粋に少女の歌を斬ったのは、老人。
人足頭の足名である。
「足名か…、ということは、あの子は稲田か」
「ええ、子供の成長は早いもので、女子は特にですなぁ」
彼らの話声に気を取られたのか、歌を止めた稲田が足名へと走り寄ってくる。
「ととさま、おきゃくさん?」
「そうだよ。
須佐どのと言ってな、稲も前にお会いしているぞ」
「スサ?」
「ああ、おぬしに預かりものを返そうと思ってな」
稲田の目線に合うように須佐は腰を落とし、胸元から絹に包まれた櫛を取り出した。
「あ、イナの!」
変わらぬ大きな瞳で稲田は、瑪瑙細工の櫛を受け取った。
須佐の大きな手が、稲田の頭を軽く撫でる。
驚いたように目をさらに大きくするが、自然、目を細めて稲田は笑顔を須佐に向けた。
「おかげで、助かった」
「ほんとうに!」
無論、この櫛が何かに役立ったわけではない。
だが、櫛を返さなければいけないという気持ちが須佐の足を故郷まで進ませた。
間違いなく、須佐の心を助けたのは稲田の櫛であった。
「ああ、何かお主に、礼ができればな」
「…れい」
須佐の言葉に、稲田は一瞬気色を浮かべるが、転じて、何か言いにくそうに顔を赤らめている。
「何か、あるのか?」
「いってみたいの、あそこに!」
稲田の指さす先。
須佐と、つられて振り向く足名。
その指先がさしていたのは、高天原―――。
足名と稲田。
長く続く石階段を上る二人の横には、天へと延びる神樹の幹が雄々しくそり立っている。
短い脚をつかい一生懸命に階段を上る稲田の姿は、周りを歩く者たちにも微笑ましく映るらしく、一人の老婆がしゃがれた声をかけた。
「嬢ちゃん。小さいのに、えらいねぇ」
「うん、がんばるの!」
足元を見ることに一生懸命な稲田の目に、老婆の姿が映った。
老婆は奇妙といった、出で立ちである。
長い髪は箒のように石階段を掃き、小さな粒を落としている。
着古し、擦り切れた着物の袖からも、同じく小さな粒が石畳みへと跡を残していた。
それらはすべて何らかの種であり、彼女通り過ぎた後から緑の芽が天に向かって背を伸ばし始めていた。
「わしの名は大気都。嬢ちゃんの名を聞いてもいいかい?」
「イナはイナダなの」
「ふむ、イナダか」
手を引く足名が、笑みを浮かべ口を開いた。
「私は国境の足名と申します。こちらは、娘の稲田です」
「いい名前だねぇ」
満足したように、大きな息を吐くと、その口から一杯の種が吐き出された。
それを、素早く小さな麻の袋に纏めると、大気都は、稲田の手に種の袋を手渡した。
「これは、嬢ちゃんの名前と共にある種だよ、いつかこれを終の住処と認めた場所に埋めるといい。きっと、悪いようにはならないよ」
優しく稲田の手に袋を握らせると、大気都はまた、粒を落としながら歩き始める。
手を振る稲田。
足名は、その姿が見えなくなるまで、深々と腰を折っていた。
神樹の幹は雄々しく高い。
高天原が近くなるころには、幹に雲がかかり始める。
大気都が冷たくなる空気に一つ身を震わせると、明らかな嘲り交じりの声色が頭上から降ってきた。
「おやおや、面妖なお婆が、珍しく重い腰を上げたじゃないか」
顔を向けると、声の主はだらしなくも神樹の幹に体を預け、大気都を見下ろしていた。
雲間の間から差し込む斜陽に身をさらす、長い赤い髪を煌めかせ、赤い瞳で大気都を睥睨する妖しき者。
「…水蛭子さま」
古き者である大気都は、彼女の姿に見覚えがあったのか、声を震わせ石階段を二三歩後退った。
「吐き出す物は生命を育み。
体中のどこからでもあらゆる種を生み出すその生きざま、不思議だねぇ」
軽やかに、気だるげに。
水蛭子は、枝から身を落とすと音もなく石階段を大気都に向けて歩み始める。
赤く染まった両眼からは、泣くように赤い雫が大地に降り注ぐ。
大気都の落とす種が生命を生み出すのと相反するように、水蛭子の雫は、生命を枯らし地に穢れを生み出した。
「ねえ、大気都、あんたを斬ったら、その命はどうなるんだろうねぇ」
「な、なにを言って…」
いつの間にか水蛭子の手には一本の剣が握られていた。
もちろん、大気都はその剣の名を知る由も無い。
邪を孕む蛇が打ち、人中の鋳造機にて再度成形された、その剣の名は草薙。
生命の象徴である植物を薙ぐ。
幾多の有象無象を薙ぐ。
それらに特化した、その剣は、大気都にとって致命的なまでに相性の悪い剣である。
今日は良き日であった。
大気都にとって、久々の参内であったこと、その途上で、将来の楽しみな女子に合えたこと。
それらすべてが夢のように。
悪夢の化身のような赤い月が、白銀を煌めかせる。
雲の隙間から見える蒼穹が、やけに青く、大気都の目に映った。
一時、気が付けば、大気都の身は誰かに抱えあげられているのがわかった。
手は小さな暖かいものに掴まれている。
遠くで鳴き声が聞こえる。
その鳴き声にすがるように、しゃがれた声を絞り出す。
「ねえ、嬢ちゃんお願いがあるんだ……」
包まれた手の向こう。
暖かい何かが、霞んだ視界の中で微かに頷いたように見えた。
「……種を、蒔いてくれんか」
たくさんたくさん。
あの悲しいお方が、驚くほど沢山。
「お婆!」
もう一人、抱き上げてくれているだろうお方から、懐かしくも、悲痛な悲鳴が聞こえてくる。
「ああ…、須佐さま。
恨んではなりませぬぞ、あのお方は、悲しき方じゃぁ
きっと、あのお方なりに、思うことがあったのじゃ」
肺から口元へ、吐き出されるように命が零れていくのがわかる。
しかし、それでよい。
これら零れた命は、いつか実る。
鳥が運び、遠くの大地できっと目を出して、新たな循環の一つとなる。
「なぜだ、なぜこんなことを!…夜見ぃ!」
その叫ぶ名に、その絶望に。
消えゆく意識の中で、大気都はハタと思う。
もしかすれば、この絶望こそが彼女の願った結果では無いかと、ならば、この老いぼれの身で出来る最後のお勤めにも意味があったのかもしれないと。
武人の慟哭と、少女の涙に見送られ、大気都は生命の循環へと旅立った。
その傍らに雄々しく立つ神樹に導かれるように、天へ、天へ……。
高天原の門前にて起こった凶行に、主たる大日女は大層怒った。
門前が穢されたこと、先達たる大気都を失ったこと。
その怒りは、その主犯と呼ばれる夜見へと向けられ、彼女は大日女から絶縁を申し付けられることとなる。
高天原から滄海原へ。
大鏡を通して一方的に突き付けられた、宣言に。
鏡の中の彼女は、静かに涙を流したという。
今夜も月を写す杯を傾け、少女が一人、神樹へと杯を置く。
彼女は、沢山の名を持っていた。
その日、その時、その姿によって、その名は変わる。
ある時は、月の下で酒を嗜む弦月と呼ばれる青年。
ある時は、悲しみに暮れる朔と呼ばれる、少女。
または、鏡写しな望という少女。
ある時は、水蛭子と呼ばれる妖しき凶器を孕んだ女性。
小望と呼ばれる花開く寸前の少女の危うさを孕んだ姿の時もあれば、晦と呼ばれる幼き少女の姿の時もある。
天に舞う月が、その姿によって名を変えるように。
彼女は、彼女たちは、沢山の名と姿を持った夜見と呼ばれる二人の少女。
新月のようと、忌避される朔と。
満月のようと、詠われる望と。
燦々と輝く月 詠うものあれど
黒漆ごとく染める月 詠うものなし
返盃は無く、空の盃に一枚の葉が侘しく落ちた。