雪香だって
早朝に感じる「完全に眠気が飛んだ」という感覚はだいたい一時的な錯覚である。まず間違いなく二度目の忍び寄る睡魔に抗うことはできないし、そういう時は大抵アラームを掛けることも忘れてる。
「遅刻だ」
「ワクワクするね」桜は花畑を歩くみたいな優雅さで微笑む。
一限のチャイムはとっくに鳴った。生徒がみんな教室に詰め込まれてるから、無人の廊下を歩く二人分の足音はちょっと響く。開けっぱなしの扉を通り過ぎると授業中の教師と目が合って、完全に呆れたような苦笑が返ってくる。
「いつぶりだ?」と呟く。
「遅刻?」
「そう」
「先週の木曜日ぶりかも」
「それは」ため息すら尽きてしまった。「ずいぶん昔だ」
「今月で五回目」桜が歌うように言う。
「六回目だ」と宮崎雅は眉根を寄せた。「二人合わせれば十二だ。なんだ、お前らは。ギネス記録でも目指してるのか?」
「桜、数え間違えてるじゃん」
「記録に興味はない」
「一流アスリートみたいなコメントしやがってこいつ」
「すみませんすみません。おら桜もうちょっと申し訳なさそうな顔しろお前」
教室はちょうど、世界史の授業をやっているところだった。担当はクラス担任の宮崎雅先生で、一部の生徒からは「ミヤミヤ」なんて呼ばれたりもする。無愛想でぶっきらぼうだが、そこが逆に親しみやすさを感じさせるのかもしれない。若い女性教師で美人ながら、男子生徒からも女子生徒からも人気の高い教師の一人だった。
「ったくもういいから座れ。教科書七十九ページ」
平謝りしながら席に着く。教科書の用意をしていると、隣の席から女子生徒がニヤけ顔で覗き込んでくる。
「夫婦で登校だ」
「誰が夫婦か」
戸隠雪香と隣の席になったのは一月前の席替えからだ。一度も話したことのない女子生徒から「よっす」と挨拶をされ、その控えめな手の振り方に目を奪われた。服の袖が余っていて、指だけが出ている。
「俺、萌え袖が好きなんだよ」
「開口一番、それかよー」
戸隠は大袈裟に顔をしかめ、服の袖をまくった。華奢な手首があらわになって、俺も大袈裟に「ああ」と口にする。「もったいない」
「桜がいるっていうのに」と戸隠は嬉しそうに詰る。「他の女にそういうこと言うのはよろしくないんじゃないかな」
「なんだよ、他の女って」
「桜にも訊いたんだけどさ、付き合ってないって本当なの?にわかには信じられないんだけど」
「付き合うも何も、ただの幼馴染だよ」
その席替えで、当の桜はといえば教室の一番後ろの隅に移動していた。隣の席の女子とは仲がいいらしく「おはよう、唯子」「桜ちゃん、放課後だよ」と言葉を交わしていた。
「ただの幼馴染にしては、仲良いよね?」
「ただの幼馴染だよ」とムキになったわけではないが、繰り返した。「なんでもかんでも恋愛に結びつけるのは君の悪い癖ですよ」とことさら丁寧に主張する。
「私の何を知ってるんだよ、春希」
「緊張するから、急に名前で呼ぶなよ、雪子」
「雪香だって」と戸隠は笑う。
それから何度か言葉を交わすうちに、隣の席という距離の近さも相まって戸隠とは気安く接するようになった。
と言っても生産的なことは何もなく、学生の本分と言うべきくだらない雑談がほとんどで、つまりは恋バナが目下戸隠のお気に入りの話題だった。
「高校生にもなって幼馴染が未だに仲良いままなんてさ、奇跡だよ、それは。絶滅危惧種だよ」
「別にそんな、お互いを嫌うような幼馴染だって珍しいだろ」
「大抵は関係が自然に消滅するものだよ」と戸隠は力強く断言する。
「なんか、我こそは恋愛マスターであるみたいな自信がお前からは感じられる」
「過言じゃないね」
「過言じゃないのか」
相槌を打ちながら、机の木目に北極の白さを思い描いた。クマだ。白い体毛で、果てなく広がる雪原をのっそりと歩く、巨獣だ。温暖化で自身のフィールドを失い、番を見つけられないまま飢えに倒れる彼を想像し、悲しい気持ちになる。
「現状維持はさ、大抵、悪い方向にしか進まないんだよ」北極の寒さから身を守っているわけでもないだろうが、戸隠は服の袖を引き上げ、萌え袖を作る。
「ホッキョクグマみたいにか」
「絶滅危惧種は、前進しないと簡単に絶滅しちゃうものだよ」
「だから、俺と桜は貴重だと」
「ホッキョクグマみたいにね」
ふと教卓に目を移すと、雅先生とガッツリ目があった。
「世界史の授業を聞きながら考えるホッキョクグマの行く末はどうなんだ?先生も気になるぞ」
「すみませんすみませんすみません!」
「あらら春希のせいで怒られちゃった」
ただでさえ遅刻してるのにこれ以上ミヤミヤに睨まれるのもうまくない。しつこく構ってくる戸隠をテキトーにあしらって授業に集中し始める。
教室の後ろを振り返ると、桜はさっそくうつらうつらと舟を漕いで隣の唯子ちゃんを「桜ちゃんっ、起きて、起きてよ〜」と困らせていた。なんとなく微笑ましくて頬が緩む。もう一度前を向くと、やはりミヤミヤと目が合って、今度こそ冷や汗が背中を伝う。
「春希?そんなに先生の授業は退屈か?」
「すみませんすみませんすみません!」