第2話:口約束
あれからどれ程の時間が経過したのだろうか。
空はすっかり暗転し、街明かりに対抗する星が細々と輝いている。
周囲には誰もおらず、後頭部付近には妙な柔らかさを感じる。
天月さんが枕でも置いていってくれたのかも知れない。
膝枕だったら……ってそれは流石にないか。
「平野くん、あなた一体何者なの?」
その声は、とても近くから聞こえて来た。
顔を少し動かせば声の主が目に写りそうな、殆どゼロに近い距離。
故に僕の体は固まってしまった。
膝枕という名の淡い期待も次第に大きくなっていく。
「聞いているの? 目を覚ましたのなら早く答えてくれないかしら? そろそろ痺れて来そうだから」
収まれ僕の心臓。
何があっても紳士的に行動。それだけ守ればこれ以上嫌われなくて済む。
守護獣のトラウマを繰り返さない為にも、次こそは確実な言葉選びを心がけよう。
一つ大きな深呼吸をしてから、僕はゆっくりと顔を声の方向へと向けた。
白くて柔らかい、二つの……
「翼……」
僕を包み込むように、天月さんは両翼を重ね合わせていた。
手のひらで水を掬うかのように、僕は優しく支えられている。
決してガッカリした訳ではない。
不意に浮かんでしまった落胆の表情も、夜の帳のおかげで見えないだろう。
「悪いけど、早く起き上がってくれないかしら? 最近運動不足で筋肉が弱ってるのよ……」
ピクピクと小さな振動を感じていたのはそのせいだったらしい。
僕は言われた通りに体を起こすと、後頭部に付着していた小さな羽を手に取った。
ポケットに入っているものと瓜二つ。本体から離れていても、仄かな光と温かみを帯びている。
「やっぱり天月さんは一ヶ月前の天使様……ですよね?」
振り返りながら、僕は一応確認した。
「その通り。それであなたは一体何者なのかしら? 滅殺の神具が効かなかったから悪魔ではないのでしょうけど」
今更隠す気は無いのか、天月さんは翼の手入れをしながら淡々と答えた。
バサバサと一度大きく振り、次の瞬間には背中に吸い込まれるように消えていく。
全くもって不思議な光景だ。超常現象といっても過言では無い。
「僕は普通の人間ですよ。ただ、あの日に天月さんが落とした羽を……」
「だから、なんで羽が見えるのって聞いているの。あなた、もしかしなくてもバカ?」
さっきと同じく、足先で音を奏でる天月さん。
短気なのか、それとも不安なのか。
正直なところ、僕としてはどちらでも構わない。
一目惚れとは、性格を度外視して人を好きになることだと思うから。
「その理由は知りません。本当にただ見えるだけです」
「……情けない人ね。自分のことも分からないなんて。私のことをす……すき、すきって言うのなら、自分にそれなりの自信があるのだと思ったのだけれど?」
どこか小っ恥ずかしそうな天月さんは、またプイとそっぽを向いた。
巷に聞くツンデレという人種、基、天使種なのかも知れない。
「僕はただ……自分の想いを伝えたかっただけです。いつも不幸ばかりで気が滅入っていた時に天月さんが、その、なんていうか、光をくれたから。一目惚れしました」
僕は率直に気持ちを伝えた。
照れるなんて、そんな失礼な態度は取れない。
ただ愚直に、嘘のない言葉を並べただけだ。
「ちょ、ちょ、あなた、いきなりにゃにを……何を言っているの⁉︎ 私は天使なのよ? 姿形は似ているとは言え、人間のじゃない。結ばれることなんて……」
どこか儚げに俯いた天月さんは「できない」とは断言しなかった。
ただ、交際を前提として話を進めているのは些か不思議だ。
僕はただ、気持ちを伝えたかっただけ。
感謝にも似た恋心……のようなもの。
その誤解を解く為にも、僕は天月さんに歩み寄った。
「えっと、なんというか……。僕は天月さんのことが好きです。でも、付き合って欲しいとかそういう意味じゃないです。はい」
「……え?」
天月さんは、唖然とした表情で僕を見つめた。
期待していた訳ではないにしても、『告白=交際の申し込み』は当然の解釈だ。
どちらかに非があるとすれば、十割ほど僕が悪い。
一応頭を下げて、謝罪の意を示した僕。
「なんか誤解させてしまってすいませんでした。でも、天月さんのことは心の底から好きです。これは嘘じゃありません」
「え? えっ⁉︎ えぇぇっー⁉︎ ちょ、イマイチ理解できないのだけれど……。おかしいのは私、の方なのかしら? でも私は恋のキューピッドだし……」
はっ、と何か隠すように、両手で口元を覆った天月さん。
ハート型の矢尻の理由が、少しだけ分かったような気もする。
止まる事を知らない自己暴露のスタイルに対し、僕はどうすればいいのか。
一応聞こえないふりをしながら、本題の話を進めることにした。
「正しいのは勿論天月さんですよ。たまに人からも言われるんですけど、僕は少し変わり者らしいので。でも、天使と人の恋愛関係を否定するのは、考えようによっては常識的かも……」
「そんな事ないわよ」
天月さんの力のこもった一言に、僕は少しだけ気圧された。
「そう、ですかね?」
「えぇ、勿論。恋愛感情は人も人ならざる者も等しく抱く心の病。恋のプロフェッショナルとして、あなたのような価値観はどうしても許せないの。……ホント、今すぐに殺してしまいたいほどに」
悲哀じみた天月さんの言葉を追うように、強い風が僕たちの間を通り過ぎていった。
温かかったポケットの羽は僕から熱を奪い始め、氷のように冷たくなる。
天月さんの発言通り、僕から命を奪おうとしている。そんな予感がし、僕は思わず二枚の宝物を突風へと乗せた。
「あら、捨ててしまうの? 天使の羽は悪魔にとってご馳走よ?」
「だから僕は悪魔じゃないですって……」
吹き荒れる風は止む気配すら感じさせない。
普段以上に冷酷で残酷な視線を僕に向ける天月さん。
時折顔を見せるクマの守護獣がなんとも言えない雰囲気の壊し方をしている。
やはり、僕はイマイチ空気を読めていない。
他者なら重く感じる場の空気ですら、日常となんら変わらないような。
そう感じてしまうのは、僕がおかしいからなのか。
–––それとも、天月さんの私情が大きいと理解できてしまうからなのだろうか?
「えっと、天月さん。つまり、その……僕と付き合いたいって事ですか?」
「……はぇ?」
重苦しい夜風は瞬時にして消え去った。
「だって、僕が交際を望んでいる訳じゃないっていったら、全力で否定するし……。それに……」
「ち、違うわよ! 何をいっているのかしら、全く平野くんったら……もう。本当に、変わり者の悪魔だとしか思えないわよ」
少し頬を膨らませつつも、無理に真面目な面持ちを保とうとする天月さん。
ここで笑ってしまえば、僕の印象は更にだだ下がりになってしまう。
価値観の相違という名の最も避けるべき事態に陥った現状。
言葉を必死に選んでいるつもりでも、周りから異常と蔑まれる僕にはやはり正解は分からない。
「悪魔ではないですよ。僕は人間です。少し変わっているだけの、ただの人間です」
「でも……やっぱり……」
天月さんは、ボソッと呟いた。
「やっぱり、僕を殺しますか?」
「…………」
聞こえていないと思ったのか、天月さんは一瞬固まった。
付き合いたいわけでもない。ただ単に、僕の考え方が気に食わないだけ。
本職が恋のキューピッドらしい天月さんにとって、僕は邪教の化身とも言えるだろう。
純粋な恋心を抱いているだけなのに、黒髪の天使様は「間違いだ」と言う。
理論的に考えて、僕の方が正しい。
–––恋心は抱く。けれども付き合おうとは思わない。
人と天使だから。単純に、想いを伝える事が最終地点だと思うから。
「僕は、天月さんに殺されるなら別に構わないですよ。メンヘラ的な考えとかではなくて、一度あなたに命を救われていますから。プラスマイナスゼロです」
「……違うわ。そう言う意味で言った訳じゃないのよ」
また僕は、天月さんに暗い顔をさせてしまった。
憧れの人に迷惑をかけている。
自分の考えや想いを率直に伝えるだけでは、どうにもうまくいかないらしい。
「天月s……」
天月さんは手の平で僕を制止した。
「平野平太くん、私があなたに本当の恋愛を教えてあげるわ。恋のキューピッドとして、最後の役割を果たします。否とは言わせないから、覚悟しておきなさい」
ほんの少しだけ微笑んだ天使様の顔に、僕の意識は全て奪われた。
動かそうとしても、まるでコンクリートで固められたように目玉が動かない。
一度救ってもらった身にも関わらず、僕はまたこの少女から何かを貰うのだろうか?
受け取るばかりで何も返していない。唯一渡したものといえば、僕の抱いたクダラナイ恋心だけ。
到底等価交換とは言えない取引に、僕は静かに頷いた。
初めて彼女の姿を見たのはたったの一ヶ月前。
意を決っして告白をした僕は、恋のキューピッドの仕事を手伝う変わり者の悪魔となった。