第1話:憧れの天使様
ある雨の日の夜、僕は神秘的な光景を目にした。
暗雲の隙間から舞い降りた白翼の天使の姿。
僅かな月光で輝く、長く伸びた美しい黒髪。光を反射するほどに純白な華奢な体。
直ぐに光の玉となって飛び去ってしまった天使様は、白い羽を一枚地上に落として行った。
ゆっくりと、柊が舞い落ちるかのように僕の手元に収まった天使の落し物。
一ヶ月が経過した今でも、朽ちることなく仄かな光を放っている。
–––特に、時期外れの転校生に近づいた時には……
「それで、私に用って何かしら? えっと……」
「ぼ、僕は平野平太です。急に呼び出してしまってすいません、天月美里さん」
放課後の屋上で、僕は同じクラスの女子を呼び出した。
六月上旬に転校してきた、黒髪長髪の美女、天月美里さん。
クールでスタイルのいいモデル体型の少女は、転校初日からいつも一人だ。
冷酷な態度を取る時もしばし。なのに、何故だか嫌われもせず、逆に誰かに好かれることもない。
そんな不思議な少女に、僕は二つ聞きたいことがある。
「別に構わないわよ。それで、要件は?」
腕を組み、鋭い目つきで僕を睨む天月さん。
少々萎縮した僕は、ゴクリと唾を飲み込んでから慎重に言葉を紡いだ。
「二つ……聞きたいことがあります。答えたくなければそう言って頂いて結構です」
「ん、分かったわ。じゃあどうぞ」
イラついているのか、天月さんは足先でトントンと音を立て続けている。
嫌われないように、柔らかい口調で僕は続けた。
「一つ目は……その……。単刀直入に聞きますが、天月さんは誰ですか?」
「と、言うと?」
「もしかして……天使、とか?」
「…………」
表情は変えず、顔だけをゆっくりと背けていく黒髪の少女。
ブレザーの右ポケットにある白い羽が、ほんのり熱を帯びているのは気のせいだろうか。
試しに一歩、天月さんに近づいてみると更に温かくなる。
恐らく勘違いではない。だとすると天月さんは、やはりあの晩の天使様、か?
「あの……天月さん?」
「……死になさい」
「……え?」
何かをボソッと呟いた天月さん。
死ね、とか言われたような……まぁ、聞き間違いだよね。
「消えて無くなりなさい! 然もなくば、私が今ここで粛清するわ!」
唐突に突きつけられた死の選択肢。
発言が意味わからないとか、理不尽すぎるとか、天月さんのイメージが崩れたとかは問題ではない。
何もないところから瞬時に現れたピンク色の弓矢。
ハートのような形の矢尻が、僕の頭蓋を貫かんと睨んでいる。
「ちょ、ちょっと待って下さい、天月さん! 僕は答えたくなければ答えなくていいと……」
「だ、黙りなさい! 今更何を言っても遅いわよ。いくら私が下界に落とされた身とはいえ、低俗な悪魔なんぞに汚せるとは思わないで欲しいわね」
キリキリと音を立てている弦と僕の胃袋。
何故か悪魔と判定されてしまった僕は、色んな意味で涙を溢しそうになった。
清楚な美少女、基、あこがれの天使様に嫌われてしまったかも知れない。
–––どうにかして誤解を解きたい。
僕は、ただそれだけを切実に願い、天使様に向けて土下座した。
「ごめんなさい、天月さん。僕はただ……」
「土下座なんてしても無駄よ。あなたと私は敵対関係。悪魔なんぞに情を移す天使なんていないわ。常識でしょ、それくらいは?」
「だから僕は悪魔じゃない……ぐふっ⁉︎」
顔を上げると、視界が靴底で埋め尽くされた。
一瞬だけ見えたクマの顔は、天使様の守護獣かなんかだろう。
天月さんがクマのプリントされたパンツなんて履いているわけがない。
「いい加減にしなさい、悪魔。私の正体を勘ぐれるのなんて同類しかいない筈でしょ? 天使でないのなら悪魔。だからあなたは私の敵。それ以外に何が……きゃっ!」
「違います! 僕はただの人間です! あなたの正体が分かったのは、拾った羽のおかげですよ…ぁ、すいません」
僕が勢いよく立ち上がると、足を掬われた天月さんは股を全開にして倒れた。
大切な部分は守護獣さんがしっかりとガードしている。流石はクマだ。
……って、違う。そんな事はどうでもいい。
「いきなり立つなんて、あなたはやっぱり悪魔……ぁぁぁぁぁっ! 見た⁉︎ 今私のパンツ見たでしょ⁉︎」
バサッと、慌ててスカートを覆い隠した天月さん。
折角見て見ぬ振りをしたのに、自ら暴露していくスタイルが天使流らしい。
僕は赤く染まりそうな顔を必死に堪えながら、紳士的に地面に転がっている弓矢を拾い上げた。
「見てませんよ。クマの顔なんて見てないです。だから一回落ち着いて……くだ、さい……」
僕が差し出した弓矢は、カランと軽い音を立てて地面に落ちた。
あの晩目にした、唯一無二の美しさを誇る両翼が今まさに目の前で広がっている。
見惚れてしまう。何故か歪みつつある視界が気になることもなく、見入ってしまう。
「悪霊退散!」
左頬に感じた凄まじい衝撃は、少し遅れてやってきた。
神々しい光を纏った拳に殴られて、僕の邪念はきっと滅されるのだろう。
未だ脳裏に焼きつくあのクマの笑顔が「バイバイ」と告げているような気がする。
–––ってあれ? 僕は一体何をする為に天月さんを呼び出したんだっけ?
薄れていく意識。倒れ行く体。
そんな中で、僕は一番大事な事を伝え忘れたのを思い出した。
必死に動かした口が、果たして声を発していたかは分からない。
ただ、出来るだけのことはやってみた。
「あまつき……さん。好き……です……」
一ヶ月前、僕は天使の降臨を目にした。
一瞬にして消え去ってしまった少女は、不幸な僕の人生に光をもたらしてくれた。
つまり、ただの一目惚れ。
今思えば、空高く飛んでいた天使様がなんでハッキリと視認できたのか不思議だ。
あの羽が都合よく僕の手元に落ちてきたのも、天月さんが同じ高校にやって来たのも。
勝手ながらに運命を感じてしまった僕は、やましい心を持った悪魔なのだろうか?
例えそうだとしても、今抱いているこの気持ちは、紛れもなく……。