1.落ちぶれた(元)女騎士
ライコーンの街から東南へ三日ほどの所に、〈ミズーラ〉と呼ばれる、身分の低い者たちが住まう地域があった。
そこは廃墟のような黒灰色の建物群が並び、誰もが桟板を持ち上げ青空を迎える中、ある部屋だけ、ボロの桟板を下ろしたままとなっていた。
室内は埃とカビの臭い、そして重い空気が覆う。
桟板の隙間から差し込む昼光は、床に脱ぎ散らかされた衣類やパンが入っていた紙袋の輪郭を浮かばせ、その傍らにある今にも脚が折れそうなベッドを薄く照らす。上には、白いシャツとショートパンツ姿の女が一人、力なく横たわっていた。
「中々の落ちぶれっぷりだな」
「誰のせいでこうなったと思っている」
寝室の入り口現れた赤鬼に、横たわる女・ティナは背を向けたまま答えた。
気力もすべて失せたらしい。そんな主人の姿に、羅刹は肩をすくめ、やれやれと首を振る。
「親から与えられた世界で住むだけの子など、ただ都合のいい操り人形に過ぎん。本当の独り立ちを手伝ってやったのだから、逆に感謝してもらいたいところだぞ」
ティナは身体を起こし、羅刹にふくれっ面を向けた。
金色の髪の毛はボサボサで、顔はむくみ、据わる目元は腫れぼったい。
「女子の純潔を奪い、尊厳を穢すなど悪魔としか言えぬ所業をしておいて何が感謝だ! おかげで私の夢は途絶え、家族の縁すらも絶たれたのだぞ!」
「悪魔じゃなくて鬼の所業だよ」
ティナは出禁になっただけではなかった。
久々の女を満喫した羅刹に対し、ティナは塔からつまみ出された直後、出口で待ち構えていた母より絶縁を告げられたのである。
住んでいた家はその日の内に退去させられ、ここの物置きのような部屋に移り住む。色町のすぐ傍のせいか、毎晩のように卑しい声が飛び込んでくる場所だった。
「金も身分もない。あるのは借金とこの身一つだ」
ティナは再びベッドに倒れた。
「私はこれから娼婦として生き、見ず知らずの男の子供を孕み、神も見放すような暮らしを送ることになるのだ。きっとそうなる」
だからそれまで静かにしてろ、と荒涼に続けた。
「世間も知らないけどな」
「うるさい」
この家を見つけたのは羅刹だった。縁を切られ孤独の身であるにも拘わらず、あれは嫌だ、これも嫌だ、と生活レベルを下げようとしなかったためだ。
するとその時、部屋に硬いノックの音がした。
ここに移ってから初めての音。家主のティナは小さく身体を震わせ、もぞもぞと布団の中に潜り込む。
羅刹は小さく息を吐き、代わりに出迎えた。
「――ひッ!?」
訪ねてきたのは、でっぷりと肥えた男だった。
鬼に一瞬ぎょっとしたものの、それに用事があったのかすぐに取り繕った。
「お初にお目にかかります。私はボーイン・ドゥと申します」
丁寧に身を屈めたボーインと名乗った男は、体型に対して茶色の髪は痩せ、頭皮が透けている。また頬の肉も痩けていた。
黄色かかったシャツにえんじ色のベスト、ゆったりとした緑のパンツ、と身なりはしっかりとしており、態度や口ぶりからして商売か、と羅刹は察した。
「店の経営が苦しいから助けて欲しい、か?」
「えっ」
どうして分かったのか、と景気の悪い表情で覗き込む。
見れば分かるとだけ伝えると、男は「やはり……」と肩を落とした。
「私は代々、ポーカ通りの近くで娼館を営んでいる者でして、仰る通り経営が苦しく……」
新鮮味がなく、娼婦の高齢化も相まってて客足は遠のくばかり。
しかし、何かをと考えるほど案は遠のいてゆく。気分転換のため、巷で話題の闘士の決闘・そのデビュー戦を観に行った時、羅刹の試合に感銘し、この者ならばと相談に来たとのことだった。
「悪魔のあなたならば、何かいい提案を頂けるのではないかと思いまして」
「悪魔じゃなくて鬼だよ」
羅刹はしばらく考え、やがて大きく頷いた。
「代々ってことは、昔なじみの客で持ってる状態か?」
「ええ。しかし父の代からの客も、徐々に減り始めていて……。娼婦たちは借金で売られた者が多く、客が来なければ風の入れ替えもできず……」
「なるほどな。ではこの鬼が、お前のこぶを取ってやろう」
面白そうだ、と即答した鬼にボーインは顔を明るくした。
しかし羅刹はすぐ、ただし、と言い添える。
「こぶはタダで取られたわけじゃない。成功しても失敗しても、コンサル料は貰うぞ」
「こんさ……? あ、いえ、も、もちろん相談料はきちんと」
すごむ鬼に顎を引きながら、ボーインは何度も顎肉を揺らしながら返事をする。
後日訪ねる約束を取り付けると、彼は景気の悪い顔を明るく、弾むような足取りで帰っていった。
それを見届けた羅刹は、さて、と主人の待つ寝室へと向かう。
「――お、女を食い物にする不埒な輩どもッ! 我が身体、お前たちの思い通りには、さ、させぬぞ!」
短刀を握ったままベッド脇に隠れながら、長い金髪の女が叫んだ。
◇
「そのようなこと出来るか!」
開口一番。ティナは短刀を片手に、声を荒げて忌避感を露わにした。
「借金に苦しむそれに付け入るなぞ、騎士として、いや人の道に反する行いだ!」
「だって鬼だし。――しかしそうなれば、お前がその立場になるのだが、甘んじて受け入れるのか?」
「そ、その時は刺し違えてくれる!」
「まあお前はそれでいいかもしれんが、金の回収はお前の家族にも向かうぞ? いくら絶縁されたとは言え、同じ血が流れているからな」
「う……」
たじろぐティナに、連中は部下を捨て駒にするのも厭わない、と羅刹は続ける。
「それに遊女ならまだ商品として扱われるが、お前のような抵抗するじゃじゃ馬は別だぞ」
逃げられないように足の腱を切る、得物を握れぬよう親指を切り落とす。
それから鎖で繋いで痛めつけ、衰弱するまで辱めを与え続ける。
「身体中は男の精にまみれ、自身が垂れ流す糞便にまみれ。折れた骨はおかしな角度でくっつき、涙を止める方法も見つからないまま、地下牢の中で太陽の光を思い出す一生を送るだろうよ」
鬼の言葉に、ティナは額に汗が浮かび上がらせた。
「そ、そのような、ことは……!」
「まぁ生き残る方法があるのに、チンケなプライドでそれをぶん投げるのが騎士だ、と言うなら俺も何も言わん。自決って手もあるが、それだと問答無用で地獄に堕ちるぞ」
「じ……!? いい、いや、そ、そんなの分からぬであろう! のっぴきならぬ事情があれば――」
「地獄の獄卒である鬼が言うんだから間違いない」
喰われるのが嫌なら喰う側に回れ。
そう諭され、ティナは口惜しそうに唇を噛んだ。