5.あ、絶景かな
今のあれは何だ、と羅刹は訊ねる。
「父上が決めた嫁入りの相手だ」
「ご愁傷様だな」
「今ので心が決まった。父上に断りを入れる」
男の名はグレイ・ジャン・ライン。
西の街・ウォールの街に住む男で、ティナの父親と親交のある一つ格上の家の長男。
ティナは二十一歳、グレイは三つ上の二十四歳。向こうはティナをいたく気に入っているが、彼女はあまり快く思っていないようだ。
自宅の扉の下に手紙が二通挟まっていたが、ティナは差出人を見るなりビリビリに破り捨てた。
翌日も散策に出かける。
今回は商業区ではなく、西方面・街同士の境界線となる川へ。
中心地から離れるほどに等級が下がるのか、建物の並びは不均一に、道は狭く複雑に入り組んでいた。また階段や坂道が多い。
各所に川の水を引き込む水路が設けられており、その一つに、汲み取った糞便を流す者の姿を見た。汚臭を感じたのはこれだろう。
少し離れた場所で元気な子供の声がするが、土地勘のない者はそこに辿り着けぬだろう、と鬼は感じていた。
「ほう、川が二色に分かれているのか」
「西側からの山水が、西の川を濁らせているらしい」
時間をかけ蛇のような道を抜けるとそこは、雑草生い茂る河川敷が広がっていた。
合流によるものか、緑と赤みがかった濁色の水がそれぞれ川を染める。川幅も広く流れも速い。
羅刹はふいに富士川を思い、懐かしんだ。
「治水もまぁそこそこやっているようだが」
しばらく眺めたのち、傍にある建造物に目を向けた。
寄り添い合う三つの街ではあるが、お互いの背を預けられるまでではない。
そう言いたげに、川辺には古い大きな監視塔が一つ、対岸にも一つ建てられている。人の出入りがあるのか朽ちゆく気配はない。
「その塔は今、恋人たちの憩いの場に使われている」
羅刹の疑問を察したようにティナが言う。
「なら鬼が加わっても問題あるまい」
すると突然、外壁の窪みに手をかけると、その巨躯から考えられないくらい軽々とよじ登り始めた。
慌てて呼び止める主人の言葉も聞かず、鬼の身体はあっと言う間に頂点の展望台にまで到達していた。
突然現れた赤い異形の存在に、中に居た一組の男女は乱れた衣服を整えることなく飛び出してゆく。
「あ、絶景かな絶景かな」
春の眺めは価千金とは小せえ小せえ。鬼は謳いながら、彼方まで広がる街を望む。
街と言うより、もはや都市であった。建築技術はそれなりに高く、北に目を凝らせば川の二十キロほど向こう霞に合流地点が、更にその奥に、茜色の空を背にした黒い塔らしき影が一つ。
(あれがダロスの塔とやらか)
高さは今いる塔の半分ほど、しかし幅が異様に広く見える。
(で、こっちがウォールの街か)
次に西の方を望めば、橙色を基調とした街並みが広がる。
こちらの街の建物は高さが不均一で、殆どの建物には窓ガラスがはめ込まれていた。金と権力の街ゆえか、温かい色並に反し、私欲に満ちた冷たい印象を受ける。
塔を中心にすればそこは南東の位置。ふむ、と羅刹は鼻を鳴らす。
「情のない街だろう、ウォールは」
後ろから女の声がした。
「女が独り立ちしたくなるのも納得だ」
「理解者が居て助かる」
ティナは口元に笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「しかし何だ。街同士を繋ぐ橋が見当たらんぞ」
建造技術が高いのに橋が少ない。ここから見えるのは、黒い塔の島を繋ぐ二本の橋だけである。
歪なそれにティナは、ああそれは、と二色の川を眺めながら理由を話す。
「それぞれの街が関門を持ち、渡河料を取るからだ。それと川の流れも理由だ。昔は船で渡る者もいたらしいが、転覆することも多く、料金も高くて自然と廃れたと聞いている」
「人や物の流れは相当不便だろう」
「そうなのだ……。フランの街が運営する牛馬車屋に任せっきりでな」
「銭を扱うウォール、商いのライコーン、流通のフラン、――上手く役割を分担しているとは言え、民にとっちゃ不便極まりねえな」
「何をするにも金と手間がかかる、面倒な世界だ」
やれやれ、とティナは面倒そうに首を振った。
そして、この日の夜――。
部屋を抜け出した羅刹は、再び塔のある川辺にやって来ていた。
墨汁のように黒い川面、月明かりの白い波模様を眺めながら、顎を揉む。
そっと目を閉じた次の瞬間、羅刹の身体はみるみる縮み――形を人に、壮年の中に若さを残した、筋肉質な男に姿を変えた。
「二百年ぶりに変化したが――問題はなさそうだな」
男は真っ裸の身体を確かめながら、ふむ、と鼻を鳴らす。
足下に落ちた虎柄の腰巻きを拾い上げると、躊躇いなく川に向かって歩み、するりと水の中に身を投じた。水は思ったよりも冷たく、縁でも腹まで浸かるくらい深かった。
腰巻きを頭に乗せ、強く水底を蹴って川の流れの中へ。流れはやはり速いが、人間が渡れないほどではなかった。
(渡し船にしろ、操舵の腕がありゃいけんだろこれ)
この世界の人間どもはリスクを嫌う、と確信しながら鬼は川を渡る。
水を切る“抜き手”の音は、せせらぎにかき消される。
対岸で蹲っていた少女は、川を渡る鬼の存在に気付かなかった。
「三途の川に比べりゃまだマシだな」
ざば、と陸に上がると、白い雫が赤い肌を滴り落ちてゆく。
目を下に、川のほとりに蹲る少女に向けた。
少女はその屈強な身体を前に青ざめ、わなわなと慄いていた。
「そんな所で小便してると、蚊が先に女陰の血を味わっちまうぞ」
羅刹はそう言って、ウォールの街に消えてゆく。
少女は全裸の男が見えなくなると同時に、なりふり構わず家に向かって走った。
◇
並々ならぬ様子で戻った娘に、両親は何ごとかと訊ねた。
――どうか、どうか結婚の話を下げてください……!
――無理でございます! あのような鈍器……私には無理でございます!
少女の家では一晩中、人それぞれだから、貴方の父は大したことなかったから、と必死で諭す母の声が続いていた。