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明日の結衣

作者: 國本丹

 平野結衣は最近、帰り道を一人で歩くのが怖かった。あきらかに、後ろから人がついてくる気配があったからだ。誰にも相談できず、ただひたすら恐怖心を抱きながら足早に道を歩くが、おそらくそれは世間でいうストーカーというやつだった。

 高校生になって徒歩と電車通学になった。うちから最寄りの駅で、男に道を聞かれたことが始まりだった。それからたびたび、男は用もないのに後ろをついてきた。怖かった。けれど、学校の先生に相談して、おおごとにされてしまっては困る。親に話して心配をかけるのもいやだった。

 結衣はひとりっこだったため、家まで一緒に帰ってくれる人もいなかった。せめて兄弟、欲を言えば、お姉ちゃんがいたらよかったのになと思う。気を許して悩みを打ち明けられたかもしれないのに、と。


「お姉ちゃんがいたら、おしゃれについて語ったり、片思いのアドバイスとかくれたりしたのかな。……悩み相談とかしやすかっただろうね」


 母親の前で心情を吐露したことがあった。母は心底申し訳なさそうに表情を曇らせ、結衣の頭をなでた。切なく笑う母親の表情に、ますます心の内を打ち明けることはできないな、と感じた。その出来事は、結衣の心に鍵をかけさせるきっかけにもなった。

 しかし、毎日つけられているわけでも、何かされるわけでもなかったので、たまたま方向が同じだけの人だ、と思えば、日常生活は普通に送れていた。



 転機を迎えたのは、夕飯を食べ終えて、自分の部屋に戻ってきたいつもの夜のことだった。かすかな足音が廊下からひたひた聞こえてきたと思ったら、突然結衣の部屋の扉がコンコンとたたかれたのだ。両親が入るときは「ゆいー」と呼ぶ。

 勉強机で新刊の漫画を読んでいた彼女は、誰だろうと不思議がりながら、背中側にある部屋の扉に返事をした。少し間があって、そろそろとドアが開き、


「――え?」


 平野結衣、が入ってきた。


「こんばんは、昨日の私」


 結衣はびっくりしすぎて声も出なかった。腰が抜けて、椅子にへなへなとよりかかる。力の抜けた結衣に、扉の向こうからやってきた結衣が歩んでくる。


「びっくりしたよね。ごめんね、突然」

「……」

「見てわかると思うけど、結衣です、平野結衣。あなたと同じ」


 あっけにとられる結衣に、圧迫感を与えないよう、名乗った彼女は腰をかがめてにこりと笑った。


「実はね、私、未来から来たの。一日後の未来から」


 だらんとした手をぎゅっと握られ、我に返った結衣が、未来からやってきた自分とつないだ手、腕、肩、顔に視線を移して、その存在をしっかりと認識した。


「……どういうこと?」

「悩み事があるでしょう。それの手助けをするために、明日から来ちゃった」

「え?」


 心臓がとくんとなる。どういうことだろう。

 結衣は鏡写しの自分を見るように、明日からやってきた結衣を見つめる。


「帰り道に変な男の人につけられてるよね」


 その言葉に結衣は一瞬目を見開く。


「なるべく鉢合わせにならないよう、回避する術を教えるよ。なんたって、ストーカー男のことは、明日の私が把握済みなんだから」



 次の日、結衣はいつもなら右に曲がる曲り角を通り過ぎて、一本遠い角を曲がった。男には会わなかった。


「ストーカーには会ってないでしょう?」


 その夜も、明日の結衣が部屋の扉から入ってきて、自信満々にそう言った。結衣は、うん、と曖昧にうなずいた。いつも通る道を待ち伏せに選ぶのがストーカーなら、今日の行動はいたって普通のことのように思う。


「疑ってる? なんなら、明日は遠くから言った場所を眺めてみるといいよ。きっとそこに男が立ってるから。明日はね」


 駅前を通るとき、バス停近くは歩かないように。

 明日の結衣が指定した場所を改札口からこっそり盗み見る。驚いた。本当に、バス停のところにあの男が立っていたのだ。


「ほんとう、なんだ」


 結衣は生唾を飲んで、こっそり反対出口から帰った。



 帰宅して、家族三人で夕飯を食べ、自分の部屋に戻って、少しすると明日の結衣が来てくれる。他愛もない会話をしながら、最後にはきっちり明日のことを忠告して、部屋の扉から出て行く。後を追ってドアを開けても、廊下に姿はなく、言うだけ言ってどこかへ消えてしまう。――これが日常になってきていた。

 明日の結衣の忠告通りに行動すると、八割方男に会わずにすんだ。しかし、たまに予告が外れることがあった。そうして鉢合わせすると、男は気持ち悪くにやっと笑って話しかけてきた。この前は手を伸ばしてスクールバックに触れようとしてきたので、とっさに逃げた。いやな思いをする頻度がずいぶん減って、家族と過ごす日々も学校も楽しくなった。けれど、明日の結衣が教えてくれることが百発百中でないことが少し不満だった。


「未来なんて変わるもの」


 明日の結衣は言った。


「人の心もちが変わるなんて、ざらにあるよ」

「でも」


 結衣が口をはさむ。


「ばったり会うと、あの人、前よりひどくなってるんだよ。怖いよ。前までは見てただけなのに、昨日なんて触ろうとしてきたんだよ」

「なかなか会えないから、やっと会えたときに思惑が爆発しちゃうんだと思う」


 明日の結衣がさらっと言った言葉に、結衣は背筋を凍らせた。


「そ、そんな……」


 視線を宙に泳がせて、明らかに不安そうな結衣。落ち着かせようと、明日の結衣が手を伸ばすと、逆に結衣が彼女の肩を鷲掴みにして、ゆさゆさ揺らした。


「ねえ、もっとちゃんとした回避策を教えてよ。怖くて、本当にこうでいいのかなって、不安で、帰り道がいやなの」

「……ごめん。完璧なことが言えなくて、ごめん」

「なにかされたらどうしよう。結衣はうちでしか会えないじゃない。帰り道に助けてくれるわけじゃないでしょう? 今日だって、明日のことを言ったら、部屋から出てって消えちゃうじゃん」


 うつむいた結衣の涙が明日の結衣の膝の上に落ちる。明日の結衣はこぼれ落ちた涙を見て、開きかけた口を閉じた。

 結衣は、男の姿を見るたび脳裏をよぎる、最悪な事態を思わず口走った。


「もしかしたらこのままじゃ私、私、いつか殺されちゃうかもしれない」

「……」


 明日の結衣は押し黙る。

 少しの間があってから、言った。


「死なせはしない」


 言葉に、結衣は顔を上げた。


「私は、あなたの死を回避するためにここにいるの。だから、あなたを死なせはしない」

「……え?」


 結衣は目を見開いた。明日の結衣が真剣な表情で見つめてくる。


「結衣、あなたを死なせないために、明日の私はここにいるの」

「え? なに言ってるの? あなたは明日から来た私なんでしょう? どうして死なないの? あなたが助けてくれるの? でも、あなたが助けたところで」


 かばったのは明日の自分なのだから、翌日には自分にその死が回ってくる。避けようがない死。


「……落ち着いて聞いて。あのね、明日、ストーカーの男がこのうちに不法侵入してくる」


 突然、明日の結衣がとんでもないことを言いだした。明日の結衣は、自分の肩に置かれた結衣の両手をゆっくりひざの上におろし、彼女の手をぎゅっと握りしめ、話をつづけた。


「手に刃物を持ってあがりこんでくる。家には結衣しかいないの。ひどい雨で交通網がマヒして、共働きの両親は帰りが遅くなっちゃうから。遠くから来ている生徒のことを配慮して、学校側ははやくに生徒を帰す。だから、明日、下校した結衣は、うちでひとりきり」


 驚きのあまり、結衣の涙は引っこみ、のどがひくっと鳴った。


「欲求が溜まりに溜まったストーカーは、何週間か前から結衣の家を特定していた。そして、その日、うちにあがりこんで、家の中であなたを殺して自分もその場で自殺するの。この世界で会えないなら、一緒になることができないなら、あの世で永遠に一緒にいられるようにって」


 明日の結衣がじっと結衣のことを見つめる。


「……ていうのが、明日のこと」


 ふうと息を吐いた明日の結衣は、微笑んで、


「でも、私があなたを守るから大丈夫」


 と言った。


「……そんなのおかしい」


 ようやく動くようになった首をゆるゆる振って、結衣はさきほど心の中に沸き上がった矛盾を口にする。


「あなたがかばったところで、あなたは明日の私なんだから、次の日には結局、その死が私のところにきちゃうじゃない」

「ううん、こないの。あなたに死は訪れない」


 言葉を聞いた結衣ははたと思いついた。


「ねえ、明日のいつ死ぬの? 明日の私が予告にきてくれてるんなら、まだ死んでないんだよね。話が終わってこの部屋を出て行って、明日に行ったら殺されるの? そういうことだよね? なら、今日はずっとこっちにいて。明日に戻って、殺されないで」


 明日の結衣はまだ生きている。ストーカーの男が時空を超えられる力なんて持ってるはずがない。だったら、ここにいれば死なない、死なずにすむ。


「お願い! この部屋から出ていかないで!」


 叫んだと同時に、思わず結衣の腕は明日の結衣をがばっと抱きしめていた。反射的だった。

 耳元で、はっと明日の結衣が息をのんだ。しかし、と明日の結衣は弱くなりそうな意志をぐっと引き締め、震える声で本当のことを話すことにした。


「……ごめんね、結衣。本当のこと言うとね、私はあなたじゃないの」


 触れ合った体から、結衣の驚愕が伝わってくる。


「本当は……お母さんのお腹の中で死んでしまって、生まれてくることができなかった、あなたの双子の姉なの」


 力が弱まる結衣の代わりに、姉は、力強く結衣を抱きしめた。泣きそうになる。


「お母さん、きっと何も言ってないと思うけど、私とあなたは母体の中で双子の姉妹だったんだよ」


 涙を目のふちにためながら姉は打ち明けた。


「天上界で来世を待ってたんだけど、あなたに死が近づいてることを知って、いてもたってもいられず、神様にお願いしたの。妹を理不尽な死から救いたいって。そうして霊体を借りて、あなたに会いにきた。びっくりね。神様が与えてくださった霊体は、この世に生をうけるはずだった私の姿なんだけど、ほんと、びっくりするくらい、あなたとそっくり」


 ははっと、乾いた声で笑う頬には涙が伝っていた。


「胎盤の中で死んだあなたの姉です、だなんて、お母さんがかわいそうだし、あなたをますますびっくりさせちゃうから、明日から来たってうそついちゃった。ごめんね」


 姉の涙が結衣の肩を濡らす。


「幽霊だから人間の心を読むことなんて、ぞうさもないことだったけど、人の心は変わりやすいのね。この部屋で霊視したとき見えた男の行動を伝えてみたけど、翌日には気分が変わっちゃって、違う道を行くんだもの。……そのせいであなたに怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい」


 いつの間にか、姉の肩にも涙がこぼれ落ちていた。姉は静かにはにかんで、つづけた。


「これでわかったでしょう? 私があなたをかばっても、あなたが死なない理由。部屋を出て行っても死なないわ。明日にならないと、ストーカーはうちにこないもの。そして、ストーカーが殺すのは、姉である、私」

「そっ、そんなのいや!」


 嗚咽交じりに結衣が体をよじる。姉は、妹を強く優しく抱いて、離さない。


「ここまできてあなたが死んだら、神様にお願いして霊体を借りた私の苦労が台無しじゃない。ばかね、結衣」

「ばかなのは、おねえっ――」


 ――お姉ちゃん。

 ああ、と結衣は以前の母の様子を思い出す。姉がいたらとこぼした一言に、あんなに表情を曇らせたのには、こんな理由があったのか、と。なんてひどいことを言ってしまったんだろう、と。


「いい、結衣。お姉ちゃんのお願いを聞いて。明日、帰ってきたら、普段通りに部屋に入って、普段通りにここにいて。男が家に入ってきたら、私が廊下に出ていくから。怖かったら、耳をふさいでいたらいい。やがて、帰宅した両親が異変に気づいて来てくれるから。廊下にストーカーの死体があって、きっと気持ち悪いだろうけど、我慢して。少しの間だけだから、ね? 結衣」


 結衣はわんわん泣いた。むせび泣きは下の階にまで響いて、心配した母親が泣きじゃくる結衣をやさしく抱擁したほどだった。



 翌日は朝から土砂降りだった。

 天候による交通網の渋滞を予想した高校は、生徒たちを午後の授業を打ち切って帰した。結衣も、いつものように帰った。校門を出て、電車に乗って、下車して、傘をさしながら家まで歩いた。

 電車が遅延して、結局うちについたのは夕方だった。濡れた傘を玄関の外に置いて、家の中に入った。玄関の鍵を閉める。風呂場のタオルを持って二階に上がった。自分の部屋に入ると、電気をつけた。重い、灰色の雲のせいで外は暗かった。

 がちゃん、と下から音がした。窓ガラスの割れたような音だった。ストーカー男が一階の窓ガラスを割って、家の中に入ってきたのだろう。勉強机に座って、濡れた髪、制服にタオルを押し当てていた指が、固まる。机に座ると、部屋の扉は背中になる。急速に不安が増して、背筋が凍った。


「――結衣」


 ふわり、と背中にぬくもりが伝わった。白く細い腕が肩を包み込み、結衣の胸のあたりで交差する。ぼろぼろ、みっともないくらい涙を流しながら、結衣は抱きしめられた腕を見た。


「ありがとう。会えて、よかった」


 ささやかれる声。結衣がその手を触ろうとした瞬間、抱きついていた腕と、背中にくっついていたぬくもりが、すっと消えた。

 かすかな足音が廊下からひたひた聞こえてきた。男が階段を上って二階の結衣の部屋を探していた。男にドアがノックされる前に、姉は自ら扉を開け、廊下に出て行った。



 その後、帰宅した両親が窓ガラスの割れていることに気づき、急いで二階に上がってきた。廊下に男の死体があり、母親は叫び、父親は結衣の部屋に駆け込んだ。机に突っ伏し涙を流す結衣を抱き寄せ、父親は警察に連絡した。

 それから警察がやって来て、家じゅうを調べたり、事情を聴かれたり、近所の人たちが心配で様子を見に来るほど騒がしく過ぎていった。


 しばらくして事件が落ち着き、結衣は母親に自分の生まれたときのことを聞いた。


「お姉ちゃんはどんな赤ちゃんだった?」


 そう聞く結衣に母親は驚いて目を瞬かせた。けれど、結衣のおだやかな目に、母親は何かを悟ってお腹の中にいた二人のことを話した。蹴るタイミングも一緒で、話しかけると嬉しそうに動いてくれた。生まれてくるときに姉は死んでしまったけれど、結衣が生まれてきてくれて嬉しかった、と。


「もし生まれていたら、結衣のお姉ちゃんはきっと優しい人だったろうね」


 母親の言葉に結衣はうんと頷く。


「お姉ちゃんは優しい人だよ」


 遠くを見つめて結衣はつぶやいた。


「私を守ってくれた、優しい人」


 私の明日を守ってくれた、優しいお姉ちゃんだもの。


【完結】

あとがき

こんにちは、しゅんこです。

『明日の結衣』を読んでくださり、ありがとうございます。

この話を書いたとき、「明日の結衣が来てるなら、今の結衣が、明日になったとき明日に行かないと矛盾しちゃうよね」と言われ、確かにそうだなと思いながら、「お姉ちゃん」を「明日から来た結衣」で貫きました。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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