Rの鬱
いつからだっただろう、この手に触れる全てが煩わしく感じたのは。
私は白いシーツの上で今日も目を覚ます。
カーテンの隙間から漏れ出た光が目を刺して、それだけで気分が沈んだ。
一人暮らしのアパートで、味気の無い朝食を済ませて、機械的な動きで制服を着て、身支度を整える。
リボンを巻く手を止めて、鏡に映った自分に本当に今日も行くのと無駄な問いをする。
答えなんて帰って来ないのに、自問する。
短い逡巡のあと、私はまた手を動かしてリボンを結ぶ。
私の背は同世代の平均よりもずっと低い。顔も雰囲気もずっと幼い。
それでも、私は制服が示すように十代後半の人々が通う学校の二年生だ。
光によって照らされた橙に近い色の細い髪、眠そうな垂れ目、小さな尖ったカッパ口に、平坦に近い胸、引き締まったお腹と腰、折れそうな手足。
どれもこれもが私を構成する部品で、私自身だった。
「さあ、行こう」
誰にともなく呟いて、私は今日も学校へ行く。
私には人には言えない秘密がある。
私には所謂超能力がある。
それは誰かに論理的に証明されたわけじゃない。
でも、出来る。
私は私の望んだ時に任意の何かを壊すことが出来る。
具体的には、念じると物質だろうと出来事だろうと意識だろうと文字通り壊すことが出来る。それは物理的な破損という意味でもあるし、精神的な破綻でもある。
例えば、目の前にある信号機をへし折ることが出来る。
例えば、目の前を歩く多くの人の意識を失わせることが出来る。
例えば、目の前の空間をガラスのように砕くことが出来る。
例えば、目の前に広がる空に重力を壊して浮くことが出来る。
純然たる破壊を私はいつの間にか極めていた。
でも、それはこの世界を生きる私にとって必要のない能力だった。
こんな能力があるのだったら、もっと他の能力が備われば良かった。
だって、こんな能力があるのが知れたら、私はきっとこの世界から排除されてしまう。誰とも人生を共有できないなんて寂しいと私は思う。
でも、きっと私はずっと前からもう世界から外されてしまっている。
だって、多分本気を出したら私はこの世界自体を壊すことが出来る。
自分の意識だけで世界を無かったことにしてしまえる。
よく創作物やテレビの向こうで世界なんてなくなってしまえばいいという願いを聞く。
とんでもない。本当にそんな能力を持っている身にもなって欲しい。私はそんな大それた存在になりたくない。なれるのなら、ただ一人の女の子として笑ったり、泣いたり、怒ったり、アイスクリームを食べたり、写真を撮ったり、着飾ったり、恋人のことで頭を悩ましたい。
でも、最初から私にはそれが出来ない。
だって、この幸福な世界でただ一人私は終わりをもたらす能力を与えられている。
それはこの世界で最も不幸な能力だった。
チャイムが鳴ったのを確認して、私は教科書を片付けると、鞄に仕舞った。
教室のあちこちで明るい声が響いている。
その当たり前の音で、私はいつも少し泣きそうになる。
どうして私はその中に混ざれないんだろうと自己嫌悪で気分が悪くなった。
教室を出ても、楽しそうな声は消えてくれなかった。
歩く。
耳を塞ぎたいような希望。建物内に広がる前向きさが私には痛い。
歩く。
生きることの理不尽さに迷いながら。続くことの残酷さに傷つきながら。
歩く。
学校を出るまでの時間が私には苦痛だった。
私は日記をつけている。
それは多分、私にとっての精神安定剤みたいなものだ。
いつも日記には辛い言葉や冷たい感情ばかりが並ぶ。
それでもやめられない。
読み返すことなんてしないのに、私は日記をつける。
鬱々とただ積み重なる負の残響。
言葉は毒で、言葉は凶器、そして言葉は麻薬。
壊すことしか出来ない私の日記。
「Rさんの声って聞いたことある?」
「ないねー。あの子授業中当てられても無視するばっかりだし」
「先生も当てなくなったもんね」
「それでいて成績良いからなんかむかつくよね」
「ねー、何かお高く留まってる感じで」
「何なんだろうね、あれ」
「本当にねー」
クラスの雑音が聞こえる。
ねえ、私の気が変わったら、貴方達、全部壊せるんだけどと私は声に出さずに思う。
くだらなかった。
世界も、私自身も。
壊せても何も出来ない私。何も残せない愚かな私。
私自身が壊せるならどれだけ良かっただろう。
何度も試したのに、私は私を壊せなかった。
壊す能力は私の死すら壊してしまっていた。
だから、私には生の実感がない。
生きていることが死んでいることに直結してしまっている。
何も考えたくはない。
でも思考停止すら壊れている。
誰が一体こんな能力を私に備えたのだろう。
狂えたなら良かったのに狂気すら私は壊されている。
誰か、お願いです。
ただ祈る。
私の終焉を。
それが多分、私の物語。
壊れない私を壊してくれるものを望む救いを求めた物語だ。