私、転生しました
「楓ちゃん、これがお花だよ。ピンクのカーネーション。綺麗でしょう」
私の見た楓という小さな女の子は、人間とは思えない状態でした。床に寝かされ、たくさんのホースと装置に囲まれて、肥料のような液体をただ与えられる、悲しい姿でした。狭いポットに入れられ、周りに配管が巡らされて、装置から定期的に水が流れてくる、そんな昔の私と重なりました。
彼女は病気で体を自由に動かせなかったのです。私と同じ植物のような子でした。
家族がいないとき、楓ちゃんは孤独でした。白一色の病室には何もありません。ずっと窓辺の私を見ています。彼女は私についてどう思っているのだろう。私もずっとそんなことを考えていました。
ふいに、楓ちゃんの声がしました。
「お花さんは動かないけど、辛くないの」
私は動かない体で震えました。だって生まれてから一度も声をかけてもらったことなどないのです。
嬉しさのあまり楓ちゃんと話したくなりました。私だって退屈だったのです。
(辛くないよ、だって私はこういう生き物だから)
自分なりに声を上げてみました。でも、彼女に届くことはありません。私は声を出せないのです。
「お外に出たい?」
(お外には出たいよ、めいっぱい日を浴びたい)
「あたしも出たい、ずっとベッドの上だから」
私は驚きました。まさか話が通じているとは思わなかったのです。
「ふふふ、驚いた? お花さんはあたしと一緒、だからよーく分かるの」
(すごい、心までわかるんだ)
私がそう言うと、楓は得意げな顔をしました。
「外に出たいのは一緒だね」
(うん、そうだよ)
私の言葉に、楓はぽーんと跳ねて全身を私に向けました。
「じゃあ、あたしがお花さんを外に出してあげる。病気が治れば、あたしはお花さんを連れて外に出られるから」
小さな女の子の無邪気な言葉。
(本当なの)
「ほんとだよ、約束する」
その言葉に淡い期待を抱きました。私みたいな生き物は期待することしかできないのです。生まれるのも偶然、生き残るのも偶然、他の花と結ばれるのも偶然。自分では何もしてあげられないのです。
だから、楓ちゃんに言いました。
(約束だよ)って。
そして私は楓ちゃんと一緒に眠りました。
「帰りたい、帰りたい」
私は目覚めました。あまりにも大きな声で眠れなかったのです。
時計は午前三時を指しています。草でさえ寝ているのに、子供なら起きているはずありません。聞き間違いでしょうか。
「帰り……たい」
やっぱり聞き覚えのある声でした。
(楓ちゃん?)
楓ちゃんは寝返りを打つだけで答えてくれません。ホースがいっぱい付いた体なのに寝相が悪く、回転しています。
「帰りたい」
昨日、私とお外の話をしたから家に帰りたくなったのかな。夢の中でうなされているのかな。
心配になりましたが、私は何もすることができません。ただただ寝言が収まる時を待ちました。明日は大丈夫だろうと願っていました。
しかし、この寝言が収まる様子はありません。毎日午前三時から寝言と激しい寝返りが始まるのです。私は毎夜起こされましたが、何も言わないことにしました。私だって段ボール詰めにされたとき、ずっと(出して! 箱から出して!)と泣いていたのです。私も楓ちゃんも同じ、人のことは言えません。
そうして寝言は毎夜の風物詩となりました。いつの間にか午前三時の楓ちゃんの様子を眺めることが、私の楽しみの一つになりました。
月日が経ち、私の花の時期は過ぎていきました。始めは看護師さんも水をくれていましたが、今では週に三度ランダムに来る家族しか私に水をくれません。楓ちゃんが言っても状況は変わりません。
夏の盛り、冷房が入っているとはいえ、三日間絶水の体はカラカラでした。
お願い。誰か、誰か水を下さい。
楓ちゃんだけが気づいて、お茶入りのペットボトルを私に差し出してくれました。
でも、彼女は動けません。必死に手を伸ばしても私の所には届かないのです。ペットボトルはついに手から滑り落ち、お茶は床に零れてしまいました。
楓ちゃんは頑張ってくれました、私はとても嬉しかったです。
でも、結局誰も水を与えてくれませんでした。看護師さんはお茶を拭き取っただけで、そのまま夜を迎えました。
私は朝が来るまで耐えるしかありません。渇いて、渇いて、苦しくて、私は眠ることができません。ただ楓ちゃんの寝る姿を、苦しみに耐える姿を見習って、我慢するしかありませんでした。
長い夜の大半が過ぎ、起床まであと四時間に迫りました。
正直、私は限界でした。朝まで持つ自信がなかったのです。体の力は抜け、重力に耐えられず鉢の縁にもたれ掛かりました。
もうろうとした意識の中、私はあることに気づきました。
午前三時になっているのに、楓は「帰りたい」という寝言を言わないのです。いつもは斜めを向いている体も今日はまっすぐ。
装置の警報は鳴りません。でも画面に描かれる線は、明らかに右肩下がりでした。
(楓が危な……)
私の声は出なくなりました。もう私には何もできません。
視界の闇は濃さを増し、画面の波形は黒く染まっていきます。そして意識の重力に私は沈んでいきました。
闇の中から差し込む光。私はそれで目覚めました。
「目が覚めましたか、小さな子よ」
私の目の前に大きな光が浮かんでいました。電球とかLEDではない、完全に浮いた光の球です。
「怖がらなくていいですよ。私は草花を司る神様です。あなたの味方です」
神様? じゃあ私は。
「そうです、あなたは枯れ果ててしまったのです。人間に愛されるべき鉢植えとして生まれたのに、カーネーションは夏に弱いことを考えず、忙しさのあまり、水やりも忘れて殺したのです」
光の神様は私の元に降りてきました。
「でも大丈夫、あなたには幸せになる権利があります。次は必ず外の世界で生きられるようにしてあげます。人間に縛られず、日の光を浴び、雨を浴び、自由に生きられます」
私は神様の言葉を聞いてちっとも嬉しくありません。私の望みと違うのです。
「望みと違いますか。確かに自然界は厳しいですからね。でも安心して下さい、あなたには私の特別な加護を与えます。虫や動物といった外敵や、天災に耐えられる強い体と運を授けましょう。そうすればあなたは天寿を全うするまで生を謳歌できます」
違う! そんなの私は求めていない。私を外の世界へ出してくれると楓ちゃんは約束してくれた。最後まで私を助けようとしてくれた。だから、私は楓ちゃんを助けたいの。
「確かに、楓ちゃんはいい子でしたね。でも、あの子の元に戻ってもあなたは何もできません。あなたは楓ちゃんの悲しい末路を見るだけで終わるかもしれません。それでもいいのですか」
神様の言う通り、お花として生きるなら楓の元に行くべきではありません。でも、こうすれば――。
「神様、私を人間として転生させて下さい」
私の言葉に神様は大きく瞬きました。
「に、人間ですか。あなたを殺したのですよ」
「楓ちゃんは違います。神様は人間に転生させられないのですか」
光の球は地面に落ち、小さく縮んでしまいました。
「できないことは……ないですが……。いいのですか、もう二度と花に転生はできませんよ」
「大丈夫です」
「それとあなたがお花だったと知られたら、人間生活はおしまいです。それでもいいのですか」
私の心に迷いはありません。私は全身で頷きました。
神様は私を持って、光の世界の奥にあるトンネルへと連れていきました。
「このトンネルを通れば、あなたは人間に生まれ変わり、楓ちゃんの元に帰ることができます。でも、二度と元には戻せません。いいのですね」
「はい、お願い致します」
私の返事を聞いた後、神様は私をトンネルの奥へと運んでいきました。すると、くたびれた鉢植えだった私の体から手足と頭が生えてきて、楓ちゃん位の年の子に変わっていきます。私は神様の手元から離れ、病室に向かって走り始めました。
病室に近づくにつれて大きくなる体。いつしかピンクの衣をまとった女性へと姿を変え、トンネルを出ました。
私は人間に転生しました。
病室では赤い表示と電子音が鳴っています。看護師さんやお医者さんは一人もいません。
私は真っ先に楓ちゃんの手元にあるボタンを押しました。何度も何度も押しました。
廊下から走る足音が聞こえます。大勢の人が病室に入ってきました。
照明が点いて、楓ちゃんはベッドごと運ばれてゆきます。私は邪魔といわんばかりの目線により病室へと残されました。
遠くなる電子音。私はただただ待つことにしました。
翌朝、私は集中治療室の影で看護師さんに怒られました。
「当院では四歳以上のお子さんの付き添いは許可制なんです。許可申請書を提出されましたか」
私は首を横に振りました。
「お名前は」
私は名前を聞かれて困りました。私には名前が無いのです。あるとすれば『カーネーション』とか『撫子』という生物名。
でも私はふと思いました。『楓』がいるなら『撫子』だっているはず。だから私は素直に「撫子です」と答えました。
看護師さんは笑っていました。
余程おかしな名前だったのでしょうか。
「愛に溢れた名前ですね」
「ええ、よく言われるんです。花言葉通りだって」
看護師さんはまた笑いました。もう、私を怒っている様子はありません。
「今回はあなたが居て下さって助かりました。ありがとうございます、撫子さん」
看護師さんは病室を離れようとしました。でも廊下に出ると私の方を振り返りました。
「あと……あのカーネーション。枯らして、申し訳ございませんでした」
看護師さんは深々と頭を下げました。
「え~、何のことでしょう」
神様との約束です。転生したなどと悟られてはいけません。
「あ、いえ、何でもありません」
そう言って、看護師さんは去っていきました。私は変化がないことを確認し、そっと胸を撫で下ろしました。
ありがたいことに申請書の話はうやむやになり、いつの間にか付き添いが許可されました。
さらに一日が経過して、楓ちゃんは元の病室へと帰ってきました。処置の結果、楓ちゃんは一命を取り留めたのです。
看護師さんによると、もし私がナースコールを押していなければ、間に合わなかったかもしれない、ギリギリの状態だったそうです。
病室に帰ってから家族がいない間は一日中、楓ちゃんのそばにいました。
一緒に話したり、テレビを見たりして過ごしました。
食事はおかゆに変わり、点滴は少しずつ減っていきました。
「撫子さん。あたし今日からご飯だよ。普通のご飯!」
楓ちゃんの顔は喜びに満ちています。私は確信しました、人間に転生して良かったと。
「撫子さんもご飯いる?」
お茶碗を差し出され私はギョッとしました。人間に転生したとはいえ、私は米を食べるなどという共食いじみた行為はできませんし、する必要もなかったのです。
「楓ちゃん、これはね病院の人が楓ちゃんのことを思って作ってくれているの。全部食べないと、ずっとお外へ行けないよ」
「え~。あたし嫌だ。やっぱり食べる~」
全力でご飯を食べる楓ちゃんを見ていると、私までお腹が空いてきました。私は楓ちゃんの微笑ましい姿を見ながら、ペットボトルの水道水を飲み干しました。
さらに月日が経ち、楓ちゃんはついにベッドを離れることになりました。
「楓ちゃん、今日は撫子さんとお外回ろうか」
「うん!」
看護師さんに車椅子を預けられ、私は外来へと回りました。そして自動ドアをくぐり、白い光の中へ入っていきました。
「やっと外に出られたね」
「撫子さんのおかげだよ」
「ううん違う。楓ちゃんが今まで頑張ったから、外へ出ていいことになったの」
そう、楓ちゃんの約束は今、果たされたのです。
光の中には大きな七色の花時計がありました。
楓ちゃんはキラキラした目で、色とりどりのお花に触れていました。
無機質な白一色の世界にいると色が恋しくなるのです。テレビのカラーでは補えないほどに。
私も楓ちゃんと一緒にお花に触れて、無性に友人たちといた昔を思い出してしまいました。
「ありがとう楓ちゃん。私を外の世界に出してくれて」
楓ちゃんは私に向かって微笑みかけました。
「ずっとそばに居てくれてありがとう、あたしのお花さん」
私はついにばれてしまいました。神様の約束通り、人間として生きることはできなくなりました。
体がゆっくり薄れていきます。
「お花さん? 消えちゃうの?」
「ごめんね、楓ちゃん。神様との約束なの」
なんだか楓は寂しそうでした。
「もうお外には出られないの?」
私は小さく頷きました。
「じゃああたし、神様にお願いする。今度生まれたときはお外で暮らせますようにって、ずっと日を浴びて、雨を浴びて、自由に暮らせますようにって」
楓ちゃんは不自由な手で私を握りました。温かい手でした。
「ありがとう、楓ちゃん。早く元気になって、私も神様にお願いしてみる」
楓ちゃんが頷くと、彼女は遠ざかっていきました。私はもう消えてしまったのです。
私は再び、光に満ちた神様の元へと帰っていきました。
やはり、再びあの世界で生きることは、許してもらえませんでした。神様との約束。この現実は受け止めなければならないようです。
でも、神様は私に手を差し伸べてくれました。もう一度、あのトンネルへ私を連れていってくれました。
トンネルの向こうは彩り豊かに輝いていました。七色の花畑が目の前に広がっています。
「ほら楓、これが花時計だよ」
楓ちゃんは父親に車椅子を押してもらい、花畑に近づいていきました。たくさんある内のピンクの一輪に手を触れて、そっと手放しました。
「あたし、またあのお花さんに会えた気がする」
「さーて、どこにいたのかな」
今、私は外にいます。ずっと日を浴びて、雨を浴びて生きています。退院した楓ちゃんと一緒に、心の住人として生きています。