15
ナユタ家の道場は想像以上に広く、複数人が暴れても問題ないスペースは十分に確保されていた。
大事に手入れをしているものの、変色した柱や床には無数の傷があり、長く厳しい鍛錬の月日を見て取れる。
俺とさほど変わらぬ年齢に見えるナユタが一代で生み出したにしては濃すぎる年輪。
道場の由来や用途が気になるところだが、外部から来た学園関係者は島民に深入りしないのが暗黙の了解である。
俺は詮索せず、怪我防止のために簡易的な点検を始めた。
「せんせー、レディオ体操みたいなのした方が良いですか?」
俺主催のなんちゃって勇者訓練に即座に参加を表明した姫花が、道場の床を転がりながら聞いてくる。
床の強度を確認する流れで、俺は姫花の額をこんこんと叩いた。
「八重樫さんよ、モンスターを前に準備体操をする勇者を見たことがあるかね?」
「ああそっかぁ……確かに、家の近所に住んでた山崎さんもうるさいバイクの音がした時はソッコーで手斧もって走り出してたしなぁ」
「山崎さんとやらは確かに勇者的かもしれんがな。近づくなよ」
俺が顔をしかめて警告すると、窓を開けて回っていた優香里が意味深な笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ先生。山崎さん、色々あって今はロシアの漁船に乗ってるらしいですから」
「そうか……まあ、ハッピーエンドで良かったよ」
「噂じゃお隣の足立さんが栽培してる怪しいキノコの秘密に触れてしまったらしいよ」
「お前の近所は魔界かよ。絶対に近寄らねえ」
八重樫家は超高級住宅街にある。
ちょっとしたブルジョワは穏やかで落ち着いた人間が多いが、金持ちのレベルが上がると変態が急激に増えていく。
嫌われるのも好かれるのも危険なのだ。
俺は家庭訪問的なイベントがないことを祈りつつ、立ち上がると参加者達を振り返った。
「よし、それでは補習授業――じゃなくて勇者道場を始めます」
集まったのは八名。
俺に協力的な蛍と桜を筆頭に、お目付役の美景、格闘狂の環、無邪気な初等部ペア、普通に真面目な恵麻。
不参加は集団行動や灰尾八雲が嫌いないつもの連中と、その管理役を担う奏を合わせた五名。
副担の滝本はそちらのフォローに回っていて道場には来ていない――そういう話にしてある。
ユニーククラスにしてはまあまあの出席率。
蛍たちとたった三人で授業を続けてきた俺はちょっとハッピーに浸った。
「ニヤニヤしてないでさっさと始めてください」
最前列で腕を組む美景のきつい一言に俺は顔を引き締める。
と同時に一足で距離を詰め、腕を鋭くしならせた。
「この――どういうつもりですか!」
俺のフィンガージャブを半身になって躱した美景が、手刀を胸の前に構えて吠えた。
道場稽古とあって刀を外しているが、俺の喉元を狙うその指先からは帯刀時と同じくらいの圧力を感じる。
俺は元の位置まで後退しながら拍手を送った。
「素晴らしい反応だ。本当なら距離を取って安全を確保するか、俺の死角に回り込んで反撃を加えたいところ。重心にも迷いが出たが、それも一瞬のことだ。仲間を守るためにあえてその場にとどまった判断、花丸を上げよう。リーダー兎羽美景、乙女心はちょっと打たれ弱いが悪くないじゃないか」
「い、いちいち解説しなくていいです! それより今の凶行を説明してください!」
怒りと照れで顔を赤くした美景が手刀に力を込める。
俺はまあまあ落ち着けと両手を広げてなだめ、呆気にとられた様子の他の生徒を見回した。
「諸君、俺はモンスターだ」
沈黙。
やがて桜が嘘らしく頬を染め、俺の股間を見ながら恥じらうように口に手を当てた。
「まあ先生……そうなのですか?」
「積極的に発言してくれるのは嬉しいが、どうか口に貞操帯をつけてくれ……俺が言いたいのは、バトルはモンスターや敵の奇襲から始まることが多いということだ。格闘技の試合みたいに向かい合ってはいスタートなんて滅多にない。今の兎羽のように、予想しない場面で唐突に攻撃を受ける。ここまでは良いか?」
頷く生徒達。
アホの環がさあ来いさあ来いと俺の攻撃を待ち望んでいるのは無視し、警戒を解かない美景を指さした。
「兎羽は異常者だ。違った、特殊な訓練を受けた人間だ。だからこの距離でも瞬時に対応出来る。だがこれほどのレベルに到達するには十年近くかかる」
「あの、それじゃ私達は覚えられないんじゃないですか……?」
「普通の感想だが正解だ古泉。更に言えば、訓練を受けた兎羽も護身術の範囲を出ていない。限定的な状況にしか対応出来ない」
俺の言葉に美景が頬をひくつかせる。
「誇るつもりはありませんが、あなたは私を侮っていませんか?」
「侮ってはいないさ。君が叩き込まれた対奇襲戦闘はプロ顔負けの一級品だ。でもそれはあくまで自分の身を守るためのものだろう? 例えばそうだな、俺が刃物を八重樫に向かって投擲し、同時に古泉に拳で殴りかかったらどうする?」
生徒達は視線を動かして姫花と恵麻、美景の立ち位置を確認した。
姫花は俺から見て美景の左側に立っているが、間に優香里がいるから一動作では対応出来ない。
恵麻は姫花とは逆に美景の右側、生徒達の一番端に立っている。
俺が動き始めるのと同時に守りに向かえばぎりぎり間に合う距離。
美景はむっと唇を噛み、思案の末に返答を絞り出した。
「刀法術で対応します」
「魔力を用いた伝統剣術か。確かに簡単に防げるだろうが、そういう話なら俺も刃物じゃなくてもっと厄介な魔法を使うぞ。ん?」
「ならばあなたが魔法を使う前に斬り捨てるまでです!」
「脳筋じゃねーか!」
まあ愛刀を腰に下げてりゃ不可能じゃないんだろうが、これがそういう話でないことはキレ気味の美景もさすがにわかっている。
優香里がおずおずと手を上げた。
「あの、先生が美景さんならどうするんですか?」
「いい質問だ水船。俺なら八重樫を助けて古泉を見捨てる」
「ええ!? 先生ひどい!」
ショックを受ける恵麻を安心させるべく、俺は笑顔で頷いた。
「もちろん八重樫を助けた後でお前が生きてたら助けに行くさ」
「いやいや! 心配するなみたいな顔で言わないでくださいよ! 私が死んだらどうするんですか!?」
「八重樫抱えて逃げる」
「ええ……」
「――それはつまり、優先順位をつけろという意味ですか? 命を秤にかけろと?」
天を見上げる恵麻に代わって、美景が詰問寄りの質問をしてくる。
俺達が対峙する原因となった例の案件を連想したのか、美景の視線が温度を下げ始めている。
落ち着かせるように、俺はゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃない。何を優先し、何を捨てるかはその時に覚悟を持って判断するしかない。しかし俺は君たちに今、命を天秤にかけられるよう順位付けをしろと言ってるんじゃないさ。そういう状況になったらどうするかではなく、そういう状況にならないためにはどうすれば良いかという話をしたいんだよ俺は」
まあ今のところは、だが。
実際は美景が危惧するように、命を天秤にかけなければならない時は確かにある。
しかしこの娘達には縁遠い話だろうし、その領域には今は触れないでおこう。
「……でも先生、私を見捨てるんですよね」
じとっとした目で恵麻が見つめてくる。
あっさり言い過ぎたかと反省しつつ、俺は苦笑いを浮かべた。
「悪い悪い。しかし古泉を後回しにするのは八重樫よりも君の評価が高いからだ。八重樫は幼く、身体も小さいから襲われたらひとたまりもない。だが君は魔法戦闘の初回の授業でやった運動能力テストの結果から見てもそこそこ動けるし、そこそこ機転も利く。即死は回避できるはずだと思った――と言うか期待したわけだ」
わざと持ち上げる言い方をしたのは確かだが、実際に古泉恵麻という少女は本人が考えているほど運動は苦手ではない。
俺が実施したテストは、単純な足の速さや筋力を測定するものではなく、初めて挑戦する様々な課題に頭と身体を使ってアプローチする能力――対応力を測る目的があった。
梢や環といった一部の驚異的な運動技能を持った人間を除けば、恵麻のそれはむしろ上位にくる。
幼少期から器用なタイプではなかったのだろう、課題に対する思考力が高いし反射能力も悪くなかった。
そういった評価を含めた解説をしながら魔法戦闘の本格的な内容に踏み込もうとした矢先に、ボイコットが始まってしまったのだが。
「そこそこ……うーん、ちょっと引っかかるけど、まあ理屈がわからなくもないかなぁ……」
恵麻は首をひねりつつも若干嬉しげな顔をした。
ユニーククラスにあって中々見ることの出来ない素直な反応にちょっと和む。
しかしその一方で凄まじい形相をした者もいた。
それは美景――ではなく、八重樫姫花であった。
「あたしの戦闘力は五十三万だよ……せんせー、舐めてもらっちゃ困る」
半笑いで俺を見上げる人型魔法大戦。
その隣でため息をつく人類の命綱。
どちらかがちょっとした気まぐれでも起こせばこの島は三日で更地になるだろう。
「別に舐めてるわけじゃないぞ八重樫。ゴーレムを生み出す時間と水船のサポートがあれば、君は無敵に近いかもしれない。だが初動はどうしても遅いし接近されたら致命的だろう?」
「夜叉丸がいるもん。あの牙にかかれば大型トラックだって豆腐みたいに引きちぎれたんだから!」
「引きちぎれたって、予想じゃなくて過去形なのかよ……しかしあの物騒な魔犬も全力を発揮するにはいくつか条件があるんじゃないのか?」
「う、なぜそれを……」
ぎくっと効果音がしそうな表情を浮かべる姫花。
学園に来て以来、潜在的脅威であるあの魔犬を分析しようと何度も試みたが、正体は未だにわかっていない。
しかしやつの身体の内部には誓約型の呪縛魔法が何本も走っているということは把握できた。
誓約の内容は不明だが、呪縛を解かれなければ身体の大きさを自在にいじれるだけの使い魔に過ぎない。
「いいか八重樫。今ここにないもの、今ここで出来ないことを勘定に入れちゃいけないんだ。それは所詮、幻想に過ぎないんだからな」
「……それじゃあたし、ただの小柄でか弱い美少女でしかないじゃん。あたしはお姫様じゃなくて勇者が良いの」
冗談めかしてるが目元がちょっと怪しい。
弱い者扱いされるのがどうしてそんなに嫌なのかはわからないが、泣き出す前に言葉を繋いでおこう。
「おいおい、早合点をするな。俺は勇者道場をやると言っただろう。今ここにないものを用意する、今出来ないことを出来るようにするのがこの時間だ。俺の教えを全て学んだ暁には、お前も立派な勇者に――いや、美少女勇者になれるはずだ」
目尻に浮いた僅かな滴を拭った姫花は、俺を縋り付くような目で見上げた。
「……あたし、魔王の精鋭部隊を秒で挽肉に出来るようになる?」
「え? あ、ああ……きっといつかは、そうだな」
「あたしに刃向かったことを奈落の底で後悔させてやれる?」
「うん……多分」
「あたしの名前を聞くだけで罪ある者達が許しを請い、自ら舌をかみ切るようになる?」
「……はい」
「それじゃあたし頑張る! せんせー、ご指導よろしくおねがいします!」
目をキラキラ輝かせて燃える勇者姫花。
その行く末は新たな魔王でないかと危惧した俺は、助けを求めるように参加者達を見回した。
しかし皆が目を逸らした。
勇者はいなかった。
「――とにかく、命の取捨選択をしなければならない状況を回避したい。では、どうすれば良いか。水船、意見を聞かせてくれ」
「は、はい。ええっと、安全な場所にいれば良いんじゃないでしょうか……」
「そうだな。安全な空間、時間、人員、装備といった様々な要素を用意しておけば、危機的状況は回避できる可能性が高まる。では岩内、他の意見はあるか?」
「はい先生! どんな攻撃にも対応出来るよう、常に無想無念であれと爺ちゃんに教わりました!」
「良い教えだ。水船が指摘したのがハード面での対策であるとすれば、岩内が指摘したのはソフト面での対策だ。どれほど周到な準備をしても、頭や心がついていかないと無駄になる。緊張しすぎずリラックスしすぎず、安定した状態であり続けたい――では兎羽、二人の意見を踏まえた上で、ユニーククラスが集団で活動する時、奇襲に対してはどうアプローチすれば良い?」
俺の問いかけに美景は額に汗を浮かべた。
出題のレベルが違う。
優香里と環にしたのが足し算の問題であるとすれば、美景のそれは関数だ。
個人レベルではなく集団レベル、運動能力も技能もバラバラの者達を奇襲という一番対処しにくい攻撃からどう守るか。
極めて難しい問題だが、リーダーである彼女には考えてもらわなければならない。
「……どういう状況、どういう敵から奇襲を受ける想定ですか」
「それがわかっていたら奇襲じゃないだろう」
「でしたら、攻撃手段や箇所が限定される建物などに身を隠して私と環で警護すれば――」
「それじゃずっと動けないじゃん。それにお前達は食事もトイレもしないのか?」
「こ――こんな漠然とした質問に正解なんてあるんですか!?」
「俺が聞きたいのは正解じゃなくて、理屈の通った意見だ。さて兎羽がギブアップした問いに誰か答えられる者は?」
数秒の沈黙の末、俺の問いかけにおずおずと挙手したのは蛍だった。
美景が驚いた顔で振り返る。
「……あー、ユニットを組んで対応すれば良いんだっけ?」
「続けてくれ」
「ええっと、個人で対応出来る脅威は多くない。でも人数が増えると、迅速に動けなくなったりして別の危機が生まれる。だから二人一組、三人一組、四人一組とユニットを作り、役割を明確に分担して連携を取ることで、集団の利点を得つつ欠点を減らせる……」
俺は笑顔で拍手した。
作り笑いじゃない。
俺にしては珍しく、割と素直な感情表現だった。
教えたことを理解し、自分なりの言葉で示した蛍に感謝と賛辞を送った。
「素晴らしい、よく覚えていた。その通り、襲いかかる脅威は多種多様で対策を取るのが難しいし、状況は流動的に変化し続ける。そんな中で生き延びるには役割分担が必要だ。すなわちユニットが重要になる。よし神志女、前に来て右手を出せ」
「ええ、何すんの……」
照れているのか顔を赤くしつつ、おずおず近づいてきた蛍の右手首に俺は素早くシールを貼った。
大きさ二センチほどの青色にピカピカ輝く星形。
百均で売ってそうなチープなヤツではなく、米軍のシルバースター勲章をモデルにした無駄に手間のかかった代物。
もちろんヤック特製である。
「今回のイベントにおいて、直面した課題に対して素晴らしい功績を挙げた者にはこのブルースターを贈る。特殊素材で出来ているから簡単に脱着できる上に防水仕様だ、好きなところに張りなさい」
「大げさな感じの〝よく出来ましたシール〟なわけね」
蛍はちょっと呆れた様子でシールを眺めていたが、悪い気はしないらしかった。
姫花や優香里、環などが羨ましげに視線を送っている。
こういった趣向を好むタイプはもちろん、興味がない者達だって目立つ評価指標があれば大なり小なり意識する。
クラレク最中の生徒達の思考に変化を与えられたら儲けものだ。
「さて、神志女が指摘したように集団はユニットを組むこと、そして役割分担をすることが重要だ。誰と誰の組み合わせが良いのか、また個人がどんな役割に適しているのかを判断するのは時間がかかる。このクラス旅なるイベントを通して皆で考えていこう」
「じゃあ先生、今から何をするんです? もう解散ですか?」
「もちろん解散はまだしないぞ、古泉。役割分担するからと言って、最低限が出来なきゃ足手まといになってしまう。今回はその最低限の第一歩――トラブルが起きた時に瞬時に動き、脅威との距離を取るための身体操作と思考方法の基礎を学んでもらう。戦いが攻め手の奇襲から始まるのなら、受け手の戦いは回避から始まるわけだからな」
「後手で始まる回避術……あ、それってあれですよね先生。痴漢に腕を掴まれた時の対処法みたいな!」
「良い例えだ岩内。小難しい言い方をしたが、中身は防犯指導とあんまり変わらない単純な動きだ。ポイントは危険を察知したと同時に行動するところにある――では早速始めるぞ。シチュエーションは大きく分けて三つ、立ってる時、座ってる時、そして寝ている時だ。小野鹿、デモンストレーションの相手になってくれ」
「かしこまりました。やはりノーブラの方がよろしいでしょうか?」
「痴女と痴漢の戦いじゃねーんだよ、ノーマルがよろしいんだわ」
首をひねりながら寄ってくるアブノーマル女子を相手に、俺は説教、もとい解説を始めた。
生徒達に説明したように特殊な訓練ではなく、ちょっとした動作である。
「回避にも色々あるが、今回は手を使わない、体捌きによる回避行動を教える。小野鹿、俺にぶつかるつもりで走ってきてくれ」
俺がそう言うやいなや全速力で飛びかかってくる暴走婦女子。
常軌を逸した瞬発力に内心怯えつつ、そのわきわき蠢く両手が俺の身体に触れようとした瞬間、斜め後方に後退る。
俺が一瞬前までいた場所を桜の両手が空ぶった。こっわ、何で風切り音鳴らせてんだよ……。
口惜しげにこっちを見るな!
「――とまあ、ぎりぎりで斜めに動くことで安全圏に離脱するって具合だ。回避先は左右どちらでも良いが、相手の利き手側の方が難しく、そして効果的だ。相手の膝や爪先を注視すればやりやすいが、意識を向けすぎると見えないものが多くなり、また自分の身体と意識も硬直しやすい。全体を漠然と眺めるようにしなきゃならない」
初等部組でも余裕で出来るレベル。
しかし高度な格闘術にも通じる防御や回避の根幹でもある。
重要なのは動き出しのタイミングと一挙動で全ての行程を完結すること。
これを実現するには安定した呼吸と脱力、そして重心移動や観察眼などが必要不可欠であり、繰り返すことで多くの要素が鍛えられる。
俺も幼少期はこのトレーニングから始めた。
座っている時や寝ている時は上下運動や回転運動が加わるが、やることは立っている時と基本的に変わらない。
相手の意図を察知し、その攻撃線上から抜け出す。
「では二人一組でやってみろ。最初はゆっくりで始めて、出来るようになったら徐々に早く。ある程度のスピードでこなせるようになったら、今度はまたゆっくりと速度を落としていけ。理解が深まれば遅い方がより良い訓練になる。わからないことがあったらすぐに挙手だ!」
生徒達の多くはアクション映画のような格闘術を想像していたらしく、最初は拍子抜けした感じだったが、難しさに気づくとそこそこ熱心に取り組み始めた。
比較的素直で真面目なタイプが参加したというのも大きい。
若いながら武術の達人である美景と環に指導の補助をしてもらった甲斐もあって、小一時間経過した時には全員が基礎を身につけた。
しかし、美景と環を含めた少女達の誰一人として、実戦でこの技術を発揮できないだろう。
現実はシチュエーションプレイとは異なる。
背後に逃げ場がない場合もあるし、足場が恐ろしく悪い場合もある。
家族や友人がすぐそこで殴られて、果たして冷静に動けるか。
様々な状況下で実行できてこそ技術である。
彼女たちは変わらず素人であるし、囓ったせいで素人以下になった可能性すらある。
だが、今はまだ失敗を学べる時間だ。
失敗を経て命があれば、今回の学びは経験と合わさって机上の知識から抜けだし、戦場の技術へと昇華できる。
「よし、今日はこれで解散だ。でも気を抜くなよ。飯食ってる時、風呂入ってる時、マスかいてる時でも――いや、まあアレだ、いつでも今の動きが再現できるように心がけろ。いいか勇者ども。常に敵の奇襲に備えよ!」
少女達は気の抜けた返事を口からこぼした。
まあいいさ。俺の言葉が冗談でも脅しでもないことを、いずれ思い知ることになるだろうから。
掃除を終え、道場から出る頃には夕焼けが空を染めていた。
母屋へ向かう参加者達の最後尾を歩いていると、庭木の間から何かが飛び出してきた。
大雑把なサイドテールを振り乱し、葉っぱと虫けらを豪快に跳ね飛ばす巨大なウサギ――長浦梢は目を煌々と輝かせ吠えた。
「裏山踏破完了! ああ、楽しかったけどつっかれたぁ! お腹ピョコピョコでもう動けなぁい、先生おぶってぇ!」
言い終える前に背中に飛びついてくる十六才。
贅肉とは無縁のくせに出るとこ出てるアスリートボディだが、中身が幼女だと劣情とは無縁。
重苦しく汗臭い五十数㎏の肉塊にゲンナリしつつ、とぼとぼ歩く。
「それでお嬢さん、目的の熊やら猪とは出会えたかね?」
「うんにゃ! 獣はせいぜいイタチとかリスくらい。すまないね、お爺さんにはボタン鍋を食わせてやりたかったが、今晩はヤマカガシ鍋で我慢しておくんな」
「お、おまっ! ガチの毒蛇じゃねーか!」
梢がポケットからむんずと取り出した蛇を必死ではたき落とす。
背に負う娘はケラケラと笑い、頬を寄せてきた。
「姿は見えないけど狼がいた痕跡はちょっとだけあった。群れと言えるほど数は多くないみたいだけど……罠でも仕掛ける? あたしそーゆーの得意だよ」
「いや、放っておこう。今いないなら安全だろうさ。初等部も参加するイベントだし、危険なこともないはずだ。この後は普通に風呂入って飯食って寝てろよ、下手に暴れるとナユタさんにも迷惑がかかるしな」
「あいあいさー」
「ほら、クラス旅で頑張った生徒を讃えるブルースターだ。好きなところに貼るが良い」
「うわぁ! カッコイイ! おでこに貼ろうっと!」
背中できゃいきゃい喜ぶ梢に揺さぶられていると、ふと視線を感じて顔をあげた。
母屋の軒先で生徒達を出迎えるナユタ。
その唇が三日月のように赤い弧を描いていた。




