09
九霄島には二つの商業エリアがある。
一つは通学路近辺の学生街であり、学業用品や日用雑貨、飲食店などが立ち並んでいる。
その名の通り学生向けの店が多く、生徒達の買い物がこのエリアで完結できるようになっている。
もう一方は島中央を東西に走るメインストリートに存在する歓楽街だ。
こちらは学園が出来る前から存在したそうで、古くから島民の生活を担ってきた。
そのため学生街にはない大きな娯楽施設、酒場などがあり、学生街とは比べものにならないくらい広い。
生徒達も足を踏み入れることは可能だが、年齢制限がある店にはもちろん入れない。
特に酒屋が並ぶ辺りでは学生の姿がないため、教員には人気の空間だった。
「お、灰尾先生。いらっしゃい」
古香と書かれた居酒屋の暖簾をくぐると、店主の鍬香波が微笑みと共に出迎えてくれた。
カウンターに腰を下ろすと山菜のお通しとビールが手際よく出される。
礼を言いながらグラスを煽ると、独特な香りが喉を滑り落ちた。
「あー、相変わらず美味いですね。いわゆる地ビールなんでしょうけど、世界中のどこで飲んだやつとも似てない。このふわっとした香りと心地よい苦味。外で売れば相当稼げるんじゃないですか?」
「はは、まあ学園の関係でいらっしゃった方も良くそうおっしゃりますがね、材料がこの世界独自なもんだから大量生産は無理なんですよ。先生の特権と思ってください」
「いやあ、この島に来て一番幸せなことは酒関係と言っても過言じゃないですね。日本酒も焼酎も美味いし、肴も美味い。これでどこ見ても美人ばかりだから、極楽より居心地が良さそうです」
ちらりと視線を送ると、女将の微笑みが深まった。
「お上手ですねえ。男性に言われるのは久しぶりだから嬉しいです。出来れば目移りしないで欲しいと思うのは、さすがに贅沢でしょうかね」
口ではそう言いつつ、まとう空気は暖簾に腕越し。
たまにすかしたと思いきや、手首を掴んで引き寄せたりもする上手の女。
酒場の中でも特別静かな雰囲気とこの店主の色香が気に入って、俺はこれまでに何度か訪れてきた。
好む理由は他にもある。
何しろ俺にとって酒場というのは、職場の一つとも言えるのだ。
店主の鍬という名は島民の姓である。
農作業で使うクワがその名の由来らしく、主に彼女たちは島の南半分で主に農業や畜産を営んでいる。
中にはこうして店を営む者もいた。
鍬香波が営む居酒屋には島民が多く訪れる。
女性教員やスタッフ達は学校が終わるとパーッとやりたい者が多く、こういった落ち着いた店は好まない。
大きい店でワイワイ騒いだり、バーでビリヤードに興じながらグラスをグイグイ傾けるのだ。
ほぼ女だけという環境のせいだろう、まあもう飲み方が激しい。
調査室の同僚達も似たようなものだったから、あまり近寄りたくない世界だった。
「今日はお客さん少ないですね。俺は独占できて嬉しいですが……この時期はいつもこんな感じなんですか?」
グラスを傾けながら問いかけると、女将は首を横に振った。
「そんなことは無いですよ。理由は知らないけど、ここしばらくは鍬の人たちも鎌の人たちも忙しいみたい。まあ島には私らしかいませんから、何でも自分でやらなきゃなりませんし」
「自給自足ですね。誰でも出来ることじゃないです。島民の方々に芯が通ってるのはそのせいでしょうか」
「褒めすぎですよ。まあ一つの集落ですから、もめ事も多いですし。主に恋愛関係で」
「ほう、この女の園で……酔いが回りますなぁ」
酒と料理を楽しみつつ、俺は内心思案した。
鎌というのもまた、鍬と同じように島民の名字である。
生産を生業とする鍬とは異なり、鎌は島の防備がメインの荒事専門。
春休みのゴタゴタで相手をした鎌頼香や鎌吹雪はその一員だ。
学園が出来てからは警備という名目で生徒の安全を守ることになったが、その本質は神志女の実働部隊である。
そんな彼女たちが忙しくしているとなれば、それなりの理由があるはずだ。
「先生、次は何になさいます?」
「いえ、今夜はこの辺りで引き上げます。明日も早いですから」
「残念ですね。まあ、色々ご苦労されてるそうですから、お引き留めもしませんけど」
「はは、良い噂が届くように頑張りますよ」
苦笑いを浮かべ勘定を済ませる。
関係があるかどうかはわからないがネタは掴んだ。
数少ない憩いの場で悪知恵を働かせるのも無粋、関係先を嗅ぎ回ってみることにしよう。
「灰尾先生、良かったら召し上がってください」
暖簾をくぐりかけたところで女将に呼び止められる。
握らされたのは酒のボトルだった。
「へえ、赤ワインですか?」
「酒造が趣味で作ってるのをいくつかくれたんです。多すぎて飲みきれないのでお一つどうぞ」
礼を言って受け取ると、鍬香波は緩く微笑んだ。
「ラベルも綺麗ですから楽しんでください。きっと良い考えが思い浮かびますよ」
「そう願いたいものです。それではおやすみなさい」
ボトル片手に歩き出す。
歩き回ることを考えれば手ぶらが良かったが、せっかくの心遣いを無碍には出来ない。
そう思いながらラベルを眺めると、月光が水面に揺れる港の絵が描かれていた。
確かに綺麗なものだ。桟橋の形状からするに、モデルはこの島のものだろう。
「夜航の夢か。雅な名前だな――ふむ、味もいい」
はしたなくラッパ飲みしながら行き先を考える。
クラレクなる大掛かりなイベントを、教員の協力なく実行するのは何かと大変である。
学園長を手伝う人間があるとすれば島民か警備しかいないと考え、あの居酒屋に目星をつけた。
そこで店主や客を観察して情報を得ようと考えたのだが、まさかの閑散ぶり。
女将の話から島民達が関わっている可能性は高まったが、手に入った情報はそれだけ。
具体的な内情を把握するなら、警備の本部近辺でリスクを冒す必要がある。
しかし今の俺の装備はワインボトル一本、組織とシステム相手に勝負するのは無謀だった。
「鍬の方なら手薄だろうが、南部地域はさすがに距離があるしなあ……」
移動用として自転車は借りているが、バイクや車は許可が必要。
そもそも嗅ぎ回るのにライトを煌々と光らせたりエンジン音を轟かせる馬鹿はいない。
自転車程度なら魔法で音もライトもどうにかなるが、姿を消すのは至難の業だ。
万が一に備えて顔をパンストで誤魔化した方が良い。
――暗い夜道を無灯火のチャリで疾走するパンストライダー。
新たな怪談の誕生である。
さすがに却下だ。
いっそのこと日を改めるべきかと酒をあおると、ボトルはもう半分ほど空になっていた。
アルコールに耐性が強いというのも考え物だ。
ため息をついた時、ラベルが再び目に入った。
――そうだ、大掛かりなことをやるなら大量の物資が必要。
人目に晒したくないなら隠す必要もある。
二つの条件を満たすのは島の北端、港近くの倉庫街が最適だ。
あそこなら徒歩でいけるし、探りも入れやすい。
目的地は決まった。
「……あの女将。ひょっとして全て承知の上でこれを渡したのか?」
意味深な眼差しもセリフもいつものことだから判別がつかない。
もしかすると密かな情報提供を装った罠かもしれない。
一瞬そうも考えたが、さすがに野暮だと否定する自分が現れる。
参った。
居心地の良い居酒屋の色っぽい女将こそが、スパイにとって最も厄介な相手かもしれない。
格好つけて月を仰ぎつつ、俺はワインを飲み干した。
「ゴフォッ、ゴホッ、クッ!」
格好つけすぎたせいで気管に入った。
月光を涙目で睨み付け、鼻から垂れるワインを拭う無様な姿はあまりにも俺らしかった。




